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2007年08月 アーカイブ

2007年08月03日

坂本龍馬、土佐藩郷士坂本八平直方の次男として誕生

その名は龍馬

坂本龍馬は、天保6年(1836年)11月15日、土佐国高知城下本丁筋1丁目にある郷士坂本家の次男として生まれた。生まれたときから、顔に点々とホクロがあり、背中には龍や馬のたてがみのような奇妙な産毛がはえていたので、「龍馬」と名づけられた。

諱は「直柔(はじめ直陰)」、号は「自然堂」を名のり、変名に「才谷梅太郎、西郷伊三郎、高坂龍次郎、大浜濤次郎、取巻抜六」などがある。紋付から推定すると、成年時の身長は5尺7寸(約173cm)、体重は19貫(約71kg)である。

龍馬が生まれたとき、父の八平直足は39歳、母の幸は38歳。兄と3人の姉があり、長男の権平直方は21歳、長女の千鶴は19歳、次女の栄は年齢不詳で、三女の乙女は4歳であった。

坂本家は、城下屈指の豪商才谷屋が、郷士株を取得して分家した「郷士」である。家格は低かったが、161石8斗4升の領知と3人扶持切米5石(10石4斗)の俸禄があるとともに、本家才谷屋からの財産分けなどもあって、非常に裕福な家であった。

姓の「坂本」は、祖先が近江国坂本村におこったことにちなみ、家紋は、明智氏の一門であるということから「組み合わせ角に桔梗紋」をもちいている。

この郷士という土佐藩の制度は、藩主山内氏が、関ヶ原合戦の戦功により土佐に転封されたときに生まれたものである。山内氏は、一領具足と呼ばれる長宗我部氏の遺臣を農民に落として支配したが、彼らを懐柔するため一部の者を郷士として取り立てたのである。

その後も、新田開発を条件に、何度か郷士の募集がおこなわれた。やがて、時代とともに郷士規格もゆるみ、郷士株の売買が公認されると、町人がその株を譲り受けることで郷士になることができた。これが町人郷士と呼ばれるもので、坂本家はこの町人郷士にあたる。

龍馬誕生の逸話

古来より英雄が生まれるときには、不思議な前兆が起きたという瑞夢がつくられる。龍馬の場合には、次のような逸話が残されている。

『汗血千里駒』(明治16年、坂崎紫瀾著)
一説には、龍馬の名の由来は、その生まれる前夜にあり、母が庭にある梅の木の梢から龍が天に昇る夢をみた吉瑞(よいことの前兆)をとったものである。
『阪本龍馬』 (明治29年、弘松宣枝著)
その夜、父が黄金の馬が天から降りてくる夢をみ、母は地上から黄金の龍が天に昇る夢をみた。翌朝、目が覚め出産したので、龍馬と名づけた。
『維新土佐勤王史』 (大正元年、瑞山会編)
前夜、母幸は、蛟龍が口から赤々と神火を吐きながら胎内に飛び込んで来る夢をみた。驚いて目覚めると出産しており、これを聞いた父八平は、この子を龍馬と名づけた。
『坂本龍馬』 (大正3年、千頭清臣著)
龍馬は、生まれたときから顔に点々とホクロがあり、背中にはひとかたまりの怪毛があった。そのため、様々な逸話が作られた。これは、その主なものである。
  • 母幸が、雲龍奔馬が胎内に入るを夢をみ、目覚めた後龍馬を生んだ。
  • 母幸は、常日頃から猫を可愛がっており、妊娠中も抱いていたので、獣の精気が胎児に感染して、龍馬の背中に怪毛がはえた。
  • 母の奇妙な夢と子の怪毛を、父が易者に占ってもらうと、易者は、「龍が昇天し、火炎が母胎に入る。奇夢なり。大器にして晩成し、必ず家名をあげるであろう」と答えた。そのため、父は、この子に龍馬と名づけた。

坂本家の系譜

龍馬の祖先は、太郎五郎といい、その父は近江国坂本城城主の明智左馬之助秀満であるという。秀満は、本能寺の変で織田信長を討ち滅ぼした明智光秀の一門である。

坂本家の伝承によると、太郎五郎は、明智氏が滅び坂本城が落城した際、壷いっぱいの黄金とともに土佐へ逃れ、長岡郡才谷村に移り住んだとある。

太郎五郎とその一族は、この地で「大浜」を名のり、1町48代5歩の土地を耕し、2代目の彦三郎、3代目の太郎左衛門と農業を営んで暮らしていた。天正16年(1588年)の検地では、才谷村の地高は15町5反6代3歩、小作人45人がいる中で、1町あまり土地を所有しているのはわずか3人で、大浜氏は地域の有力な農民であった。

そして、4代目の八兵衛守之のとき、高知城下の本丁筋3丁目の借家で、「才谷屋」と号して質屋を開いた。延宝5年(1677年)に酒造業、元禄7年(1694年)には本丁筋2丁目の借家で諸品売買を始めて、商売を広げていった。

才谷屋は、元禄14年(1701年)に5代目の八郎兵衛正禎が、虎屋久右衛門から本丁筋3丁目の屋敷を買い取り、念願の持ち家商人となった。その後も、才谷屋は驚異的な発展をみせ、城下町において豪商の播磨屋、富商の櫃屋と肩を並べるほどの財産家となった。

6代目の八郎兵衛直益の時代に、才谷屋は最盛期を迎えた。高知の古い俗謡に、「浅井金持ち、川崎地持ち、上の才谷屋道具持ち、下の才谷屋娘持ち」というものがあり、直益は「道具持ち」といわれた上の才谷である。

明和7年(1770年)3月5日、直益は、土佐西端の幡多郷士の募集に応じ、新規郷士株を購入した。そして、財産分与のとき、長男八平直海が郷士株を相続して「坂本家」を創立し、次男八次直清が才谷屋を相続した。

この郷士株を譲り受けるときには、その姓も一緒に相続するのが習慣であり、坂本は郷士株の姓を名のったにすぎない。だが、才谷屋が明智一門の子孫であるという言い伝えは、一族の中では強く信じられていたようである。

その後、坂本家は、2代目の八蔵直澄、3代目の八平直足(養子)、4代目の権平直方と続き、権平の弟が龍馬直柔である。権平のあとは、娘春猪の婿で養子の坂本清次郎が離籍したため、妹千鶴の次男の坂本直寛(高松習吉)を養子として迎えた。

龍馬のあとは、子がなかったので姉千鶴の長男の高松太郎が、明治4年(1871年)に永世15人扶持を賜り、坂本直と名を改め相続した。その後は、直衛という人があり、北海道に定住している。

本家の才谷屋は、幕末のころにはかつての勢いを失い、嘉永2年(1849年)に9代目の八太郎直与が酒造業を他家に譲り、もっぱら質屋と仕送屋を営んでいた。仕送屋とは、藩士の家禄を抵当に金銭を貸し出すことをその生業としていた。

ところが、明治維新によって封建制度が崩れ士族が没落すると、貸し付けた金の大半が貸し倒れとなった。大打撃を受けた才谷屋は衰退の道をたどり、明治15年(1882年)に破産した。

坂本龍馬、落ちこぼれだった少年時代

泣き虫龍馬

少年時代の坂本龍馬は、臆病で意気地の無い子供だった。その上、10歳になっても寝小便をする癖が直らないハナタレ小僧だったので、近所の子供たちから、「寝小便たれ」とからかわれていた。気の弱い龍馬は言い返すこともできず、いつも泣かされてばかりいたという。

また、12歳のときに、高知城下小高坂にある楠山庄助の私塾に入塾したが、あまりの出来の悪さに楠山から、「お宅のご子息は私には教えかねます。ご自宅で学習されたほうがよいでしょう」と、見放されてしまうほどの落ちこぼれであったという。

龍馬落ちこぼれの逸話

少年時代の龍馬が落ちこぼれだったとして、次のような逸話が残されている。

『汗血千里駒』 (明治16年、坂崎紫瀾著)
龍馬は、12、3歳のころまでは愚人のようであり、また寝小便の癖があった。
『阪本龍馬』 (明治29年、弘松宣枝著)
龍馬は、12歳になって楠山の塾に入ったが勉強は進まず、通学途中で学友にからかわれては泣いて家に帰った。
『維新土佐勤王史』 (大正元年、瑞山会編)
龍馬は、すでに14歳を過ぎても、時々寝小便をする癖が直らなかった。
『坂本龍馬』 (大正3年、千頭清臣著)
世に伝わる龍馬伝によると、幼少のころの龍馬は、臆病で意気地がなく暗愚であった。内気であまりしゃべらず、10歳を過ぎても寝小便の癖が直らなかったので、まわりの者から洟垂れといわれていた。
12歳のとき、初めて市外小高坂にある楠山の学舎に入塾した後も勉強ができず、通学の途中しばしば学友に馬鹿にされては泣いて帰った。

一般的に少年時代の龍馬は、落ちこぼれであったと伝えられている。ところが、千頭清臣は、著書『坂本龍馬』第2版の増補でこの説を否定し、大器晩成型であったと主張している。

『坂本龍馬』 (大正3年、千頭清臣著)
坂本龍馬の幼年時代は、本当に馬鹿であったと評する者がいる。しかし、これは大きな間違いであると聞く。よく坂本の幼年時代を知る先輩の話によれば、「坂本は決して馬鹿者ではない。子供なりの分別のあった子だった」という。
要するに、坂本がその姉(乙女)に送った手紙の中に、「どうぞ、私を昔の鼻汁垂れと思ひ下され間敷候云々」という一文があり、これによって、彼の子供時代はまさしく馬鹿であったと誤解する人が出てきた、と察することができる。
もっとも近郷の婦人たちからは、「龍馬さんはぼんやりだ」と言われていたと聞く。いわゆる「大器晩成」とは、坂本のような人物のことをいい、坂本は断じて現代青年にみられる小賢しい人物ではない。

楠山塾退塾の真相

龍馬が楠山庄助塾を退塾した原因は、師匠の手に負えないほどの落ちこぼれだったからではない。堀内という少年と口論になり、怒った堀内が刀を抜いて斬りかかってきたところを、龍馬が文庫のフタで受け止めたという騒ぎを起こしたからであるという。

この一件の報告を受けた楠山は、「非は堀内にあり」として堀内を退塾処分とした。ところが、父八平は、「龍馬もまた罪なきにあらず」として、龍馬を自ら退塾させたのである。

退塾後の龍馬は、正式の学問を受けることなかったが、父の影響で歌の道を学び、中国の古典を読むなどして独学に励んだという。この多感な少年時代に朱子学を学ばなかったことが、封建的な思想から離れ、龍馬の自由で独創的な発想を育んだのであろうと考えられている。

龍馬が落ちこぼれだったという逸話が生まれたのは、彼が書き送った『慶応2年12月4日 坂本権平、一同宛』の手紙の中に、

「一、私唯今志のびて、西洋船を取り入たり、又ハ打破れたり致し候ハ、元より諸国より同志を集め水夫を集め候へども、仕合セにハ薩州にてハ小松帯刀、西郷吉之助などが如何程やるぞ、やりて見候へなど申くれ候つれバ、甚だ当時ハ面白き事にて候。どふぞどふぞ昔の鼻たれと御笑い遣わされまじく候」

という一文があり、龍馬が大器晩成型であることを強調するために、伝記などで脚色されたからである。

乙女の教育、「怯を矯め勇をはげまし、以って其の性情を一変す」

坂本のお仁王さま

坂本龍馬を知る上で、欠くことのできない女性がいる。「坂本のお仁王さま」のあだ名を持つ、三姉の乙女である。

この龍馬より3歳年上の姉は、体が大きく男勝りの性格で、剣術の腕前は切紙、馬術、弓術、水泳をこなす武芸に優れた女性だった。さらに、四書五経、和歌、絵画を学び、琴、三味線、一絃琴、舞踊、謡曲、浄瑠璃などにも長けた多趣味の持ち主でもあったという。

龍馬は12歳で母親を亡くした後、この姉の手によって育てられた。乙女は、夜中に龍馬を起こして寝小便を注意し、朝になると習字を学ばせ、古今集、新葉和歌集などを読み聞かせた。午後には自ら竹刀をとって剣術を仕込み、彼を厳しく鍛えあげた。

『坂本龍馬』 (大正3年、千頭清臣著)
坂本龍馬の姉は体が非常に大きく、坂本家の仁王といわれ、文武両道にして男勝りの性格の女性である。夜中や竹藪の中に入ってはピストルを撃ち、また弟龍馬の友人と剣術の試合をするなど、なかなか一般の繊弱な婦人ではない。
また、太閤記、源平盛衰記、三国志などの軍書類を愛読する。その多くは、貸本屋から多額の損料を出して、借りてきたものであるという。彼女の記憶は特に強く、一度読んだら大抵の内容を理解し、明白に覚えている。
弟龍馬の子供時代には、よく英雄談を読み聞かせ、精神的に弟を教化する上で大きな効力があったと思われる。

姉乙女の世話になったことを、龍馬はのちのちまで感謝しており、「乙大姉の名諸国ニあらハれおり候。龍馬より強いという評判なり」(『慶応元年9月9日、坂本乙女・おやべ宛』)、「おれは若い時、親と死別してからはお乙女姉さんの世話になって成長したので、親の恩より姉さんの恩が太い」(『千里駒後日譚』)と語っている。

坂本乙女の一生

坂本乙女は、天保3年(1832年)1月に坂本八平の三女として生まれた。安政3年(1856年)頃、兄権平の勧めで、同じ町内に住む山内家の御典医の岡上樹庵と結婚し、安政5年(1858年)に長男赦太郎、慶応3年(1867年)に長女菊栄(通説では庶子)を出産した。
娘菊栄は、母乙女の教育方法について、次のように述懐している。

『おばあちやんの一生 岡上菊栄伝』
座敷を歩くにも小笠原流のすり足で、飲食等武家の作法通りにし、客膳たる高脚の本膳には古式通りの三汁五采を供え、自分の膳にすら魚は尾頭付きの鯛を常とし、魚肉は表面を食べるのみで、それを裏表たべるのは武士の子にあるまじき下品な振る舞いとして教えられた。また、来客に出す菓子は紅白ニ品をそれぞれ別の高杯に盛り、白菓子を先に次に紅菓子を食べ、三つ以上は食べてはならぬとした。余った分は遊び相手の友達に与えるという風で、家事一切は数ある女中にまかせ、金に糸目をつけず、稽古事と人とのつき合いに日々を送っていた。

ところが、乙女の結婚生活はうまくいかなかったようで、特に姑の霜とは折り合いが悪かった。霜は、嫁の仕事である炊事家事が苦手だった乙女を嫌悪し、不手際に対する小言が絶えなかった。その上、樹庵には癇癪持ちという欠点があり、気に喰わぬことがあると彼女の髪をつかんで殴りつけたという。

乙女は、弟龍馬に書き送った手紙の中で、何度も愚痴(尼になる、龍馬を追って国を出る等)をこぼしていたが、夫樹庵と女中の間に子(菊栄のこと)が生まれたことが原因で、遂に自ら離縁を申し出て実家の坂本家に戻ったのである。

その後、慶応4年(1868年)3月に、身寄りがなく頼ってきた龍馬の妻お龍(坂本鞆)と同居を始めたが、わずか数ヵ月で彼女を追い出している。これは、勝ち気な2人の性格が合わなかったこと、お龍の素行が悪かったことに原因があったと考えられている。

彼女たちの暮らしぶりについては、土陽新聞に掲載されたお龍の回想録『千里駒後日譚』にある。この中では、かつて龍馬が「しんのあねのよふ二」お龍は乙女を慕っていると語っている通り、2人の仲が良く描かれている。

『千里駒後日譚』 (明治32年、土陽新聞掲載)

乙女姉さんはお仁王というあだ名されただけあって中々元気で、雷が鳴る時などは向鉢巻をして太鼓を叩いてワイワイと騒ぐ様な人でした。権平兄さんと喧嘩でもする時はチャンと端座ってひじを張って、兄さんの顔を見つめ、「それはイケませぬ」と云う様な調子でした。

龍馬は大変姉さんと仲好しで、何時でも長い長い手紙を書きました。乙女姉さんは権平兄さんに隠して書くので、「龍馬に書いている手紙を色男かなんかにやる様に、俺に隠さないでもいいじゃないか」と怒っていたそうです。

姉さんはお仁王というあだ名があって元気な人でしたが、私には親切にしてくれました。私が土佐を出る時も一緒に近所へ暇乞いに行ったり、船迄見送ってくれたのは乙女姉さんでした。

しかし一方で、安岡重雄(海援隊士の安岡金馬三男)が、晩年のお龍から聞いた昔話を書きまとめた『反魂香』では次のようになり、坂本家とは非常に険悪であったと語っている。

『反魂香』 (明治32年、安岡重雄著)
私は義兄(権平)および義姉(乙女)とは仲が悪かった。龍馬の兄の家はあまり豊かではなく、義兄は龍馬に下る報奨金をあてにしていたので、妻である私が邪魔だった。だからといって殺すわけにもいかないから、お龍が不身持ちをするようにし向けてきた。
既に坂本は死んでしまうし、海援隊も瓦解し、お龍を養うのは兄のほかいないから、夫婦していじめてやれば、きっと国を飛び出すに違いない。その時は、お龍は不身持ちゆえ、龍馬に代わって兄が離縁すれば、報奨金は兄のものになるという心で、いつもお龍と喧嘩していた。
これが普通の女なら、苛められても恋々と国にいるけど、元来勝ち気のお龍だから、何だ金が欲しいばかりに夫婦していじめやがる、私は金なんていらないし、そんな水くさい兄の家に誰がいるものか、追い出される前に、こっちから出て行ってやろうと家を飛び出しました。

晩年の乙女は「独」と改名し、坂本家の養子坂本直寛(姉千鶴の次男)に養われていた。そして明治12年(1879年)8月、この年大流行したコレラの感染を恐れて野菜を食べなかったためにビタミンCが欠乏し、壊血病にかかり急死した。享年49歳。

坂本龍馬、江戸に留学し千葉定吉道場入門

日根野弁治に入門

嘉永元年(1848年)、14歳になった坂本龍馬は、高知城下築屋敷にある小栗流日根野弁治道場に入門した。小栗流は将軍家直臣の小栗仁右衛門正信が流祖であるといわれ、看板は和術だが剣術・居合・小太刀・槍術・薙刀術など諸武芸を総じて教えていた。

剣術との出会いは、龍馬に大きな変化をもたらす。道場での荒稽古に鍛えられ、臆病で気が弱かった気質は一変した。剣の筋はよく、自信をもった龍馬は熱心に修行に打ち込み、本人もまわりも驚くほどの上達をみせたのである。

やがて骨格はひきしまり、身長は5尺7寸(約173cm、当時の平均身長は約156cm)にまでに達し、心身ともにたくましい若者へと成長した。

嘉永6年(1853年)3月、19歳になった龍馬は、師匠日根野から初伝目録にあたる『小栗流和兵法事目録』を授けられた。そして、さらなる剣術修行を重ねるため藩庁から15ヶ月間の国暇を許され、溝渕広之丞とともに江戸へ出発した。

このとき父八平は、『修行中心得大意』と題する訓戒状を書いて与えている。海援隊士の関義臣の遺談によると、龍馬はこれを紙に包み「守」の一字を自書し、のちまで肌身から離さず持っていたという。

『修行中心得大意』
 修行中心得大意
一、片時も不忘忠孝、修行第一之事
一、諸道具に心移り、銀銭不費事
一、色情ニうつり、国家之大事をわれ、心得違有間じき事
右三ヶ条胸中ニ染メ修行をつミ、目出度帰国専一ニ候
以上
丑ノ三月吉日 老父(印)
  龍馬殿
一、片時も忠孝の心を忘れず、修行を第一とすること。
一、色々な道具に心を奪われ、金銭を使わないこと。
一、色事に心を移して、国家の大事を忘れ、心得違いをすることのないこと。
右の三ヶ条を胸に刻んで修行を積み、めでたく帰国するように。
以上。

千葉定吉に入門

龍馬が、江戸における剣術の師匠に選んだのは、北辰一刀流の千葉定吉である。定吉は、江戸三大道場の1つ北辰一刀流の開祖千葉周作の実弟であり、周作の「大千葉」に対し「小千葉」と呼ばれていた。

嘉永6年(1853年)4月中旬頃に江戸に到着し、築地の土佐藩中屋敷に寄宿した龍馬は、そこから定吉の桶町千葉道場(東京八重洲京橋)に通い修行に励んだ。

ただし、定吉は鳥取藩江戸屋敷の剣術師範に召し抱えられていたので、長男の重太郎が、師範代として指導にあたった。このとき重太郎は30歳で、龍馬とは兄弟の様に親しかったという。

黒船の脅威

龍馬が修行を始めた矢先の嘉永6年(1853年)6月3日、天下を震撼させる大事件が起きた。アメリカの東インド艦隊司令官ペリーが、4隻の黒船を率いて突如浦賀に来航したのである。ペリーの目的は、鎖国を続ける幕府を開国させることにあり、要求を受け入れない場合には大砲と軍艦を差し向ける砲艦外交で迫った。

6月6日、幕府は江戸湾岸に藩邸をもつ諸藩に対して、海岸警備のための動員を命じている。このため土佐藩は藩邸のある品川を警備をすることになり、江戸詰めの藩士が下屋敷に集められた。このとき剣術修行中であった龍馬も臨時御用の名目で召集され、9月まで品川藩邸につとめていた。

黒船来航で江戸は、大騒ぎとなった。龍馬はこの様子を父宛の手紙に、「異国船が所々に来ているそうなので、戦がはじまるのも近いことかと思われます。その節には異国人の首を打ち取り、土産にして帰国するつもりです」とつづり、攘夷の気炎をあげている。

『嘉永六年九月二十三日 父坂本八平直足宛』
一筆啓上仕り候。
秋気次第に相増し候処、愈々御機嫌能御座成らせらる可く、目出度千万存じ奉り候。
次に私儀無異に相暮申し候。御休心成下らる可く候。
兄御許にアメリカ沙汰申し上げ候に付、御覧成らせらる可く候。
先ずは急用御座候に付、早書乱書御推覧成らせらる可く候。
異国船御手宛の儀は先ず免ぜられ候が、来春は又人数に加わり申す可く在じ奉り候。
  恐惶謹言。
  龍
 九月廿三日
 尊父様御貴下
御状下せられ、有難き次第に在じ奉り候。
金子御送り仰せ付けられ、何よりの品に御座候。
異国船処々に来り候へば、軍も近き内と在じ奉り候。
其節は異国の首を打取り、帰国仕る可く候。かしく。

佐久間象山に入門

沿岸警備の任務をとかれた龍馬は、築地の藩邸に戻り、桶町千葉道場での剣術修行を再び開始した。しかし、黒船の脅威を目の当たりにした龍馬は、西洋式砲術を学ぶ必要性を感じて、嘉永6年(1853年)12月1日に、西洋兵学家の佐久間象山の門をたたいた。

象山は「東洋道徳、西洋芸術」を唱える西洋兵学の第一人者として知られ、砲術・兵学・科学・医学と幅広い知識を持つ人物であった。門下には、長州藩の吉田松陰、長岡藩の小林虎三郎、河井継之助、幕臣の勝海舟、肥後藩の宮部鼎蔵、土佐藩の溝渕広之丞らが名を連ねていた。

なお、龍馬が象山から砲術を学んだのは、わずか4ヵ月と短い期間で終わっている。これは、翌安政元年(1854年)4月、象山が弟子吉田松陰の密航事件に連座し蟄居を命じられ、塾が閉鎖されてしまったからであった。

黒船来航の影響

嘉永6年(1853年)6月3日、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーは、日本を開国させるべく、4隻の軍艦(旗艦サスケハナ号、ミシシッピ号、サラトガ号、プリマス号)を率いて浦賀に来航した。

『太平の眠りをさます上喜撰 たった四はいで夜も寝られず』

前年のオランダ風説書により黒船来航を事前に知っていた幕府は、これまでの外国船同様に追い返そうとした。だが、ペリーはこれを断固として拒否し、アメリカ大統領フィルモアの国書を受け取るよう要求した。

そして、態度を曖昧にする幕府に対し、威圧をかける目的でミシシッピ号を測量と称して江戸湾内に進めた。この戦争準備ともとれる示威行動に幕府は危機感を抱き、協議をおこなった結果、国書の受け取りを決めた。

6月9日、幕府を代表して浦賀奉行の戸田氏栄が久里浜で国書を受け取り、将軍徳川家慶が病気であることを理由に、その回答は翌年春に出すことを約束した。ペリーは1年後の来航を告げ、6月12日に日本から去った。

それから10日後、12代将軍家慶が死去した。ところが、その後を継いだ徳川家定は病弱で幕政を担う力がなく、幕府中枢は混乱し迷走した。これまでの慣例を破り、幕政参加の権利を持たない諸大名や幕臣らに国書を回覧し、広く意見を求めたのである。

この結果、指導力の無さが露呈した幕府権威は失墜し、国政は幕府の独裁ではなく公儀制で決定するべきだという考えが広まった。さらには幕府の弱腰外交に対する批判が高まり、日本は天皇が統治する神聖な国であり、外国のケガレを排除するという攘夷思想が流行していった。

翌嘉永7年(1854年)1月、ペリーは軍艦7隻を率いて再び来航した。約1ヵ月にわたる協議の末、幕府は開国要求を受け入れ、3月3日に神奈川横浜村で「日米和親条約」が締結された。この条約により、下田・箱館の開港、漂流民保護、下田への領事赴任、物資補給という片務的最恵国待遇を約束させられた。

その後、続いてイギリス、ロシア、オランダなどの列強諸国との間にも同様の不平等条約が結ばれ、3代将軍徳川家光以来、200年あまり続いた鎖国制度は完全に崩壊した。

坂本龍馬、河田小龍と交わした海軍創設の盟約

剣術修行の成果

安政元年(1854年)6月23日、坂本龍馬は15ヶ月間の江戸留学を終え、故郷土佐に帰国した。そして2ヶ月が経過した閏7月、師匠日根野弁治から『小栗流和兵法十二箇条並二十五箇条』を授けられた。これは中伝の目録にあたり、江戸での修行の成果が認められたものであった。

河田小龍との出会い

龍馬は、帰国した安政元年(1854年)の11月頃、高知城下築屋敷に住む画家の河田小龍を訪ね、会談を申し込んでいる。この小龍は、狩野派の画家であるが儒学・洋学にも造詣深く、当時土佐随一の知識人であった。

長崎で蘭学を学んだ小龍は、2年前の嘉永5年(1852年)7月に藩命を受け、アメリカから帰国した中浜万次郎の取り調べをおこなった。そして、このとき万次郎から聞いた海外事情を『漂巽紀略』という著書にまとめ上げ、藩主山内豊信に献上している。

また安政元年(1854年)8月には、土佐藩から薩摩藩に派遣された視察団の一人として、砲奉行や砲術指南役とともに鹿児島に出張し、大砲鋳造のための反射炉や近代兵器及び造船工場などを見学していた。

龍馬の求めに対し、小龍は自分はただの絵描きに過ぎないと応じる様子がなかった。だが龍馬の熱意に動かされ、海外の事情や近代文明の知識を説いた。また、「外国の汽船を買い求め、同志を集めて乗組員とし、旅客や官私の荷物を東西に運搬して、その運賃を得ながら同時に航海術を練習することが富国強兵への道である」と切論した。

この構想を聞いた龍馬は手を叩いて喜び、「僕は若い頃から剣術を好んできたが、剣では所詮一人の敵しか相手にできない。外国に勝つためには何か大業を成さなければ、志を果たすことは難しいと思っていた。君の意見は僕の考えと一致する。これからは互いに協力しよう」と固く盟約を結んだという。

また、龍馬は再び小龍のもとを訪れ、「船は金策さえできれば手に入るわけだが、これを運用する同志がなければ何の用にも立たない。僕はこの点について悩んでいるのだが、何か工夫があるか聞きたい」と尋ねた。

すると小龍は、「従来より俸禄に満足している人に志がない。在野にいる優秀な人物は、志はあるが行動を起こすための金銭が無く、何もできないでいることを嘆き憤る者も少なくない。この者たちを教育すれば人材を確保することができる」と答えた。

龍馬もこの案に賛同し、「もっともの意見だ。これから君は内にて同志の教育に専念して欲しい。僕は外にて汽船を手に入れることに骨を折ることにする」と、海軍創設の役割を分担して、それぞれが尽力することになったという。

『藤陰略話』
江戸から帰国した龍馬は、西洋事情に詳しい河田小龍のもとを訪ね、「事態の事にて君の意見必ずあるべし。聞たし」と時勢を処する意見を求めた。
ところが小龍は、「吾れは一介の画人で文人隠士に過ぎない、何ら君の真情に答える意見等持合わせぬ」と答え追い返そうとした。
だが龍馬が、「今日の時世において、筆硯の影に隠れて文雅に安逸を求める時代ではない。我々若者がかくも日夜悶々の日々を送る現在、何卒君が進むべき指針を与え給え」と迫ると小龍は、「愚存は攘夷はとても行わるべからず。仮令開港となりても、攘夷の備なかるべからず」と自説を語った。
そして、「此迄我邦に用ゆる所の軍備益なかるべけれども、未だ新法も開ざれば、何や歟や取用いざるべからず。其中に海上の一事に至ては何とも手の出べき事なし。已に諸藩に用い来りし勢騎船などは、児童の戯にも足らぬもの也。先ず其一を云うには弓銃手を乗せ浦戸洋へ乗出せば、船は翻転し弓銃手とも目標定めがたく、其上に十に七、八は皆船酔して矢玉を試ムむまでに及ばず。たまたま船に堪ゆるものありとも一術を施に及ばず。大概沿海諸藩皆此類なるべし。箇様のことにて外国の航海に熟したる大鑑を迎えしとき、何を以て鎖国の手段ヲをなすべきや。其危きは論までもなきこと也。今後は我拝に敵たわずとも、外船は時に来ること必然也。内には開鎖の論定まらず、外船は続々来るべし。内外の繁忙多端にして国は次第に疲弊し、人心は紛乱し、如何とも諠方なく遂に外人の為、呂宋の如く牛皮に包まるることにも至らんや。此等のこと藩府などへ喋々云立たりとも聞入べきことにもなく、実に危急の秋なるべし。何為ぞ黙視し堪ゆべけんや。故に私に一の商業を興し、利不利は格別、精々金融を自在ならしめ如何ともして一艘の外船を買求め、同志の者を募り、之に附乗せしめ、東西往来の旅客官私の荷物等を運搬し、以て通便を要するを商用として、船中の人費を賄い海上に練習すれば、航海の一端も心得べき小口も立べきや。此等盗を捕、縄を造るの類なれども、今日より初めざれば、後れ後れしして前談を助くるの道も随て晩れとなるべし。此のみ吾所念の所なり」と構想を披露した。
龍馬は手を叩いて喜び、「僕は若年より撃剣を好みしが、是も所謂一人の敵にして、何にか大業をなさざれば、とても志を伸ること難しとす。今や其時なり、君の一言、善く吾意に同ぜり。君の志何ぞ成らさらんや。必ず互いに尽力すべし」と堅く盟約を結び別れた。
後日、再び龍馬は小龍のもとを訪れ、「船且器械は金策すれば得べけれども、其用に適すべき同志無くんば仕方なし。吾甚だ此に苦しめり。何か工夫のあるべきや」と尋ねた。
すると小龍は、「従来俸禄に飽たる人は志なし。下等人民秀才の人にして、志あれども業に就べき資力なく、手を拱し慨歎せる者少からず。それ等を用いなば多少の人員もなきにあらざるべし」と答えた。
龍馬も承諾し、「如何にも同意せり。其人を造ることは君之を任し玉へ、吾は是より船を得を専らにして、傍ら其人も同じく謀るべし。最早如此約せし上は、対面は数度に及まじ、君は内に居て人を造り、僕は外に居て船を得べし」として別れを告げた。

徳弘孝蔵の砲術稽古

安政2年(1855年)11月、龍馬は、長岡郡仁井浜でおこなわれた徳弘孝蔵の砲術稽古に参加している。兄の権平がこの年9月に入門しており、龍馬自身は安政6年(1859年)9月入門帳に自著した。

徳弘は、西洋式砲術の開祖である高島秋帆の流れをくむ砲術家で、佐久間象山から学んだ砲術を深めるためのことであった。

このとき龍馬は、浜辺で12斤軽砲を操り、270目玉の弾を仰角3度に、導火線1寸3歩に火を付け、7町(約700m)先に着弾させている。

坂本龍馬、幻の剣術試合と北辰一刀流免許皆伝の謎

江戸再留学

安政3年(1856年)8月20日、坂本龍馬は、願い出た剣術修行が藩庁に認められ、再び江戸へ向かった。9月下旬江戸に到着し、前回同様に築地中屋敷藩邸へ入り、先に出張していた武市半平太(瑞山)、大石弥太郎と同宿した。

のちに土佐勤王党を組織した武市は、龍馬と親戚関係にあり、6歳年上の28歳であった。謹厳な武市が龍馬の大言壮語を評して「坂本の法螺」といえば、龍馬は「武市の窮屈」と応じ、そのあごが長いことをひやかして「アギ」と呼んだ仲であった。

武市は、すでに土佐にいる頃に小野派一刀流を修めており、城下新町田淵で剣術道場を開き、下士たちの崇敬を集めていた。『維新土佐勤皇史』に、「瑞山身長六尺、隆準修ガク、眼に異彩あり。その顔蒼白、喜怒色にあらわれず。人あるいは墨龍先生とよぶ。一たび口を開けば音吐高朗、人の肺腑に徹す」とある。

武市は京橋浅蜊河岸の桃井春蔵道場に通い、翌年皆伝を受けると同時に塾頭に抜擢されている。龍馬は桶町千葉道場に再び入門し、今回は北辰一刀流本家の玄武館にも足を運び、剣術修行に励む日々を送った。

安政剣術試合

安政4年(1857年)10月3日、江戸鍛冶橋の土佐藩邸において、長州藩の桂小五郎、肥後藩の上田馬之助、豊後藩の村上圭蔵、千葉周作門下の海保帆平ら当代一流の剣客が出場した剣術試合が開催された。

龍馬もこの試合に参加しており、島田駒之助なる人物と対戦して勝利を収めている。桂は福富健次に勝利し、斎田尾三郎と引き分けた。*1

続く安政5年(1858年)10月25日、桃井春蔵の士学館で、千葉家を招いた剣術試合がおこなわれた。龍馬は、勝ち抜き戦で連戦連勝だった桂小五郎と立ち会うことになった。

10本の勝負は互角で、11本目の勝負のとき、桂が上段で打ち込んできたところを得意の利生突き(鉄砲突き)で打ち破っている。そのとき見物人の大歓声で、道場は破れんばかりであったという。

この試合を観戦していた武市半平太は、故郷に送った手紙に「若し坂本負け候時は野生の順番と相成り候処、幸にして天下に恥をさらさざるは此上の幸に候。あまりうれしさに拙画を以て当日の有様を御高覧に供し候間、御一笑下され度、先ずは寒気御顧専一に候」と書きつづった。*2

北辰一刀流長刀法目録

龍馬の修行期間は安政3年(1856年)8月から約1年間という期限が決められていたが、途中でさらに1年間の延長が認められた。そして安政5年(1858年)1月、24歳のときに、千葉定吉から『北辰一刀流長刀法目録』が与えられた。

これは現存する唯一の龍馬の北辰一刀流目録で、免許皆伝の証と伝えられてきたが、現在では薙刀の初伝であることが判明している。

ちなみにこの伝書は「千葉重太郎一胤」の名前に続いて、「千葉佐那女、千葉里幾女、千葉幾久女」と定吉の3人の娘の名が署名されており、龍馬と佐那が婚約した記念に定吉が授けたものであるとも伝えられている。

龍馬は他流試合を数多くこなし、この頃には剣術家として知られた存在になっていた。当時の生活の様子を伝えるものとして、帰国する直前に書かれたと推測される姉乙女宛の手紙が残されている。

『安政五年七月頃 坂本乙女宛』
[表面]
此状もつて行者ニ、せんの大廻の荷のやり所がしれん言ハれんぞよ。此男のに物ぢやあきに、状が龍馬から来たけんどまちがつたと御いい下さらる可く候。
先便差出し申し候しよふ婦は皆々あり付申候よし、夫々に物も付申し候よし、其荷は赤岡村元作と申し候ものゝにて候。此状もちて行くものニて御座候。めしをたいてもらい候者ニて候。誠ニよき者故よろしく御取り成す可く成り下せられ候。
大いそぎにて候故、御すいりよふすいりよふ。
此節は○がなく候故いけなく相成り申し候。私しかへりは今月の末より来初めにて候得共、御国へかへり候はひまどり申す可くと存じ奉り候。
又、明日は千葉へ、常州より無念流の試合斗り
[裏面]
申し候。今夜竹刀小手のつくらん故、いそがしく御状くは敷事かけ申さず候。
  かしこかしこかしこ
  坂本龍

これは半紙一枚の表裏に書かれたもので、先に大廻り船便で送った荷物の中にこの手紙を携えゆく赤岡村出身の元作の荷もあると注意した上で、元作は龍馬の使用人で良い人物なので労ってくださいと頼んでいる。また、先便で送った菖蒲が根付いたことを知り喜んでいる。

当時の龍馬は金に困っていたようで、今は金が欠乏しているので直航便を利用することができず、今月末か来月初めに江戸を出発するが、帰国するには時間がかかることを伝えている。

最後に明日は千葉道場で水戸から来る神道無念流との試合があり、今夜は竹刀籠手をつくろうのが忙しくて詳しい手紙が書けないことを断っている。

こうして、桶町千葉道場および玄武館での修行期間が満了した龍馬は、この年の7月頃、江戸に別れを告げて故郷土佐へ旅立った。このとき旅費の全てを師匠に献じ、懐中には一銭も残さず、昼に剣術試合の謝礼を得て夜は安宿に泊まる武者修行をしながら東海道を下ったという逸話が残されている。

幻の剣術試合

▼*1 土佐藩邸剣術試合

安政4年(1857年)10月、江戸鍛冶橋土佐藩邸でおこなわれた剣術試合は、坂本龍馬達人説の根拠とされてきたが、次の理由で後世の創作であることが判明している。

⇒同時代の史料『山内家日記』に該当する記述がない。
⇒出場者である桂小五郎の自伝『木戸孝允公伝』に該当する記述がない。
⇒剣術試合が開催された時、江戸に滞在していない人物が出場している。

▼*2 士学館剣術試合

安政5年(1858年)10月、士学館でおこなわれた剣術試合の模様は、士学館塾頭をつとめていた武市半平太が故郷の小南五郎衛門に宛てた手紙に書かれている。

しかし、この剣術試合があった年の9月に龍馬は土佐に帰国しており、時期的にこの試合に参加することは不可能である。また桂小五郎も10月には萩への帰国の途についており、武市も前年の9月に土佐に帰国している。

つまり、剣術試合のおこなわれた当日3人は江戸に滞在しておらず、武市の手紙は後世に作られた偽物だった。

龍馬の剣術の実力は?

