新選組原田左之助説とは
坂本龍馬・中岡慎太郎暗殺の犯人として当時最も有力だった説で、刺客は十番組長の原田左之助を中心とした新選組、黒幕は紀州藩の三浦休太郎である。
新選組が嫌疑をかけられた直接の要因は、事件現場に刺客の遺留品と思われる鞘が残されており、元新選組の御陵衛士(高台寺党)が「これは原田左之助の刀の鞘と思う」と証言したからである。
また、このころ海援隊のいろは丸が紀州藩船と衝突しており、その賠償金8万3千両をめぐって紀州藩と対立している最中であったので、海援隊士たちは、この一件の報復で紀州藩公用人の三浦休太郎が新選組と共謀して龍馬を暗殺したと考えていた。
そのため同年12月7日夜、海援隊の陸奥陽之助、沢村惣之丞、宮地彦三郎らに陸援隊や十津川郷士を加えた総勢16名が、三浦の宿舎である天満屋を襲撃した事件が起きている。
刺客の遺留品
龍馬暗殺の当日、事件現場の近江屋には、刺客が残したと考えられる遺留品が存在したという。刀の鞘1本と、料亭の下駄2足である。これを証拠として新選組は土佐藩の告発を受けることになるのだが、この遺留品については、鳥取藩と尾張藩の記録に次のように記録されている。
『鳥取藩慶応丁卯筆記』終ニ死骸夫々取片付候処、跡ニ残シ置候品ハ刀ノ鞘壱本黒塗、下駄弐足印付、右壱足ハ中村屋、今一足ハ河原町カイ々堂
『尾張藩雑記 慶応三年ノ四』近江屋新助方ニ止宿土藩浪士頭齋谷梅太郎右方エ九人斗帯刀人這入リ梅太郎切害ニ及ビ其節残居候品、刀身壱本ト下駄弐足、右下駄焼印有之、一足ハ二軒茶屋中村屋印、一足ハ下河原……堂印有之
■鞘について
事件直後に現場に駆けつけた谷干城は、鞘の持ち主について調査した結果、元新選組の御陵衛士から原田左之助のものであるとの証言を得た、と『谷干城遺稿』で語っている。
これによると、11月18日に御陵衛士党首である伊東甲子太郎が、新選組に暗殺された。そのとき京都を留守にしていた伊東の同志が伏見の薩摩藩邸に潜伏しているというので、彼らなら鞘に見覚えがあるかもしれない、と毛利恭助、中村半次郎とともに伏見に向かった。
そして、彼ら(阿部十郎、篠原秦之進、内海次郎)に刀の鞘を見せたところ、原田左之助のものであることが判明したという。この談話を裏付けるように、谷に同行した中村半次郎の『京在日記』の11月21日の項に、「我は土州藩毛利暴助、谷清兵衛同行ニて伏見の越し泊ス」、22日の項に、「土州毛利、谷、我三人伏見より帰り」とある。
ただ、御陵衛士のひとり阿部十郎の談話には鞘についての言及はなく、犯人の根拠は「中国・四国なまりの声音」だったという。
『史談会速記録』(阿部隆明談話)その時分に伏見の薩州邸は大山彦八という人が留守居をしておりまして、そうして坂本龍馬が撃れましたにつきましては、土州の毛利郷助、唯今の貴族院議員谷干城なる者がたびたび参りまして、坂本龍馬を撃ちました者を詮索致しました。
どういう声音であったか、何でも新撰組に違いないということでございまして、龍馬を撃ちました時分に「しとめた、しとめた」と言って声を上げました話を致しまして、マアそいういう声音で、中国か四国辺の者であろうという声音であったということでございます。
そうしますと今の伊予の松山藩でございましょう、新撰組の原田佐之助という者があって、その声によく似ておりますので、果して佐之助であろうということになりました。これか為にしばしば西郷なども来ました。また遠武秀行それから谷干城が来ましてだんだん相談を致しました。
調べを受けた阿部たちは、原田左之助が犯人であると証言しているのだが、新選組に同志を殺害されたばかりの彼らの証言が証拠になるのかは疑問が残る。しかし、土佐藩はこれによって原田の犯行と断定し、幕府に新選組を訴えている。
■下駄について
遺留品の下駄は、史料から「中村屋」と「カイカイ堂」のものであることがわかっている。また、その所有者についても「商売がら来客の出入りが多く、誰が履いていたものかはわからないが、恐らくは近江屋に駆けつけた土佐藩士のものではないだろうか」と推測されている。
ところが、この下駄は、新選組出入りの「瓢亭」のものとして取り上げられることがある。この出どころは、大正15年(1926年)に刊行された『坂本龍馬関係文書』(岩崎鏡川著)に、近江屋新助の息子新之助の談話として次のよう記述がある。
刺客の遺留品としては、わずかに下駄一足と、刀の鞘があるばかりだった。下駄には瓢亭の焼印があったので、新助は翌十六日に先斗町の瓢亭へ行くと、そこのものであることを認めた。さらに、この下駄を誰かに貸した覚えはないか、と問うと「昨夜新選組の御方に貸しました」との返答があった。そこで刺客は新選組に違いないと確信した。
瓢亭の下駄は、事件後60年を経てはじめて登場し、その出どころは当事者の息子の伝聞である。この裏付けのない瓢亭の下駄が、後世になって刺客の遺留品として既成事実化し、新選組犯行説の根拠となってしまったのである。
いろは丸事件
慶応3年(1867年)4月23日、備中沖の六島付近において、海援隊のいろは丸と紀州藩の明光丸とが衝突した。160トンのいろは丸の右舷に、5倍もの重量がある明光丸が2度突っ込み、大破したいろは丸は曳航のかいなく沈没したのである。
その後、近くの鞆の津において事故処理をめぐる交渉がおこなわれたが、27日に藩命を優先した明光丸は長崎での再交渉を約束し、いろは丸の乗員を放置したまま出港してしまった。
この処置に激怒した龍馬は、「実に怨み報ぜざるべからず」と長崎の菅野覚兵衛、高松太郎にあてた手紙に記している。
長崎にて談判が再開されたが、紀州藩は徳川御三家の威光を笠に長崎奉行所に裁決を求めようとした。これに対し龍馬は、土佐藩参政の後藤象二郎を巻き込んで対立の構図を土佐藩対紀州藩へとすり替え、世界に通用する公論公法をもって処置すべきと主張した。
さらに、長崎の花街で「船を沈めたその償いは、金を取らずに国を取る」といった威勢のいい歌を流行らせて市民を味方につけ、心理的に紀州藩を追い込んでいった。
龍馬の強攻策に、紀州藩代表の茂田一次郎は勝算がないとみて、薩摩藩の五代才助に調停を求めた。だが、依頼を受けた五代は龍馬の同志であり、海援隊にいろは丸を周旋した本人でもあった。それゆえ、海援隊に不利な裁定を下すはずはなく、紀州藩が8万3千両の賠償金を支払う条件で決着がついた。
これを不服とした紀州藩は本藩から岩橋轍輔を派遣し、龍馬代理の中島作太郎と再度の交渉をおこない、同年12月8日に賠償額を7万両に引き下げることで合意した。この交渉中に、龍馬の暗殺がおきたのである。