龍馬は、一流の剣客であったと伝わる。しかし近年では、その根拠とされてきた『北辰一刀流長刀法目録』が薙刀の免許であることが判明したことから、実際の腕前は二流であったとする説がある。

「名門の北辰一刀流では、薙刀の目録しか伝授されていない」、「寺田屋で幕吏の襲撃を受けたとき、刀を抜かずに拳銃で応戦している」等が、この説の論点である。

龍馬の通算3年間に渡る桶町千葉道場での修行で与えられた免許は薙刀のみではあるが、2度目の江戸修行の3年後に龍馬は、小栗流の皆伝書である『小栗流和兵法三箇條』を日根野弁治から授かっている。

北辰一刀流の段位は、「初目録」、「中目録免許」、「大目録皆伝」の3段階あるが、仮に龍馬の腕が悪くとも、初目録程度は確実に伝授されているはずである。

また、千葉定吉の娘佐那は、「父は坂本さんを塾頭に任じ、翌5年1月北辰一刀流目録を与えました」と語り残しており、龍馬が北辰一刀流で授かった免許は、長刀目録だけではなく、単にその他は現存していないと考える方が自然である。

「龍馬誠実可也の人物、併せて撃剣家、事情迂闊、何も不知とぞ」

水戸の遊説家

安政5年(1858年)11月19日、江戸から帰国した坂本龍馬のもとに、加藤於莵之介と菊地清兵衛を名のる手紙が届いた。加藤の本名は住谷寅之介、菊池は大胡聿蔵といい、水戸藩の尊皇攘夷志士であった。彼らは、孝明天皇から水戸藩に出された密勅の内容を伝えるために西国諸藩を遊説していた。

手紙には、土佐入国の斡旋と会談の申し込みが書かれていた。龍馬は会談に応じる旨を返書にしたため、川久保為介と甲藤馬太郎を連れ、藩境の立川に逗留していた住谷を訪問した。住谷は、このときのことを日記に次のように記している。

『住谷信順廻国日記』
同二三日、龍馬(二五歳)尋来る。川久保為介(二一歳)、甲藤馬太郎(同)。龍馬誠実可也の人物、併撃剣家、事情迂闊、何も不知とぞ。
[中略]
外両人は国家の事一切不知。
龍馬も役人名前更に不知、空敷日を費し遺憾々々。

この中で住谷は、誠実でかなりの人物であると龍馬を評価している。しかしながら、一介の剣術家であり、世情にうとく役人の名前なども知らず、空しく日々を過ごしていると落胆している。

結局、目的であった土佐入国を果たすことができなかった住谷らは、失意の内に土佐を去ることになった。

学問のすゝめ

事情迂闊と評された龍馬だが、この頃から学問に励み、和文と漢文の書物を読みあさり、特に好んで歴史書を読んでいたという。さらに安政6年(1859年)9月には、西洋式砲術の技術を磨くため徳弘孝蔵に正式に入門し、高島流を学んだ。

◆資治通鑑を読む

江戸剣術修行を終えて土佐に帰国した龍馬は、熱心に読書を始め、暇をみつけては同志の門田為之助、大石弥太郎のもとを訪ね、国事について語り合っていた。

ある日大石は、門田から「近頃、アザ(龍馬のあだ名)が読書を始めたそうだ」という話を聞いた。大石は、普段から龍馬が本を読まないことを知っていたので、直接会い噂の真偽を確かめることにした。

すると、確かに龍馬は読書をしており、「時勢が僕に読書の必要性を感じさせた。だから、僕はこれを読む」と、読んでいた『資治通鑑』を示した。

これは中国の歴史書であり、訓点のない白文であったから、大石はなおもあやしんで、「ここで聞いているから音読してくれないか」と頼んだ。

龍馬は承知し、声を出して音読を始めたが、読みは間違いだらけで、訓点を無視して棒読みするだけのものだった。

大石が驚いて、「君はそれで意味がわかるのか?」と尋ねると、龍馬は、「物事の要点さえ掴めればそれでよい。わざわざ細かいことを気にする必要もあるまい」と平然と答えたという。

◆蘭学を学ぶ

ある日龍馬は、蘭学者のもとでオランダ政体論についての講義を聴講していた。講義の途中、突然龍馬が、「僕が思うに、先生は原文を間違って訳しています。もう一度、よく調べてみて下さい」と指摘した。

これを聞いた蘭学者は憤慨し、「私は君の先生だ。どうして間違った講義を教えなければならないのか」と反論した。しかし、龍馬も「それでは、原文が間違っています。それでは論理が通りません」と言って譲らなかった。

そこで蘭学者が念のためもう一度教科書を読み直すと、龍馬の指摘するとおり翻訳に誤りがあることがわかった。蘭学者は、「申し訳ない。私は訳を間違えていた。確かにこれでは本来の意味が通らない」と龍馬に謝罪した。

蘭学者は、訳を聴いているだけで、龍馬が原文を理解したことに大変驚いたという。

桜田門外の変

安政5年(1858年)9月、大老井伊直弼は、孝明天皇が水戸藩に勅書を下賜した「戊午の密勅」事件をきっかけに、将軍継嗣問題で対立していた一橋派及び日米修好通商条約の調印を批判をした公卿・諸藩士に対する徹底的な弾圧を開始した。

この「安政の大獄」により、水戸藩には家老の安島帯刀、京都留守居役の鵜飼吉左衛門父子、茅根伊予之介ら4名が処刑され、藩主徳川慶篤は差控、前藩主徳川斉昭は国許永蟄居という重い処分が下された。

さらに、越前藩の橋本左内、長州藩の吉田松陰、儒学者の頼三樹三郎ら尊皇攘夷志士を処刑し、一橋藩主の一橋慶喜、越前藩主の松平慶永(春嶽)、尾張藩主の徳川慶勝らが隠居・謹慎などに処せられた。

一橋派だった土佐藩主山内豊信も、安政6年(1859年)2月に隠居処分が勧告され、山内豊範に家督を譲り、容堂と号して隠居していた。同年10月には、公卿三条実万と通じていたことを理由に、謹慎が命じられた。

これによって幕府の権威は強化されたようにみえたが、大弾圧に対する反動は大きかった。水戸・薩摩藩の浪士18名が、万延元年(1860年)3月3日、江戸城に登城中の井伊を桜田門外において暗殺したのである。

この知らせが土佐に伝わったとき、快挙と喜ぶ者もあれば、国法を破るものだと非難する者もあった。だが龍馬は、「諸君、そんなに興奮することはない。彼らは臣下としてするべきことをしただけである。自分もまた他日ことに当たる時はこのような働きをするつもりだ」と語り、郷士仲間はその志に感服したという(『維新土佐勤王史』)。

永福寺門前事件

文久元年(1861年)3月4日、土佐藩にくすぶる上士と下士の対立が表面化する刃傷事件がおこった。

当夜、桃の節句の酒宴を終えた上士の山田広衛が、茶人の松井繁斉と連れ立って歩いていたところ、永福寺の門前で、下士の中平忠次郎と突き当たった。中平は詫びを入れて立ち去ろうとしたが、山田は無礼を許さず、中平を斬り捨てた。

このとき中平と一緒にいた宇賀喜久馬は、現場から逃げ出し、事の次第を中平の兄、池田寅之進に急報した。池田は押っ取り刀で永福寺に駆けつけると、近くの小川で刀を洗っている山田を発見し、背後から斬り伏せた。近家から提灯を借りてきた松井も、池田に斬り捨てられた。

この事件は、翌日瞬く間に広がった。山田の家には上士たち、池田の家には下士たちが集結し、互いに対決する気運が高まり城下は騒然となった。龍馬も他の同志たちとともに、池田方に駆けつけていた。

このままでは両陣営の衝突は避けられ状況の中、老巧の者が、「池田も仇を討った以上は、今更命を惜しむ理由も無い。そうかといって上士へオメオメ引き渡すわけにもいかない。ここは池田が潔く腹を切って、武士の名誉を立てるしかあるまい」と主張し、池田と宇賀の両名が切腹することで事態の決着をつけた。

坂本龍馬、武市瑞山の「土佐勤王党」に第九番目の加盟

土佐勤王党の結成

安政7年(1860年)7月、攘夷の高まりを感じた武市瑞山(半平太)は、剣術修行と称して中国、九州を遊歴し、西国諸藩の情勢を視察した。そして翌年には、再び江戸に赴き、長州藩の久坂玄瑞、桂小五郎、薩摩藩の樺山三円ら尊攘志士たちと意見を交わした。

彼らは会談の中で、「自藩の藩論を勤王に統一し、藩主を奉じて京都へ上り、その勢力を背景に朝廷の権威を強化し、幕府に対抗する」ことを誓約した。

武市は、諸藩の有志との連携を深めると同時に、勤王運動における土佐藩の立ち後れを自覚する。そして、佐幕開国とする藩論を刷新するべく、同志の結集することを決意したのである。

こうして文久元年(1861年)8月、「土佐勤王党」は江戸で結成された。武市瑞山を筆頭に、大石弥太郎、島村衛吉、間崎哲馬、河野万寿弥、岡田以蔵らが血判署名した。盟約書は大石が起草し、武市が清書をおこなった。

この勤王党の主張は、あくまで藩を通じて尊皇攘夷の実現をはかるとしたものである。したがって、藩の枠を越えて連合し、義挙のためならば藩が潰れても構わないといった久坂の主張とは、大きく異なっていたのである。

『土佐勤王党盟約文』
盟曰
堂々たる神州戎狄の辱しめをうけ、古より伝はれる大和魂も、今は既に絶えなんと帝は深く歎き玉う。しかれども久しく治まれる御代の因循委惰という俗に習いて、独りも此心を振い挙て皇国の禍を攘う人なし。
かしこくも我が老公夙に此事を憂い玉いて、有司の人々に言い争い玉えども、却てその為めに罪を得玉いぬ。斯く有難き御心におはしますを、など此罪には落入玉いぬる。君辱かしめを受る時は臣死すと。
況むや皇国の今にも衽を左にせんを他にや見ゆるべき。彼の大和魂を奮い起し、異姓兄弟の結びをなし、一点の私意を挟まず、相謀りて国家興復の万一に裨補せんとす。
錦旗若し一たび揚らバ、団結して水火をも踏まむと、爰に神明に誓い、上は帝の大御心をやすめ奉り、我が老公の御志を継ぎ、下は万民の患をも払はんとす。左れば此中に私もて何にかくに争うものあらば、神の怒り罪し給うをもまたで、人々寄つどいて腹かき切らせんと、おのれおのれが名を書きしるしをさめ置ぬ。
 文久元年辛酉八月
  武市半平太小楯
[以下連署血判]
盟約
神聖な我国が異国の侵略を受け、古来から伝わる大和魂も今は消えて無くなってしまったのかと天皇は憂慮しておられる。しかしながら、平和な世の遊惰に流され、この心を奮い上げて皇国の禍を払いのけようとする者は、一人もいない。
我が老公(山内容堂)はこの事を心配し、幕府と談判に及んだが、かえってそのために罪を得た。立派なお考えをもっているのになぜ罪に落とすのか。君主が辱めを受けたとき、臣下は死を覚悟して恥をそそぐべきである。
今や皇国の危機は、今日より大なるはない。土佐の有志は、大和魂を奮い起こし、一致団結し、一点の私心をはさまず、協力して国家の復興に尽くさねばならない。錦の御旗が掲げられるときは、団結して水火も辞さない事を誓い、天皇の心を案じ奉り、我が老公の意志を継ぎ、人民の不幸をも取り除きたい。
この中に私心をもって争う者があれば、神罰が当たる前に同志の手で切腹させることを誓い、ここに銘々の名を書き留めておく次第である。

翌月、武市は帰国し、土佐7郡の同志の糾合につとめた。その結果、郷士および庄屋層を中心に200余名が加盟し、坂本龍馬も第9番目に署名加盟した。上士層では、小南五郎右衛門、佐々木三四郎、谷干城らが勤王党に理解を示していたが、実際に加盟したのは宮川助五郎ら数名にとどまった。

武市は、この一党を統制しながら藩庁に挙藩勤王を進言したが、藩政を握っていた参政吉田東洋は、「尊王攘夷運動は、幕府に対し容堂公(前藩主)の立場を危なくする書生論である」として退けた。

坂龍飛騰

文久元年(1861年)10月上旬、龍馬は、師匠日根野弁治から小栗流の皆伝目録である『小栗流和兵法三箇條』を授けられた。そして同月11日、剣術詮議の名目で出国し、武市半平太の使者として長州萩の久坂玄瑞のもとへ向かった。この日を勤王党の同志である樋口真吾は、その日記に「十一日 坂龍飛騰」と記していた。

10月14日、龍馬は坂本家の領地がある柴巻に立ち寄り、地頭の田中良助から旅費として金子2両を借りている。そして、讃岐丸亀藩の矢野道場に滞在した後、翌文久2年(1862年)1月14日に萩に到着した。

久坂玄瑞の日記『江月斎日乗』によると、龍馬は武市から託された書簡を久坂へ渡し、翌15日に会談をおこない、午後からは文武修行館にてワラ束斬りを披露したとある。

龍馬の滞在は、10日間におよんだ。この間、久坂や薩摩藩士らと国事を腹蔵なく談合し、1月23日に萩を発った。このとき久坂は、武市宛の手紙を託している。

『文久二年正月二十一日付』
其後は如何被為在候や、此内は山本・大石君御来訪下せられ、何ら風景も之無く、御気の毒千万存じ奉り候。最早、御帰国ならんと御察し仕り候。
此度坂本君御出游在らせられ、腹臓無く御談合仕り候事、委曲御聞取願ひ奉り候。竟に諸候恃むに足らず、公卿恃むに足らず、草莽志士糾合義挙の外には迚も策之無き事と私共同志中申し合い居り候事に御座候。失敬乍ら、尊藩も弊藩も滅亡しても大義なれば苦しからず。
両藩共存し候とも、恐れ多くも皇統綿々、万乗の君の御叡慮相貫き申さず而は神州に衣食する甲斐は之無きかと、友人共申し居り候事に御座候。
就ては坂本君へ御申談じ仕り候事ども、篤く御熟考下さるべく候。もっとも沈密を尊ぶは申す迄も之無く候。樺山よりも此内書状来る、彼藩も大に振い申し候よし。友人を一両日内遣す積りに御座候。様子次第、尊藩へも申すべくと存じ申し候。何も坂本様より御承知ならんと草々乱筆推読、是祈り敬白。
 正月念一
時気御自保申すも疎に御座候已上

この手紙には、「諸侯も公家もあてにすることはできない。草莽の志士たちを糾合して義軍を挙げる以外に策はないと私ども同志は語らっている。失敬ながら、そのためには長州藩も土佐藩も滅亡しても、大儀のためにはやむを得ない」とあり、草莽崛起を唱えている。

そして、薩摩藩主島津久光の上京を機会に、薩長土三藩による討幕の挙兵をすることを計画しており、武市率いる土佐勤王党の参加を強く求めた。

坂本龍馬、一藩勤王に限界を感じ脱藩 江戸へ

土佐にあだたぬ奴

文久2年(1862年)2月29日、土佐に帰国した坂本龍馬はただちに武市半平太をたずね、久坂玄瑞の挙兵計画と西国探索の結果を報告した。先に探索から帰国していた吉村寅太郎は、同志を率いて脱藩し、挙兵に参加することを強くうったえたが、あくまで一藩勤王にこだわる武市は動くことはなかった。

そのため、土佐勤王党の中から久坂に同調した吉村寅太郎、宮地宜蔵、沢村惣之丞らが脱藩していった。武市は、「吉村は功名に急して、勢制すべくもない。彼一人の去って平野らの挙に加わるのも、今の場合仕方がない」として彼らの離脱を黙認した。

久坂のもとに駆けつけた吉村は、挙兵に参加したのが3人とは言いにくかったのだろうか、「のちより十余人も来る」(『江月斎日乗』)と偽っている。そこで相談した結果、沢村が一度帰国し、再び武市の説得と他の同志に脱藩の勧誘をおこなうことを決め、下関から土佐へと引き返していった。

一方、この頃龍馬はすでに脱藩の決意をしており、3月24日未明、帰国した沢村の手引きで脱藩した。龍馬は親戚の弘光左門から10両を借り受け、姉乙女から授かった「肥前忠広」をたずさえ、土佐を旅立った。

脱藩した理由は、「土佐藩を一藩勤王にすることに限界を感じ見切りをつけた」、「久坂玄瑞の草莽崛起に触発された」、「政権奪取のために吉田東洋暗殺を必至とする武市半平太の方針に嫌気がさした」ともいわれているが、はっきりとしたことはわかっていない。

龍馬の脱藩を知った武市は、「土佐にあだたぬ奴(土佐にはおさまりきらぬ奴の意)だから他国へ放した」と語り、「肝胆元より雄大にして、奇機自ら湧出す、飛潜誰か織る有らん、偏に龍名に恥じず」と龍馬の門出を祝福した。

龍馬の脱藩に関する資料として坂本家支配の福岡家の記録『福岡家御用日記』には、次のような記述がある。

『福岡家御用日記』
三月二五日
御預郷士坂本権平弟龍馬儀、昨夜以来行方不知、諸所相尋候得共不明之由届出候事。
三月二七日
御預郷士坂本権平所蔵之刀紛失之旨届出候事。

余談だが数日後の4月8日、武市の密命を受けた那須信吾・安岡嘉助・大石団蔵ら一団が藩政吉田東洋の暗殺を決行し、その直前に龍馬が脱藩していたことなどもあり、一時は龍馬に暗殺犯の嫌疑がかけられていた。

脱藩の道

文久2年(1862年)3月24日未明、土佐を出奔した龍馬と沢村惣之丞は難路をひたすら歩き続け、翌25日の夜、国境に近い高岡郡檮原村に到着し、那須俊平・信吾宅で一泊した。

翌日、那須父子の案内で宮野々番所を経て四万川茶・谷の松ヶ峠番所を抜け、韮ヶ峠を越えて伊予国に到着した。

信吾はここで引き返したが俊平はそのまま同行し、小屋村・水ヶ峠を経て泉ヶ峠で一泊した。翌27日、宿間村で俊平と別れたのち川舟で大洲を経て長浜町に到着し、冨屋金兵衛宅に泊まった。28日、長浜港から船で上関へ渡り一泊し、29日に三田尻港へたどり着いた。

そして4月1日、目的地である長州藩領の下関に到着し、尊皇攘夷志士と昵懇であった豪商白石正一郎方を訪問した。ところが、合流する予定であった吉村寅太郎たちはすでに大坂方面に出発したあとであった。

龍馬は「いまさら吉村のあとを追うのは面白くない」として、沢村には京都の情勢を探らせると自らは九州諸国を巡歴することにした。九州へ渡り各地をまわったが、薩摩藩は鎖国政策をとっていたので入国することはできなかった。

九州諸国の巡歴を終えた龍馬は本土へ渡り、6月11日に大坂にで沢村と再会し、京都を経て8月下旬に江戸の桶町千葉道場にわらじを脱いだ。江戸への道中、金に困った龍馬は刀の柄頭を売ってしまい、柄を手ぬぐいで巻いて旅をしていたという。

龍馬に刀を渡したのは誰?

龍馬が脱藩を考えていた頃、兄権平は弟の態度を察してか龍馬の刀を取りあげ、親類中にも脱藩の警戒を怠らないように伝えていた。そのため脱藩の前日、龍馬は刀を借りようと親戚の才谷屋をたずねたが断られてしまい、刀を手に入れる手段を失い八方ふさがりとなった。

その事を知った次姉栄は弟の窮状を哀れみ、家伝の銘刀を密かに授けると後日龍馬脱藩幇助の罪が坂本家に及ぶことを恐れ、責任をとって自害したという。

ところが、昭和63年3月に「弘化二乙巳九月十三日 貞操院 墓柴田作衛門妻坂本八平女」と刻まれた墓が発見された。墓碑銘の意味は「柴田作衛門の妻、坂本八平の娘」で、柴田作衛門とは栄の夫の名前、坂本八平は栄の父親の名前であり、この墓が栄のものであることが判明した。

この発見により栄の没年が弘化年間(1844~1847)であることが確認され、栄は龍馬が12、3歳の時にすでに亡くなっていたことがわかっている。脱藩当時に生きていない栄が刀を渡せるはずもなく、刀(肥前忠広)を与えたのは乙女だと推察される。

龍馬の初恋

龍馬が脱藩する半年前、初恋の相手ともいわれている平井加尾に宛てた手紙が残されている。加尾は龍馬の友人平井収二郎の妹で、安政6年(1859年)に藩主山内容堂の妹友姫が三条実美の兄公睦に嫁いだ際、お付き役として京都へ出ていた。そして在京の間、親身になって脱藩した志士たちを支援していた。

『文久元年九月十三日 平井かほ宛』
先づ先づ御無事とぞんじ上候。天下の時勢切迫致し候に付、
 一、高マチ袴
 一、ブツサキ羽織
 一、宗十郎頭巾
外に細き大小一腰各々一ツ、御用意あり度存上候。
 九月十三日
  坂本龍馬
 平井かほどの

手紙を受け取った加尾は意味がわからなかったが、袴と羽織は親戚への土産物と称して呉服屋から取り寄せ、刀は国もとの兄に適当な理由をつけて送ってもらい龍馬の依頼品をそろえた。この時兄が心配するといけないから龍馬の手紙のことは黙っていた。

ところが、このあと龍馬が加尾のもとを訪れることはなかったため、結局龍馬がどのような目的で集めさせたのかはわかっていない。

一方、龍馬の脱藩を知った収二郎は、龍馬に誘われた加尾が勤王活動に参加することを危惧して、「坂本龍馬が昨日24日脱藩した。きっとそちらに行くと思うが、たとえ龍馬からどのような事を相談されても、決して承知してはならない。もとより龍馬は人物ではあるが、書物を読まないので時には間違えることもある」と書き送っている。

坂本龍馬昨廿四日之夜亡命、定めて其地へ参り申へく、龍馬国を出る前々日、其許の事に付、相談に逢候。
たとひ龍馬よりいかなる事を相談いたし候とも決して承知不可致。其許は家にありて父母にしたがふ身分なれば、他人の為に人に遣はれ候事は出来不申候。
元より龍馬は人物なれども、書物を読ぬ故、時としては間違ひし事も御座候は、よくよく御心得あるへく候。
只只拙者も其許も報恩の節を失せず、忠孝の道に欠けさる様、致され度候。めてたくかしく。
  収二郎
 かほとの

坂本龍馬、勝海舟を斬りに行きその弟子となる

勝海舟に弟子入り

文久2年(1862年)10月、坂本龍馬は桶町千葉道場師範代で友人でもある千葉重太郎を連れ、赤坂氷川にある軍艦奉行並勝海舟の屋敷を訪問した。

海舟はもとは低禄の幕臣であったが、黒船来港後に海防意見書を提出したことをきっかけに頭角をあらわし、この閏8月に軍艦奉行並にまでのぼった傑物であった。2年前の万延元年(1860年)には、遣米使節の一員として咸臨丸で太平洋を横断しアメリカに渡ったことのある時代の先覚者であった。

海外情勢を実地に見聞してきた海舟は単純な攘夷論を強く批判し、欧米列強に対抗するためには海軍創設と開国が必要であると説いていたので、龍馬は西洋に心酔する奸物だから議論を吹っかけて斬ってしまおうと考えたのであった。

2人が会談を申し込むと家人に奥の部屋へと案内され、海舟と対面を果たした。この時、海舟40歳、龍馬28歳。海舟は龍馬たちを見ると開口一番、「そなたら、俺を斬りに来たのだろう。隠してもわかる。顔に殺気がみえる」といきなり図星をついた。

龍馬が驚いて沈黙していると、海舟は世界情勢と攘夷論の愚かしさを説明し、海軍の創設とその費用を生み出す貿易の必要性を論じた。

龍馬は海舟の話を聞いているうちに見識の広さ、人物の大きさに感服し、「実はお察しのように先生を討ち果たすつもりでしたが、ただいま先生のご高説をうけたまわり、自分の未熟を恥じています。願わくば今日から先生の弟子にして下さい」と切望した。

海舟はこれを快諾し、弟子入りを認めた。この日を境に龍馬は日夜、屋敷の外に立って刺客を警戒し、海舟の身辺警護につとめていたという。

後年、海舟はこの時の様子を「坂本龍馬。あれは、おれを殺しに来た奴だが、なかなか人物さ。その時おれは笑って受けたが、落ち着いていて、なんとなく冒しがたい威厳があって、よい男だったよ」(『氷川清話』)と回想している。

勝海舟塾

勝海舟の弟子となった龍馬は、海軍創設に必要な人材を集めることに奔走し、文久2年(1862年)11月に江戸留学中であった河田小龍門下の近藤長次郎を海舟塾に誘い入れた。そして、さらに土佐の同志を海舟門下に引き入れるため、土佐勤王党の同志で藩庁に顔の利く間崎哲馬に海軍振興策を説き、人材の斡旋を依頼した。

同年12月17日、龍馬は近藤長次郎・千葉重太郎と共に大坂に出張する海舟に随行して上京した。この時京都土佐藩邸にあった甥の高松太郎、千屋寅之助(菅野覚兵衛)、望月亀弥太の3人が新たに海舟塾に加わることになった。

これは間崎が土佐藩大監察の小南五郎右衛門を動かして、藩命による航海術修行をうながしたものであり、手当として月々2両ずつが支給されることになっていた。

またほぼ同じ時期に、龍馬と一緒に脱藩し前河内愛之助と改称していた沢村惣之丞、河田小龍門下の新宮馬之助、安岡金馬、千葉重太郎門下の鳥取藩士黒木小太郎らが龍馬の紹介で海舟塾に入門した。

日本第一の人物

龍馬は勝海舟から航海術・運用術・機関術・算術など海軍技術の原則を学ぶと共に、海防に必要な軍艦・乗組員の数、軍艦の維持にかかる費用は海外貿易と関税による収益でまかない、人員は諸藩から石高に応じて供出させるといった具体的な海軍構想についても学んでいた。

さらに海舟は幕臣でありながらその立場を超え、「この危機の時代にあっては、朝廷、幕府や雄藩といった狭い国家論ではなく、一段上の日本という国家論を考えよ」と教えていた。

龍馬は勝海舟を深く敬愛し、故郷の姉乙女に宛てた手紙の中で「日本第一の人物」と紹介している。

『文久三年三月二十日 坂本乙女宛』
扨も扨も人間の一世ハがてんの行ぬハ元よりの事、うんのわるいものハふろよりいでんとして、きんたまをつめわりて死ぬるものもあり。
夫とくらべてハ私などハ、うんがつよくなにほど死ぬるバへででもしなれず、じぶんでしのふと思ふても又いきねバならん事ニなり、今にてハ日本第一の人物勝憐太郎殿という人にでしになり、日々兼而思付所をせいといたしおり申候。
其故に私年四十歳にるころまでハ、うちにハかへらんよふニいたし申つもりにて、あにさんにもそふだんいたし候所、このごろハおおきに御きげんよろしくなり、そのおゆるしがいで申候。
国のため天下のためちからおつくしおり申候。
どふぞおんよろこびねがいあげ、かしこ。
 三月廿日
  龍
 乙様
 御つきあいの人ニも、極御心安き人ニハ 内内御見せ、かしこ。

脱藩の赦免

文久3年(1863年)1月13日、勝海舟をのせた順動丸は兵庫を出港して江戸に向かう途上、伊豆下田港に寄港した。海舟は上京の途にある前土佐藩主山内容堂がこの伊豆に滞在していることを知り、16日に容堂をたずねて龍馬脱藩の赦免を求めた。

容堂はこれを承諾したが、酒席の場であったため海舟は念のため後日の証拠となるものが欲しいと希望した。容堂は笑って一本の扇を開くとそこにひょうたんの絵を描き、その中に「歳酔三百六十回、鯨海酔候」と書き入れて海舟に手渡した。

また、政治総裁職をつとめていた松平春嶽も龍馬が脱藩罪を追われる身であることを案じ、同月25日に上京した容堂のもとを訪れ、龍馬の赦免を要請した。

これは前年(1862年)12月5日、龍馬が間崎哲馬・近藤長次郎と共に江戸越前藩邸に春嶽をたずね海防策を具申した際、春嶽は龍馬の人物を気に入り、帰藩の口添えを約束してくれたからであった。

容堂はただちに藩庁の者に命じて龍馬の脱藩赦免の手続きをとらせた。こうして文久3年(1863年)2月、龍馬は京都土佐藩邸に7日間の謹慎を命じられ、25日に「御叱りの上別儀なくこれを仰せつける」と赦免された。

謹慎の間、龍馬は帰藩に周旋した同志の望月清平らに「君らが呼び戻したから、俺はこんな窮屈な目にあっている」と愚痴をこぼしていた。

そして3月6日には安岡金馬と共に藩から航海修行を命じられ、勝海舟のもとで正式に海軍術の伝習を始めることになった。

坂本龍馬
右の者壬戌の三月御国元を立、京摂並に九州関東辺諸所周旋罷在、今日二十二日御屋敷へ立帰候段、方今之形勢に付、忠憤憂国之至情より難黙止、件之次第とは乍申、御席所越之儀御作法も有之所、窃に令逃逸、長々罷在不心得之至、依之屹度可被仰付筈の処御含之筋有之御叱の上無別儀被仰付之。

龍馬と勝海舟の出会い

龍馬と勝海舟の出会いについては、「龍馬は海舟を斬りに来たが、海舟の持論を聞き、即座に弟子入りした」という海舟の回想が通説となっている。だが、資料によっては「松平春嶽の紹介状を持って訪問した」となっており、主なものに次の3説がある。

▼文久2年10月江戸説

『氷川清話』
坂本龍馬。あれは、おれを殺しに来た奴だが、なかなか人物さ。その時おれは笑って受けたが、沈着いてな、なんとなく冒しがたい威権があつて、よい男だったよ。
『松平春嶽 明治十九年十二月月十一日 土方久元宛の書簡』
文久2年(1862年)7月のある日、坂本龍馬と岡本健三郎(千葉重太郎との記憶違いか?)が突然、江戸藩邸にある松平春嶽をたずねて来た。登城前であったので、代わりに中根雪江が対応した。その後、改めて2人を招き話を聞くと、勤王攘夷を熱望する厚志を述べ、勝海舟と横井小楠への紹介状をもとめたので添書を与えた。そして、その紹介状を持って勝海舟に会いに行った。2人は議論を吹っかけて勝を殺すつもりであったが、その話を聞いて心服し、その弟子となった。

▼文久2年12月江戸説

『続再夢紀事』
12月5日、松平春嶽が帰宅後、土佐藩の間崎哲馬、坂本龍馬、近藤長次郎がたずねて来た。春嶽は対面し、大阪近海の海防策について話した。
『海舟日記 十二月九日』
有志のもの三名来訪。形勢の論議をする。

▼文久2年12月神戸説

『海舟座談』
その頃、勝は大阪に出張しており、そこにコモをかぶって合いに来た者がいた。俺を斬りに来たかと聞くと、斬りに来たと答えた。それから懇意になったが、この男が坂本龍馬であった。
『海舟日記 十二月二十九日』
千葉重太郎来る。坂本龍馬来る。京師の事を聞く。

幕府、海軍学校「神戸海軍操練所」の開設を決定

神戸海軍操練所の開設

文久3年(1863年)4月23日、上京した将軍徳川家茂は軍艦順動丸で摂海(大坂湾)の巡視をおこない、軍艦奉行並の地位にあった勝海舟は同行してその案内役をつとめていた。そして神戸小野浜に上陸した時、この地に海軍操練所を設立することを直接願い出て、これが許された。

海舟はこの混沌とした世界情勢において日本が独立国家として存続するためには、幕府諸藩が一致協力する雄藩連合政権(共和政治)を樹立し、日本は海国であるから国防のためには海軍を起こさねばならないと考えていた。

そのため、海軍学校を設立し、そこで蒸気機関を備えた軍艦と最新式兵器を動かすことのできる人間を養成し、徳川家を守る徳川海軍ではなく、「興国之基」とした「一大共有の海局」、つまり列強諸国から日本を守る日本海軍をつくることを構想していた。

翌24日、海舟は摂州神戸村海軍所取建御用兼摂海防禦掛に任命され、幕府の海軍力充実と仕官育成のための施設「神戸海軍操練所」が創設されることが決定した。創設の経費として年3000両と1万7137坪の土地が与えられ、建物は神戸外人居留地東南隅に建設されることになった。また、近くには生徒の住む30坪の寮も併設された。

さらに海舟は攘夷という空論にこだわる朝廷を変えるため、4月25日に尊攘派公卿の姉小路公知を軍艦順動丸に乗せ、摂海の警備状況を視察した。この時も海軍の充実と開国の必要性を強く説き、公知は海舟の意見に同意している。

そして公知が帰京する時、龍馬が海舟の使者として蒸気機関の縮図、セバストポールの戦図、散兵答知機の訳書を献上した。

神戸海軍塾の開設

勝海舟は神戸海軍操練所の開設と同時に私塾「神戸海軍塾」を開くことも許されており、操練所北方の西国街道に南面した生田川との間にある生田の森に塾舎が設けられた。

文久3年(1863年)9月から大坂宇治川の龍馬ら海舟塾の塾生が移り、初代塾頭は庄内藩士佐藤与之助がつとめた。

この頃龍馬が姉乙女に宛てた手紙があり、天下無二の軍学者勝海舟のもとで海軍修行に励む自分の姿をエヘンエヘンと誇らしげに自慢している。

『文久三年五月十七日 坂本乙女宛』
此頃ハ天下無二の軍学者勝麟太郎という大先生に門人となり、ことの外かはいがられ候て、先きやくぶんのよふなものになり申候。
ちかきうちにハ大坂より十里あまりの地ニて、兵庫という所ニて、おおきに海軍ををしへ候所をこしらヘ、又四十間、五十間もある船をこしらへ、でしどもニも四五百人も諸方よりあつまり候事、私初栄太郎なども其海軍所に稽古学問いたし、時時船乗のけいこもいたし、けいこ船の蒸気船をもつて近近のうち、土佐の方へも参り申候。
そのせつ御見にかかり申す可く候。
私の存じ付ハ、このせつ兄上にもおおきに御どふいなされ、それわおもしおい、やれやれと御もふしのつがふニて候あいだ、いぜんももふし候とふり軍でもはじまり候時ハ夫までの命。ことし命あれバ私四十歳になり候を、むかしいいし事を御引合なされたまへ。すこしヱヘンがをしてひそかにおり申候。
達人の見るまなこハおそろしきものやと、つれづれニもこれあり。
猶ヱヘンヱヘン、
  かしこ。
 五月十七日
  龍馬
 乙大姉御本
右の事ハ、まづまづあいだがらへも、すこしもいうては、見込のちがう人あるからは、をひとりニて御聞き、かしこ。

そして海舟の信頼を得た龍馬は、文久3年(1863年)5月16日に名代として越前福井藩を訪れ、前藩主松平春嶽に拝謁し、神戸海軍塾開設資金として金5000両の援助を受けた。

この時、龍馬は幕臣大久保一翁が春嶽に宛てた手紙を持参しており、これは越前訪問前の4月2日、沢村惣之丞ら4人の同志と共に一翁のもとを訪れた際に託されたものであった。

一翁は海舟を幕府に推挙した人物で、この頃からすでに「朝廷が攘夷断行を命じるならば、幕府は朝廷に政権を返還し、徳川家は旧領の駿河・遠江・三河の三国を支配する一大名となり、政局を見守るべし」という大政奉還論を持っていた。

面談の時、刺される覚悟で一翁がこの策を打ち明けたところ、龍馬と沢村は手を打たんばかりに賛同したので、「では、これから上洛して何とか力を尽くしてくれ」と一翁が依頼すると、龍馬は「及ぶかぎり死力を尽くしてみましょう」と快諾し、春嶽宛の手紙を受け取ったのだった。

また龍馬はこの越前訪問で横井小楠と三岡八郎(由利公正)と知り合い、国事を談じた。横井は熊本藩士であるがその学識をかって春嶽が越前に招いた人物で、この小楠について海舟は「天下で恐ろしいものをみた」と評している。三岡は財政に明るく、藩の財政再建に取り組んでいた。

三岡の談話(『子爵由利公正伝』)によれば、龍馬、小楠、三岡が炉を囲んで酒を飲んでいた際、龍馬が愉快極まって、「君がため、捨つる命は惜しまねと、心にかかる国の行末」という歌をうたったが、その声調はすこぶる妙であった。

決闘を挑まれる

文久3年(1863年)の6月、龍馬は塾生の伊達小次郎(陸奥宗光)に請われ、伊達の友人である乾十郎が水戸浪士甲宗助に殺害されかけたのを救っている。龍馬は安治川口の現場へ駆けつけ、甲を止めさせると素早く乾を助け出し大坂奉行のもとへ送り保護させた。

このため龍馬の処置に憤慨した甲は決闘を申し込み、龍馬は少しも動じることなく「即時天王寺境内にて御立会申候」と返書を出し応じることになった。

これを知った沢村惣之丞がただちに勝海舟に事情を知らせたため、海舟は小笠原壱岐守に相談し、ふたりの仲裁で決闘を中止させることで落着させた。

こうした経緯から伊達は龍馬の男気に感じ入り、後日長崎での海援隊に参加する契機になったという。

坂本龍馬の婚約者?千葉佐那との恋

江戸の恋

坂本龍馬と桶町千葉道場主千葉定吉の娘佐那は恋仲であったといわれ、これを裏付けるような龍馬の手紙が現存する。この手紙は2004年7月オークションに出品され、1633万円で落札された。

『文久三年八月十四日 坂本乙女宛』
此はしハまづまづ人にゆハれんぞよ。すこしわけがある。
長刀順付ハ千葉先生より越前老公へあがり候人江、御申し付ニて書たるなり。
此人ハおさなというなり。本ハ乙女といいしなり。今年廿六歳ニなり候。馬によくのり釼も余程手づよく、長刀も出来、力ハなみなみの男子よりつよく、先たとへバうちにむかしをり候ぎんという女の、力料斗りも御座候べし。
かほかたち平井より少しよし。十三弦のことよくひき、十四歳の時皆傳いたし申候よし。そしてゑもかき申候。心ばへ大丈夫ニて男子などをよばず。夫ニいたりてしづかなる人なり。ものかずいはず、まあまあ今の平井平井。
○先日の御文有り難く拝見。杉山へ御願の事も拝見いたし候。其返しハ後より後より。
  十四日
 乙様
  龍

この手紙は「この話はまずまず人には言われんぞよ。少し理由がある」という前置きで始まり、「佐那は幼名を乙女といい、今年26歳になります。彼女は乗馬や剣術が得意で、その上薙刀もでき、力は並の男より強く、まず例えるなら昔坂本家で奉公していたぎんのようです」と佐那を紹介している。

龍馬は、「佐那の幼名は偶然にも乙女と同じ名前であり、馬術や剣術、薙刀に長けている」と二人に共通する点をあげて、姉乙女が佐那を気に入るよう機嫌をとっている。

続いて「顔は平井加尾より少し美人で、十三弦の琴を弾き、14歳の時に皆伝しています。そして絵も上手に描くことができます。気質は立派で男子などは及ばず、それでいて静かな人です」と称賛している。

龍馬の婚約者?

千葉佐那の回想録である『千葉灸治院』にも龍馬のことが書かれており、これは自由民権家の小田切謙明が、板垣退助の紹介で灸治院に通院していた時佐那と親しくなり、身の上話を聞いたものである。

『千葉灸治院』 (高木薫明著)
私は幕末神田お玉ケ池で北辰一刀流の道場玄武館を開いていた千葉周作の姪に当たり、父は周作の弟で桶町で道場を開き桶町の千葉道場又は小千葉と言われていた千葉定吉の次女で、姉は夭折し、兄と2人の妹がありました。
土佐の坂本さんが私の家に入門してきたのは嘉永6年4月で坂本さんは19歳、私は3歳年下の16歳の乙女でございました。
坂本さんは翌年6月には帰国し、安政3年8月再び私の道場に参り修行に打ち込んでおりました。更に一年滞在延期の許可を得たとかで引き続いて道場に滞在し、父は坂本さんを塾頭に任じ、翌5年1月北辰一刀流目録を与えましたが、坂本さんは目録の中に私たち三姉妹の名も書き込む様に頼んでおりました。
父は「例の無い事だ」と言いながら、満更でもなさそうに三姉妹の名を書き込み、坂本さんに与えました。
坂本さんは24歳私は21歳となり、坂本さんは入門した時からはずいぶん大人っぽくなり、たくましい青年となっておりました。
私も21歳ぼつぼつと縁談の話もありましたが、私は坂本さんを想っていますし、父も坂本さんならばと高知の坂本家へ手紙を出した様でした。
坂本さんは其の年の9月、国に帰り再び私の道場へは姿を見せませんでした。兄重太郎に聞けば勝海舟の門下生となり、勤王運動に参加し、江戸に来ても道場に来る間もないだろうとの事でした。
私は心を定めて良い縁談も断り、唯ひたすら坂本さんを待ちましたが、忘れもしない慶応3年2月31歳になっていた私は坂本さんが11月15日京都で暗殺されたことを知らされました。
[中略]
私は世話してくれる人があって明治15年9月、学習院女子部に舎監として奉職しておりました。
其の頃(明治16年1月24日)から高知士陽新聞に坂崎紫欄と言う方が、坂本さんの事を『汗血千里駒』という題で書き始め、後には単行本として出版され大変人気となりましたが、文章の中に坂本さんが師匠周作の娘光子と恋仲であったという部分があります。
坂本さんは、伯父周作とは無関係で光子と言う娘もありませんでした。たぶん私の事を書いたのだ思っています。
と言って、押入依り大事に保管してある由緒ありげな小箱を取りだし、箱の中の布切れを謙明夫妻の前に拡げた黒紋付いた着物の小袖でそれには桔梗を輪違いで包んだ紋が染め抜かれていた、
之は父が坂本さんに贈るために染めていましたが国事に奔走し道場へも余り来なくなり、私が切り取り形見として持っております。と笑いながら話し、『汗血千里駒』の誤りを正すために、学習院でもずいぶん人に見せましたよ。
明治18年9月、学習院女子部が華族女学校となり、校長に土佐出身の谷千城中将が就任し、引き続き勤務をしておりましたが、谷中将が農商務大臣となり下田歌子が校長の代理となりましたのを機に学校を辞職し、千葉家に昔依り伝えられている家伝灸を施して細々と暮らして居ます。

さらに、明治26年に発行された『女学雑誌』にも「坂本龍馬の未亡人を訪う」と題する佐那の談話が掲載されており、それによると龍馬が目録を授けられたのち、師匠千葉定吉に佐那との結婚を申し入れたとある。

定吉は娘は剣術をもって国に尽くすことばかりを考えている変わり者だが、それでもよければかまわないといって2人の結婚を認めた。ただし、佐那の希望で天下が落ちついてから結婚することになり、それまでは婚約というかたちになった。

2人の間で結納が交わされ、千葉家からは短刀一口が龍馬に贈られた。龍馬は、「自分は結納に相応しいものを持っていないので、松平春嶽公から拝領した紋付を結納の品にかえたい」と言って紋付を千葉家に贈ったという。

結局、龍馬と佐那は結婚することはなかったが、佐那は生涯を独身で通し、明治29年に59歳で没した。佐那には縁者が無く、無縁仏になることを哀れんだ小田切謙明の妻豊次が分骨し、自家の墓地に埋葬した。墓石の裏面には「坂本龍馬室」と刻まれている。

「日本を今一度せんたくいたし申候」、坂本龍馬の決意

攘夷戦争

文久3年(1863年)、この頃の京都では急進的な尊攘派による「天誅」の嵐が吹き荒れ、幕府側とみられた者が相次いで暗殺された。彼らの背後には土佐藩の武市半平太、長州藩の久坂玄瑞、桂小五郎があり、過激な政治工作をもって朝廷を動かし、幕府に破約攘夷を命ずる勅使を派遣させることに成功した。

幕府は条約を結び開国した以上攘夷は現実的ではないと考えていた。だが勅命を無視するわけにもいかず、同年4月20日、将軍後見職の一橋慶喜は5月10日を攘夷期限とする旨を奏上した。

そして4月23日、幕府は各藩に対して「5月10日を攘夷期限とする。自国海岸の防御を厳重にし、来襲時には掃攘せよ」と布告したが、これは表向きのものであり実際に攘夷を実行するつもりはなかった。

だが期限当日の5月10日、攘夷の急先鋒である長州藩が豊前田ノ浦沖に停泊していたアメリカ商船ペンブローク号を砲撃し、さらに23日にフランス軍艦キンシャン号、25日にはオランダ軍艦メジュサ号と馬関海峡を通航する外国艦船に対して攻撃を開始した。

攻撃を予測していなかった外国艦船はほとんど応戦することなく逃走し、列強を打ち払い攘夷を達成した尊攘派は大いに湧きあがった。だが、この直後欧米列強の圧倒的な軍事力を見せつけられることになる。

6月1日、アメリカ軍艦ワイオミング号が先の砲撃の報復のため下関に来襲し、そのまま湾内に侵入して砲撃を開始した。圧倒的な火力で亀山砲台を沈黙させると応戦した長州藩軍艦庚申丸・壬戌丸を撃沈、葵亥丸を大破させ、悠々と立ち去った。

長州海軍はわずか一隻の軍艦により壊滅したのである。

続く5日には、フランス軍艦セミラミス号とタンクレード号が馬関海峡に侵入した。旗艦セミラミス号は猛砲撃を加えて湾岸の砲台を沈黙させ、艦砲援護のもと歩兵部隊を上陸させた。久坂玄瑞率いる光明寺党が抗戦したが撃退し、前田砲台を占拠した。フランス軍は大砲を破壊し、近隣の村落を焼き払い、引きあげていった。

日本を今一度せんたくいたし申候

この事件を知った坂本龍馬は、故郷の姉乙女に次のような手紙を書き送った。

『文久三年六月二十九日 坂本乙女宛』
  この文ハ極大事の事計ニて、
  けしてべちゃべちゃシヤベクリにハ、
  ホホヲホホヲいややの、けして見せられるぞへ。
六月廿日あまりいくかかけふのひハ忘れたり。一筆さしあげ申候。先日杉の方より御書拝見仕候。ありがたし。
私事も、此せつハよほどめをいだし、一大藩、ひとつのををきな大名、によくよく心中を見込てたのみにせられ、今何事かでき候得バ、二三百人計ハ私し預候得バ、人数きまゝにつかひ申候よふ相成、金子などハ少し入よふなれバ、十、廿両の事は誠に心やすくでき申候。
然ニ誠になげくべき事ハながとの国に軍初り、後月より六度の戦に日本甚利すくなく、あきれはてたる事ハ、其長州でたたかいたる船を江戸でしふくいたし 又長州でたたかい申候。
是皆姦吏の夷人と内通いたし候ものニて候。右の姦吏などハよほど勢もこれあり、大勢ニて候へども、龍馬二三家の大名とやくそくをかたくし、同志をつのり、朝廷より先ヅ神州をたもつの大本をたて、夫より江戸の同志はたもと大名其余段と心を合セ、右申所の姦吏を一事に軍いたし打殺、日本を今一度せんたくいたし申候事ニいたすべくとの神願ニて候。此思付を大藩にもすこむる同意して、使者を内内下サルル事両度。
然ニ龍馬すこしもつかへをもとめず。実に天下に人ぶつのなき事これを以てしるべく、なげくべし。
○先日下され候御文の内にぼふずになり、山のをくへでもはいりたしとの事聞へ、ハイハイヱヘンをもしろき事兼而思ひ付おり申候。
今時ハ四方そふぞしく候得ども、其ぼふずになり太極極のくされくされたルけさごろもをかたにかけ、諸国あんぎやにでかけ候得バ、西ハながさきより東ハまつまへよりヱゾまでもなんでもなく、道中銀ハ一文も用意におよばす。
それをやろふと思へバ先つねのシンゴンしうのよむかんをんきよふイツカヲしうのよむあみだきよふ、これハちとふしがありてむかしけれど、どこの国ももんとがはやり申候あいだ、ぜひよまねバいかんぞよ。おもしろやおもしろや、をかしやをかしや。
夫よりつねにあまのよむきよふ一部、それでしんごんの所へいけバしんごんのきよふ、いつかふしうゑいけバいつかふしうのきよふをよみ、これハとまるやどの事ニて候。ほふだんのしんらんしよふにんのありがたきおはなしなどする也。いたし、まちを。ひる。おふらい。すれバきよふよみよみゆけバ、ぜにハ十分とれるなり。
これをぜひやれバ。しつかり。をもしろかろふと思ひ申候。なんのうきよハ三文五厘よ。ぶんと。へのなる。ほど。やつて見よ。死だら野べのこつハ白石、チチリやチリチリ、此事ハ必〃一人リでおもい立事のけして相ならず候。一人リでいたりやこそ、龍ハはやしぬるやらしれんきにすぐにとりつく。
それハそれハおそーしいめを見るぞよ。これをやろふと思へバよく人の心を見さだめなくてハいかん。おまへもまだわかすぎるかと思ふよ。又けしてきりよふのよき人をつれになりたりいたしたれバならぬ事なり。ごつごついたしたるがふぢよふばんバのつよばんバでなけれバいかん。たんほふ。をバ。さんゑぶくろの。内にいれ、二人か三人かででかけ万〃一の時ハ、グワンとやいて、とふぞくの金玉までひきたくり申候。
○私しおけしてながくあるものとおぼしめしハやくたいニて候。
然ニ人並のよふに中中めつたに死なふぞふぞ。私が死日ハ天下大変にて生ておりてもやくにたたず、おろんともたたぬよふニならねバ、中中こすいいやなやつで死ハせぬ。
然ニ土佐のいもほりともなんともいわれぬ、いそふろふに生て、一人の力で天下うごかすべきハ、是又天よりする事なり。かふ申てもけしてけしてつけあがりハせず、ますますすみかふて、どろの中のすずめがいのよふに、常につちをはなのさきゑつけ、すなをあたまへかぶりおり申候。
御安心なされかし。
  穴かしこや。
  弟 直陰
大姉 足下
今日ハ後でうけたまハれバ六月廿九日のよし。天下第一おふあらくれ先生を初めたてまつり、きくめ石の御君ニもよろしく、むバにもすこしきくめいしの下女とくますやへいてをりたにしざいごのこんやのむすめにもよろしく、そして平井の収次郎ハ誠にむごいむごい。いもふとおかをなげきいか計か、ひとふで私のよふすなど咄してきかしたい。
まだに少しハきづかいもする。
  かしこ。
しもまちのまめそふも、もをこわれハせんかへ
 けんごなりや、なをかしい。

龍馬は、「長州藩を攻撃した軍艦を、幕府の役人が江戸で修復し、再び長州藩と戦った」ことに怒り、列強と内通する売国行為であると激しく非難した。そして、このままでは日本は列強の餌食となり、日本の再生のためには「幕府の姦吏を打ち殺し、日本を今一度洗濯する」必要があると主張した。

さらに、自分は「土佐の芋掘り」で居候に過ぎないが、一人の力で天下を動かす天命がある。しかし決して増長せず、「泥の中のすずめ貝」のように頭に泥をかぶり、常に土に鼻の先につけて、謙虚の心を忘れていないので安心してくださいと自覚と自戒を語っている。

馬関戦争

先の報復砲撃の惨敗後、長州藩は隠棲中の高杉晋作を起用し、その進言により「奇兵隊」が結成された。奇兵とは正規兵に対するもので、足軽のほか百姓・商人・町人などで組織されていた。また郷土防衛意識から、自発的に様々な諸隊が結成された。

そしてさらに砲台を増強し、馬関海峡を通る外国艦船に対して砲撃を加える強硬な姿勢を崩すことはなかった。

これに業を煮やした欧米列強は攘夷主義を粉砕するため、元治元年(1864年)4月、イギリス公使オールコックの主導のもと四国艦隊(イギリス・アメリカ・フランス・オランダ)が編成され、軍艦17隻、兵員約5000人にものぼる大戦力で下関に集結した。

この事態を知った長州藩士伊藤俊輔と井上聞多は留学先のイギリスから急きょ帰国し、戦争の回避に奔走した。2人は藩主毛利敬親および藩首脳部の説得を試みたが、攘夷に熱狂した藩の方針は変わらなかった。

8月5日、遂に戦闘が開始され、四国艦隊は長州藩の主力である前田砲台・壇ノ浦に集中砲撃を加えた。前田砲台を防衛する奇兵隊総督赤根武人も奮戦したが、圧倒的な火力の前に為す術もなく、砲台は粉砕され前田砲台は沈黙した。

そして、四国艦隊は陸戦部隊を前田砲台近くに上陸させ、砲台を占領して大砲を徹底的に破壊した。この時一部の大砲を戦利品として本国に持ち去っている。

翌6日朝、壇ノ浦砲台を守備していた奇兵隊軍監山県狂介は砲台の射程内で投錨していた敵艦を発見し砲撃を加えた。一時的に混乱した四国艦隊だがすぐに体勢をを立て直すと砲撃で応戦し、前田海岸に陸戦隊を上陸させ壇ノ浦砲台を占領した。

7日、四国艦隊は彦島の砲台を集中攻撃し、8日までに長州藩の砲台はことごとく破壊された。

長州藩はこれ以上の戦闘は不可能と判断とし、脱藩罪で謹慎中だった高杉晋作を再び起用し、休戦交渉の使者に任じた。高杉は筆頭家老宍戸備前の養子・宍戸刑馬と名のり、四国艦隊旗艦ユーリアス号に乗り込み司令官キューパーとの講和会議にのぞんだ。

そして14日、長州藩は馬関海峡通航の保証、水・食料・石炭の補給、賠償金の支払いを認めて、講和が成立した。なお賠償金300万ドルは、「攘夷は幕府の命令で実行したもので、支払いの責任は幕府にある」と長州藩が主張し、四国連合と幕府が交渉した結果、幕府が支払うことになった。

この戦争で惨敗を喫した長州藩は攘夷が無謀であることを悟り、以後開国へと傾き、他藩にさきがけて近代技術を取り入れる方向へと転換した。だが藩内では討幕を目指す尊攘派は没落し、幕府に恭順する保守派が主導権を握ることになった。

坂本龍馬、藩命による本国召還を無視し再び脱藩

帰国命令

文久3年(1863年)10月、坂本龍馬は神戸海軍塾寄宿舎の塾頭に任命され、海軍修行に励む日々を送っていた。ところが10月中旬突然、土佐藩庁から龍馬ら海軍修行生に対し、本国召還の命令が下された。

これは8月18日におこった政変により京都から尊攘派が一掃され、公武合体派が政局を握ることになった結果、土佐藩の藩論も一変し、前藩主山内容堂による土佐勤王党への弾圧が本格的に始まったからであった。

八月十八日の政変

文久3年(1863年)8月18日早朝、京都御所は京都守護職松平容保の会津藩、京都所司代稲葉正邦の淀藩、および薩摩藩の兵で固められた。そして公武合体派の公卿、在京諸藩主を集めた御前会議が開かれ、大和行幸の中止・尊攘派公卿の参内禁止・長州藩の御所守衛罷免と京都追放が決定された。

この事件は、大和行幸を名目に討幕を画策する尊攘派勢力に対抗するため薩摩・会津両藩が中川宮朝彦親王らと連携し、孝明天皇の承認のもとに決行した政変である。

当時、急進的な破約攘夷を主張する尊攘派勢力は天誅をもって政局を支配しており、遂に8月13日には孝明天皇の大和行幸の詔が出された。これは攘夷親征のために天皇が自ら出陣することであり、朝廷と幕府を対立をあおり戦わせることを目論むものであった。

こうした事態の中で薩摩・会津藩は手を結び、公武合体派公卿と連帯して八月十八日の政変をおこし、尊攘派勢力は京都から一掃された。三条実美ら七人の尊攘派公卿、真木和泉ら草莽志士は長州藩士と共に長州へと落ち延びていった。

天誅組の変

八月十八日の政変により真っ先に窮地に立たされたのが天誅組だった。

天誅組は土佐の吉村寅太郎、備前の藤本鉄石、三河の松本奎堂が公卿中山忠光を主将に擁して結成した尊攘浪士隊であり、大和行幸・攘夷親征の先鋒になるべく、前日の17日に五条代官所を襲撃した。

天誅組は代官鈴木源内を梟首し、五条を天朝直轄地として年貢を半減することを宣言した。ところが、京都の政変で大和行幸は中止となり、挙兵の大義名分を失った天誅組は孤立し、一転賊軍として幕府から追討されることになった。

天下の尊攘志士たちに討幕の号令をあげるため、十津川郷士の協力を得て高取城の攻略を試みるが、天誅組は潰走して五条へ退却した。

その後、幕府軍約1万3千の追討を受けながら吉野各地を転戦し血路を開こうとしが、9月24日、東吉野村鷲家口で包囲された。激戦の末に脱出できたのは中山忠光ら数名で、吉村、藤本、松本らが討死し、天誅組は壊滅した。

土佐勤王党弾圧

土佐藩の全権をにぎる前藩主山内容堂は、表向きは尊皇攘夷論に理解を示していたが内心では公武合体・雄藩連合を考え、武市半平太率いる土佐勤王党の活動を苦々しく思っていた。

文久3年(1863年)1月、江戸から上京した容堂は藩士たちの活動をいましめ、他藩士との自由な交際を禁じる訓示をおこない、平井収二郎の他藩応接役を解任し帰国させた。さらに公用以外に修行の名目で他藩へ出ることを禁止し、勤王党の活動を封じ込めた。

また同年6月8日には、前年12月に青蓮院宮に令旨を出させて帰国し、それをタテに隠居山内豊資に勤王の藩政改革を迫った間崎哲馬、平井収二郎、広瀬健太の3人に対し、藩の秩序を乱す不届き者であるとして切腹を命じた。

容堂が3人を処刑したものの武市ら土佐勤王党一派を処断しなかったのは、その活動を容認したからではなく、尊王攘夷論を唱える長州藩が京都の政局を握っていたからであった。

そのため京都で長州藩勢力が駆逐されたという報が土佐に伝わると、容堂は土佐の尊攘勢力を根絶すべく、9月21日、首領の武市半平太をはじめ島村衛吉、河野万寿弥ら勤王党の幹部を一斉に捕縛投獄した。身の危険を感じた勤王党員たちは相次いで脱藩し、多くは長州藩に身をよせた。

容堂は故吉田東洋派の後藤象二郎、福岡藤次らを要職に復帰させ、吉田東洋暗殺事件を明らかにするため勤王党員への厳しい尋問が始まった。勤王党員は拷問を受け、獄死する者もあったが、口を割る者はなく武市も東洋暗殺を否認し続けた。

武市はおよそ2年に渡り獄舎に囚われたのち、慶応元年(1865年)閏5月11日、主君に対する不敬罪で切腹を命じられた。武市は三文字に割腹して果て、ここに土佐勤王党は壊滅した。

2度目の脱藩

勤王党弾圧を決定した土佐藩庁の追及の手は、龍馬ら海軍修行生のもとにまで及び、そのことが『勝海舟日誌』の10月12日の条に次のようにある。

『勝海舟日誌』
門生千屋、望月来る。聞く、土州にても武市半平太の輩逼塞(ひっそく)せられ、其党憤慨大いに動揺す、且寄合私語する者は必ず捕へられ打殺さる。故に過激暴論の徒長州へ脱走する者三十人計り、また此地に潜居する徒を厳に捕へ、或は帰国を申渡すと云ふ。

こうした事態の中、龍馬たちの身を案じた勝海舟は、12月6日に塾生は「別段憤発勉励している」として土佐藩庁に修業の延期を求めたが、藩庁はこれを拒絶した。

帰国すれば投獄されることは確実であり、龍馬は藩命を無視し再び脱藩の身となった。同じように高松太郎、近藤長次郎、沢村惣之丞、千屋寅之助、新宮馬之助、望月亀弥太も脱藩した。

四時軒訪問

元治元年(1864年)2月9日、幕命を受けた勝海舟は英米仏蘭の四国艦隊による長州藩への報復攻撃を調停するため長崎に出張した。23日、海舟は長崎に到着し、オランダ・アメリカ・イギリスの領事、司令官と交渉した。

だが、彼らは攘夷の粉砕を重要視していたため馬関砲撃の強硬な姿勢を崩すことなく、結局交渉は不調に終わった。なお、随行していた龍馬は海舟の使者として、2月下旬に熊本沼山津の横井小楠を訪問した。

当時小楠は士道忘却事件により越前藩から熊本藩へと身柄が引き渡され、士籍剥奪の処分を受けて閉居中の身であった。龍馬は海舟からの見舞いの金品をおくり、神戸海軍操練所の近況を伝えた。この後、小楠は海軍強化論をまとめた『海軍問答書』を書きあげ、長崎の海舟のもとへ送っている。

また、4月6日に龍馬は再び小楠のもとを訪れ、この時の会談で「坂本君、君は乱臣賊子とならぬよう気をつけるがいい」と忠告を受けたという逸話がある。熊本を去る時、龍馬は小楠の依頼で横井左平太・大平を神戸海軍操練所に連れ帰った。

幕府、浪人の巣窟であるとして神戸海軍操練所を廃止

神戸海軍操練所の廃止

元治元年(1864年)5月14日、勝海舟は軍艦奉行に昇進し、従五位下安房守に叙せられた。そして、同月29日、神戸海軍操練所が完成し、広く諸藩から修行生の募集がおこなわれた。

京都・大坂・奈良・堺などに住む旗本や御家人だけでなく、四国・九州などの諸藩士にいたるまで、海軍の志がある者は修行に参加することが許され、集まった修行生は200名程であった。

ところが、開設後1年もたたずに、慶応元年(1865年)3月、神戸海軍操練所は廃止されることが決定された。

これは、前年(1864)6月5日の池田屋事件に望月亀弥太、7月18日の禁門の変に安岡金馬ら塾生が加担していたことが発覚し、幕府首脳から「勝海舟は神戸で討幕の浪士を養っている」という嫌疑をかけられたからであった。

『氷川清話』
塾生の中には、諸藩の浪人が多くて、薩摩のあばれものもたくさんいたが、坂本龍馬がその塾頭であった。当時のあばれもので、今は海軍の軍人になっているものが、ずいぶんあるよ。しかるに幕府の役人からは、勝は海軍を起こし、地所を買い入れ、薩州のあばれものや、諸藩の浪人を集めて、そして彼らもまた喜んで勝に服しているというのは、何かわけがあるのであろうなどと、ひどく憎まれて、とうとうしまいには、江戸の氷川へ閉門を命ぜられ、地所などもいっさい取り上げられてしまったよ。

池田屋事件

元治元年(1864年)6月5日早朝、京都の治安維持をおこなっていた新選組は、かねてから内偵を進めていた四条小橋の商人桝屋喜右衛門を逮捕し、その屋敷を捜索した結果、多数の武器弾薬の他に尊攘浪士の密書を発見した。

壬生に連行された桝屋は厳しい拷問の末、「桝屋喜右衛門の正体は古高俊太郎。風の強い日を選んで御所を放火し、その混乱に乗じて京都守護職松平容保と中川宮朝彦親王を殺害し、孝明天皇を長州へ連れ去る計画がある」ことを白状した。

局長近藤勇は黒谷の会津藩本陣に急報し、藩主松平容保に出勤を要請した。容保は藩兵の出動を決断し、禁裏御守衛総督の一橋慶喜、京都所司代の松平定敬(実弟)と協議し、当日夜五ツ(21時頃)に祇園会所に集結することを取り決めた。

一方、古高逮捕を知った尊攘志士たちは長州藩邸に集まり、新選組の屯所を襲撃して古高を奪還する計画を立てたが、軽挙妄動は慎むべしという意見もあり、急きょ三条小橋西の旅宿池田屋で会合を開き、善後策を協議することになった。

当夜、祇園会所に集合した新選組は武装を整え、会津・桑名藩兵の合流を待っていたが、近藤は新選組単独で1時間早く探索することを決断した。しかし、尊攘浪士の潜伏先は依然として不明で、隊を近藤勇隊10名と土方歳三隊24名の二手に分け、三条・四条通間の旅宿の捜索を開始した。

22時頃、近藤隊は池田屋にたどり着き、近藤は手はず通り隊士たちに表裏口を固めさせ、沖田総司、永倉新八、藤堂平助を率いて表口から踏み込み、御用改めである旨を告げた。

新選組の姿を見た亭主惣兵衛は動揺し、奥の裏階段から2階の客人に事態を知らせようとした。近藤は、永倉と藤堂を1階に待機させ、沖田と共に裏階段を駆け上がり、会合中の尊攘浪士たちを発見し乱戦となった。

新選組と尊攘浪士の激闘は2時間に渡り、新選組は北添佶摩、宮部鼎蔵、吉田稔麿、杉山松助、松田重助、大高又次郎、石川潤次郎らを討ち取り、20余名を捕縛するという戦果を挙げ、天下にその名を轟かせた。

この事件を知った勝海舟は、6月24日付の日記に「此時に当り、京師、当月五日、浮浪殺戮の挙あり。壬生浪士輩、輿の余り無辜(罪の無い者)を殺し、土州の藩士、又、我が学僕望月生などこの災に逢う」と記している。

禁門の変

池田屋の変の一報を受けた長州藩の尊攘志士たちは憤激し、元治元年(1864年)6月15日、福原越後、益田右衛門介、国司信濃の三家老を筆頭に来島又兵衛、久坂玄瑞、真木和泉が約2000の軍勢を率いて京都へ出発した。

長州軍は京都を包囲するように、伏見長州藩邸に福原、山崎天王山に久坂、真木、嵯峨天龍寺に国司、来島、八幡に益田が布陣し、藩主親子及び七卿の赦免を朝廷に要求した。

動揺した公卿たちは要求を受け入れようとしたが、禁裏守衛総督の一橋慶喜は長州軍の撤兵を強く主張したため、嘆願は拒絶され、退去勧告が発せられた。長州藩も目的が達せられないまま引きあげるわけにはいかず、戦闘は裂け難いものとなった。

そして7月19日未明、長州軍は直接天皇に嘆願するため、三方から御所を目指して進軍を開始した。まず、福原率いる一軍が、伏見街道を北上し京都市街に侵入を試みたが、途中、大垣藩と衝突し敗れ、山崎へと撤退した。

幕府軍はこの福原隊を主力とみていたため、嵯峨方面から進軍した国司の一軍は京都市内への侵攻に成功した。そして、軍勢を二手に分け中立売御門・蛤御門に攻めかかり、すさまじい攻撃で会津・一橋軍を圧倒し、各門を突破し内部に突入した。

長州軍は一時は御所内にまで迫ったが、乾御門から駆けつけた西郷吉之助率いる薩摩軍の加勢により戦況は一転。激戦の中、来島が胸を撃ちぬかれ戦死し、指揮官を失った長州軍は猛攻を受けきれず壊走した。

この時、天王山を進軍した久坂・真木率いる一軍が堺町御門に到着したが、すでに長州軍は壊滅したあとだった。久坂隊は鷹司邸に立てこもり交戦したが、すぐに屋敷に火が放たれ、幕府の大軍に包囲された。

久坂は同じ吉田松陰門下の寺島忠三郎と共に自刃し、真木はわずかな兵と共に天王山へと落ち延びた。長州軍は国もとへ退却したが、真木は浪士16人と共に立てこもり、21日に全員自刃した。

勝海舟の失脚

池田屋事件、禁門の変と過激尊攘浪士による反乱が続いた結果、元治元年(1864)9月17日、幕府は浪士探索のため海軍修行生の素性を調査する内糺をおこない、勝海舟門下生の姓名、出身地などの取り調べを開始した。

こうした状況の中、海舟が観光丸乗組員のための防寒毛布を大量に購入したことが発覚し、浪士をかくまうためのもではないかとの疑いをかけられ、幕府内部の反勝勢力から激しい非難を受けることになった。

海舟日記には、「九月十九日、神戸塾中ノ姓名出所ヲ探索セラル。是レ蓋シ激徒ノ巣窟ニ似タルヲ以テ嫌疑ヲ蒙リシナリ。十月、小野浜ニ碑石ヲ建テ鴻基ノ記念トス。明年其ノ事廃セラレ碑石ヲ深ク土中ニ埋ム」とある。

そして10月22日、幕府は海舟を江戸に召還する命令を下し、11月22日に軍艦奉行職職を罷免し、謹慎処分を申し渡した。海舟の失脚により坂本龍馬ら神戸海軍塾生たちは唯一の居場所を失い、幕府の浪人狩りから逃れるため各地に潜伏した。

『千屋金策の手記』
勝先生塾
呼返に付送て在江戸 坂本龍馬
在神 千屋寅之助
新宮馬之助
呼返に付潜むて在浪花 高松太郎
在神戸 近藤長次郎
在江戸 沢村惣之丞
勝安房守先生諸藩脱走者を養ひ、時々浮浪生出入致候に付、兼々幕府其余薩会等より嫌疑を受け居候所、当月上旬関東へ呼寄せられ、終に役職御免之上壱千石削られ、本の百俵になる。嗚呼幕府之奸政可悪可歎。
右に付脱走之書生身を容るる所なく殆んど窮迫、其書生と申ても不鮮、是物議を生ずる基なるべし。正儀人々欺相成候は、幕の自滅、神州の不幸にて御座候。孝成

龍馬ら塾生の身を案じた海舟は神戸を去る際、薩摩藩の西郷吉之助にその身柄の保護を依頼した。海舟と西郷は、この年(1864)の9月11日に初会談をおこなっており、両者は面識があった。

この時の会談で海舟は、幕府による統治が限界にある事情を告げ、開明派の大名4、5人による共和政治をおこない、国内体制を強化した上で開国し、諸外国と談判し条約を結ぶべきであると説いた。幕臣である海舟の意見に西郷は驚きながらも感服し、薩摩藩の立場を幕府寄りの公武合体から雄藩連合の強化へと転換させる契機となった。

海舟の依頼を受けた西郷は城代家老小松帯刀と相談の上承諾し、龍馬ら一同を大坂の藩邸にかくまうことを決めた。薩摩藩が龍馬たちを受け入れたのは、彼らの持つ海軍技術を薩摩藩のために役立たせようとする考えがあったからであった。

『元治元年(1864)十月頃、小松帯刀の手紙 大久保一蔵宛』
神戸勝方へ罷在候土州人、異船借用いたし航海の企これあり、坂本龍馬と申す人、関東へ罷下り借用の都合致し候処、能く談判も相つき候よし。
[中略]
右辺浪人体の者を以て、航海の手先に使い候得ば、よろしかるべしと西郷杯と在京中相談も致し候間、大坂屋敷へ内々相潜め置候。

西郷吉之助

元治元年(1864年)8月頃、龍馬は勝海舟が賞賛する西郷吉之助に興味を抱き、「先生は、しばしば西郷の人物を賞せられるから、拙者も行って会ってくるにより添え書きを下さい」と頼み、会う機会を得た。

薩摩藩邸から戻ってきた龍馬に、海舟が西郷の人物をたずねると、「なるほど西郷という奴はわからぬ奴だ。少し叩けば少し響き、大きく叩けば大きく響く。もし馬鹿なら大きな馬鹿で、利口なら大きな利口だろう」と答えた。

これを聞いた海舟は龍馬の西郷評に満足したようで、「坂本もなかなか鑑識のある奴だよ」と語り残している(『氷川清話』)。

坂本龍馬、薩摩藩の支援を受け長崎に「亀山社中」を設立

薩長和解

慶応元年(1865年)4月5日、神戸海軍操練所が解散し京都薩摩藩邸に身を寄せていた坂本龍馬は、薩摩藩士吉井幸輔の止宿先で同郷の土方楠左衛門と会い、時勢を論じた。

土方は尊攘派公卿三条実美の衛士をつとめており、三条が八月十八日の政変で京都を去った時、これに随従して長州に行き、のち筑前太宰府に移された時も従っていた。この時は三条の内命で中岡慎太郎と共に上京して京都の情勢を探っていたのである。

土方と中岡は前年の禁門の変で一橋・会津・桑名藩と手を組み、幕府に加担した薩摩藩に失望していた。だが長州征伐後、尊攘派公卿を筑前藩に移す周旋にあたった西郷吉之助と会談した際、「長州再征は幕府の私戦であり、薩摩は出兵に断然と拒否する」という考えを知り、薩長和解に希望をいだいていた。

雄藩連合を考える西郷は前年(1864年)幕府が35藩計15万の兵を動員した長州征伐の調停にあたり、長州藩主毛利侯の謝罪、急進派三家老の斬首、四参謀の斬罪による処分で決着をはかっていた。だがこの処分に不満を持った幕府は長州藩への徹底的な処置を考え、第二次征長の計画を進めていた。

彼らはこうした事態を打開するためには薩長連合策は不可欠であると考え、土方からこの策を打ち明けられた龍馬は賛同し、共に周旋すること約束した。

薩長の和解に向けて動きだした龍馬は、神戸海軍塾の同志と共に薩摩に旅立った。これは国もとの藩主島津久光を説くために帰国する西郷吉之助、小松帯刀に同行したもので、4月25日に薩摩藩船胡蝶丸に乗り込み、大坂を出発した。

5月1日、船は鹿児島に到着し、龍馬は半月ほど薩摩に滞在した。その間、西郷は藩主および重臣を説得し、藩論を薩長和解に固めた。そして、5月16日、龍馬は鹿児島を出発し、筑前太宰府に向かった。途中、熊本沼山津の横井小楠訪問をたずね、同月23日、大宰府に到着した。

当時、大宰府には政変で京都を追われた三条実美、三条西季知、四条隆謌、東久世通禧、壬生基修の五卿が滞在していた。龍馬は、24日に三条、25日に東久世と面会し、東久世は龍馬の印象を次のように書き記している。

五月廿五日 土州藩坂本龍馬面会、偉人なり、奇説家なり。

龍馬は太宰府に5日ほど滞在し、五卿に薩長和解の必要性を説いたのち、5月28日、長州藩士小田村素太郎らと共に太宰府を出発し、閏5月1日に長州藩領下関に到着した。

破談

長州藩は前年の馬関戦争・禁門の変の惨敗後、尊攘派が没落し、椋梨藤太ら保守派が実権を握っていた。そのため幕府の長州征伐に対して、首謀者である三家老の切腹、山口城の破却、都落ちした五卿の他藩引渡しなどの条件を受け入れ、恭順をあらわしていた。

だが元治元年(1864年)12月16日、筑前に亡命していた高杉晋作が帰国し、俗論党(保守派)を打倒すべく、力士隊・遊撃隊の総勢80余名を率いて功山寺で挙兵した。高杉は電光石火の進軍で新地会所を占領すると、三田尻港を襲撃し軍艦を奪取した。

これに中立を保っていた奇兵隊および長州藩諸隊が決起し、さらに百姓・町人なども加わり、各地で俗論党軍を打ち破った。翌慶応元年(1865年)2月には椋梨藤太以下俗論党が一掃され、正義党(尊攘派)が再び主導権を掌握した。

そして、3月に桂小五郎を中心とした政権が誕生し、表面では幕府に恭順する態度を示しながらも、幕府との戦いに備えて軍事力の再編強化を進める「武備恭順」の方針が決められた。

こうした情勢の中で龍馬は、閏5月5日、京都から来た土方楠左衛門と薩長和解の方策を打ち合わせた。そして翌6日に、桂と会談をおこない、鹿児島にいる中岡慎太郎が上京する西郷吉之助を連れて下関に立ち寄るので会ってもらいたいと説得し、その同意を得た。

ところが閏5月21日、下関にやって来たのは中岡だけであった。中岡の説明によると、西郷は豊後佐賀関までは来たが、京都からの急報があったとして下関には寄港せず、上京することになったという。中岡も懸命に説得したが西郷は聞かず、やむなく1人で来たとのことだった。

桂は激怒し、「僕は、もともと君たちの言葉を疑っていたのだ。やはりその通りなったではないか」と立ち去ろうとした。そこで龍馬は、薩長和解のためには実質的な結びつきが第一であると考え、薩摩藩の名義をもって長州藩のために軍艦・武器を購入する和解案を提案した。

この当時長州藩は幕府との決戦に備え、西洋式武器の増強に迫られていたが、表立って長崎で貿易をすることができなかったのである。そのため、桂は龍馬の提案を受け入れ、再び薩長和解に尽力することを約束した。

亀山社中の設立

龍馬が桂小五郎に提案した長州藩への武器購入の周旋は、幕府の長州藩に対する経済封鎖下において困難な仕事であったが、ここで重要な役割をはたしたのが「亀山社中」である。

亀山社中は、龍馬の意を受けた神戸海軍塾の同志が、小松帯刀に随行して長崎を訪問した際、薩摩藩と豪商小曽根乾堂の援助を受けて設立した組織である。龍馬はこの社中を交易の仲介や物資の輸送で利益を上げる商社として、藩から独立して運営することを目指していた。

亀山社中の活動を伝えるものとして、慶応元年(1865)9月9日付で京都から姉乙女に宛てた手紙がある。

『慶応元年九月九日 坂本乙女、おやべ宛』
私共とともニ致し候て、盛んなるハ二丁目赤づら馬之助、水道通横町の長次郎、高松太郎、望月ハ死タリ。此者ら廿人斗の同志引きつれ、今長崎の方ニ出、稽古方仕リ候。御国より出しものの内一人西洋イギリス学問所ニいりおり候。日本よりハ三十計も渡り候て、共ニ稽古致し候よし。実ニ盛なる事なり。
私しハ一人天下をへめぐり、よろしき時ハ諸国人数を引きつれ、一時ニはたあげすべしとて、今京ニありけれども五六日の内又西に行つもりなり。然共下さるるものなれバ、ふしみ宝來寺田や伊助まで下され候よふ御ねんじなり。じつにおくにのよふな所ニて、何の志ざしもなき所ニぐずぐずして日を送ハ、実ニ大馬鹿ものなり。

かへすがえすも今日ハ九月節句とて、おやべがこんぺいとふのいがたが、おしろいにてふさがり候こと察いり候。ねこおいだき西のをくのゑんニて、ひなたぼつこふ大口計ヘヘラヘヘラさつしいり候。
  乙大姉ニ申奉ル。
扨、先日文さしあげ候。よろしく御らん可被遣候。
○ちかごろおんめんどふニ候得ども、実におねがいニ候間、御聞込つかハされ。
あのわたくしがをりし茶ざしきの西のをしこみ書物箱がありし、其中ニいかにも、こげしかきがみか、のひよふしかかり候、小笠原流諸礼の書十本計、ほんのあつさハ一分二分計の本のあつさニて候。此頃あるかたより諸礼の書求くれよとあり候得ども、どふもこれなく、あれでなけれバどふもなり不申候。かならずかならずめんどふとうちすておかずニ御こしつかハされたくねんじ候。
  是よりおやべどんニ
  もふす。
近頃御めんどふおんねがいニ候。扨、わたしがお国ニおりし頃ニハ、吉村三太と申もの頭のはげたわかいしゆこれあり候。これがもち候哥本、新葉集とて南朝、楠木正成公などのころよしのニて出来しうたのほん也。、にてできし本あり。これがほしくて京都にて色色求候得ども、一向手ニいらず候間、かの吉村より御かりもとめなされ、おまへのだんなさんにおんうつさせ、おんねがい被成、何卒急ニ御こし可被下候。
上申上候乙大姉えの御頼の本、又おやべより被下候本ハ、入道盈進までおんこし被成候時ハ私までとどき候。
もし入道盈進がおくにニかへり候時ハ、伏見ニておやしきのそバニ宝来橋と申へんに船やどニて寺田や伊助、又其へんニ京橋有、日野屋孫兵衛と申ものあり。これハはたごやニて候。
此両家なれバちよふど私がお国ニて安田順蔵さんのうちニおるよふな、こころもちニており候事ニ候て、又あちらよりもおおいにかわいがりくれ候間、此方へ薩州様西郷伊三郎と御あてのて、品ものニても、手がみニてもおんこし被遣候時ハ、私ニとどき候。かしこ。
 九月九日  龍
  おやべさん
[後略]

赤づら馬之助とは新宮馬之助のことでのちに寺内信左衛門と改名した。水道通横町の長次郎は近藤長次郎で上杉宋次郎と改めた。高松太郎(多賀松太郎が変名)は姉千鶴の長男である。

これに菅野覚兵衛と改名した千屋寅之助、関雄之助と改名した沢村惣之丞、石田英吉、中島作太郎、池内蔵太、山本復輔を加えたものが土佐出身である。

その他に越前の渡辺剛八、小谷耕造、腰越次郎、越後の白峰駿馬、橋本久太夫、讃岐の佐柳高次、因幡の黒木小太郎、そして紀州の陸奥陽之助(伊達小次郎)らが亀山社中に参加していた。

給料は三両二分

亀山社中の運営には薩摩藩の西郷吉之助や小松帯刀の援助があり、薩摩藩から月に3両2分(約17万円)が支給されていた。慶応2年(1866)の『坂本龍馬手帖』には、次のような受領証の下書きが記入されている。

『坂本龍馬手帖』
三両二分也。
坂本龍馬 寺内新右門 多賀松太郎
菅野覚兵衛 白峯駿馬 陸奥元次郎
関 雄之助
右ハ当月何月分慥ニ頂戴仕候。以上。
  関 雄之助印
 寅何月何日
印鑑○関雄之助
右ハ印鑑を以て坂、寺、多賀、菅、白、陸、関七人之分、毎月三日壱人当三両弐分宛頂戴仕候。以上。

亀山社中、薩摩藩から名義を借り長州藩の武器購入を周旋

亀山社中の活躍

慶応元年(1865年)6月29日、坂本龍馬と中岡慎太郎は京都薩摩藩邸におもむき、西郷吉之助と会談をおこなった。龍馬は先の違約をただし、長州藩が軍艦・武器を購入するための名義貸しを申し入れた。

西郷はただちに了承し、龍馬はこの旨を長州藩に伝えると長崎の亀山社中に武器購入の周旋を指示した。そして7月21日、長州藩から伊藤俊輔と井上聞多が長崎に派遣され、上杉宋次郎(近藤長次郎)が2人を薩摩藩の小松帯刀に引き合わせた。

この時、小松は新しく購入した海門丸で帰国する際であったので、上杉の提案により両藩友好のため井上が同行することになった。井上は上杉と共に鹿児島を訪れ、薩摩藩家老と面会し、薩長連合について意見を交わした。

長崎に残った伊藤は、8月中旬、亀山社中の高松太郎の周旋でイギリス商人トーマス・グラバーから、ミニエー銃4300挺、ゲベール銃3000挺を9万2千4百両で買い付けることに成功した。

8月20日、井上と上杉が長崎に戻り、伊藤が購入していた大量の銃器は小松の手配により薩摩藩船胡蝶丸が下関へ運び、8月下旬に長州藩へと引き渡された。

この頃、龍馬は長州藩士小田村素太郎と共に山口を訪れ、参政広沢藤右衛門らの接待を受け、西郷から依頼された兵糧米の調達を長州藩に要請した。交渉の末、5百俵の供給に成功し、藩庁は下関に滞在する桂小五郎に兵糧米の調達を命じた。

龍馬は西郷に兵糧米の調達が解決したことを伝え、12月初旬、薩摩藩は返礼の使者として黒田了介らを山口に派遣し、薩摩藩の誠意を長州藩諸隊に弁明した。

龍馬はこうした経済的な結びつきによって、薩長両藩の感情的な障壁を取り除いていったのであった。

桜島丸問題

長州藩から軍艦購入を依頼された上杉宋次郎は薩摩藩官吏の説得に尽力し、ついに慶応元年(1865年)10月18日、軍艦ユニオン号をグラバー商会から3万7千5百両で購入した。

この船は桜島丸と命名され、上杉と井上聞多との間で桜島丸条約が結ばれ、「船価は長州藩が支払い、名義は薩摩藩とし、その運営は亀山社中がおこなう」ことが取り決められた。

『桜島丸条約』
桜島丸条約
一、 旗号は薩州候御拝借之筈
一、 乗組之者は多賀松太郎、菅野覚兵衛、寺内信左衛門、白峰駿馬、前河内愛之助、水夫火焚従来召連之者を以航海仕り候筈
尤御国よりは士官二人乗組可申筈、其他水夫火焚等不足之分は加入申筈
一、 船中賞罰之権士官共承可申筈
但始て馬関到着之節前河内愛之助、上杉宋次郎、井上氏へ対座之節御国之御方と雖も無差別御作配申候様御沙汰有之候事
一、 六百両金子は士官共預り可申筈
右之者前河内愛之助、多賀松太郎、上杉宋次郎三人井上氏へ対談之節極候事。其仔細は兼て商売之権は士官共承候筈之処、俗事方乗組に相成筈に相定候に依て右様相極候事
一、 船中諸修覆食料薪水等、士官水夫火焚等之給料、其他総て之雑費は御国より御賄之筈
一、 御国御用明之節は薩州侯御用向相弁可申筈
右六条は御国産物当時諸国御差閊に付、薩州侯御章御拝借之上、社中乗組候様御頼に付、右之次第盟約に相極候事
 慶応元丑十二月  上杉宋次郎
 中島四郎殿
 坂本龍馬殿

ところが、この桜島丸条約は上杉と井上の間で結ばれた秘密条約であり、このことを知った長州藩海軍局は強く反対した。これに対し上杉は井上との約束をタテに亀山社中による運営を主張し、遂には船価未払いを理由に約束の履行を迫った。

最終的に龍馬と海軍局総官の中島四郎が話し合いをおこない、先の条約を破棄し、新たに桜島丸改訂条約が結ばれた。これにより亀山社中に関する部分は削除され、ユニオン号の運営は長州藩海軍局の所属となり、船名も乙丑丸と改名することが決められた。

『桜島丸改訂条約』
約 束
一、 旗号は薩州候御章拝借之事
一、 毎日之事務当番士官関轄勿論に候得共、賞罰其外有廉事件は総管へ御相談之事
一、 薩州より御乗込之士官月俸只今迄之通相定候事
一、 水夫火焚等薩州におゐて被相定候通有之候得共、以後働に応じ差引可致候事
一、 商用之儀持荷方より一人乗組取捌之儀に付船中一統関係不致候得共、積荷出入等之儀は当番士官へ相談之事
一、 当船之儀は海軍局規則外たりといへ共、大略海軍学校之定則に従度事
一、 碇船中其外一統月俸之外不条理之失費一切存不申候事
一、 船中一切之失費は会計方引請之事
一、 当番当用間暇之節は薩州侯運漕物相弁可申候得共、其節之失費は薩州より可被差出候事
 丑十二月  坂本龍馬
  中島四郎
多賀松太郎様
菅野覚兵衛様
寺内信左衛門様
早川二郎様
白峰駿馬様
前河内愛之助様

上杉宋次郎の切腹

上杉宋次郎は桜島丸条約で長州藩海軍局と対立があったものの、軍艦と武器を得ることができたのは上杉の尽力によるところが大きかった。伊藤俊輔と井上聞多はその功労を推重し、上杉は長州藩から莫大な恩賞金を受けて長崎へと帰った。

ところが上杉はこの金を亀山社中の同志には秘密にし、英国商人トーマス・グラバーにイギリスへの留学を依頼した。

上杉の計画は順調に進んでいたが、渡航当日の慶応2年(1866年)1月14日、風浪のため出航が延期になってしまい、やむなく一時上陸していたところ、この留学計画が亀山社中の同志に露見してしまった。

亀山社中一同は上杉を小曽根家の別邸に呼び出し、沢村惣之丞(関雄之助)が一同を代表し、「およそ事の大小となく互いに相談してこれをおこなうのが社中の盟約であり、この盟約にそむく者は割腹してその罪を謝するという明文がある。不幸にして社中にしてその人がいる」と切り出した。

言い終わらないうに上杉の顔色が変わったが、沢村はかまわずに続け、「その人は上杉宋次郎君である」と言い放った。上杉は弁解しようとしたが、沢村は、「この期におよんで弁解は無用なり」と大喝した。

上杉はもはや言い逃れできないと観念し、「いかにも盟約の如く割腹して諸君に謝罪する」と同志が設けた席で切腹した。享年は29歳。遺体は社中の者の手によって長崎鴻台寺の裏山に葬られた。

この事件の報告を受けた龍馬は、「術数あまりあって至誠たらず。上杉氏の身をほろぼすゆえんなり」と手帖に記し、早すぎるその死を惜しんだ。

坂本龍馬、恋人お龍(楢崎龍)を姉乙女に紹介す

面白き女

坂本龍馬がのちに妻とする楢崎龍(お龍)と出会ったのは、元治元年(1864年)5月頃のことである。当時、龍馬は土佐の同志北添佶磨らと共に蝦夷開拓を計画しており、京都方広寺に潜伏して議論を重ねていた。

この時食事などの世話をする女性が雇われることになり、やって来たのがお龍と母親の貞であった。ふたりが初めて会った時、龍馬が、「お前の名の『りょう』とはどういう字か」とたずねたので、お龍が紙に自分の名前を書いてみせると、「それは俺の名前と一緒だ」と喜んだという。

お龍の父は楢崎将作という医者で青蓮院宮の侍医をつとめていたが、尊攘志士と交際があったため安政の大獄で投獄され、のちに釈放されたが2年前に病死していた。

楢崎家は裕福であったが、将作の死後一家の生活は困窮した。お龍は家屋敷を処分し、道具・着物を売って母妹を養っていたが、これも尽き果て遂に家族は離散して奉公に出ることになった。

そこに悪人が付け入り、美人だった13歳の妹君江を島原の遊里へ舞妓として売り、16歳の妹光枝は母親をだまし大坂へ女郎として売り飛ばしてしまった。

これを知ったお龍は、妹君江を連れ戻すため自分の着物を売って旅費を工面し、単身大坂へ下った。そして懐に刃物を忍ばせ、悪人2人を相手に死ぬ覚悟で直談判をおこなった。

悪人は腕の彫り物を出してべらぼう口で脅したが、お龍はひるまずに飛びかかって相手の胸ぐらを掴み、「お前がだまして大坂に連れ去った妹を返せ」と顔を思いきり殴りつけた。悪人は「女、殺すぞ」と凄んだが、お龍は「殺し殺される覚悟ではるばる大坂まで来た。それは面白い、殺せ殺せ」と動じることはなかった。

この剛胆な態度に悪人も驚き、さすがに殺すわけにもいかず、とうとう根負けして遂にお龍は妹を取り返すことに成功した。島原へやられたもう一人の妹はまだ幼いので当分は気遣いがないということだった。

楢崎家の窮状を知った龍馬のはからいで、三女君江と長男太郎は神戸海軍操練所の勝海舟のもとへ、お龍は母弟と共に龍馬が定宿にしている寺田屋に預けられることになった。寺田屋の女将お登勢は義侠心があつく、お龍を養女として引き受けてくれた。

その後龍馬とお龍は恋仲となり、龍馬は恋人お龍を姉乙女に紹介するため、次のような手紙を書き送っている。

『慶応元年九月九日 坂本乙女、おやべ宛』
[前略]
京のはなし然ニ内内ナリとし先年雷三木三郎、梅田源二郎、梁川星巖、春日などの、名のきこへし諸生太夫が朝廷の御為に世のなんおかふむりしものありけり。其頃其同志にてありし楢崎某と申医師、夫も近頃病死なりけるに、其妻とむすめ三人、男子二人、其男子太郎ハすこしさしきれなり。次郎ハ五歳、むすめ惣領ハ二十三、次ハ十六歳、次ハ十二なりしが、本十分大家にてくらし候ものゆへ、花いけ、香をきゝ、茶の湯おしなどハ致し候得ども、一向かしぎぼふこふする事ハできず、いつたい医者というものハ一代きりのものゆへ、おやがしんでハ、しんるいというものなし。たまたまあるハそのきよにじよふじて、家道具などめいめいぬすみてかへりたる位にて、そのとふじハ家やしきおはじめどふぐじぶんのきりものなどうりて、母やいもふとやしないありしよしなれども、ついにせんかたなく、めいめいとりかわり、ほふこふ致し候てありしに、十三歳の女ハ殊の外の美人なれバ、悪者これおすかし島原の里へまい子にうり、十六ニなる女ハだまして母にいゝふくめさせ、大坂に下し女郎ニうりしなり。五歳の男子ハ栗田口の寺へつかハせしなり。夫おあねさとりしより、自分のきりものをうり、其銭をもち大坂にくだり、其悪もの二人をあいてに死ぬるかくごにて、刄ものふところにしてけんくわ致し、とふとふあちのこちのといゝつのりけれバ、わるものうでにほりものしたるをだしかけ、ベラボヲ口にておどしかけしに、元より此方ハ死かくごなれバ、とびかゝりて其者むなぐらつかみ、かをしたかになぐりつけ、曰ク其方がだまし大坂につれ下り妹とをかへさずバ、これきりニであると申けれバ、わるもの曰ク、女のやつ殺すぞといゝけれバ「女曰ク、殺し殺サレニはるばる大坂にくだりてをる、夫ハおもしろい、殺セ殺セといゝけるニ、さすが殺すというわけニハまいらず、とふとふ其いもとおうけとり、京の方へつれかへりたり。めづらしき事なり。かの京の島原にやられし十三のいもふとハ、としもゆかねバさしつまりしきづかいなしとて、まづさしおきたり。
夫ハさておき、去年六月望月らが死し時、同志の者八人計も皆望月が如戦死したりし。そのまへ此者ら今の母むすめが大仏辺にやしないかくし、女二人してめしたきしてありしが、其さわぎの時、家の道具も皆とりでの人数が車につみとりかへりたれハハ、今ハたつきもなく、自分ハ母と知定院と言亡父が寺に行、やしなハれてありし。日日喰やくハずに、じつあわれなるくらしなり。
此あとハ又つぎニ申上る。
右女ハおもしろき女ニて月琴おひき申候。今ハさまでふじゆうもせずくらし候。此女私し故ありて十三のいもふと、五歳になる男子引きとりて人にあづけおきすくい候。又私のあよふき時よくすくい候事どもあり、万一命あれバどふかシテつかハし候と存候。此女乙大姉をして、しんのあねのよふニあいたがり候。乙大姉の名諸国ニあらハれおり候。龍馬よりつよいというひよふばんなり。
○なにとぞおびか、きものか、ひとつ此者ニ御つかハし被下度、此者内内ねがいいで候。此度の願候よふじハ、
 乙さんニ頼候ほん
 おやべニ頼みしほん
 夫ニ乙さんのおびか、きものかひとすぢ是非御送り、今の女ニつかハし候。今のの名ハ龍と申、私しニにており候。早早たずねしニ、生レし時父がつれし名よし。
○そして早早忘れし事あり。あの私がをりし茶ざしきの西の通りがある、其上に竹が渡してゑやら字やらなにか、とふしニ記し候ものあり、其中、順蔵さんのかきしものあり。御送り、そして短尺箱に母上、父上の御哥、おばあさんの御哥、権兄さんのおうた、おまへさんの御うたこれありけり。なニとぞ父上母上おばあさんなど死うせたまいし時と日と、皆短尺のうらへおんしるしなされおんこし。この中ニ順蔵さんが私しニおくりし文がとふしニしるし、大てい半紙位のものあり、御こし。是ハ英太郎が父の者ほしがり候間、つかハし候。
夫ニ此度の御ねがいハ、それぞれおんききすてなく御こしねんじ、かしこ。
 九月九日  龍
乙あねさん
おやべどん
 御頼のものかずかず並ニおはなし長き御返じ被下度候。

この手紙で龍馬は、お龍の家族構成から境遇を彼女の武勇伝を交えて紹介し、「面白い女で月琴を弾くことができます」と乙女との共通点をあげ、「名前は龍と申し、私に似ています」とある。

また、お龍は何度も龍馬の危ない時を救ってくれ、「乙女を本当の姉のように思い、会いたがっている」ので、「どうか帯か着物を贈ってあげて下さい」と頼み込み、「乙女姉さんの名は諸国に知れわたり、龍馬より強いと評判です」とおだてた上で、「この願いはくれぐれも忘れずにお願いします」と念を入れている。

げに愛づらしき人

さらに龍馬は乙女とお龍の間を取り持つために次のような手紙も送っている。

『慶応元年九月 坂本乙女宛』
私がいぜんもつていました、かくなじでかいた烈女伝を、あれをひらながなになほしてゑ入にて、そのゑと申は、本の烈女伝のゑのとふりなり。
誠におもしろし。私がかなになをそふと兼ねてをもいしが、夫を見てやめてしもふたり。夫を、おまへさんになり、おくにへおくりたさにたづね候。けして今時の本やにはなりもの也。故にある女にたのみてかきうつさせより申候。其女と申はげにめづらしき人、名は御聞しりの人なり。
どうぞどうぞたのしみたまへ。その本のうつしたるれいとして、私しがうちでならひよりた、いしずりのかくなじのおりでほん、これはお前さんにあげておもへさんもならいよりた本なり。夫を御こしなされ度、兄さんまでひきやくに御おくりなされ度候。またまた色色のものさし上候へども、夫はおいおいなり。此龍がおにおふさまの御身をかしこみたふとむ所よくよくに思たまへ。
 乙大姉 をにおふさま  龍馬
皆火中なり。此よふな文、なきあとにのこるははぢなり。
私が以前持っていた楷書で書かれた烈女伝を、平仮名に直して絵入りにし、それを私の恋人に頼んで書き写させています。今時の本屋にはない面白いもので、乙女姉さんに送りますのでどうか楽しんでください。
そこでその本を写す手本にしたいので、私が実家で使っていた石刷り(上から紙をあてて転写したもの)の楷書の折手り本を送ってください。また、色々なものを差し上げるつもりですが、それはおいおいになります。
この龍馬がお仁王様の御身をかしこみ尊んでいることをよくよく自覚してください。
乙大姉 お仁王様  龍馬
皆火中につき、このような手紙が亡き後に残るのは恥です。

薩長同盟、坂本龍馬の仲介で薩摩・長州藩の軍事同盟が成立

談に及ばず

慶応2年(1865年)1月8日、長州藩代表の木戸貫治(桂小五郎)は薩長同盟を締結するため、薩摩藩士黒田了介と共に京都入りした。木戸は先の西郷吉之助の違約にこだわり、自身の出席に難色を示していたが、坂本龍馬、高杉晋作が説得し、藩命が下ったことを受けて上京を決意したのであった。

1月10日、二本松薩摩藩邸で秘密会談がおこなわれ、薩摩藩側からは西郷吉之助、小松帯刀、大久保一蔵、長州藩側からは木戸貫治、品川弥二郎、三好軍太郎が出席した。

会談の中で木戸は薩摩藩に対する恨みを洗いざらい述べ立てたが、西郷は木戸の言葉に反論することなく、「まことにごもっとも」と頭を下げた。

ところが、薩摩・長州藩共に体面にこだわり、同盟の話は相手側が持ちかけるべきだと考えていたので、互いに国事を論じるものの肝心な薩長同盟の話が出ないままに十日あまりが過ぎた。

薩長同盟成立

その頃、龍馬は長崎と下関を往来し、亀山社中と長州藩の懸案事項であった桜島丸問題の解決につとめていた。そして、長州藩海軍局総官中島四郎との間で改定条約を取り決めたのち、1月10日、薩長同盟の成果を知るため下関を出発した。この時、毛利侯から京都の情勢探索を命じられた長府藩士三吉慎蔵が龍馬に同行している。

海上が荒れていたため出港が遅れ、17日に神戸に到着し、翌日船便で大坂に向かい薩摩藩邸に身を寄せた。大坂には大久保一翁が幕府顧問として滞在していたので三吉と共に訪問し、「上坂していることはすでに知られているので、身辺を厳重に警戒するがよい」との忠告を受けている。

19日、亀山社中の池内蔵太、新宮馬之助が合流し、龍馬一行は薩摩藩の船印を掲げて淀川をさかのぼり、伏見の船宿寺田屋に入った。ここで一泊した後、三吉を寺田屋に残し、龍馬は池と新宮を連れて翌20日に入京した。

龍馬はただちに木戸貫治の宿をたずね、同盟の詳細を聞いたが、「薩摩は日夜馳走をもって待遇してはくれるが、薩長同盟のことには一言もふれず、もう会談を打ち切り帰国するつもりだ」と答えた。

驚いた龍馬は怒りをあらわし、「我らが両藩のために寝食を忘れて尽力するのは、決して両藩のためではない。天下国家を思えばこそだ。それならば、なぜ長州側から同盟の話を切り出さない」と問いただした。

しかし木戸の返事は、「現在の薩摩の立場は中立することも、あるいは長州の味方になることも、その進退は自由である。一方、長州は天下を敵にまわし、孤立する立場にある。なのに薩摩からは同盟の話を切り出そうとはしない。今、長州からこれを言い出せば、薩摩に憐れみを乞うようなものだ。武士として面目を落とすようなことはできない。たとえ長州が滅びようとも、薩摩が皇家のために尽くすならば天下のためには幸いである」であった。

これを黙って聞いていた龍馬はあえて木戸をあえて責めず、もう一度薩摩との会談に応じるよう説得し、西郷吉之助のもとへと走った。龍馬は西郷との直談判で、長州藩の事情・木戸の決意を話し、薩長同盟の話は薩摩藩からを切り出すよう要請し、西郷はその申し出を受け入れた。

そして、翌21日に再びおこなわれた薩長会談の場で、西郷の口から「薩摩藩は長州藩を全面的に支援する」と同盟の話が切り出され、ここに薩長同盟は成立した。この両藩の軍事同盟により、時勢は大きく動き出すことになる。

薩長同盟条文

慶応2年(1866年)1月21日、薩長両藩の代表者による会談がおこなわれ、同盟が成立した。長州藩の木戸貫治は念のため会談の内容を文章化すると、間違いがないかどうか確認した上で龍馬に保証の裏書を求めた。龍馬はこれに朱筆で裏書し、2月に薩摩藩士村田新八と川村与十郎が木戸のもとへ送り届けた。

『慶応二年二月五日 薩長同盟盟約の裏書』
一、戦と相成候時は直様二千余の兵を急速差登し、只今在京之兵と合し、浪華へも千程は差置、京坂両所相固め候事。
一、戦自然も我勝利と相成り候気鋒相見え候とも、其節朝廷へ申上、屹度尽力之次第これあり候との事。
一、万一戦敗色に相成り候とも、一年や半年に決て壊滅致し候と申す事はこれなき事に付、其間には必尽力の次第、屹度これあり候との事。
一、是なりにて幕府東帰せし時は、屹度朝廷へ申上、直様寃罪は朝廷より御免に相成り候都合に屹度尽力の事
一、兵士をも上国の上、橋会桑等も只今の如き次第にて、勿体なくも朝廷を擁し奉り、正義に抗し、周旋尽力の道を相遮り候時は、終に決戦に及び候外これなきとの事。
一、寃罪も御免の上は、双方誠心を以て相合し、皇国の御為めに砕身尽力仕り候事は申すに及ばず、いづれの道にしても、今日より双方皇国の御為め、皇威相輝き、御回復に立ち至り候を目途に誠心を尽し、屹度尽力致すげきとの事。

表に御記入しなされ候六条は小、西両氏および老兄龍等も御同席にて談論せし所にて、毛も相違これなく候。将来といへども決して変わり候事これなきは、神明の知る所に御座候。
 丙寅二月五日  坂本龍
一、長州藩と幕府の間で戦争がおこった時は、薩摩藩はすぐさま2000人の兵を京都に派遣し、現在在京の兵と合流し、大坂にも1000人ほど送り、京都・大坂の両地を固めること。
一、戦いが長州藩の勝利となりそうな時は、薩摩藩は朝廷に申し出て、尽力すること。

一、万一敗れそうな時でも、一年や半年で壊滅することはないので、その間に薩摩藩は必ず尽力すること。
一、幕府が東へ帰った時は、薩摩藩は朝廷に申し出て、すぐさま長州藩の免罪が解けるように尽力すること。
一、幕府が兵を上京させ、一橋、会津、桑名が現在のように朝廷を擁し、正義を拒み、周旋尽力の道をさえぎる時は決戦におよぶ他はないこと。
一、冤罪が解けた上は、薩長両藩は誠意をもって協力し、皇国のために砕身尽力することはいうまでもなく、いずれの場合にあっても、今日より双方は皇国のため、天皇の威光が輝き、回復することを目標に誠心を尽くし、必ず尽力すること。
表に記入された六条は、小松帯刀、西郷吉之助の両氏および老兄(木戸貫治)、龍馬なども出席して話し合ったもので、少しも相違ない。将来になっても決して変わることがないことは、天地神明の知るところである。

薩長同盟の場に龍馬はいなかった?

薩長同盟の席に参加していた薩摩藩家老桂久武の日記の中に次のような記述がある。

『上京日記 慶応二年正月十八日』
毎の通り寝覚なり、此の日出勤致さず、八ツ時分より小松家へ、此の日長の木戸ゆるゆる取り会いたく申し入れ置き候に付、参り候様にとの事ゆえ参り候ところ、皆々大かね時分参られ候、伊勢殿、西郷、大久保、吉井、奈良原なり、深更まで相咄し、国事段々咄し合い候事

この手紙の内容は、「いつもの通り目覚め、この日は出勤せずに、午後二時に家老の小松邸を訪れた。この日、長州の木戸(桂小五郎)から折り入って話したいことがあると申し入れがあったので、集まるようにとのことで出向いた。皆大鐘の時間(午後五時頃)に集まって来た。家老の伊勢殿、西郷吉之助、大久保一蔵、吉井幸輔、奈良原幸五郎。国事について話し合い、深夜にまでおよんだ」である。

ここで話し合ったという国事とは薩長同盟のことを指し、この18日には同盟は成立しており、同盟が結ばれた会談の場に龍馬は立ち会っていなかったという説がある。

しかし、久武が薩摩藩側役島津求馬に宛てた12月26日付の手紙に、「先般摂海へ異船来いたし、容易ならざる御場合ニ付、早々御上京遊ばされ、天気(機)御伺いの御用意迄モ相成り居り候えども、速かニ退帆いたし候間、此の節差し出され伺い相成り候筋ヲ以て、仰せ上げ然るべく申し談じ、既ニ今日相勤むるはずニ御座候」とあり、ここで指す国事とは薩長同盟のことではなく、天機伺いであることが判明した。

天機伺いとは天皇の機嫌をとることを指し、慶応元年(1865年)9月にイギリス・フランス・アメリカ・オランダの四ヶ国の艦が神戸沖に出現したことについて、藩主が上京し天皇に意見を聞く予定だったが、外国船がすぐに退去したため中止となり、久武が代わりに派遣され、天機伺いをすることになったことを書いたのである。

坂本龍馬、伏見寺田屋で幕吏に包囲されるも脱出に成功す

寺田屋包囲

慶応2年(1866年)1月23日、薩長同盟成立を見届けた坂本龍馬は大坂薩摩屋敷を発ち、伏見寺田屋に帰ってきた。寺田屋には長府藩士三吉慎蔵が待っており、龍馬は同盟の成立を報告し、その夜は2人で祝杯をあげた。

だが、この時寺田屋は幕吏に監視されている危険な状況にあり、同月21日に新選組の見廻りによる厳重な人改めがおこなわれ、続く22日にも薩摩人が一人止宿しているということで取り調べがあった。

当夜2時を過ぎた頃、不意に表戸を叩く音が聞こえ、「ちょっと頼みます」と声があったので女将のお登勢が応対に出ると、「表までちょっと来て下さい」と呼び出された。

何事かと思ったお登勢が店の外を見ると、そこには後ろ鉢巻きに抜き身の槍を構えた百人ほどの捕吏がいた。お登勢は非常に驚き、「これは一体何事ですか」とたずねると、「ここの2階に2人の侍が泊まっているだろう。調べはついているから知っていることを話せ」と問い詰めてきた。

お登勢はこれはもはや隠し通すことはできないと思い、「その通りでございます。2階に泊まっております」と答えると、「今どうしている」と重ねて聞いてきたので、「まだお休みにならずに、お話をされております」と答えた。これを聞いた捕吏一同は非常に動揺し、「どうしよう、こうしよう」と色々と恐れ、「誰行け、彼行け」と取り乱し、踏み込む様子もなかった。

ちょうど入浴中だった楢崎龍(お龍)は店の外の異変に気づき、戸外から捕吏が肩先に突き出してきた槍を片手でつかむと、「女が風呂へ入っているのに槍で突くなんて誰だ誰だ」とわざと二階に聞こえるような大声で叫んだ。

「静かにせい、殺すぞ」と捕吏は怒鳴ったが、お龍は「お前さんらに殺される私じゃないやい」と庭へ飛び下り、濡れ肌に浴衣をひっかけると帯をする間もなく裸足で駆け出した。

一方、龍馬は風呂からあがり寝ようとしていたが、下の階を忍び足で歩く人の足音や六尺棒のからからという音に気づき不審を抱いていた。そこへお龍が飛び込んできて、「御用心して下さい。敵が襲って来ました。槍を持った捕り方がハシゴの階段を登っています」と急を告げた。

寺田屋遭難

事態を察した龍馬は袴を着けようとしたが、隣の部屋に置いていたのでそのままの姿に大小の刀を帯び、長州藩士高杉晋作からもらったスミス&ウェッソンの六連発ピストルを持ち腰かけて待った。三吉は手早く袴を着けると、大小の刀を取り槍を持ち、腰かけて敵を待ち構えた。

間もなく捕吏の一人が障子を細目に開け、内部の様子をうかがってきた。見ると刀の大小を差し込んでおり、「何者だ」との龍馬の問いにつかつかと入って来たが、龍馬らが身構えると引き返していった。

やがて隣の部屋からミシミシと音がするので、龍馬はお龍に障子・唐紙を取り外させて見ると、そこには既に10人ばかりの捕吏が槍を持って並んでいた。さらに盗賊ちょうちんを2つ持ち、六尺棒を持つ者が左右に立っていた。

双方しばらくにらみ合い、龍馬が、「薩摩藩士に対し、いかなる理由があって無礼を働くのか!」と怒鳴ると捕吏は口々に、「上意なり、座れ座れ」と叫び近づいて来た。三吉は槍を中段に構え、龍馬は敵の横からの攻撃に備えてその左側に立った。

龍馬はすかさず一番右の捕吏に発砲するとこの者は退き、続けて2発目を発砲してこの者も退いた。この発砲を機に乱闘となり、捕吏は槍を投げ突きにし、また火鉢をひっくり返して迫ってきたが、三吉がこれを槍をもって防いだ。

龍馬は3発目を発砲したが命中したかは不明で、不意に障子の影から進み出た捕吏の脇差しにより、右の親指と左の親指から人差し指にかけて斬られた。浅手だったので捕吏に銃を差し向けたが、素早く障子の陰に隠れてしまった。

なおも捕吏が包囲を狭めて迫ってくるので、4発目を発射して威嚇した。龍馬が持っている銃は六発込めだが、この時は弾を五発しか込めていなかったので最後の一発となり、これは一大事と思い捕吏を見ると龍馬たちの勢いに少し怯んだ様子だった。

ふと見ると黒頭巾をかぶった敵が鎗を平正眼のように構え壁に沿って近づいて来たので、龍馬は素早く三吉の左肩を銃の砲台にし、敵の胸を狙って射撃した。弾は見事命中し、捕吏は眠るように腹這いに倒れた。

捕吏はドンドンと障子を打ち破り、ふすまを踏み破るが、龍馬と三吉を恐れて一向に近づいては来なかった。この間に龍馬は銃に弾丸を込めようと弾倉を取り外し弾を2発込めたが、先ほど左右の指に負った傷のせいで手先が思うように動かず、誤って弾倉を床に落としてしまった。布団をひっくり返して弾倉を探したが、火鉢の灰や捕吏の投げ入れたものがあって見つけることができまなかった。

脱出

龍馬は仕方無く銃を捨て、三吉に「銃は捨てた」と告げると、三吉は「こうなったら敵中に斬り込んで戦いましょう」と覚悟を決めた。

しかし、龍馬は「いや、こうなったら引きあげるのだ」と答え、三吉は持っていた槍を投げ捨てると、2人は後ろの階段を素早く駆け下り裏庭に出た。捕吏は店の表側ばかりを包囲していたので敵は一人もいなかった。

表道に出ると捕吏に見つかってしまうので隣家の雨戸を打ち破り中に入ると、家人は騒ぎに驚いて逃げたと見え、寝具が引いてあるが誰もいなかった。2人は中を突っ切り、外に出るため壁を破壊しようとしたが、家が丈夫でなかなか壊すことができなかった。2人が刀でさんざんに斬り破り、足で踏み破りようやく表に出ると路上には誰もいなかった。

そのまま五町ほど走ったが、龍馬の出血が激しく息が切れてしまい、ぐずぐずしていると敵に追いつかれる心配があるので、横道にそれ込み、土佐の新堀というところに似た一角に出た。そこには堀があって水門があり、その向こうにには材木置場があった。2人は材木をよじ登り、その棚上に身を隠していたが、この時運悪く犬が吠え非常に困った。

三吉は「もはや逃げ道はなく、ここで腹を切りましょう」とあきらめたが、龍馬は「死はもとより覚悟している。とにかく君はこれより薩摩藩邸に走れ。もし敵に見つかればそれまで、僕もまたここで腹を切るだけだ」と答えた。

この一言に励まされた三吉は気を取り直し、怪しまれないよう血の付いた袴を堀で洗い道端でわらじを拾って、なんとか伏見の薩摩藩邸へと駆け込んだ。

藩邸では留守居役の大山彦八が出迎え、「昨夜の様子は坂本氏の妾が来て注進している」と、一足先にお龍が薩摩藩邸に救いを求めていた。大山はただちに堀に船を浮かべると、薩摩藩の船印を立てて龍馬の救出に向かい、材木置場に潜伏していた龍馬の無事に保護した。

伏見からの使者により龍馬が襲撃されたことを知った西郷吉之助は激怒し、救出のため自ら駆けつけようとしたが吉井幸輔ら一同がそれを止め、吉井が60人ばかりの一小隊を率いて駆けつけた。この行為に伏見奉行所からは討ち取るべしとの声もあがったが、薩摩藩と戦争になることを恐れ傍観するしかなかった。

龍馬の指の傷は浅かったものの動脈を切ったようで、翌日も出血が止まらず、小便に立つとめまいをおこした。傷は60日ばかりで完治し、左手の親指は傷口のつきがよく元通りに治り、右手の人差指は少し傷ついたが、跡形もほとんど残らず、龍馬は一生の晴れであると喜んでいる。(『慶応二年十二月四日 坂本権平、一同宛』)

この事件の直後、龍馬は長州藩の木戸貫治に薩長同盟の裏書を送るための手紙を書いており、その中で寺田屋遭難について次のように語っている。

『慶応二年二月六日 木戸貫治宛』
此度の使者村新同行ニて参上可仕なれども、実ニ心ニ不任義在之、故ハ去月廿三日夜伏水ニ一宿仕候所、不斗も幕府より人数さし立、龍を打取るとて夜八ツ時頃二十人斗寝所ニ押込ミ、皆手ごとニ鎗とり持、口々ニ上意上意と申候ニ付、少少論弁も致し候得ども、早も殺候勢相見へ候故、無是非彼高杉より被送候ビストールを以て打払、一人を打たをし候。何レ近間ニ候得バ、さらにあだ射不仕候得ども、玉目少く候得バ、手ををいながら引取候者四人御座候。此時初三発致し候時、ヒストールを持し手を切られ候得ども浅手ニて候。其ひをニ隣家の家をたたき破り、うしろの町ニ出候て、薩の伏水屋鋪ニ引取申候。
唯今ハ其手きず養生中ニて、参上ととのハず何卒、御仁免奉願候。
何レ近近拝顔万奉謝候。謹言々。
 二月六夕
  木圭先生 机下
  龍

坂本龍馬、楢崎龍と結婚し鹿児島へ新婚旅行

日本初の新婚旅行

慶応2年(1866年)2月、坂本龍馬は寺田屋遭難時に自身の窮地を救い、伏見薩摩藩邸に移ったのちも付き添い看護につとめてくれた楢崎龍と中岡慎太郎(西郷吉之助とも)の仲介で結婚した。この時、龍馬32歳、お龍26歳。

龍馬は姉乙女に「今年正月廿三日夜のなんにあいし時も、此龍女がおれバこそ、龍馬の命ハたすかりたり」とお龍のおかげで今日の龍馬があると述べた上で、「私の妻はすなわち楢崎将作が娘なり。今年二十六歳、父母の付けたる名龍、私がまた鞆とあらたむ」と結婚を報告している。

龍馬は世話になっている西郷吉之助、小松帯刀たちに妻お龍をあらためて紹介し、西郷の勧めで寺田屋遭難時に負傷した指の傷の療養のため、鹿児島の塩浸温泉に旅行することなった。この旅行は龍馬とお龍が結婚した直後だったことから、「日本初の新婚旅行」ともいわれている。

3月1日、龍馬はお龍と三吉慎蔵を伴い、西郷、小松、中岡らと共に京都を出発した。5日、大坂から薩摩藩船三邦丸に乗船し淀川を下り、6日に下関に寄港した。ここで三吉と中岡が別れ、10日に鹿児島に到着した。龍馬は小松の屋敷に投宿し、のちに吉井幸輔の屋敷へと移った。

温泉巡りの旅

慶応2年(1866年)3月16日、龍馬とお龍は吉井幸輔の案内で霧島温泉湯治旅に出発し、この日は途中にある日当温泉に泊まった。

翌17日には塩浸温泉に泊まり、「ここはかつて大隅の国にて和気清麻呂が庵をむすんだ景勝の地で、犬飼の滝の流れは五十間も落ちる、実に別世界かと思われるほど珍しいところである」と賞賛している。龍馬はこの温泉を気に入り、10日間ほど泊まり遊び、谷川の流れで魚を釣り、ピストルで鳥を撃つなどして過ごした。

3月28日、塩浸温泉で療養中だった小松を見舞った後、さらに山深き道を進んで霧島温泉に到着した。翌日、有名な天の逆鉾を一目見ようと思い、霧島山の山頂を目指して登り始めた。途中の山道は酷くお龍の足では難しかったが、龍馬は手を引いて歩き、なんとか登りきることができた。

天の逆鉾は天狗の顔を2つ付けたような奇妙な鉄製の神器で、2人は大いに笑った。そして興味を持った龍馬とお龍は、両方より天狗の鼻を押さえると「ヱイヤ」と気合いと共に引き抜き、長さが四、五尺であることを確認したのち、元の通りに戻した。

山頂は見渡すばかりに壮観な景色が広がり、しばらく楽しんでいたが、4月とはいえ体が冷えてきたので、2人は山肌一面に咲いたキリシマツツジの美しさを鑑賞しながら下山した。

この日は霧島神宮近くに一泊し、翌30日には吉井の待つ霧島温泉に戻り、4月1日に塩浸温泉、8日に日当温泉を経て、12日に鹿児島に戻った。

『慶応二年十二月四日 坂本乙女宛』
おとめさんにさし上げる。
兼而申上妻龍女ハ、望月亀弥太が戦死の時のなんにもあい候もの、又御国より出候もの此家ニて大ニセ話ニなり候所、此家も国家をうれへ候より家をほろこし候也。
老母一人、龍女、いもと両人、男の子一人、かつへかつへニて、どふもきのどくニて、龍女と十二歳ニなる妹と九ツニなる男子をもらい候て、十二歳の妹名きみへ、男子太一郎ハ摂州神戸海軍所の勝安房ニ頼ミたり。
龍女事ハ伏見寺田や家内おとせニ頼ミ候。是ハ学文ある女尤人物也。今年正月廿三日夜のなんにあいし時も、此龍女がおれバこそ、龍馬の命ハたすかりたり。
京のやしきニ引取て後ハ小松、西郷などにも申、私妻と為知候。此よし兄上ニも御申可被遣候。御申上なれバ、
 京師柳馬場三条下ル所、
 楢崎将作 死後五年トナル。 此所にすミしが、国家のなんとともニ家ハほろびあとなくなりしなり。
 右妻存命
 私妻ハ則、将作女也。
 今年廿六歳、父母の付
 たる名龍、私が鞆トあらたむ。
正月廿三日ののちナリ。
京の屋敷ニおる内、二月末ニもなれバ嵐山にあそぶ人人、なぐさみにとて桜の花もて来り候。
中ニも中路某の老母神道学者奇人也ハ実おもしろき人也。和歌などよくで来候。此人共私しの咄しおもしろがり、妻をあいして度々遣をおこす。此人ハ曽て中川宮の姦謀を怒り、これおさし殺さんとはかりし人也。本禁中ニ奉行しておれバ、右よふの事ニハ、尤遣所おおき人ナリ。公卿方など不知者なし。
是より三日大坂ニ下り、四日に蒸気船ニ両人共ニのり込ミ、長崎ニ九日ニ来り十日ニ鹿児島ニ至り、此時京留居吉井幸助もどふどふニて、船中ものがたりもありしより、又温泉ニともにあそバんとて、吉井がさそいにて又両りづれにて霧島山の方へ行道にて日当山の温泉ニ止マリ、又しおひたしと云温泉に行。
此所ハお大隅の国ニて和気清麻呂がいおりおむすびし所、陰見の滝其滝の布ハ五十間も落て、中程にハ少しもさわりなし。実此世の外かとおもわれ候ほどのめづらしき所ナリ。此所に十日計も止りあそび、谷川の流にてうおおつり、短筒ピストヲルをもちて鳥をうちなど、まことにおもしろかし。
是より又山深く入りてきりしまの温泉に行、此所より又山上ニのぼり、あまのさかほこを見んとて、妻と両人づれニてはるばるのぼりしニ、立花氏の西遊記ほどニハなけれども、どふも道ひどく、女の足ニハむつかしかりけれども、とふとふ馬のせこへまでよぢのぼり、此所にひとやすみして、又はるばるとのぼり、ついにいただきにのぼり、かの天のさかほこを見たり。其形ハ
  是ハたしかに天狗の面ナリ。両方共ニ
   其顔が
    つくり付てある
    からかね也。
やれやれとこしおたたいて、はるバるのぼりしニ、かよふなるおもいもよらぬ天狗の面、げにおかしきかおつきにて、があり、大ニ二人りが笑たり。
此床所に来れバ実ニ高山なれバ目のとどくだけハ見へ渡り、おもしろかりけども何分四月でハまださむく、風ハ吹ものから、そろそろとくだりしなり。なる程きり島つつじが一面にはへて実つくり立し如くきれいなり。其山の大形ハ、
霧島より下り、きり島の社にまいりしが是は実大きなる杉の木があり、宮もものふり極とふとかりし。其所ニて一宿、夫より霧島の温泉の所ニ至ルニ、吉井幸助もまちており、ともどもにかへり、四月十二日ニ鹿児島ニかへりたり。
夫より六月四日より桜島と言、蒸気船ニて長州へ使を頼まれ、出船ス。此時妻ハ長崎へ月琴の稽古ニ行たいとて同船したり。夫より長崎のしるべの所に頼ミて、私ハ長州ニ行けバはからず別紙の通り軍をたのまれ、一戦争するに、うんよく打勝、身もつつがなかりし。其時ハ長州侯ニもお目ニかかり色色御咄しあり、らしやの西洋衣の地など送られ、夫より国ニかへり、其よしを申上て二度長崎へ出たりし時ハ、八月十五日ナリ。
世の中の事ハ月と雲、実ニどフなるものやらしらず、おかしきものなり。うちにおりてみそよたきぎよ、年のくれハ米うけとりよなどよりハ、天下のセ話ハ実ニおふざツパいなるものニて、命さへすてれバおもしろき事なり。
是から又春になれバ妻ハ鹿児島につれかへりて、又京師の戦はじまらんと思へバ、あの方へも事ニより出かけて見よふかとも思ひよります。私し其内ニも安心なる事ハ、西郷吉之助の家内も吉之助も、大ニ心のよい人なれバ此方へ妻などハ頼めバ、何もきづかいなし。
此西郷と云人ハ七年の間、島ながしニあふた人にて候。夫と言も病のよふニ京の事がきになり、先年初て「アメリカ」ヘルリ」が江戸ニ来りし頃ハ、薩州先ン侯の内命ニて水戸に行、藤田虎之助の方ニおり、其後又其殿様が死なれてより、朝廷おうれい候ものハ殺され、島ながしニあふ所に、其西郷ハ島流の上ニ其地ニてろふニ入てありしよし、近頃鹿児島にイギリスが来て戦がありてより国中一同、彼、西郷吉之助を恋しがり候て、とふとふ引出し今ハ政をあづかり、国の進退此人にあらざれバ一日もならぬよふなりたり。
人と言ものハ短気してめつたニ死ぬものでなし。又人おころすものでなしと、人人申あへり。まだ色色申上度事計なれども、いくらかいてもとてもつき不申、まあ鳥渡した事さへ、此よふ長くなりますわ。かしこかしこ。
 極月四日夜認
 乙様  龍馬

坂本龍馬、幕長戦争に駆けつけ下関海戦をヤジ馬す

ワイルウェフ号沈没

慶応2年(1866年)2月、亀山社中代表の坂本龍馬と長州藩海軍局中島四郎との間で交わされた『桜島丸改訂条約』によって、一度決着がつけられていたユニオン号(桜島丸、乙丑丸)の帰属問題が再燃した。

この条約ではユニオン号の運営権は長州藩が有しつつも亀山社中の乗り組みが認められており、長州藩は第二次長州征伐が迫ってくる状況であっただけに、同船を専用にする必要があったのである。

そこで薩摩藩と協議した結果、下関から兵糧米を鹿児島へ運んだ後、完全に長州藩のものとすることが決められた。このことは薩摩藩から長崎の亀山社中のもとに伝えられ、亀山社中の操船するユニオン号は、慶応2年(1866年)4月下旬、兵糧米をのせて下関を出港した。

ユニオン号が長崎に寄港したところ、昨年亀山社中が購入したワイルウェフ号が命名式のため鹿児島に向けて出発しようとしていた。ワイルウェフ号は薩摩藩の支援のもとにイギリス商人グラバーから代価6千3百両で購入した洋式帆船で、船長は黒木小太郎、副将は池内蔵太(細川左馬之助)、浦田運次郎(佐柳高次)がつとめ、そのほか水夫12人が乗り組んでいた。

そこでワイルウェフ号はユニオン号に曳航を頼み、両船は長崎を出港し一路南下していたが、途中暴風雨に襲われた。両船は転覆の危機にみまわれ、曳航に耐えられなくなったユニオン号はやむなく引き綱を切断した。

ユニオン号は蒸気船のため航行を続けることができたが、ワイルウェフ号は帆船であり、しかも乗組員が未熟練だったことから風浪にもまれ、遠くへ流されていった。

ワイルウェフ号は肥前五島列島付近まで漂流し、5月2日未明、塩屋崎沖で座礁転覆した。船将の黒木小太郎はじめ、士官池内蔵太、水夫頭の虎吉、熊吉、水夫の浅吉、徳治郎、仲次郎、勇蔵、常吉、貞次郎、加蔵の12名が溺死し、生存者は下等士官の浦田運次郎、水夫の一太郎・三平のわずか3名だけであった。

ワイルウェフ号遭難の知らせは、鹿児島へ入港したユニオン号乗組士官の菅野覚兵衛から龍馬のもとへ伝えらた。龍馬は同志の死を悼み、6月14日、ユニオン号で鹿児島から下関に向かう航海の途上長崎に寄港し、五島に渡ってワイルウェフ号遭難者たちの氏名を刻んだ慰霊碑を建立した。

この時妻お龍は「月琴の稽古に行きたい」と同船し、長崎の小曽根英四郎の別宅に預けられることになった。

他人のふんどしで相撲を取る

龍馬は鹿児島を出発する際、西郷吉之助から長州藩が薩摩藩に贈った兵糧米返還の件を依頼されていた。これは長州藩が国難の時である以上、出兵しない薩摩藩が受け取るよりも、長州藩が活用するほうが有効的であると西郷が判断したからであった。

龍馬は長崎を経て6月16日に下関に到着すると、ただちに木戸貫治(桂小五郎)と会談をおこない、西郷の真意を伝えた。ところが、一度贈ったものを受け取るわけにはいかないと木戸が難色を示したので、龍馬は次のような提案を出した。

「長州が薩摩に米を贈るのは礼であり、薩摩がこれを辞退するのは義である。しかし、貴重な米を船底で腐らせてしまうのは得策ではない。むしろこれを僕に与えてくれたなら、社中の報国の資として活かすことができると思うが、どうだろうか」

龍馬の機転に木戸が笑って了承し、兵糧米は亀山社中に寄付されることになった。龍馬はまわりの者をかえりみて、「これこそ他人のふんどしで相撲を取るということだ」と笑ったという。

幕長戦争(第二次長州征伐)

慶応2年(1866年)1月22日、第二次長州征伐を決定した幕府は、長州藩に対して藩主父子の隠居謹慎と領土10万石の削減を処分とする通告を発した。長州藩は表向きには幕府に従う態度を示しながらも、裏では軍事力の再編強化を進める「武備恭順」の方針でこれを無視し続けていた。

そして、5月29日を最終期限とする通告も長州藩が無視したため、遂に6月7日、幕府艦隊による周防大島への砲撃が始まり、続いて長州への入り口となる芸州口・石州口・小倉口の四方向で戦闘の火ぶたがきられた。

龍馬が下関に入港した時、すでに幕長戦争の真っ最中であった。ユニオン号はかねての約束通り長州藩海軍局の所属となり、「乙丑丸」と名を改め、海軍総督高杉晋作の指揮下に入ることになった。高杉は乙丑丸の運用を龍馬に依頼し、亀山社中の菅野覚兵衛が船将、石田英吉が砲手長につくことになった。

翌17日、長州藩艦隊は下関の対岸にある小倉藩領田ノ浦・門司に向けて出撃した。高杉の搭乗した丙寅丸・癸亥丸・丙辰丸が田ノ浦、そして乙丑丸と庚申丸が門司の敵陣に艦砲射撃を加え、小倉藩守備隊を壊滅に追い込んだ。

これに呼応して山形狂介率いる奇兵隊、福原和勝率いる報国隊が渡海を強行して田ノ浦・門司に上陸し、湾岸砲台を占拠した。しかし、小倉藩の反撃を警戒した高杉は制海権を確保していないことから、征長軍の陣営を放火し、海岸に係留している船を焼き払い全軍を下関の本営へと撤退させた。

龍馬はこの戦闘には直接参加せずに本陣か小高い山の上から見物していたようで、兄権平に宛てた手紙には自らが描いた海戦図を添えて幕長戦争を報告している。

『慶応二年十二月四日 坂本権平、一同宛』
[前略]
一、七月頃、蒸気船、桜嶋といふふね、を以て薩州より長州江使者ニ行候時被頼候而、無拠長州軍鑑を引て戦争セしに是ハ何之心配もなく、誠ニ面白き事にありし。一、惣而咄しと実ハ相違すれ共、軍ハ別而然り。是紙筆ニ指上ゲ候而も、実と不被成かも知不、一度やつて見たる人なれば咄しが出来る。
七月以後戦ひ止時なかりしが、とふとふ十月四日と成り長州より攻取し土地ハ小倉江渡し、以後長州ニ敵ニすべからざるを盟ひ、夫より地面を改めしに、六万石斗ありしよし。右戦争中一度大戦争がありしに長州方五拾人計打死いたし候時、軍にて味方五十人も死と申時ハ敵方合セておびただしき死人也。先き手しバしバ敗セしに、高杉普作ハ本陣より錦之手のぼりにて下知し、薩州の使者村田新八と色色咄しなどいたしへたへた笑ながら気を付て居る。敵ハ肥後の兵などにて強かりけれバ、普作下知して酒樽を数数かき出して、戦場ニて是を開かせなどしてしきりに戦ハセ、とふとふ敵を打破り肥後の陣幕旗印杯不残分取りいたしたり。私共兼而ハ戦場と申セバ人夥しく死する物と思ひしに、人の拾人と死する程之戦なれバ、余程手強き軍が出来る事に候。
[後略]

その後も小倉口では第2次の7月3日、第3次の7月27日と数度に渡って激戦が繰り広げられた。龍馬は第2次の戦いが始まることを知り、次のような手紙を木戸貫治に送っているが、日付が正確ならば龍馬は間に合わなかったことになる。

『慶応二年七月四日 木戸貫治宛』
御別後お郡まで参り候所、下の関ハ又戦争と弟思ふに、どふぞマタヤジ馬さしてく礼まいかと、早早道お急ぎ度、御さしそへの人ニ相談仕候所、随分よろしかるべしとて夜おかけて道お急ぎ申、四日朝関ニ参申候。何レ近日拝顔の時ニ残し申候。
 七月四日  龍
  木圭先生 左右
猶此度の戦争ハおりから又英船が見物して、長崎の方へ参り候ハおもしろき事ニ候。
追白
先日御咄しの英仏の軍艦の関に参候ものハ兼而参ると申軍艦ニてハなし。飛脚艦のよふなるものと相見へ候よし。
兼而来ると申舶ハ二舷砲門の艦にて是ハ近日又参り可申か、弟思ふに村田新八が不来ハ此故にてハなきか。早早。
此軍艦ニハ「アドミラール」及「ミニストル」も参り候ヤに承り候。先日参候舶ハ是ハおらざりしよし。
是も又思ふべし。

小倉口の戦いは長州軍が熊本藩兵が守備する赤坂口を突破することができず、一進一退の攻防が繰り広げられていた。ところが7月20日、総大将の将軍徳川家茂が大坂城で病没した知らせが届くと動揺した幕府軍総督小笠原長行は戦闘を放棄して長崎に逃れてしまった。

このため統制を失った征長軍の諸藩は次々に兵を引きあげてしまい、単独で防戦できないと判断した小倉藩は、8月1日、自ら居城に火を放って撤退し、この小倉城陥落をもって事実上の長州藩の勝利が決した。

この後、龍馬は長州藩主毛利敬親に拝謁し、薩長同盟成立から幕長戦争への参加とこれまで長州藩のために周旋した労をねぎらわれ、西洋の羅紗などを賜っている。

困窮する商社経営、亀山社中解散の危機

亀山社中解散の危機

幕長戦争の後、長崎に引きあげた坂本龍馬は亀山社中の深刻な経営危機に直面していた。先にワイルウェフ号を失い、ユニオン号(桜島丸、乙丑丸)の運用権を長州藩海軍局に譲り渡したため、乗るべき船がなくなったのである。亀山社中は貿易を中心とした商社であり、船を失うことは死活に関わる大打撃であった。

さらに、長崎奉行がこの機に乗じて亀山社中に属する水夫に買収をしかけてきたので、龍馬は窮余の策として、実情を告げて社中を解散しようとした。しかし二、三の離脱はあったが、多くの者は死生を共にすることを主張し、解散に応じなかった。

この事態に窮した龍馬は、三吉慎蔵を通じて亀山社中を長府藩に身売りすることまで検討したが、薩摩藩士五代才助の周旋で大洲藩が購入した「いろは丸」に菅野覚兵衛、渡辺剛八、橋本久大夫ほか水夫3人を派遣し、乗り組ませることができた。

『慶応二年七月二十八日 三吉慎蔵宛』
何も別ニ申上事なし。然ニ私共長崎へ帰りたれバ又のりかへ候船ハ出来ず水夫らに泣泣いとま出したれバ、皆泣泣に立チ出るも在り、いつ迄も死共に致さんと申者も在候。内チ外に出候もの両三人計ナリ。おおかたの人数ハ死まで何の地迄も同行と申出て候て、又こまりいりながら国につれ帰り申候。
幕の方よハ大ニ目おつけ、又長崎でも我々共ハ一戦争と存候うち、又幕吏ら金出しなどして、私水夫おつり出し候勢もあり候得共、中中たのもしきもの計ニて出行ものなし」今御藩海軍を開キ候得バ、此人数をうつしたれバと存候」
今朝伊予の大洲より屋鋪にかけ合がきて、水夫両三人、蒸気方三人計も当時の所、拝借とて私し人数を屋鋪より五大才助が頼にてさし出し候」
○木桂氏に手紙○
○わ長崎の近時のよふを承り記したり。
を送りけるが、是ハ極内内を以て御覧被成候得バ、極テたしかなるたよりにて山口に迄御送被成度。
慎蔵大人  龍
右七月廿八日

馬関商社計画

慶応2年(1866年)11月、龍馬は薩摩藩士五代才助と共に長崎から下関まで出向き、長州藩の木戸準一郎、広沢兵助、肥前藩の渡辺昇らと協議し、薩長合弁の「馬関商社」設立を計画した。

この商社の目的は、馬関海峡を封鎖し、海峡を通る北国船や九州船を下関で差し止め、仲介貿易をおこなうことで、龍馬はこの商社の一翼を担うことで亀山社中の存続をはかろうと考えていた。

また、馬関海峡は九州一円と西日本経済の中心である大坂を結ぶ重要な航路であり、ここを封鎖することによって大坂の経済的地位を低下させ、幕府から経済市場を奪うねらいもあり、次のような議定書が作成された。

『商社示談箇条書』
議 定 書
一、商社盟誓之儀はお互の国名を顕はさず、商家の名号相唱可申候
一、社中之印鑑は互に取替置可申事
一、商社組合の上は互に出入帳を以て公明之算を顕し損益を半切すべき事
一、荷方船三四艘相備、薩船の名号にして国旗相立置可申候
一、馬関通商の儀は、何品を論ぜず上下共に可成差止め、譬へ不差通候て不叶船といへども改不済趣を以可成引揚置候儀、同商社の緊要なる眼目に候事
一、馬関通船相聞候節は日数二十五日前社中へ通信の事

龍馬はこの薩長合弁商社設立のため下関の伊藤助太夫方に下宿し、その居を「自然堂」と号して商務をとっていた。ところが、馬関海峡を封鎖する危険は長州藩にあり、その利益は折半する条項に長州藩が難色を示したため、馬関商社設立は立ち消えとなってしまった。

蝦夷開発計画

慶応2年(1866年)10月28日、龍馬は薩摩藩に掛け合い、その保証を受けてプロシア商人チョルチーから洋型帆船を船価1万2千両で購入した。この船は「大極丸」と命名され、念願の船を手に入れた龍馬は、蝦夷の資源開発をおこない、その資源を貿易することで利益を生みだす計画をたてた。

この計画は神戸海軍操練所時代から練っていたもので、当時勝海舟に対して、「幕府の黒龍丸に京摂の浪士200余人を乗せて蝦夷に送り、北方の防衛と開発に役立てる」ことを提案している。

龍馬は大極丸の船将に白峰駿馬、野村辰太郎を任命し、長崎から兵庫へと回航させた。そして物資の販売網を築くため、高松太郎と安岡金馬が大坂に派遣され、陸奥陽之助や山本洪堂らと共に大坂商人と交渉を重ねた。

だが、この蝦夷開発計画は大極丸の船価支払い遅延問題が生じたため、中断せざるをえなくなった。これは大極丸を購入する際の約定に、船価は亀山社中の責任において支払うことが取り決められていたからであった。

そこで、高松太郎が資金調達のため近江商人から1万両を借用する交渉をおこなったが取りまとめることができず、船価支払いの債務をおった亀山社中の経営はさらに悪化した。

結局、この船価支払いは慶応3年(1867年)4月に亀山社中が土佐藩の管轄となり、海援隊へと組織編成された時、後藤象二郎の指示により土佐商会が肩代わりすることになった。

『慶応三年四月初旬 坂本乙女宛』
扨も扨も、御ものがたりの笑しさハ、じつにはらおつかみたり。秋の日よりのたとへ、もつともおもしろし笑しと拝し申候。私事かの浮木の亀と申ハ何やらはなのさきにまいさがりて、日のかげお見る事ができぬげな。此頃、みよふな岩に行かなぐり上りしが、ふと四方を見渡たして思ふニ、扨扨世の中と云ものハかきがら計である。人間と云ものハ世の中のかきがらの中ニすんでおるものであるわい、おかしおかし。めで度かしこ。
   龍馬
 乙姉様 御本
猶おばあさん、おなんさん、おとしさんの御哥ありがたく拝し申候、かしこ。
猶去年七千八百両でヒイヒイとこまりたれバ、薩州小松帯刀申人が出しくれ、神も仏もあるものニて御座候。
先日中、私の手本つがふあしく一万。五百両というものハなけれバならぬと心おつかいしニ、不計も藤藤庄次郎と申人が出し出しくれ候。此人ハ同志の中でもおもしろき人ニて候。かしこ。

坂本龍馬、土佐藩と和解し亀山社中を「海援隊」に改編

清風亭会談

武市瑞山ら土佐勤王党派を一掃した土佐藩では勤王党に暗殺された吉田東洋の門下にあった新おこぜ組が台頭し、その中心に参政の後藤象二郎があった。後藤は吉田の甥にあたり、前藩主山内容堂の信任を得て、慶応2年(1866年)2月に殖産興業のための機関である開成館を設立し、藩営貿易と富国強兵を推し進めていた。

さらに開成館の出先機関「土佐商会」を長崎に設け、この年の7月、後藤は貿易の促進と汽船・武器購入のため長崎へ出張し、8月末には自ら上海に出向き汽船を購入した。また、事業拡張のために内外の商人と盛んに宴会を開き、周囲の人々を驚かしていた。

この頃後藤は、薩長による討幕の気運が高まり、公武合体論の土佐藩が時勢から取り残されていることを感じとっていた。そこで再び土佐藩を政局の中心に据えるため、自藩を脱藩し活動する坂本龍馬とその率いる亀山社中と手を結ぶことを考えていた。

一方、亀山社中では後藤が長崎に出ていることを知り、「土佐勤王党を弾圧し、武市半平太を断罪した張本人であるから斬るべし」と主張する者もあったが、龍馬はそうした動きを固く制していた。

こうした状況の中、土佐藩士溝淵広之丞と松井周助が取り持ち、龍馬と後藤の会談がおこなわれることになった。

溝淵はかつて龍馬が剣術修行のため江戸に出ていた頃、共に佐久間象山のもとで西洋砲術を学んだことがあり、龍馬とは旧知の間柄であった。そのため長崎に出た溝淵は龍馬と連絡をとり、慶応2年(1866年)12月には龍馬の紹介で長州萩の木戸準一郎(桂小五郎)をたずねていた。

この時木戸は雄藩連合の必要性を説き、これに土佐藩の早急な参加を求めた。溝淵も大いに時勢の切迫を察し、長崎に戻ると後藤に会談の内容を報告し、龍馬と会うことを進言したのであった。

慶応3年(1867年)1月中旬、後藤は清風亭に用意した酒席に龍馬を招待し、両者の会談が実現した。会談を終えた龍馬に亀山社中の同志が後藤のことをたずねると「近頃の上士の中では珍しい人物であった」と答え、「彼と我とは昨日まで刺せば突くという敵同士であったのに、あえて一言もこれまでのことにふれず、ただ前途の大局のみを話す。これは人物でなればできない。また話題を常に自分に引きつけ、他人に引きずられないところは、全く才物である」(『維新土佐勤王史』)と語った。

この後、龍馬は後藤との会談の状況を木戸に報告しており、「先生の御尽力により、土佐国は新たな一歩を踏み出しました。今後は土佐国は幕府の役に立つことはないでしょう。今年の7、8月頃には昔の長州・薩摩・土佐になることができると思い、とても楽しみです」(『慶応三年一月十四日 木戸準一郎宛』)と書き送っている。

ところが、姉乙女をはじめ同志の中には後藤と手を組むことに「龍馬は奸物にだまされている」と批難する者もあったが、これに対し龍馬は、「私一人が数百人の同志たちを率いて天下国事のために尽くすより、土佐藩二十四万石を動かし、それを率いて天下国家のために働く方がより良いでしょう。恐れながらこれは乙女姉さんには少しわからないかもしれません」と手紙の中で本心を語っている。

『慶応三年六月二十四日 坂本乙女、おやべ宛』
[前略] ○先頃より段段の御手がみ被下候。おおせこされ候文ニ、私を以て利をむさぼり、天下国家の事おわすれ候との御見付のよふ存ぜられ候。
○又、御国の姦物役人ニだまされ候よふ御申こし。右二ヶ条ハありがたき御心付ニ候得ども、およバずながら天下ニ心ざしおのべ候為とて、御国よりハ一銭一文のたすけおうけず、諸生の五十人もやしない候得バ、一人ニ付一年どふしても六十両位ハいり申候ものゆへ、利を求メ申候。
○又御国の為ニ力を尽すとおおせらるるが、是ハ土佐で生レ候人が、又外の国につかへ候てハ、天下の大義論をするに諸生ニまで二君ニつかへ候よふ申され、又女の二夫ニつかへ候よふ申て、自身の義論が貫らぬきかね候故ニ、浪人しつけるに、又ハ御国をたすけるに到さねバ、ゆかぬものニて候。夫で御国よりいで候人人ハ、皆私が元トにあつまりおり申候ゆへ、もふ土佐からハおかまいハなく、らくにけいこ致しおり候。
此頃私しも京へ出候て、日日国家天下の為、義論致しまじハり致候。御国の人人ハ後藤庄次郎、福岡藤次郎、佐々木三四郎、毛利荒次郎、石川清之助、これハずいぶんよきおとこナリ。中にも後藤ハ実ニ同志ニて人のたましいも志も、土佐国中で外ニハあるまいと存候。そのほかの人人は皆少少づづハ、人がらがくだり申候。
清二郎が出かけてきたニ付て、此人ニも早早に内達致し、兄さんの家にハきずハ付ハすまいかと、そふだん致し候所、夫レハ清次郎が天下の為に御国の事ニ付て、一家の事を忘れしとなれバ兄さんの家ニきずハ付まいと申事なり、安心仕候。
かれこれの所御かんがへ被成、姦物役人にだまされ候事と御笑被下まじく候。私一人ニて五百人や七百人の人のお引て、天下の御為するより廿四万石を引て、天下国家のの御為致すが甚よろしく、おそれながらこれらの所ニハ、乙様の御心ニハ少し心がおよぶまいかと存候。
[後略]

海援隊と陸援隊の結成

慶応2年(1866年)10月、土佐藩内で後藤象二郎と共に重きをなしていた大監察の福岡藤次は、藩命を受けて小笠原唯八と共に上京し、情勢探索をおこなっていた。この時、京都にあった中岡慎太郎と交流があり、その仲介で薩摩藩の西郷吉之助らと会談を重ね、倒幕へと傾倒していった。

翌年(1867)2月、福岡の要請を受けた西郷は土佐を訪れ、前藩主山内容堂に四侯会議を説き上京をすすめた。容堂は上京を約束し、これを機会に藩論の転向を考えた福岡は、龍馬たちの勢力を利用するため、龍馬と中岡の脱藩赦免を働きかけた。

そのため同年2月に、「郷士御用人権平弟 坂本龍馬」と「北川郷大庄屋源平倅 中岡慎太郎」の脱藩罪が許され、起用されることになった。

そして龍馬、中岡、後藤、福岡が長崎に会同し、慶応3年(1867年)4月、土佐藩の外郭組織「翔天隊」の両翼として、長崎出張の藩士が属する「海援隊」と京都出張の藩士が属する「陸援隊」の創設が決定され、次の規約が作成された。

『福岡孝弟手録』
出京官
参政一員  監察一員
付属書生二員或ハ一員
右書生、当時出京両府ノ自撰ヲ許ス。外藩応接ノ際並ニ陸援隊中ノ機密ヲ掌ル。
陸援隊
隊長一人
脱藩ノ者、陸上斡旋ニ志アル者、皆是ノ隊ニ入ル。国ニ付セス暗ニ出京官ニ属ス。
天下ノ動静変化ヲ観、諸藩ノ強弱ヲ察シ、内応外援、控制変化、遊説間牃等ノ事ヲ為ス。
出崎官
付属書生二員
右書生、当時出崎参政ノ自撰ヲ許ス。外藩応接ノ際並ニ海援隊中ノ機密ヲ掌ル。
海援隊
隊長一人  風帆船属之。
脱藩ノ者、海外開拓ニ志アル者皆是ノ隊ニ入ル。国ニ付セス暗ニ出崎官ニ属ス。
運船射利、応援出没、海島ヲ拓キ五州ノ与情ヲ察スル等ノ事ヲ為ス。
凡海陸両隊所仰ノ銭量常ニ之ヲ給セス。其自営自取ニ任ス。但臨時官乃給之。固無定額。且海陸用ヲ異ニスト雖モ相応援、其所給ハ多ク海ヨリ生ス。故ニ其所射利者亦官ニ利セス。両隊相給スルヲ要トス。或ハ其所営ノ局ニ因テ官亦其部金ヲ収ス則両隊臨時ノ用ニ充ツベシ。
右等ノ処分京崎出官ノ討議ニ任ス。

海援隊約規
凡嘗テ本藩ヲ脱スル者、及他藩ヲ脱スル海外ノ志アル皆此隊ニ入ル。運輸射利、開柘投機、本藩ノ応援ヲ為スヲ以テ主トス。今後自他ニ論ナク其志ニ従テ撰テ入之。
凡隊中ノ事一切隊長ノ処分ニ任ス。敢テ或ハ違背スル勿レ。若暴乱事ヲ破リ、妄謬害ヲ引クニ至テハ、隊長其死活ヲ制スルモ亦許ス。凡隊中患相救、困厄相護、義気相責、条理相糺、若独断過激儕輩ノ妨ヲナシ、若儕輩相推、乗勢強制他人ノ妨ヲ為ス。是尤モ慎ムベキ所、敢テ或ハ犯ス勿レ。
凡隊中修業分課、政法火技、航海汽機、語学等ノ如キ其志ニ従テ執之。互ニ相勉励、敢テ或ハ怠ルコト勿レ。
凡隊中所費ノ銭糧、其自営ノ功ニ取ル。亦互ニ相分配私スル所アル勿レ。若挙事用度不足或ハ学科欠乏ヲ致ス。隊長建議出崎官ノ給弁ヲ俟ツ。
右五則海援隊約規交法簡易何ゾ繁砕ヲ得ン。元是翔天ノ鶴其飛フ所ニ任ス。豈樊中ノ物ナランヤ。今後海陸ヲ合セ号シテ翔天隊ト云ン。亦究竟此意ヲ失スル勿レ。
皇慶応三丁卯四月

坂本龍馬、脱走罪を許され海援隊長に就任

海援隊の構成

慶応3年(1867年)4月、坂本龍馬は脱藩の罪を許されると同時に海援隊長に任命された(『海援隊日史』)。海援隊は亀山社中を改編して組織され、隊士・水夫を合わせて総勢約50人、属する隊士を出身藩別にあげると次のようになる。

【土佐】
坂本龍馬(才谷梅太郎)  長岡謙吉(今井純正)
中島作太郎  沢村惣之丞(前河内愛之助)
新宮馬之助(寺内新左衛門)  千屋寅之助(菅野覚兵衛)
安岡金馬  高松太郎(多賀松太郎、坂本直)
野村辰太郎  石田英吉(伊吹周吉)
山本復輔  吉井源馬(小田小太郎)
【越前】
関義臣(山本龍二)  渡辺剛八
小谷耕蔵  腰越次郎
三上太郎  佐々木栄
【越後】
白峰駿馬  橋本久太夫
紀伊
陸奥陽之助(伊達小次郎)  
【讃岐】
佐柳高次(浦田運次郎)  

彼らはその志望とするところ、文官・武官・器械官・測量官・運用官・簿籌官(会計)・医官などに分かれていた。文官は長岡謙吉、器械官は腰越次郎、測量官は沢村惣之丞、陸奥陽之助、簿籌官は小曽根英四郎、医官は長岡謙吉、山本復輔、石田英吉が担当していた。

陸援隊は3ヶ月後の同年7月に京都白川村の土佐藩邸にいる浪士たちで組織された。隊長は中岡慎太郎がつとめ、参謀格に田中顕助、香川敬三があたった。

海援隊の規則

海援隊は創設と同時にその基本理念と規則を明文化した『海援隊約規』が作成された。

『弘松家所蔵』
海援隊約規
凡嘗テ本藩ヲ脱スル者及佗藩ヲ脱スル者、海外ノ志アル者此隊ニ入ル。
運輸、射利、開柘、投機、本藩ノ応援ヲ為スヲ以テ主トス。
今後自他ニ論ナク其志ニ従テ撰テ入之。
凡隊中ノ事一切隊長ノ処分ニ任ス。敢テ或ハ違背スル勿レ。
若暴乱事ヲ破リ、妄謬害ヲ引ニ至テハ、隊長其死活ヲ制スルモ亦許ス。
凡隊中忠難相救ヒ困厄相護リ、義気相責条理相糺、若クハ独断果激、儕輩ノ妨ヲ成シ、若クハ儕輩相推シ、勢乗テ他人ノ妨ヲ為ス、是尤慎ム可キ所、敢テ或犯ス勿レ。
凡隊中修業分課、政法、火技、航海、汽機、語学等ノ如キ其志ニ随テ執之。互ニ相勉励敢テ或ハ懈ルコト勿レ。
凡隊中所費ノ銭糧、其ノ自営ノ功に取る。亦互ニ相分配シ私スル所アル勿レ。若挙事用度不足、或ハ学科欠乏ヲ致ストキハ隊長建議シ、出崎官ノ給弁ヲ竢ツ。
右五則ノ海援隊約規、交法簡易、何ゾ繁砕ヲ得ン。モト是翔天ノ鶴其ノ飛ブ所ニ任ス。豈樊中ノ物ナランヤ。今後海陸ヲ合セ号シテ翔天隊ト言ハン。亦究意此ノ意ヲ失スル勿レ。
皇慶応三丁卯四月

1.入隊条件と目的
土佐藩を脱する者、及び他藩を脱する者、海外に志のある者が、この隊に入る資格がある。運輸、営利活動、開拓、投機、土佐藩の応援を主業務とする。今後も異論がなければ、その志に従って入ることができる。

2.隊長の権限
隊中のことの一切は隊長の処分にまかせる。隊員は違反してはならない。もし、規約を破り、隊に害をもたらすようなことがあれば、隊長に生殺与奪の権を与える。

3.隊士の義務
隊中にあっては、互いに助け合い、困難を乗り越え、正義を重んじ、道理を正さなくてはならない。独断で過激に同志を妨げたり、徒党を組んで同志の妨げになるような行為は最も慎むべきことである。

4.隊士の学習内容
隊の修行内容は、政法、火技、航海、汽機、語学など自身の志に従って学ぶこと。互いに勉励し、怠けてはならない。

5.隊の経営方針
隊の経費は、隊の活動で得た収入でまかなう。また、利益は互いに分配し、私腹してはならない。もし、費用が不足し、あるいは学科に支障をきたすような時は、隊長が申し立て、長崎駐在の土佐藩役人の支給をまつこと。

海援隊は土佐藩の支援を受けてはいたが、原則は独立採算制であり、従来の藩制度の原理とは異なる関係を結んでいた。土佐藩は海援隊を藩の外郭組織として利用することを考え、龍馬は土佐藩に従属することでその運営を安定させようと考えていた。

その任務は諸国物産の購入ならびに運送、外国商人から物品を購入する際の周旋、土佐藩を海から応援することであり、同時に政治学・鉄砲術・航海術・語学を学ぶ場でもあった。

龍馬は海援隊のあり方として、「国を開くの道は、戦するものは戦い、修行するものは修行し、商法は商法で名にかえりみずやらねばならない」(『慶応三年五月五日 三吉慎蔵宛』)と説いている。

また出版事業にも着手しており、慶応3年(1867年)5月、キリスト教の勃興に対する仏教・神道の奮起をうながした『閑愁録』、慶応4年(1868年)3月に英語入門書の『和英通韻以呂波便覧』を出版した。

いろは丸事件、海援隊船いろは丸が紀州藩船明光丸と衝突し沈没

いろは丸沈没

慶応3年(1867年)4月19日、坂本龍馬は紅白紅の海援隊旗をかかげた小型蒸気船いろは丸に乗り込み、長崎を出港した。これは海援隊として初めての航海であり、隊士たちに「今日をはじめと乗り出す船は 稽古始めのいろは丸」という舟唄を歌わせながら、瀬戸内海を大坂へ向かっていた。

いろは丸は伊予大洲藩所有の内輪蒸気船で、長さ30間・幅3間・深さ2間・重量160トン・45馬力あり、慶応2年(1866年)6月、武器購入のため長崎を訪れた国島六左衛門が、龍馬と薩摩藩士五代才助の周旋で船価4万2千5百両で購入したものである。余談だが国島は購入の許可を藩から得ていなかったため、責任をとって自刃している。

いろは丸の運用は、大洲藩の依頼を受けた亀山社中の菅野覚兵衛、渡辺剛八、橋本久大夫がおこなっており、龍馬は同船を海援隊で使用するため、後藤象二郎を通じて「日数15日間、一航海500両」という契約をび借り受けていた。

龍馬は海運業を営み、将来は積年の思いである蝦夷地開拓をおこない、竹島の材木や魚介類を調査し、諸国浪生による竹島の開拓を計画していたのである(『慶応三年三月六日 印藤肇宛』)。

ところが4月23日の夜、鞆の津沖を東に航行していたいろは丸は、長崎へ航行中の紀州藩船明光丸と六島付近で衝突した。

いろは丸は左舷前方に明光丸を発見し、これを避けようと左に舵をきったが、明光丸が右旋したため明光丸の船首が右舷中央に激突、慌てた明光丸は船を後退させ、救助のために接舷しようとして再び激突したのである。

明光丸は、元治元年(1864年)紀州藩がトーマス・グラバーから15万5千ドルで購入した新造のイギリス籍の蒸気船で、長さ41間・幅5間・深さ3間半・馬力150・重量887トンあり、いろは丸に比べて約5倍のトン数と3倍の馬力を有していた。

いろは丸は大破、自力航行が不能となり、龍馬と乗組員は明光丸に収容された。龍馬は明光丸船長高柳楠之助と話し合い、両船をつなぎ、鞆の津まで曳航することを決めたが、途中宇治島付近でいろは丸は沈没してしまった。

実に怨み報ぜざるべからず

慶応3年(1867年)4月24日、龍馬と明光丸船長高柳楠之助との合議により、いろは丸沈没の善後策を協議するため、明光丸は備後鞆の津に入港した。海援隊一同は小曽根英四郎の周旋で桝屋清左衛門方に投宿し、龍馬は紀州藩との交渉に入った。

龍馬は事件解決まで明光丸の出航をひかえることを要請したが、高柳は主用である長崎への回航を急ぐとして明言を避けた。

翌25日、龍馬は急場の難を救うため1万両の支払いを求めたが、高柳は勘定奉行茂田一次郎と相談し金一封を贈ると回答した。龍馬が受け取りを拒否したため、紀州藩は1万両に返済期限を決めることを条件につけたが、龍馬はこれは弁償金の一部として受け取るので返済するべき性質のものではないと主張した。

結局、海援隊と紀州藩の交渉は不調に終わり、4月27日、明光丸は藩命を至上として龍馬たちを鞆の津に残したまま長崎に出航してしまった。

激怒した龍馬は、「この怨みは必ず報復する」と紀州藩との戦いを決意し、航海日誌と応接書を隊士一同に回覧させ結束を固め、世論を集めるためその写しを西郷吉之助・小松帯刀、中岡慎太郎たちへと送った。

『慶応三年四月二十八日 菅野覚兵衛、高松太郎宛』
拝啓。然に大極丸は後藤庄次郎引受くれ申候。そして小弟をして海援長と致し、諸君其まま御修行被成候よふ、つがふ付呉候。是西郷吉が老侯にとき候所と存候。福岡藤次郎此儀お国より以て承り申候。
然に此度土州イロハ丸かり受候て、大坂まで急に送り申候所、不計も四月廿三日夜十一時頃、備後鞆の近方、箱の岬と申所にて、紀州の船直横より乗かけられ、吾船は沈没致し、又是より長崎へ帰り申候。何れ血を不見ばなるまいと存居候。
其後の応接書は西郷まで送りしなれば、早々御覧可被成候。航海日記書送り申候間、御覧可被成候。此航海日記と長崎にて議論すみ候までは、他人には見せぬ方が宜と存候。西郷に送りし応接書は早早天下の耳に入候得ば、自然一戦争致候時、他人以て我も尤と存くれ候。
惣じて紀州人は我々共乃便船人をして、荷物も何も失しものを、唯鞆の港になげあげ主用あり急ぐとて長崎に出候。鞆の港に居合せよと申事ならん。実に怨み報ぜざるべからず。
早々頓首
四月二十八日   才谷 龍
菅野覚兵衛様
多賀松太郎様
追而船代の外二千金かりし所、是は必代金御周旋にて御下被成るよふ御頼み申し候。


別紙ハ航海日記、応接一冊を西郷ニ送らんと記せしが猶思ふに諸君御覧の後、早々西、小松などの本ニ御廻、付てハ、石川清の助などにも御見せ奉願候。又だきにて御一見の後、御とどおき被成候てハ、不安候間、御らん後、西郷あたり早早御見せ可被下候。実ハ一戦仕りと存候間、天下の人ニよく為知て置度存候。早早。
四月廿八日   龍
菅野様
多賀様

龍馬の遺書

いろは丸は海援隊の全てを賭けた事業であり、龍馬は不退転の決意で交渉にのぞむべく、長崎に向かう途中、慶応3年(1867年)4月29日に船便で下関に立ち寄り、身辺の整理をおこなった。

妻お龍が世話になっている伊藤助太夫に手紙を2通したため、一通目には覚書を書き、「一、留守の間、お龍が住んでいる自然堂へは、親友の者でも立ち入らせないこと。一、他所から来た親友の者の一宿一飯の事であっても一切断ること」を依頼した。

『慶応三年五月七日 伊藤助太夫宛』
覚書二条
一、此度の出崎ハ、非常の事件在之候ニ付、留守ニ於も相慎可申、然レバ信友のものといへども、自然堂まで不参よふ、御玄関御番衆まで御通達被遣度候事。
一、私し留守ニて他所より尋来り候もの、或ハ信友と雖ども、一飯一宿其事一切存不申事。
右の事ニ仕度候間、宜御頼申上候。
拝首。
五月七日
茶翁先生  龍
左右

二通目には、「一、龍馬とお龍の生活の一切は、三吉慎蔵と印藤肇両氏にお引き合わせ相談してもらいたい。一、費用は全て月末締めで支払うが、もし気づかない点があれば御台所奉行(伊藤家会計)や御役人(伊藤家使用人)から請求して欲しい」と書き、後日金銭の迷惑がかからないよう配慮している。

『慶応三年五月七日 伊藤助太夫宛』
追白、御案内の通り此度長崎ニ出候得バ、いかが相成候や不被計候得バ、左の覚さし 舌代出し置候。
一、兼而私ら両人の所ハ三印両兄聞取ニ相成、御家に止宿御頼申候事故、私両人生活の一事ハ一切上の両兄に御引合可被遣候。
一、私方物好ニて他人呼入候て、費用在之分ハ、一切私方よりさし出し申候。 但月末末ニ算用相立候。
もし又私方心付不申分ハ、御台所奉行より書付御さしこし可被遣候よふ御頼申上候。
且又、私方洗濯女など雇入候時ハ、其ノ飯料ハ通常旅人宿の時の相場の下等成方ニ算用仕度、此儀御役人中ニも御達可被遣候。以上。
五月七日  龍(朱印)
好茶翁先生
机 下

そして長崎へ旅立つ際、信頼する三吉慎蔵に遺言状を託し、「万一の時には、お龍を土佐に送り返す手続きをおこない、坂本家から使用人が来るまでの間、お龍の面倒をみてもらいたい」と頼んでいる。

『慶応三年五月八日 三吉慎蔵宛』
此度出崎仕候上ハ、御存の事件ニ候間、万一の御報知仕候時ハ、愚妻儀本国ニ送り可申、然レバ国本より家僕乃老婆壱人、御家まで参上仕候。其間愚妻おして尊家に御養置可被遣候よふ、
万万御頼申上候。拝稽首。
五月八日  龍馬
慎蔵様
左右

[封 表面]
三吉慎蔵様  坂本龍馬
御直披
[封 裏面]
五月八日出帆時ニ認而家ニ止ム。
卯  (朱印)

万国公法

この頃、紀州藩の態度に憤慨した海援隊士の佐柳高次と腰越次郎が明光丸への襲撃を企てたが、龍馬は勝算があるとして2人の軽挙を押さえていた。龍馬の勝算とは、今回のいろは丸事件を『万国公法』に照らし合わせて審理することであった。

万国公法とは、イギリス・アメリカ・フランス・オランダの法を基礎としてまとめられた法律書のことで、慶応元年(1865年)に江戸の開成所などで翻訳され、出版されていた。原書は米国のヘンリー・ウェアトン著『国際法の要点』で、上海などで多発した海難事故の解決に利用されていた。

龍馬はこれを利用することで紀州藩側の非を主張し、世論の支持を集めようと考えていた。そのため、知り合いの秋山氏に万国公法を送ってもらい、出版することを計画していた。

『慶応三年五月十一日 秋山某宛』
唯御送り 但万国公法。 難有奉存候。そして活板字がたり不申ざれバ、其不足の字ハ御手許より御頼か、又ハ伏水ニて御相談、以前の板木氏師ニ御申付可被成下奉頼候。謹言。
 十一日
 秋山先生  才谷
  左右

一方、紀州藩は明光丸を長崎に入港させ、奉行所に対して衝突事件の報告をおこない、事故の原因を「いろは丸が両舷の灯火を怠っていたために衝突した」と上書した。

坂本龍馬、いろは丸事件を解決し日本の海路定則を定める

金を取らずに国を取る

慶応3年(1867年)5月13日、坂本龍馬は長崎に到着し、15日から再び紀州藩との交渉が開かれた。出席者は海援隊から坂本龍馬、長岡謙吉、佐柳高次、腰越次郎、小谷耕蔵、これに土佐藩から森田晋三、橋本麒之助、紀州藩からは明光丸船長高柳楠之助の他8人である。

席上互いに航海日誌を交換し、海路図を示して衝突の原因責任について激しく議論した結果、海援隊は次の事実を紀州藩に認めさせた。
・衝突直後、海援隊士が明光丸に乗り組んだ時、航路を見守るべき当番士官が不在であった。
・衝突後、明光丸は船体を後退させ、再び前進していろは丸に衝突した。

慶応丁卯四月廿三日、紀伊公之蒸汽船我蒸汽船ヲ衝突ス、我船沈没ス。
其証、
衝突之際我士官等彼甲板上ニ登リシ時、一人之士官有ルヲ見ズ。是一ヶ条。
衝突之後彼自ラ船ヲ退事凡五十間計、再前進シ来ツテ我船ノ右艫ヲ突ク。是二ヶ条。
五月十六日海援隊文司長岡謙吉応接席上ニ於テ書ス

龍馬はこの事実をもって万国公法による判断を下すべきであると主張した。だが紀州藩は海援隊を浪士集団とあなどり、長崎奉行所の裁決を得ることを主張し、御三家の権威を背景に政治的圧力を加えようとした。

龍馬はこれに対抗するため長州藩の木戸準一郎(桂小五郎)と相談し、「船を沈めたその償いは、金を取らずに国を取る」という俗謡を花街で流行させた。非は紀州藩にあり、海援隊には一戦を交える覚悟があると宣伝したのである。

この世論操作の効果は絶大で、人気同情が海援隊に集まり、長崎市中の商人から子供いたるまでが、「紀州を討て、紀州の船を取れ」と口々に戦争をすすめに来た程であった(『慶応三年五月二十八日 伊藤助太夫宛』)。

後藤象二郎の大憤発

海援隊と紀州藩の議論が平行線をたどる中、土佐藩参政後藤象二郎が長崎に到着し、慶応3年(1867年)5月22日、聖徳寺において明光丸勘定奉行の茂田一次郎と交渉をおこなった。

後藤は、まず紀州藩が長崎奉行所に上書した中に「いろは丸に左右の舷灯がなかったために衝突した」とあるが、これは確証がなく公正な判断を妨げるものであると責め立て、茂田に上書の撤回を約束させた。

そしてさらに、「貴藩のこれまでの土佐藩士への仕打ちは非常に冷酷であり無礼である。後日この一件は主君に報告するが、今後の出様によってはどのような結果となるかも知れぬ。この点をよく心得てもらいたい」と凄んでいる。

幾度かの交渉を経ても結論が出ず、龍馬と後藤の策謀を恐れた紀州藩側は「女のいいぬけ」や「病気なり」を理由に交渉を避けていたが、龍馬と後藤は止宿先に乗り込んで散々に議論した。

そして5月26日、龍馬の提案により、「汽船衝突事故は我が国では未だ準拠すべき判例がなく、長崎滞在中のイギリス海軍提督に万国の例を聞き公論を求める」ことで合意した。

翌27日、龍馬は配下の黒沢直次郎を使いに、午前10時を期してイギリス海軍提督を訪問する誘いの手紙を明光丸船長高柳楠之助の止宿先へ持たせたが、取次に出た男は「高柳は昨日から留守である」と答えた。

そこで黒沢は、「昨夜九ツ時頃、こちらへ参った時は高柳先生は在宿だった。それを昨日から留守であるとは合点がゆかぬ」と詰め寄り、奉行所の仲裁でおさまった。

実は、紀州藩は勝算がないものとみて、薩摩藩の五代才助に調停を頼み、龍馬らを避けていたのであった。この顛末はお龍に送った手紙に書かれており、高柳の居留守を「おかしき咄し」と笑っている。

『慶応三年五月二十八日 坂本鞆(お龍)宛』
其後ハ定而御きづかい察入候。しかれバ先ごろうち、たびたび紀州の奉行、又船将などに引合いたし候所、なにぶん女のいいぬけのよふなことにて、度々論じ候所、此頃ハ病気なりとてあわぬよふなりており候得ども、後藤庄次郎と両人ニて紀州の奉行へ出かけ、十分にやりつけ候より、段々義論がはじまり、昨夜今井・中島・小田小太郎など参り、やかましくやり付候て、夜九ツすぎにかえり申候。
昨日の朝ハ私しが紀州の船将に出合、十分論じ、又後藤庄次郎が紀州の奉行に行、やかましくやり付しにより、もふもふ紀州も紀州も今朝ハたまらんことになり候ものと相見へ、薩州へ、たのみニ行て、どふでもしてことわりをしてくれよとのことのよし。
薩州よりわ彼イロハ丸の船代、又その荷物の代お佛候得バ、ゆるして御つかハし被成度と申候間、私よりハそハわ夫でよろしけれども、土佐の士お鞆の港にすておきて長崎へ出候ことハ中中すみ不申、このことハ紀州より主人土佐守へ御あいさつかわされたしなど申ており候。此ことわまたうちこわれてひとゆくさ致候ても、後藤庄次郎とともにやり、つまりハ土佐の軍艦もつてやり付候あいだ、けしてけして御安心被成度候。先ハ早早かしこ。
五月廿八日夕  龍
 鞆殿
猶、先頃土佐蒸氣船夕顔と云船が大坂より参り候て、其ついでに よふどふさま 御隠居様 土佐御いんきよより後藤庄次郎こと早々上京致し候よふとの事、私しも上京してくれよと、庄次郎申おり候ゆへ、此紀州の船の論がかた付候得バ、私しも上京仕候。此度の上京ハ誠ニたのしみニて候。
しかし右よふのことゆへ下の関へよることができぬかもしれず候。京に三十日もおり候時ハ、すぐ長崎へ庄次郎もともにかへり候間、其時ハかならずかならず関ニ鳥渡なりともかへり申候。御まち被成候。
○おかしき咄しあり、お竹に御申。直次郎事ハ此頃黒沢直次郎と申おり候。今日紀州船将高柳楠之助方へ私より手がみおや候所、とりつぎが申ニハ高柳わきのふよりるすなれバ、夕方参るべしとのことなりしより、そこで直次郎おおきにはらおたてゆうよふ、此直次郎昨夜九ツ時頃此所にまいりしニ、其時高柳先生ハおいでなされ候。夫おきのふよりるすとハ此直次郎きすてならずと申けれバ、とふとふ紀州の奉行が私しまで手紙おおこして、直次郎ニハことわりいたし候よし。おかしきことに候。かしこかしこ。
此度小曽清三郎が曽根拙蔵と名おかへて参り候。定めて九三の内ニとまり候ハんなれども、まづまづしらぬ人となされ候よふ、九三ニも家内ニもお竹ニも、しらぬ人としておくがよろしく候。
後藤庄次郎がさしたて候。かしこかしこ。

いろは丸事件の決着

調停の依頼を受けた五代才助は、後藤象二郎と龍馬を説得し、また紀州藩代表の茂田一次郎も自ら後藤をたずね謝罪したことで、賠償金8万3千両を支払う条件で決着がついた。

証書
一金 八万三千五百二十六両百九十八文
   内三万五千六百三十両 伊呂波丸沈没につき船代
   四万七千八百九十六両百九十八文 右につき積荷物等代価
右金高来る十月限り長崎表において相違なくあい渡すべく申し候 以上

  慶応三年丁卯六月
紀伊殿家来茂田一次郎
  土州候御内 後藤象二郎殿

いろは丸事件解決後、龍馬をはじめとする海援隊の名が高まり、「この事件は、日本の海路定則を決定したものだ」ということで、船乗りたちが連日話を聞きに押し寄せたそうである(『慶応三年六月二十四日 坂本権平宛』)。

一方紀州本藩では、「才谷(龍馬)は大胆不敵な人物であり、彼の配下の海援隊士などは浮浪剽悍の(血気盛んな)暴士どもばかりで、この事件に猛って、ややもすれば暴威脅迫を加えてきたので、茂田は畏怖し、途方もない賠償金の約束をさせられた」として、この処置に異論が噴出した。

そのため同年10月頃、岩橋轍輔らを長崎に出張させ、土佐藩大監察佐々木三四郎と土佐商会岩崎弥太郎と交渉をおこなった。海援隊からは龍馬の代理として中島作太郎が同席し、協議の末、賠償金を7万両に引き下げることで合意した。

坂本龍馬、土佐藩に時勢収拾の八ヵ条の案「船中八策」を示す

船中八策

慶応3年(1867年)6月9日、坂本龍馬は後藤象二郎と共に土佐藩船夕顔丸に乗り込み、長崎を出港し京都へ向かった。

この5月に京都では、薩摩藩の画策による島津久光(薩摩)、松平春嶽(越前)、山内容堂(土佐)、伊達宗城(宇和島)の四侯会議が開かれていた。その目的は長州藩処分と兵庫開港問題で四侯と将軍徳川慶喜を対立させ、実権を幕府から四侯会議に移すことにあった。

後藤の上京は容堂の奮起をうながすためであり、この航海の船中で龍馬は薩長に遅れをとる土佐藩に時勢救済策として八ヶ条の案、いわゆる『船中八策』を示した。

『船中八策』
一、天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令宜しく朝廷より出づべき事
一、上下議政局を設け、議員を置き、万機を参賛せしめ、万機宜しく公議に決すべき事
一、有材之公卿諸侯及び天下之人材を顧問に備へ、官爵を賜ひ、宜しく従来有名無実の官を除くべき事
一、外国の交際広く公議を採り、新に至当之規約を立つべき事
一、古来の律令を折衷し、新に無窮の大典を撰定すべき事
一、海軍宜しく拡張すべき事
一、御親兵を置き帝都を守衛せしむる事
一、金銀物貨宜しく外国と平均の法を設くべき事
以上八策は方今天下の勢を察し、之を宇内万国に徴するに、之を捨てて他に済時之急務あるなし。荀くも此数策を断行せば、皇国を挽回し国勢を拡弘し、万国と並行するも亦敢て難しとせず。伏て願くは公明正大之道理に基づき、一大英断を以て天下を更始一新せん。

この八策は将軍徳川慶喜が自ら朝廷に政権を返上する大政奉還を軸に、上下議会の開設、人材の登用、外国との新条約の締結、憲法の制定、海軍の充実、御親兵の設置、金銀交換率の均一化といった新しい国家体制が構想されていた。

これに従い幕府が朝廷に政権を返上すれば、薩長から武力討幕の大義を奪い、徳川家が存続されながら倒幕が実現する。また王政復古のもとに議会政治をおこない、その首座に徳川慶喜を置くことで、徳川譜代の暴発を抑えようとしていた。

これは徳川家存続を考える山内容堂を納得させるものであり、後藤はこの案をもって容堂を説得し、大政奉還建白によって土佐藩を政治の主流に導こうと考えていた。

ところが龍馬と後藤が上京した時、四侯会議に失望した容堂は病気を理由に土佐へ帰国した後であった。四侯の意見が一致せず協同歩調がとれなかったため、求めた長州藩への寛典処分は棚上げにされ、主導権を握った慶喜の独断により先議された兵庫開港の勅許が下されたのである。

そこで後藤は藩論を大政奉還建白策に統一するべく、在京の福岡藤次、寺村左膳、佐々木三四郎らを説得し、その同意をとりつけた。

薩土盟約の成立

龍馬がいろは丸事件で長崎に釘付けになっていた時、慶応3年(1867年)5月21日、龍馬と共に薩長連合を周旋した中岡慎太郎によって、土佐藩と薩摩藩の間に武力討幕を目的とする「薩土密約」が結ばれていた。

中岡は「富国強兵というものは戦の一字にあり」として、江戸にあった乾退助を京都へ呼び出し、在京の谷干城、毛利恭介と共に、薩摩藩の西郷吉之助、小松帯刀、吉井幸輔らと会談をおこない、この密約を結んだのである。

6月14日、京都に着いた龍馬は河原町三条下ル材木商酢屋に寄宿し、翌15日、中岡のもとを訪れて大政奉還建白策を藩論とすることを告げた。中岡は大政奉還は書生論に過ぎないと考えてはいたが、一応了解した。

そして龍馬と後藤は、討幕挙兵を急ぐ薩摩藩の動きを抑えるため、家老小松帯刀の賛同を求めた上で、6月23日に京都三本木の料亭で薩土首脳会談を開いた。土佐藩から後藤象二郎、福岡藤次、寺村左膳、薩摩藩から西郷吉之助、小松帯刀、大久保一蔵、浪士代表として坂本龍馬、中岡慎太郎が参加した。

薩摩藩は四侯会議の決裂後から討幕挙兵を画策していたが、土佐藩の大政奉還建白策は討幕構想と対立するものではなく、幕府が献策を採用しない場合にはそれを機に幕府と断交する決意があることから、異議なく同意して「薩土盟約」が締結された。

さらに後藤は自分の覚悟を示すため、10日あまりで藩論を統一し藩兵を率いて上京するが、万一の時には自分と同志の者だけでも討幕挙兵に加わることを約束した。

『薩土盟約書』
約定の大綱
一、国体を協正し万世万国に亘りて恥じず、是れ第一義
一、王政復古は論なし、宜しく宇内の形勢を察し参酌協正すべし
一、国に二帝なし、家に二主なし、政刑唯一君に帰すべし
一、将軍職に居て政柄を執る、是天地問あるべからざるの理なり。宜しく侯列に帰し、翼戴を主とすべし
右方今の急務にして天地問常有の大条理なり。心力を協ーにして斃れて後己まん。何ぞ成敗利鈍を顧るの暇あらんや
皇慶応丁卯六月

続く26日には芸州藩重役の辻将曹を交えた会談がおこなわれ、芸州藩も大政奉還建白策に大筋で同意し、薩土に芸州広島藩を加えた『薩土芸三藩約定書』が締結された。

そして7月8日、後藤は土佐に帰国し、翌9日山内容堂・豊範に面会し、大政奉還の建白を進言した。政局の見通しを失っていた容堂はこの案に歓喜し、13日に後藤、神山左多衛、真辺栄三郎、寺村左膳らを呼び、建白準備を命じた。

だが、後藤の要請した藩兵の上京については、大政返上の周旋に兵の後ろ盾は無用であるとして固く禁じた。

イカルス号事件、海援隊士への水夫殺害嫌疑

海援隊士への嫌疑

慶応3年(1867年)7月6日未明、長崎の花街丸山でイギリス軍艦イカルス号の乗組水夫ロバート・フォードとジョン・ホッチングスの2人が何者かにより殺害された。ただちに長崎奉行による犯人捜索がおこなわれたが、事件解決には至らなかった。

おりから長崎に帰港したイギリス公使ハリー・パークスが自ら調査したところ、市中の噂では犯人は土佐藩海援隊士と同じ白袴筒袖を着ていたという。また事件の翌朝、海援隊の横笛丸が長崎を出港したのに続き土佐藩砲艦の若紫丸が出港、横笛丸は正午に帰港したが若紫丸はそのまま土佐に帰国していたことが判明した。

そこからパークスは、横笛丸が犯人を乗せて港外に出て海上で若紫丸に移乗させたのち長崎へ戻ってきたと考え、長崎奉行に海援隊士の取り調べを要請したが、風説であり根拠がないとして受けつけられなかった。

これに激怒したパークスは幕府と交渉して直接土佐藩へ掛け合うとして、7月20日に長崎を発ち22日大坂に到着し、老中板倉勝静に激しく抗議した。

幕府は調査をおこなうため若年寄平山敬忠、大目付戸川忠愛、目付設楽岩次郎を土佐に出張させることを決定し、在京の土佐藩重役に対し同行することを要請した。

突然呼び出された佐々木三四郎、由比猪内らは、風説と猜疑をもって犯人を土佐藩士と断定したのは非礼であり、大坂で交渉することを主張したが、板倉の説得でおさまった。

佐々木は幕府役人の同行を拒否すると、在坂中の西郷吉之助に相談して薩摩藩船三邦丸を借り、8月1日、土佐に向けて兵庫を出港した。出港する直前に坂本龍馬が小舟に乗って同船へこぎ着け、松平春嶽から山内容堂への書状を佐々木に手渡した。

事件の善後策を協議している内に船は錨を上げてしまったので龍馬はそのまま同行し、一行は8月2日に土佐須崎に入港した。

2度の脱藩をした龍馬は藩内の佐幕派の反感を買っていたので碇泊中の土佐藩船夕顔丸に潜伏し、佐々木は上陸し高知城下までかごを飛ばした。そして、ただちに山内容堂に謁見して事件の次第を報告し、次いで龍馬の一件を伝えると容堂は「何分やかましいことだ」と笑って同意した。

翌3日、幕府の回天丸が須崎に入港し、5日に平山敬忠ら幕府役人が高知入りした。続く6日に公使ハリー・パークス、通訳アーネスト・サトウが乗るパブリスク号が須崎に入港した。

土佐談判

慶応3年(1867年)8月7日、土佐藩船夕顔丸の船上で後藤象二郎とハリー・パークスの談判が開かれた。パークスは机を叩き怒鳴りつけるなどの威圧的な態度をみせたが、後藤の毅然とした抗議を受けて態度をあらためた。

翌8日、第2回目の談判が開かれ、土佐藩側から後藤象二郎、佐々木三四郎、由比猪内、前野源之助、イギリス側から公使ハリー・パークスと通訳アーネスト・サトウ、被告側から野山伝太、寺田典膳、幕府側から設楽岩次郎が出席した。

この談判でイギリス側は態度を軟化させ、海援隊士犯人説は風説にもとづくところがあるため、再び長崎で調査をおこなうことで合意した。

夕顔丸に潜伏していた龍馬は、8月8日に兄権平に手紙を出し、イカルス号事件の消息を伝えている。その際時計一個を贈り、「かの御所持の無名の了戒二尺三寸の御刀なにとぞ拝領願ひたし。その代り何ぞ御求めなされたき西洋物これあり候はば御申し聞け願ひ奉り候」と」代わって家蔵の刀一振を求めている。

8月12日、藩庁から長崎出張を命じられた佐々木三四郎、岡内俊太郎、松井周介は、パークスから全権を託されたサトウと共に夕顔丸に乗り込み長崎に向かった。龍馬は船内に潜み、一行と共に14日に下関に寄港し、15日に長崎へ入港した。

龍馬は小曽根邸の海援隊本部をたずねた後、佐々木の止宿先池田屋で岡内、松井、土佐商会の岩崎弥太郎らと会合した。協議の末、犯人に金1千両の懸賞金をかけて捜索をおこなったが、手がかりはいっこうにつかめなかった。

長崎裁判

慶応3年(1867年)8月18日、長崎奉行による正式の取り調べが始まり、事件当日現場近くの料亭で海援隊の菅野覚兵衛、佐々木栄、渡辺剛八の3人がいたことが判明したため、彼らを審問することになった。

菅野・佐々木は鹿児島へ行き長崎にはいなかったので、2人を呼び戻すため、岡内俊太郎、石田英吉、佐柳高次が幕船長崎丸に搭乗して25日出帆し、鹿児島から連れ戻した。

9月2日、菅野・佐々木に対する聞き取りがおこなわれたが、事件に関する証拠はなく、海援隊の嫌疑は晴れたとの結論を出した。ただ、これまでの取り調べで虚偽がったとして菅野覚兵衛・佐々木栄・渡辺剛八の3人に申口不束、岩崎弥太郎は横笛丸出港に不備があった取締不念との理由で、「恐れ入る様に」と命じられた。

9月7日、一同麻上下着用で奉行所に出頭し、佐々木と岩崎は恐れ入ったが、菅野と渡辺はその理由がないと頭を下げず、10日までねばり、奉行側が仕方なく譲歩し、お構いなしということになった。

これついて龍馬は佐々木三四郎に宛てた手紙の中で「「只今、戦争相すみ候処、然るに岩弥(岩崎弥太郎)、佐栄(佐々木栄)かねて御案内の通りに、兵機も無之候へば、余儀無く敗走に及び候。独り菅(菅野覚兵衛)、渡辺(渡辺剛八)の陣、敵軍あへて近寄りあたはず」と2人の剛情を賞賛している。

『慶応三年九月十日 佐々木三四郎宛』
只今戦争相すみ候処、然るに岩弥、佐栄兼て御案内の通りに、兵機も無之候へば無余儀敗走に及び候。独り菅、渡辺の陣、敵軍あへて近寄り能はず、唯今一とかけ合はせは仕り候。当る所ひらき申候。竊に思ふ、富国強兵、且雄将のはたらき、東夷皆イウタンを落し申さんと奉存候。
卯九月   梅拝
佐々木先生

イカルス号事件の真相

イカルス号事件については、明治新政府の誕生後もハリー・パークスは犯人捕縛を要求し、明治元年(1868年)8月、外国事務局判事大隈八太郎(重信)、土佐藩大監察林亀吉らが長崎に派遣され再調査を始めた。

その結果、犯人は筑前福岡藩士の金子才吉であり、しかも当人は犯行直後すでに自殺していることが判明した。

金子は藩でも嘱望された人物であったが、7月6日深夜外国水夫が路上で寝ているのを見て嫌悪のあまり斬り捨て、翌7日藩庁へ自首した後国際関係の紛糾を恐れ、8日深夜切腹したのである。

福岡藩は嫌疑を受けた土佐藩が苦境に立たされたのを見過ごし、事件を秘匿し続けていたが、遂にそれが暴露されたため土佐藩に重役を派遣し謝意をあらわした。

明治政府は真相が判明すると、福岡藩に対して被害者イギリス水夫の妻子養育費の補償を命じた。パークスは明治4年(1871年)1月28日付で土佐藩に対して英文の挨拶文を山内容堂に送り、これでイカルス号事件は終結した。

坂本龍馬、大政奉還と武力討幕への道

老婆の理屈

イカルス号事件への対応によって坂本龍馬の大政奉還運動は一時中断されたが、その間も長州藩の木戸準一郎、土佐藩の佐々木三四郎たちと議論を交わしていた。

木戸は大政奉還建白論には否定的であり、アーネスト・サトウの言葉を引用して「西洋では昔より公論と思って天下に唱えながら、それがおこなわれない時、そのままにしておくことを老婆の理屈といって男子として最も嫌うものだ。しかしながら近頃の建白はそのような気配がする」(『慶応三年八月二十一日付』)と忠告し、「上方の芝居も近寄り此度の狂言(大政奉還)は大舞台の基を相立て、甘くては成功しない。乾頭取(乾退助)と西吉座元(西郷吉之助)ととくと打ち合わせて手筈を決めるべきである」(『慶応三年九月四日付』)と武力討幕への用意を促した。

当然龍馬にも武力討幕への覚悟はあり、長府藩士三吉慎蔵に宛てた手紙に「幕府との開戦のあかつきには、長府藩および薩長土3藩の軍艦を集めて連合艦隊を編成し、幕府海軍に対抗する」(『慶応三年八月十四日 三吉慎蔵宛』)とある。また、キリスト教の勢力を利用して幕府を混乱させようとも考えていた。

そして大政奉還の議論周旋に頼る土佐藩を薩長の武力討幕路線に加えるべく、佐々木と相談の上オランダ商人ハットマンからライフル銃1300挺、代価18875両で購入した。

この支払は龍馬の周旋で薩摩藩長崎駐在藤安喜右衛門から大坂為替5000両の融資を受け、その内4000両は銃代内金としておさめ、1000両を周旋料として海援隊の経費にまわした。銃代残金は90日限り完済の約束で、請人となった商人鋏屋与一郎と広瀬屋丈吉に抵当としてライフル銃100挺をあずけた。

武力討幕への布石

慶応3年(1867年)9月18日、龍馬は借用した芸州藩船震天丸にライフル銃を積み込み長崎を出港した。同月20日下関に立ち寄り、行き違いに出港する船で薩摩藩士大久保一蔵が鹿児島に向かった。

大久保は9月18日、山口で毛利敬親・定徳父子に謁見し木戸準一郎や広沢兵助と謀議の上、討幕挙兵を約定し帰国したのであった。

龍馬は伊藤俊輔と会談し、伊藤から「もし、そのライフル銃が土佐で不要ならば長州が引き受けます」との提案を受けたという。これは暗に土佐藩主流の因循を皮肉ったものであった。

時勢が急迫したことを直覚した龍馬は長州山口の木戸に手紙を書き、後藤象二郎がこの期に及んでなお出兵をためらうならば、後藤を下げて武力討幕派の乾退助を推すことを伝えた。

『慶応三年九月二十日 木戸準一郎宛』
一筆啓上仕候。
然ニ先日の御書中大芝居の一件、兼而存居候所とや、実におもしろく能相わかり申候間、弥憤発可仕奉存候。
其後於長崎も、上国の事種々心にかかり候内、少少存付候旨も在之候より、私し一身の存付ニ而手銃一千廷買求、芸州蒸気船をかり入、本国ニつみ廻さんと今日下の関まで参候所、不計も伊藤兄上国より御かへり被成、御目かかり候て、薩土及云云、且大久保が使者ニ来りし事迄承り申候より、急々本国をすくわん事を欲し、此所ニ止り拝顔を希ふにひまなく、残念出帆仕候
小弟思ふに是よりかへり乾退助ニ引合置キ、夫より上国に出候て、後藤庄次郎を国にかへすか、又は長崎へ出すかに可仕と存申候」先生の方ニハ御やくし申上候時勢云云の認もの御出来に相成居申候ハんと奉存候。
其上此頃の上国の論は先生に御直ニうかがい候得バ、はたして小弟の愚論と同一かとも奉存候得ども、何共筆には尽かね申候。
彼是の所を以、心中御察可被遣候。猶後日の時を期し候。誠恐謹言。
 九月廿日
   龍馬
木圭先生
左右

そして京・大坂の同志に武器を提供するためライフル銃200挺を菅野覚兵衛と陸奥源二郞(宗光)にあずけ、大坂へ直航させた。

9月24日、高知浦戸に入港した龍馬は岡内俊太郎を使者に立て、仕置役渡辺弥久馬に「一刻を争て急報奉り候」とした手紙と木戸より龍馬宛の書簡を届けた。

同日六ツ時(午後6時頃)渡辺は大目付本山只一郎、大監察森権次と共に城東松ヶ鼻の茶亭に龍馬を迎えた。龍馬は薩長の挙兵が迫る京都情勢の切迫を伝え、渡辺たちの周旋により回漕したライフル銃は全て土佐藩が買い入れることになった。

その後29日、龍馬は戸田雅楽(尾崎三良)を連れて約5年ぶりに実家に帰り、兄権平はじめ乙女、姪春猪らとの再会をはたした。

坂本家で2泊した後10月1日、龍馬は震天丸に乗り込み浦戸を出港したが風浪のため須崎へ帰り、土佐藩船空蝉丸に乗り替えて5日出帆し、6日大坂に到着した。

大政奉還への布石

慶応3年(1867年)10月9日、龍馬は海援隊士中島作太郎、土佐藩下横目岡内俊太郎、三条卿衛士戸田雅楽と共に京都入りし、河原町四条上ル近江屋新助方に投宿した。

龍馬のこうした動きは世間の注目するところとなっていたようで、この頃発行された瓦版に「この度坂本龍馬が海援隊の壮士300人を連れて上がった」と書かれていた程で、これを見た龍馬は「実際は我々痩せ侍がわずか5、6人である」と言って一同は大笑いしたという。(尾崎三良 『尾崎三良自叙略伝』)

翌10日、龍馬は中島、岡内を連れて洛外白川村の中岡慎太郎のもとを訪れた。中岡は同年7月に陸援隊を組織すると土佐藩白川藩邸を隊の拠点としていた。

薩長土と連携し挙兵の準備が整っていることを中岡は告げ、龍馬は自己の面目と命を賭して大政奉還を実現させることを決意し、次の手紙を送り後藤象二郎を激励した。

『慶応三年十月十日頃 後藤象二郎宛』
去ル頃御健言書ニ国躰を一定し政度ヲ一新シ云々の御論被行候時ハ、先ヅ将軍職云云の御論は兼而も承り候。此余幕中の人情に不被行もの一ヶ条在之候。
其儀は江戸の銀座を京師ニうつし候事なり。此一ヶ条さへ被行候得バ、かへりて将軍職は其ままにても、名ありて実なれけれバ恐るるにたらずと奉存候。
此所に能能眼を御そそぎ被成、不行と御見とめ被成候時は、義論中ニ於て何か証とすべき事を御認被成、けして破談とはならざるうち御国より兵をめし御自身は早早御引取老侯様に御報じ可然奉存候。破談とならざる内ニ云云は、兵を用るの術ニて御座候。謹言。
十月
楳   拝首
後藤先生
左右

ここで龍馬は、大政奉還建白の際幕府が将軍職辞退に難色を示した時は、貨幣鋳造権を幕府から奪い、江戸の銀座を京都に移してしまえば将軍とは名ばかりで実体の伴わないものだから、将軍職については譲歩しても構わないとしている。

だが、それでも幕府が決断しないとみえた場合は、将軍の発言を証拠として書面にし、破談とならないうちに本国から兵を派遣する段取りを整え、土佐に引き上げ容堂公に報告すべしとした。

大政奉還、第15代将軍徳川慶喜が朝廷に政権を返上

大政奉還建白書

慶応3年(1867年)9月初旬、山内容堂の命を受けて後藤象二郎は上京し、薩摩・長州藩との調整をつけた上で10月3日、福岡藤次と共に老中板倉勝静をたずねて2通の大政奉還建白書を提出した。

1通は松平容堂(山内容堂)名義の「皇国数百年の国体を一変し、至誠を以て万民に接し王政復古の業を建てざるべからざるの大機会」と建白の趣旨を述べ、もう1通は土佐藩家臣神山左多衛、福岡藤次、後藤象二郎、寺村左膳の連名によるもので、朝廷のもとにある列藩会議への政権委譲を訴えたものであった。

一方、上京してきた坂本龍馬は10月10日、福岡藤次の紹介で幕府若年寄格永井尚志に面会し、建白書の採用を説いた。永井は龍馬を「後藤よりも一層高大にて、説くところも面白し」と評価したという。

この時龍馬は「はなはだ露骨なれども、御身自ら幕府の兵力を量りて薩長両藩の連合に当り得べしと思考し玉ふか」と問いただした。

永井は少し考え込んで「残念ながら勝算なし」と答えると、「然らば容堂の建白を御採用の外に道なきに候はずや」と迫り、永井を沈黙させたという。(樋口真吉 『丁卯筆記』)

余は誓ってこの公のために一命を捨てん

慶応3年(1867年)10月13日、将軍徳川慶喜は在京40藩の重臣たちを二条城に召集し、自らの決意を表明した。

この日こそ国の安危に関わると考えた龍馬は登城前の後藤象二郎に手紙を託し、「大政奉還が拒否された場合は死を決意している先生が下城しない時は、海援隊を率いて将軍が参内する道路を待ち受け、この不倶戴天の敵を討ち取り、事の成否に関わらず地下にて面会しよう」と檄を飛ばしている。

『慶応三年十月十三日 後藤象二郎宛』
御相談被遣候建白之儀、万一行ハれざれば固より必死の御覚悟故、御下城無之時は、海援隊一手を以て大樹参内の道路ニ待受、社稷の為、不戴天の讐を報じ、事の成否ニ論なく、先生ニ地下ニ御面会仕候。
○草案中ニ一切政刑を挙て朝廷ニ帰還し云云、此一句他日幕府よりの謝表中ニ万一遺漏有之歟、或ハ此一句之前後を交錯し、政刑を帰還するの実行を阻障せしむるか、従来上件ハ鎌倉已来武門ニ帰せる大権を解かしむる之重事なれバ、幕府に於てハいかにも難断の儀なり。
是故に営中の儀論の目的唯此一欸已耳あり。万一先生一身失策の為に天下の大機会を失せバ、其罪天地ニ容るべからず。果して然らバ小弟亦薩長二藩の督責を免れず。豈徒ニ天地の間に立べけんや。
   誠恐誠懼
 十月十三日   龍馬
後藤先生
左右

手紙を受け取った後藤もこれに応えてその場で一書したため、「死を以て廷論する」決意で二条城に向かった。

華書拝披於僕万々謝領す。文中政刑を朝廷に帰還云々之論不被行時者、勿論生還するの心無御座候。併今日の形勢に依り後日挙兵の事を謀り飄然として下城致哉も不被計候得共、多分以死廷論するの心事、若僕死後、海援隊一手云々は君之見時機投之に任す。妄挙挙勿被事。已に途城程度に迫れり、大意書之奉答。頓首
   十月十三日   後藤元曄
 坂本賢契

在京の各藩重臣は全て登城し、八ツ時(午後2時)将軍慶喜は書を下し、「政権を朝廷に帰し奉り、広く天下之公儀を尽し、聖断を仰ぎ、同心協力、共に皇国を保護仕り候」と政権返上の決意を示した。

その後、薩摩藩小松帯刀、土佐藩後藤象二郎、福岡藤次、芸州藩辻将曹、宇和島藩都築荘蔵、備前藩牧野権六郎が別途面会した。

小松は大政奉還には将軍職辞退が含まれることを示唆したが、後藤はその英断をたたえると同時に速やかにこれを朝廷に奏聞することをうながした。

そして後藤は退城後ただちに書状をしたため、「大樹公政権を朝廷に帰する号令を示せり」と龍馬のもとへ送った。

この日京都にあった海援隊士と同志たちは龍馬の下宿近江屋に集まって、後藤からの一報を待っていた。

そこへ届いた書状を一読した龍馬は傍らの中島作太郎をかえりみて、「将軍家の今日の心中さこそ察し申す。よくも断じ給えるものかな。よくも断じ給えるものかな。余は誓ってこの公のために一命を捨てん」と感激の言葉を放ったという。(渋沢栄一 『徳川慶喜公伝』)

武家政権の終焉

慶応3年(1867年)10月14日、大政奉還を決意した将軍徳川慶喜は、高家大沢基寿を使者として朝廷に使わし、『大政奉還上表文』を提出した。

『大政奉還上表文』
臣慶喜、謹て皇国時運の改革を考候に、昔王綱紐を解き相家権を執り保平の乱政権武門に移てより、祖宗に至り更に寵眷を蒙り二百余年子孫相承、臣其職を奉ずと雖も、政刑当を失ふこと少なからず。
今日の形勢に至り候も、畢竟薄徳之致すところ、慙懼に堪ず候。
況や当今外国之交際、日に盛なるにより、愈朝権一途に出申さず候ては、綱紀立ち難く候間、従来の旧習を改め、政権を朝廷に帰し奉り、広く天下の公儀を尽し、聖断を仰ぎ、同心協力共に皇国を保護仕り候得ば、必ず海外万国と並び立つべく候。
臣慶喜、国家に尽すところ是に過ぎずと存じ奉り候。去り乍ら、猶見込の儀も之有り候得ば、申聞くべき旨、諸侯へ相達置候。之に依て此段謹て奏聞仕り候。以上。

その夕方、小松帯刀、後藤象二郎、福岡藤次、辻将曹の4人が摂政二条斉敬の屋敷をたずね、ただちに大政奉還奏上の勅許を強要した。その結果、翌15日将軍慶喜の参内が許され、その席で御沙汰書を授けて政権奉還が勅許された。

討幕の密勅

慶応3年(1867年)10月14日、正親町三条実愛が大久保一蔵(薩摩藩)と広沢兵助(長州藩)を自宅に招き、賊臣徳川慶喜を殄戮すべしとする「討幕の密勅」を降下した。

『討幕の密勅』
詔す。源慶喜、累世の威を藉り、闔族の強を恃みて、妄りに忠良を賊害し、数王命を棄絶し、遂に先帝の詔を矯めて懼れず、萬民を溝壑に擠して顧みず、罪悪の至る所、神州将に傾覆せんとす。
朕、今民の父母たり、是の賊を討たずして、何を以て上は先帝の霊に謝し、下は万民の深讐に報ぜんや。
此れ朕の憂憤在る所、諒闇にして顧みざるは、萬巳むを得ざるなり。
汝宜しく朕の心を體すべく、賊臣慶喜を殄戮し、以て速やかに回天の偉勲を奏し、而して生霊を山嶽の安きに措くべし。
此れ朕の願いなり。敢えて惑懈すること無かれ。 奉

さらに京都守護職会津藩主松平容保、京都所司代桑名藩主松平定敬(容保実弟)討伐の命の宣旨および錦の御旗が授けられた。

この討幕の密勅は岩倉具視の近臣玉松操の起草といわれ、明治天皇の直筆もなく、中山忠能、中御門経之、正親町三条実愛の連署があるものの花押がない形式的にはきわめて異常である偽勅であった。

この密勅は大政奉還後に出されたため実行力を失ったと解釈されるが、薩摩藩の狙いは直後に意味があった。それは大政奉還による幕府権威の弱体化に乗じて藩内の挙兵反対派を抑え、一気に討幕の流れをつくることにあったのである。

坂本龍馬、新国家の政体案「新政府綱領八策」を起草

新官制擬定書

慶応3年(1867年)10月15日、将軍徳川慶喜の大政奉還が、勅許された。ところが、前日には薩長両藩にあてた討幕の密勅が、岩倉具視らの画策によって降下されていた。この重大な事を、坂本龍馬は知らない。

この頃龍馬は、新政府の人事案である『新官制擬定書』を、長岡謙吉、戸田雅楽と相談して作り上げている。

『新官制擬定書』
関白
三条実美(公卿)
内大臣
徳川慶喜(徳川)
議奏
有栖川宮熾仁親王(宮家)、仁和寺宮嘉彰親王(宮家)、山階宮晃親王(宮家)、島津忠義(薩摩)、毛利広封(長州)、松平春嶽(越前)、山内容堂(土佐)、鍋島閑叟(肥前)、徳川慶勝(尾張)、伊達宗城(宇和島)、正親町三条実愛(公卿)、中山忠能(公卿)、中御門経之(公卿)
参議
岩倉具視(公卿)、東久世通禧(公卿)、大原重徳(公卿)、長岡良之助(肥後)、西郷吉之助(薩摩)、小松帯刀(薩摩)、大久保一蔵(薩摩)、木戸孝允(長州)、広沢平助(長州)、横井小楠(肥後)、三岡八郎(越前)、後藤象二郎(土佐)福岡藤次(土佐)、坂本龍馬(土佐)

そして10月24日、龍馬は、後藤象二郎の要請を受け、越前福井に向かった。これは、土佐藩主山内容堂の親書を越前侯松平春嶽に届け、上京を要請するためであった。龍馬は、岡本健三郎と家来1人とともに京都を出立し、10月28日に越前城下に到着した。

龍馬は松平春嶽に拝謁した後、財政政策を相談するため、三岡八郎(由利公正)との面談を願い出ている。当時三岡は、挙藩上洛計画の挫折により謹慎中だった。そのため、用人の松平源三郎と目付の出淵伝之丞が立ち会うことで許され、11月2日に龍馬の止宿先の煙草屋で面談がおこなわれた。

『子爵由利公正伝』 (由利正通編)
烟草屋へ這入って龍馬と呼んだら、ヤー噺す事が山程あるといふ。其顔を見ると直に天下の事成就と思はれた。自分は罪人であるから立合人をつれて来たと断りごといへば、おれも同様付人がある、健三来よと呼ぶ、これは土佐の目付の下役で、岡本健三郎といふ人だ。共に聞けよとの事で、土佐越前の役人を左右に置き、坂本と私と両人は炬燵に這入って、徳川政権返上の次第、朝廷の事情等、曲さに聞いた。[中略]
夫から名分財源経綸の順序まで、予の貯へた満腹の意見を語り、夜半九ツ過るまで我を忘れて咄した。

三岡は、龍馬から京都の状況を聞き、新政府と幕府の武力衝突を懸念して、戦争に対する対策を問いかけた。龍馬は、これに対して「不戦なり」と答え、討幕挙兵を否定したという。

さらに、三岡が、幕府から戦争を起こした場合はどうするのかと重ねて問うと、「これ最も至難事なり。朝廷の金殻の蓄へなく、また信任の兵なし」と答えている。

続いて、龍馬は新政府の財政を充実させるための方策を、三岡に尋ねた。三岡は、新政府の威光をもって人民を信服させ、信用を基礎として金札(兌換紙幣)を発行することを説いた。

新政府綱領八策

龍馬は11月3日に福井を発ち、5日に帰京した。その後、龍馬は、新しい日本の国家構想を示した『新政府綱領八策』を執筆する。

第一義、第二義では幅広い人材の登用、第三義では国際交流の推進、第四義では憲法の制定、第五義では二院制の導入、第六義では海軍陸軍の組織、第七義では天皇を守る軍隊の組織、第八義では金銀物価の外国との平均化が述べられている。

後半部分の○○○の伏せ字に書かれるべき名は、慶喜公という説と、容堂公という説とがあるが、これを見る人々が自由に名前を入れて読むことができるよう配慮したともいわれている。

『新政府綱領八策』
第一義
  天下有名の人材を招致し顧問に供ふ
第二義
  有材の諸侯を撰用し朝廷の官爵を賜ひ現今有名無実の官を除く
第三義
  外国の交際を議定す
第四義
  律令を撰し新に無窮の大典を定む、律令既に定れは諸侯伯皆此を奉して部下を率す
第五義
  上下義政所
第六義
  海陸軍局
第七義
  親兵
第八義
  皇国今日の金銀物価を外国と平均す

右預め二、三の明眼士と議定し諸侯会盟の日を待つて云々
〇〇〇自ら盟主と為り此を以て
朝廷に奉り始て天下万民に公布云々
強抗非礼公議に違ふ者は断然征討す、権門貴族も賃借する事なし
   慶応丁卯十一月      坂本直柔
第一義、天下有能の人材を招いて顧問にする。
第二義、有材の諸侯を選んで朝廷の官職に任命し、必要でない官職は廃止する。
第三義、外交との交際を議定する。
第四義、法律を選定し、新しく憲法を制定する。新しい制度が定まれば、諸侯はこれに基づいて家臣を統率する。
第五義、上院下院を設立する。
第六義、海陸軍局を設立する。
第七義、近衛兵を組織する。
第八義、金銀の価値を外国と平均させる。
右の項目は二、三の学識者と検討して、諸侯会議の日を待って云々。
○○○自ら盟主となり、これを朝廷に奏上し、初めて天下万民に公布する云々。
朝廷に反抗する者は断然として征討する。権門貴族といえども容赦しない。
慶応丁卯月十一月   坂本直柔

世界の海援隊は無かった?

大政奉還の後、龍馬は、新政府の人事案『新官制擬定書』を作成し、薩摩藩の西郷吉之助、大久保一蔵らに披露した。ところが、その一覧の中に、大政奉還の立役者たる龍馬の名がなかった。これを不審に思った西郷は、その旨を龍馬に尋ねた。

龍馬は役人は嫌いだと答え、「世界の海援隊でもやらんかな」と言って笑った、という有名な逸話がある。

だが、これは創作であり、事実ではない。龍馬とともに新官制案を作成した戸田雅楽(尾崎三良)の手控えには、参議候補として龍馬の名前が挙がっている。つまり、龍馬には、新政府に参加する意志があったのである。

『男爵尾崎三良手扣』
一、参議 若干名
公卿、諸侯、大夫、士庶人をもってこれに充つ。大政に参与し、かねて諸官の次官を分掌す
(暗に小松、西郷、大久保、木戸、後藤、坂本、三岡八郎、横井、長岡良之助等をもってこれに擬す)

この世界の海援隊の逸話は、陸奥宗光(陽之助)とお龍(楢崎龍)の回想をもとに創作されたと考えられている。

陸奥の回想。「龍馬あらば、今の薩長人などは青菜に塩だね。維新前、新政府の役割を定めたる際、龍馬は世界の海援隊云々と言えり。この時龍馬は西郷より一層大人物のように思われき」

お龍の回想。「瀬戸の内海は諸君も御承知の通り、風景の佳絶なる処ですから、お良は我知らず甲板に出でて彼方此方と眺めて居ります所へ、龍馬が来て、良如何だ中々風景の好い海じやろ、お前は船が好きじやから、天下が鎮静して、王政回復の暁には、汽船を一隻造へて日本の沿岸を廻つて見やうかと、笑ひながらお良の肩を軽くをさへました、お良もぬからぬ顔で、はい妾は家なぞは入りませむからただ丈夫な船があれば沢山、それで日本はおろか、外国の隅々迄残らず廻つて見度う御座いますと云ひましたので、龍馬は思はず笑ひ出し、突飛な女だと此事を西郷に話しますと、西郷がなかなか面白い奴じや、突飛な女じやからこそ寺田屋でも君達の危うかつたのを助けたのじや、あれが温和しい者であつたら君達の命が如何なつたか分らないと果ては大笑ひに、笑つたさうです」

近江屋の凶変、坂本龍馬・中岡慎太郎 暗殺さる

忍びよる危険

幕末最大のミステリーといわれる坂本龍馬暗殺事件。それは、慶応3年(1867年)11月15日に起こった。京都河原町蛸薬師下ル近江屋の2階で、坂本龍馬が数名の刺客により、中岡慎太郎、山田藤吉とともに斬殺された。

この事件は、佐幕派と倒幕派の政治闘争が、頂点に達したときに起きた出来事だった。徳川慶喜は、大政奉還によって将軍職を辞したものの、莫大な領地を所有しており、徳川家を中心とした二院制議会の設立を構想していた。一方、公家の岩倉具視、薩摩藩の西郷吉之助、大久保一蔵、長州藩の木戸貫治は、王政復古を発して将軍職を廃止し、同時に辞官納地を徳川家に迫ろうと考えていた。こうした状況の中、事件は起こったのである。

龍馬が京都に入ったのは、10月9日である。浪士の巨魁である彼の動きは、佐幕派の的であり、この一報は直ちに幕吏のもとにもたらされている。戸田雅楽の手控えにも、 「時に坂本、名を変じて才谷梅太郎と云ふ。幕吏の探偵を避くるなり。然るも尚流言あり、土佐の豪侠坂本は、頃日、浪士三百人を率ゐ窃に京師に入込めりと、幕吏の之を忌憚する事甚し」とある。

龍馬は、はじめ河原町三条にある材木商の酢屋嘉兵衛方に投宿したが、危険が迫っていることを感じ、寓居を近江屋新助方へと移した。近江屋は、河原町通り蛸薬師下ルにあった土佐藩御用達の醤油屋である。

幕吏の存在に気づいた龍馬は、安全のため土佐藩邸に入ることを望んでいた。だが、これに藩内の保守派たちが反対し、藩邸側はこれを拒んだ。脱藩罪を許されたとはいえ、かつて国法を犯した者を受け入れる雰囲気は、土佐藩になかったのである。

そこで、薩摩藩士の吉井幸輔が、龍馬を薩摩藩邸に迎え入れようとした。しかし、龍馬は母藩への遠慮からこれを断り、また、探していた松山藩関係の屋敷にも入ることもかなわず、藩邸に近い近江屋に留まることになった。

『慶応三年十月十八日 望月清平宛』
拝啓
然ニ小弟宿の事、色色たずね候得ども何分無之候所、昨夜藩邸吉井幸輔より、こと伝在之候ニ、未屋鋪ニ入事あたハざるよし。四條ポント町位ニ居てハ、用心あしく候。其故ハ此三十日計後ト、幕吏ら龍馬の京ニ入りしと謬伝して、邸江もたずね来りし。されバ二本松薩邸ニ早早入候よふとの事なり。
小弟思ふニ、御国表の不都合の上、又、小弟さへ屋鋪ニハ入ルあたハず。又、二本松邸ニ身をひそめ候ハ、実ニいやミで候得バ、萬一の時も存之候時ハ、主従共ニ此所ニ一戦の上、屋鋪ニ引取申べしと決心仕居申候。又、思ふニ、大兄ハ昨日も小弟宿の事、御聞合被下候彼御屋鋪の辺の寺、松山下陳を、樋口真吉ニニ周旋致させ候よふ御セ話被下候得バ、実ニ大幸の事ニ候。
上件ハ唯、大兄計ニ内内申上候事なれバ、余の論を以て、樋口真吉乃其他の吏吏も御御申聞被成時ハ、猶幸の事ニ候。不一
且敷 頓首頓首
十八日   龍馬
私の宿所の事を種々方々に尋ね探しましたが、適当なところが見つからず、昨夜薩摩藩邸の吉井幸輔より伝言があり、「貴方は、まだ河原町土佐藩邸には入ることはできないので、四条先斗町あたりに住んでいては用心が悪いのです。その理由は、この30日ばかり前に幕府役人が、龍馬が京都に入ったと誤伝して、土佐藩邸へ訪ねてきたからです。そういうわけで、身の安全のため二本松薩摩藩邸に早々にお入り下さい」との事でした。
私が思うに、かつて土佐国法に不都合(脱藩)をしたため、本国に対しはばかりがあって、藩邸に入ることができません。また、二本松薩摩藩邸に身をひそめることは、実に土佐藩に対し当て付けがましいので、近江屋に留まります。
万一、刺客に取り囲まれた場合は、主従共にここで一戦の上、土佐藩邸に引き取ってもらうつもりです。そこで、大兄は昨日も小弟の宿の事を心配して、方々に探し聞き合わせて下されているそうですが、土佐藩邸あたりの寺か松山藩屋敷を、樋口真吉に周旋させることをお世話いただけるなら、実にありがたいことです。
宿所の件は、大兄に内々に申し上げた事なので、他の話とあわせて、樋口真吉やその他の藩吏にも龍馬の名を出さずに周旋していただけると非常にありがたいことです。

近江屋の主人井口新助は、龍馬の身を気づかい、裏庭の土蔵に密室をつくり、万一のときには、ハシゴ伝いに裏の誓願寺へ逃られる用意をしていた。また、寝具食事の世話は、自身が運び入れるなどし、家人にもこのことを知らせていなかったという。

ところが、越前の旅から帰ってきた頃から、龍馬は体調を崩し、用達しなどに不便を覚えて、母屋の2階に移っていた。これは龍馬が襲われた11月15日の、前日のことであった。

事件当日、龍馬は午後3時頃に、近くの酒屋に下宿している福岡藤次を訪ねたが、不在であった。午後5時頃に再び訪問したが、このときも福岡は不在であり、彼の馴染みの芸者おかよと世間話をしたのち、近江屋に帰宅した。

夕方午後6時頃、陸援隊長の中岡慎太郎が、近江屋を訪ねてきた。この訪問は、前年9月12日に起きた三条制札事件で、新選組に捕らえられた土佐藩士の宮川助五郎の身柄引取りを相談するためだった。

龍馬は、2階奥の8畳間で北側の床の間を背にし、火鉢をはさんで南面して中岡と対座し、話を聞いた。2つ部屋を隔てた表の間では、従僕の藤吉が楊枝をけずっていた。

午後7時過ぎ、菊屋峰吉がやって来て、ほとんど同じ頃に岡本健三郎があらわれた。峰吉は、土佐藩邸に出入りしていた書店菊屋の息子で、このときは中岡の使いで薩摩屋に手紙を届け、その返事を持参したのであった。岡本は龍馬の随員として、越前福井へ同行した土佐藩士である。

しばらくの間話し込んでいたが、龍馬は腹が減ってきたので、峰吉に軍鶏を買って来てくれと頼んだ。岡本は一緒に食おうと誘われたが、これを機会に帰ろうと思い、峰吉とともに近江屋を出た。2人は四条通りで別れ、峰吉は四条小路の鳥新で軍鶏を注文し、午後9時過ぎに帰宅した。

近江屋の凶変

刺客が近江屋に侵入したのは、2人の出立から間もなくのことだった。

表で来客を伝える声があり、藤吉が応対に出ると、男が一人立っていた。男は名刺を差し出し、「拙者は十津川の者だが、坂本先生御在宿ならば御意を得たい」と告げた。

藤吉は名刺を受け取り、2階の龍馬のもとへ届けようと、階段を上がっていった。その隙に3人の刺客が侵入し、藤吉を尾行した刺客の1人が、無言のまま抜き打ちに斬りつけた。藤吉は声を上げたが、刺客は叫ばせまいと6太刀斬り、絶命させた。

この騒ぎを聞いた龍馬は、藤吉がふざけていると思い、「ほたえな!」と大喝した。この声で刺客は標的の居場所を確信し、2人の刺客が、疾風の如く奥の8畳間に斬り込んだ。1人は、「こなくそ!」と叫びながら中岡の後頭部を斬撃した。もう1人は、龍馬の前額部を横に払った。

とっさに龍馬は、後ろの床の間に置いていた佩刀(陸奥吉行)を取ろうと身をひねったが、右の肩先から左の背骨にかけて大袈裟に斬られた。

刀を掴んで立ち上がろうとしたが、刺客の三の太刀が襲い、鞘のままかろうじて受け止めた。だが、敵の斬撃は凄まじく、鞘越し3寸程龍馬の刀身を斜めに削り、その余勢をもって龍馬の前額部を深く薙ぎ払った。

脳漿が吹き出す重傷を受け、龍馬は、「石川、刀はないか、刀はないか」と叫びながら、その場に崩れた。

その中岡も刀を屏風の後に置いたので、それを取る間がなく短刀を取ったが、これを抜く隙もなく、鞘のまま闘った。だが、敵は巧みに寄せつけず、左右の手と両足とを斬られ、中岡は気絶した。

刺客は念のため、中岡の腰を2度斬りつけ、その死を確かめて、「もうよい、もうよい」と言って立ち去った。中岡は、この腰部に受けた痛みで蘇生したが、死を装ってやり過ごした。

しばらくして、龍馬が気を取り戻した。刀を抜いて行灯の火に照らし、中岡の方をかえりみて、「石川、手は利くか」と尋ねた。中岡は、「利く」と答えた。

龍馬は次の6畳間へはって進み、階段口から家人に医者を求めたが、その声に力はなかった。そして、かすかな声で、「おれは脳をやられた。もういかん」と言って、うつぶせたまま絶命した。

中岡も苦痛に耐えながら、中敷居から裏の物干し台へはい出て、家人を呼んだが通じなかった。さらに、屋根伝いに北隣の井筒屋嘉兵衛方の屋上まで進んだが、そこで力尽きて動けなくなった。

中岡慎太郎の証言

近江屋新助は、2階の騒動に驚いて表へ出ると、抜刀した刺客の1人が見張りをしていた。そこで、すぐに引き返して妻子を物置に隠し、裏口から蛸薬師の小路に出て、土佐藩邸に駆け込んだ。

知らせを受けた藩邸からは、下横目の島田庄作が、第一に近江屋に駆けつけた。島田は、表に見張りがいないので屋内に気を配り、抜刀して敵を待ち構えていた。

そこに、峰吉が帰ってきた。島田の姿に驚いていると、「実は今、坂本と中岡がやられた。今にも賊が降りてきたら、一刀のもとに殺してやる」と事情を聞かされた。

だが、先刻まで何事もなく、峰吉は半信半疑でツカツカと中へ入った。台所から裏口に出ると、物置の方から人の気配がした。物置の戸を開けると、そこには近江屋新助夫人が隠れていて、ガタガタと震えながら、「峰吉さん、悪者が入って、2階は大騒ぎになっている」と語った。

峰吉は、子供心に恐ろしい有様を見たくなり、台所に戻り2階へ上がった。上がり口には、背を斬られた藤吉が、横倒れに苦しんでいた。峰吉が大声で島田を呼ぶと、早速島田がやって来た。

落ち着いて四方を見渡すと、奥の間には龍馬が倒れており、隣の屋根には苦しい息の中から、助けを呼んでいる中岡がいた。峰吉は中岡を助けて、座敷へと運び出した。

その間に、土佐藩邸から曽和慎八郎、谷干城、毛利恭助が相次いで駆けつけた。峰吉は中岡の依頼を受け、白河の陸援隊本部へ向かい、この事件を知らせた。居合わせた田中顕助は、途中薩摩藩邸に立ち寄り、吉井幸輔を伴って、近江屋へ向かった。その後、香川敬三、本川安太郎も集まってきた。

中岡は、重傷ながらも意識はしっかりしており、馳せ参じた同志に向かい、次の様に語った。

「誠に遺憾千万であるが、併し此通りである。速くやらなければ君方もやられるぞ」(『谷干城講演「坂本中岡暗殺事件」』)

「なかなか実にどうも鋭いやり方で自分等も随分従来油断はせぬが、何しろ非常な所謂武辺場数の奴に相違ない。此くらい自分等二人居つて不覚を取ることはせぬ筈だが、どうする間もない。たつたコナクソと言ふ一言でやられた」(『谷干城講演「坂本中岡暗殺事件」』)

「どうも四国人であらふ」(『谷干城講演「坂本中岡暗殺事件」』)

「因循姑息と罵りし幕府党中にも、這般の挙をなすものあり、諸君決して等閑勿れ」(秋月鏡川著 『後藤象二郎』)

「手許に刀を置かざりし故に、不覚を取りき、諸君今後注意せよ」(『維新土佐勤王史』 瑞山会著)

田中顕助は、「長州の井上聞多は、あれ程斬られても生きたり、先生も意を強くせよ」と中岡を励まし、一時は回復して焼き飯などを食した。

しかし、後頭部に受けた深い傷が致命傷になり、次第に吐き気をもよおし、遂に17日夕刻、絶命した。享年30歳。従僕の藤吉も6ヶ所の傷を受けており、16日に絶命した。享年25歳。

龍馬が暗殺された日は、奇しくも、彼の33回目の誕生日であった。

坂本龍馬暗殺の犯人は?

慶応3年(1867年)11月15日、京都河原町蛸薬師下ル近江屋の2階で、佐々木只三郎ら7人の見廻組士に龍馬は暗殺された。この事件は幕末最大のミステリーともいわれ、実行犯と黒幕については諸説あり、主なものは次になる。

●実行犯
見廻組:佐々木只三郎、今井信郎、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼之助、土肥仲蔵、桜井大三郎
●黒幕
会津藩主松平容保
●動機
伏見寺田屋で幕吏を短銃で殺害したため
●実行犯
見廻組:今井信郎、渡辺吉太郎、桂隼之助、某
●黒幕
-
●動機
幕府のためにも朝廷のためにもならない世を騒がす悪漢であるため
●実行犯
見廻組:佐々木只三郎、渡辺篤、今井信郎、世良敏郎、他2名
●黒幕
-
●動機
徳川幕府の転覆を画策しているため
●実行犯
新選組:原田左之助、他1名
●黒幕
-
●動機
徳川幕府の転覆を画策しているため
●実行犯
新選組
●黒幕
紀州藩士三浦休太郎
●動機
いろは丸号事件による多額の賠償金支払いの報復のため
●実行犯
土佐藩
●黒幕
後藤象二郎
●動機
大政奉還建白によって土佐藩を政治の主流にした功績を独占するため
●実行犯
薩摩藩:中村半次郎
●黒幕
薩摩藩
●動機
大政奉還を実現し武力討幕の障害となるとみなしたため
●実行犯
御陵衛士:服部武雄、富山弥兵衛、加納道之助
●黒幕
薩摩藩
●動機
大政奉還を実現し武力討幕の障害となるとみなしたため

2007年08月10日

坂本龍馬年表 一

和暦 西暦 月日 内容
天保6年 1835年 11月15日 土佐藩郷士坂本八平直足の次男として生まれる
弘化3年 1846年 8月10日 母幸(49)、死去する
乙女、龍馬を愛撫して倦まず、怯を矯め勇をはげまし、以って其の性情を一変す
この年 小高坂村の楠山庄助塾に通い始めるも、塾友との喧嘩により退塾する
嘉永元年 1848年 この年 城下築屋敷の小栗流日根野弁治道場に入門する
嘉永4年 1851年 3月27日 父八平、長男権平直方に郷士職をゆずる
嘉永6年 1853年 3月-日 日根野弁治から「小栗流和兵法事目録」を伝授される
3月16日 15ヵ月間の国暇を許される
3月17日 溝淵広之丞と共に江戸へ出立する
4月中旬 江戸京橋桶町の北辰一刀流千葉定吉に入門する
6月3日 ペリー、軍艦4隻を率いて浦賀に来航する
6月-日 土佐藩の臨時御用に徴用され、品川海岸の警備につく
9月23日 兄権平に「アメリカ沙汰」、父八平に「異国の首を打取り、帰国可仕候」の手紙を書く
12月1日 佐久間象山に入門し、西洋流砲術を学ぶ
安政元年 1854年 6月23日 剣術修行満了につき、土佐に帰国する
閏7月-日 日根野弁治から「小栗流和兵法十二箇条同二十五箇条」を伝授される
11月15日 土佐大地震が発生する
この頃 河田小龍をたずね、世界情勢を聞く
安政2年 1855年 12月4日 父八平(59)、死去する
この頃 近藤長次郎・長岡謙吉・新宮馬之助らとの交友が始まる
安政3年 1856年 2月2日 兄坂本権平、郷士坂本家を継ぐ
8月20日 1ヵ年の国暇を許され、江戸に再遊学する
9月20日 土佐藩江戸築地屋敷に入り、武市半平太・大石弥太郎と同宿する
9月29日 相楽屋源之助に江戸到着を知らせる手紙を書く
安政4年 1857年 8月4日 山本琢磨の時計拾得事件がおこる
8月16日 武市半平太と共に時計拾得事件を処理し、山本琢磨を逃亡させる
9月-日 修行期間満了につき、さらに1年の延長を許される
この頃 千葉定吉から道場塾頭に任じられる
安政5年 1858年 1月-日 千葉定吉から「北辰一刀流長刀兵法目録」を伝授される
7月頃 姉乙女に帰国予定を知らせる手紙を書く
9月3日 剣術修行を終え、土佐に帰国する
11月18日 住谷寅之介・大胡聿蔵から手紙が届く
11月19日 住谷寅之介・大胡聿蔵に返書を書く
11月23日 国境の立川で住谷寅之介・大胡聿蔵と会談する
「誠実可也の人物併せて撃剣家、事情迂闊何も知らず」と評される
11月25日 立川を発ち、土佐に戻る
安政6年 1859年 2月26日 土佐藩主山内豊信、隠居して容堂と号す
9月20日 徳弘孝蔵に入門し、西洋式砲術を学ぶ
万延元年 1860年 1月18日 勝海舟、咸臨丸でアメリカに渡る
3月3日 桜田門外の変がおこる
7月-日 武市半平太らの西国行きを見送る
文久元年 1861年 3月3日 永福寺門前事件がおこり、池田虎之進方に駆けつける
8月-日 武市半平太、江戸で土佐勤王党を結成する
9月13日 平井加尾に袴・羽織・頭巾などの用意を依頼する手紙を書く
9月25日 武市半平太、土佐に帰国する
9月-日 第9番目に土佐勤王党へ加盟する
10月-日 日根野弁治から「小栗流和兵法三箇条」を伝授される
10月11日 剣術詮議の国暇が許され、土佐を出立する
10月14日 田中良助から2両を借りる
10月-日 讃岐丸亀の矢野市之丞をたずね、1ヵ月滞在する
10月29日 翌年2月までの国暇の延長を願い、安芸坊ノ砂に向かう
11月11日 大坂で望月清平と会談する
12月25日 長姉千鶴(45)、死去する

坂本龍馬年表 二

和暦 西暦 月日 内容
文久2年 1862年 1月14日 武市半平太の使者として長州萩を訪問する
1月15日 久坂玄瑞と会談する
文武館で藁束斬りを披露する
1月17日 久坂玄瑞の訪問を受ける
1月21日 久坂玄瑞から武市半平太宛の手紙を託される
1月23日 萩を去る
-月-日 京都・大坂を巡歴する
2月29日 土佐に帰国する
3月1日 武市半平太をたずね、西国情勢を報告する
3月-日 親戚の広光左門から旅費として10余両を借りる
3月23日 河野万寿弥と共に沢村惣之丞と会談する
3月24日 姉乙女から「肥前忠弘」を授かり、沢村惣之丞と共に脱藩する
3月25日 兄権平、福岡家に「昨夜以来行方不明」と届け出る
平井収二郎、妹加尾へ龍馬脱藩に関する手紙を送る
3月25日 高岡郡檮原村の那須信吾方に宿泊する
3月26日 伊予大洲領泉ヶ峠で一泊する
3月27日 長浜の冨屋金兵衛方に宿泊する
兄権平、福岡家に「所蔵之刀紛失の旨」と届け出る
3月29日 長州三田尻港に到着する
4月1日 長州下関の白石正一郎方をたずねる
-月-日 沢村惣之丞と別れ、単身九州を巡歴する
薩摩への入国を試みるも失敗する
4月8日 那須信吾、同志2名と共に吉田東洋を暗殺する
6月11日 沢村惣之丞と大坂で再開する
6月28日 甥高松太郎、藩主山内豊範の行列に加わり土佐を発つ
7月23日 大坂で桶口真吉に会い、1両を贈られる
閏8月-日 江戸に到着し、千葉定吉道場に寄宿する
閏8月26日 間崎哲馬らと会談する
この頃 岡本健三郎と共に松平春嶽をたずね、勝海舟・横井小楠への紹介状を受ける
10月12日 武市半平太、勅使三条実美の衛士となり京都を発つ
10月28日 勅使一行、江戸に到着する
10月-日 千葉重太郎と共に勝海舟をたずねる
世界状勢を説かれ、弟子入りする
日夜、勝海舟邸の警護をおこなう
11月頃 近藤長次郎を勝海舟門下に誘う
12月5日 間崎哲馬・近藤長次郎らと共に松平春嶽に謁見し、摂海海防策を具申する
12月7日 勅使一行、江戸を発つ
12月17日 勝海舟、順動丸に老中格小笠原長行を乗せ品川から京都へ向かう
12月22日 千葉重太郎・近藤長次郎らと共に京都へ出立する
12月25日 勅使一行、御用済となり解散する
12月29日 千葉重太郎・近藤長次郎らと共に兵庫滞在中の勝海舟をたずねる

坂本龍馬年表 三

和暦 西暦 月日 内容
文久3年 1863年 1月1日 千葉重太郎・近藤長次郎と共に兵庫から大坂に向かう
1月8日 勝海舟をたずね、高松太郎・千屋寅之助・望月亀弥太らを入門させる
1月-日 沢村惣之丞・新宮馬之助・安岡金馬らを勝海舟に入門させる
1月11日 勝海舟に随行し、兵庫に向かう
1月13日 幕府艦順動丸に乗船し、兵庫を出港する
1月15日 順動丸、伊豆下田に寄港する
1月16日 勝海舟、法福寺に滞在中の山内容堂を訪問し、龍馬脱藩赦免を要請する
1月25日 大久保一翁をたずねる
1月27日 兄権平、臨時用で京都出張を命じられる
1月下旬 西上する
2月中旬 京都土佐藩邸で7日間謹慎する
2月25日 「御叱りの上別儀なく」と脱藩罪が赦免される
3月4日 将軍徳川家茂、入洛し二条城に入る
3月6日 安岡金馬と共に航海修行の藩命を受ける
3月7日 岡田以蔵、龍馬の依頼で勝海舟の護衛につく
3月-日 京都で兄権平と再会する
3月11日 孝明天皇、賀茂神社に行幸し攘夷を祈願する
将軍徳川家茂、随従する
3月-日 近藤勇、芹沢鴨らと共に壬生浪士組(新選組)を結成する
3月20日 姉乙女に勝海舟への弟子入りを伝える手紙を書く
3月-日 江戸に向かう
4月2日 大久保一翁をたずね、松平春嶽宛の親書を託される
4月3日 順動丸で品川を出航する
4月9日 大坂に到着する
4月16日 大坂を発ち、越前福井に向かう
4月23日 将軍徳川家茂、順動丸で摂海を巡視する
勝海舟、神戸村安永新田に上陸し海軍建興策を説く
4月24日 幕府、神戸海軍操練所設立を決定し、勝海舟に準備を命じる
4月25日 姉小路公知、勝海舟の案内で摂海を巡視する
4月28日 将軍徳川家茂、順動丸で紀淡海峡を巡視する
5月2日 姉小路公知をたずね、「蒸気機関縮図、セバストポール戦図、コノーフ氏散兵答古知機訳本」を贈る
5月16日 越前福井を訪問し、松平春嶽に拝謁する
神戸海軍塾への資金援助を依頼するため、村田巳三郎宛の親書を渡す
5月-日 横井小楠の紹介で三岡八郎と会談する
5月10日 長州藩、アメリカ商船ペンブローク号を砲撃する
5月17日 姉乙女に神戸海軍操練所の設立を伝える手紙を書く
5月20日 姉小路公知(25)、朔平門外で暗殺される
5月23日 長州藩、下関でフランス軍艦キンシャン号を砲撃する
5月25日 長州藩、オランダ軍艦メジュサ号を砲撃する
5月27日 京都越前藩邸の中根雪江をたずね、松平春嶽の上洛を促す
6月1日 アメリカ軍艦、報復として下関を砲撃する
6月2日 広井磐之助の仇討ちに手を貸す
6月5日 フランス軍艦2隻、下関砲台を攻撃して占領する
6月上旬 伊達源二郎の要請を受け、甲宗助から乾十郎を救出する
憤慨した甲宗助に決闘を申し込まれる
勝海舟らの仲介により決闘が中止される
6月16日 池内蔵太の母に内蔵太の脱藩に理解を求める手紙を書く
6月28日 姉乙女に「ねぶと論」を語る手紙を書く
6月29日 京都越前藩邸の村田巳三郎をたずね、騎兵銃1挺を贈る
姉乙女に「日本を今一度せんたくいたし申候」の手紙を書く
7月1日 近藤長次郎と共に村田巳三郎を再訪する
7月2日 イギリス軍艦、鹿児島を砲撃する
7月-日 佐藤与之助と共に松平勘太郎をたずね、時事を談ずる
7月下旬 福井を経て江戸へ向かう
8月13日 攘夷親征・大和行幸の詔勅発布される
8月14日 姉乙女に千葉佐那を紹介する手紙を書く
8月17日 天誅組、挙兵する
8月18日 八月十八日の政変がおこる
-月-日 江戸に滞在する
9月9日 勝海舟に従い順動丸で大坂に到着する
9月21日 土佐藩庁、武市半平太ら土佐勤王党員を投獄する
後藤象二郎、叔父吉田東洋の無念を晴らすべく、厳しい取調べを開始する
9月24日 勝海舟、神戸屋敷に門下生を住まわせ、奥平野村に仮寓する
10月-日 神戸海軍塾の塾頭に挙げられる
10月28日 勝海舟に従い江戸に向かう
11月-日 江戸に滞在する
12月上旬 江戸土佐藩庁から帰国を命じられる
12月6日 勝海舟、江戸詰土佐藩従目付に龍馬らの帰国延期を要請するも拒絶される
この頃 帰国を拒否し、再び脱藩の身となる
12月27日 勝海舟に随行し、翔鶴丸に乗船する

坂本龍馬年表 四

和暦 西暦 月日 内容
元治元年 1864年 1月8日 大坂に到着する
1月中旬 京都に入る
2月9日 勝海舟、四国連合艦隊の下関砲撃調停の命を受け長崎に向かう
高松太郎・千屋寅之助・望月亀弥太・近藤長次郎らと供に勝海舟に随行する
2月14日 翔鶴丸に乗り込み、兵庫を出航する
2月15日 豊後佐賀関に上陸する
2月19日 勝海舟の使者として熊本郊外沼山津の横井小楠を訪問し、見舞いの金品を贈る
2月23日 長崎に到着する
3月-日 長崎に滞在する
4月4日 勝海舟、交渉が不調に終わり長崎を発つ
4月6日 横井小楠を再訪し、横井左平太・忠平と岩男内蔵允を神戸海軍塾に連れ帰る
4月12日 大坂に到着する
4月14日 京都に到着する
4月26日 幕府、京都に見廻組を設立する
5月14日 勝海舟、軍艦奉行に昇任し安房守を称す
5月16日 勝海舟、将軍徳川家茂に随行し翔鶴丸で江戸に向かう
5月29日 幕府、神戸海軍操練所開設を布告し修業生の公募を開始する
5月-日 北添佶麿らと共に蝦夷地開拓を計画する
この頃 楢崎龍と知り合う
6月1日 京都七条の宿屋扇岩にお龍をたずね、別盃する
6月2日 京都を発ち、黒龍丸で江戸に向かう
6月5日 池田屋事件
北添佶麿(29)ら7名が討死、望月亀弥太(27)は重傷を負い自刃する
6月17日 下田に入港する
下田に滞在していた勝海舟をたずね、蝦夷地開拓策を述べる
7月11日 佐久間象山(54)、暗殺される
7月18、9日 禁門の変
勝海舟と共に神戸に滞在する
安岡金馬、長州藩忠勇隊に参加するも敗れて周防三田尻に逃げる
7月28日 翔鶴丸で大坂へ向かう
8月1日 京都に入る
この頃 窮乏の楢崎一家を救い、お龍を伏見寺田屋に預ける
金蔵寺の住職の媒酌でお龍と内祝言をあげる
8月5日 四ヵ国連合艦隊、下関を砲撃する
8月13日 幕府、征長令を発する
8月14日 長州藩、四ヵ国と講和する
8月中旬 京都で西郷吉之助と会談する
8月23日 神戸に帰り、勝海舟に情勢を伝える
9月中旬 勝海舟、神戸海軍塾生の姓名出所について幕府の「内糺」を受ける
10月22日 勝海舟、大坂城代を通じ江戸召還命令を受ける
10月-日 勝海舟、生島四郎太夫に「海軍営之碑」を預ける
10月24日 勝海舟、大坂を発ち江戸に向かう
11月2日 勝海舟、江戸に到着する
11月10日 勝海舟、軍艦奉行免職され寄合入りを命じられる
11月-日 江戸で沢村惣之丞と共に外国船借用をはかるが失敗する
この頃 勝海舟の仲介で薩摩藩の庇護を受ける
翌年4月上旬までの消息不明

坂本龍馬年表 五

和暦 西暦 月日 内容
慶応元年 1865年 3月18日 幕府、神戸海軍操練所を廃止する
4月5日 京都の薩藩士吉井幸輔方で土方楠右衛門と会談する
薩長和解の周旋に賛同する
4月12日 幕府、第二次征長令を発する
4月22日 西郷吉之助、小松帯刀に同行し京都を発つ
4月25日 神戸海軍塾の同志と共に大坂を出立する
4月26日 薩摩藩船胡蝶丸に乗り込み、鹿児島に向かう
5月1日 鹿児島に到着する
西郷吉之助方に滞在し、後に小松帯刀方に移る
5月-日 薩摩藩から薩長和解の周旋を依頼される
5月16日 鹿児島を出立する
神戸海軍塾の同志、小松帯刀に同行し長崎へ
5月19日 熊本沼山津の横井小楠を訪問する
白の琉球絣の単衣を着、鍔細の大小を差した色黒の大男と伝えられる
5月23日 大宰府に到着する
5月24日 五卿に拝謁し、薩長和解を説く
5月25日 東久世通禧に謁見し、「偉人なり奇説家也」と評される
5月27日 三条実美に再び拝謁する
5月28日 小田村素太郎、安芸守衛と共に大宰府を出立する
この頃 神戸海軍塾の同志、薩摩藩と豪商小曽根家の援助を受け社中設立を計画する
閏5月1日 筑前黒崎から下関に渡る
小田村素太郎の紹介で入江和作をたずね、越綿屋弥兵衛方に宿泊する
閏5月2日 病気のため町村屋清蔵方に移り静養する
閏5月5日 白石正一郎方で土方楠右衛門と会談する
閏5月6日 時田庄輔の案内で桂小五郎と会見し、薩長和解を説く
中岡慎太郎、鹿児島に到着する
閏5月11日 武市半平太(37)、切腹する
閏5月16日 中岡慎太郎、西郷吉之助と共に鹿児島を出立する
閏5月18日 中岡慎太郎、佐賀関に寄港する
西郷吉之助、下関に寄らず京都に向かう
閏5月21日 中岡慎太郎、単身下関に来訪する
桂小五郎、大いに憤慨す
閏5月24日 総領事ファン・ポルスブックと桂小五郎の会談に立ち会う
閏5月27日 桂小五郎、山口に帰国する
閏5月29日 中岡慎太郎と共に上京する
この頃 長崎亀山に社中を設立し、商社活動を開始する
6月14日 備前西大寺に到着する
6月15日 藤井に到着し、備前藩士津田彦右衛門・小松源治と会談する
6月24日 京都薩摩藩邸で西郷吉之助と会談する
先の違約を責め、長州藩のため兵器購入の名義貸しを要請する
7月上旬 大和十津川から上京した田中顕助の援助を受ける
7月19日 長州に向かう中岡慎太郎と田中顕助を伏見まで見送る
7月21日 長州藩、兵器購入のため井上聞太と伊藤俊輔を長崎に派遣する
上杉宋次郎の紹介で小松帯刀と面談し、薩摩屋敷に潜伏する
7月27日 福岡藤次と共に伊達宗城に拝謁する
8月中旬 長州藩、高松太郎の斡旋で英国商人グラバーから銃を購入する
9月6日 京都寺町で川村盈進に出会い、実家の様子を聞く
9月7日 兄権平・姉乙女・おやべに長州藩の動静を伝える手紙を書く
9月9日 姉乙女・おやべに亀山社中設立と楢崎龍を紹介する手紙を書く
池内蔵太の家族に内蔵太健在を知らせる手紙を書く
9月-日 姉乙女に『烈女伝』を送ることを依頼する手紙を書く
9月24日 西郷吉之助と共に京都を出立し、大坂へ下る
9月26日 兵庫で胡蝶丸に乗船する
9月29日 周防上ノ関に上陸し、長州藩家老浦靱負と会談する
10月3日 池内蔵太に京都情勢を伝える手紙を書く
小田村素太郎と会談し、薩摩藩への兵糧米供給を要請する
10月4日 長州藩、薩摩藩への米供給を承認し桂小五郎に調達を命ずる
10月7日 下関の白石正一郎をたずねる
10月8日 印藤聿と会談する
10月19日 長州藩、上杉宋次郎の周旋により英国商人グラバーからユニオン号を購入する
上杉宋次郎と井上聞多の間で『桜島丸条約』が成立する
10月21日 下関で桂小五郎と会談し、上京を勧める
継母伊与(62)、死去する
11月7日 幕府、諸藩に長州出兵を命ずる
11月上旬 桜島丸の下関入港を待ち上京する
西郷吉之助に兵糧米の件を報告し、使者を長州を派遣するよう勧める
11月中旬 薩摩藩士黒田了介、山口に赴く
11月24日 大阪を出発し、上ノ関に寄港し長崎に向かう
12月3日 桜島丸運用権についての紛議のため下関を訪問する
印藤聿に下関到着を知らせる手紙を書く
12月14日 長州藩海軍局総官中島四郎と会見し、『桜島丸改定条約』を結ぶ
岩下佐次右衛門・吉井幸輔に西国事情を知らせる手紙を書く
12月27日 桂小五郎、黒田了介らと共に三田尻から乗船し上洛の途につく
12月29日 印藤聿に上京の同伴者を求めた手紙を書く
-月-日 姉乙女、岡上家を離退する(慶応3年11月説あり)

坂本龍馬年表 六

和暦 西暦 月日 内容
慶応2年 1866年 1月1日 長府藩士三吉慎蔵と福永専助方で会談をおこなう
1月2日 引き続き三吉慎蔵と会談し、上京を決意する
1月3日 久保松太郎に木戸貫治宛ての書簡を送る
1月10日 三吉慎蔵と共に日切船で京都に出立する
1月14日 上杉宋次郎(29)、英国密航の計画が露見し自刃する
1月16日 神戸に到着する
1月17日 池内蔵太・新宮馬之助が加わり、兵庫から通船で大坂に向かう
1月18日 大坂薩摩藩邸に入る
大久保一翁を訪問し、厳重手配の忠告を受け感謝して辞去する
1月19日 薩摩藩の船印を掲げ淀川を渡り、伏見寺田屋に入る
1月20日 三吉慎蔵を寺田屋に残し、池内蔵太・新宮馬之助を伴い入京する
木戸貫治を訪問し、帰国決意を聞く
西郷吉之助と会談し、薩摩藩の誠意無き態度を責める
池内蔵太の家族に宛て手紙を書く
1月22日 薩長同盟成立を見届ける
1月23日 木戸貫治、大坂から盟約六ヵ条を記した書簡を龍馬に送り確認の裏書を求める
寺田屋に帰り、潜伏中の三吉慎蔵に薩長同盟成立を告げる
1月24日 八ッ半(午前3時)頃、お龍の知らせを受け、伏見奉行の包囲を知る
短銃を発射し、三吉慎蔵は槍を持って応戦する
捕吏がひるんだ機に脱出し、川端の材木小屋に潜む
三吉慎蔵、伏見薩摩屋敷に急報する
薩摩藩士大山弥八の救出を受け、薩摩屋敷に入る
吉井幸輔が京都から駈け付け、西郷吉之助は医者を差し向ける
1月30日 お龍・三吉慎蔵と共に京都薩摩藩邸に移り、西郷吉之助の宿舎で療養する
2月3日 印藤肇に寺田屋遭難事件を伝える手紙を書く
2月5日 木戸貫治への書簡に朱で薩長同盟の裏書をする
2月6日 木戸貫治に寺田屋遭難事件を報告した手紙を書く
2月12日 幕府、防長の四境に迫る
2月中旬 中岡慎太郎、京都に入る
この頃 中岡慎太郎(西郷吉之助とも)の仲介で楢崎龍を正式に妻とする
3月1日 帰国する小松帯刀・西郷吉之助と共に京都を出立する
お龍が同行し、これが龍馬夫妻の新婚旅行となる
3月3日 大坂に到着する
3月4日 薩摩藩船三邦丸に乗船する
3月5日 大坂沖を出港する
3月6日 三邦丸、下関に寄港し三吉慎蔵・中岡慎太郎が下船する
3月8日 三邦丸、下関を出港する
高松太郎に池内蔵太を同志に加えることを依頼する手紙を書く
3月9日 三邦丸、長崎寄港する
3月10日 三邦丸、鹿児島に到着する
小松帯刀方に逗留し、後に吉井幸輔方に移る
3月16日 お龍を伴い日当山温泉に向かう
3月17日 塩浸温泉に赴き、傷の療養する
3月28日 湯治中の小松帯刀を見舞い、霧島温泉に向かう
3月29日 霧島山に登り天の逆鉾を引き抜き、霧島神宮に参る
3月30日 霧島温泉に宿泊する
この月 土佐藩、長崎に土佐商会を設置する
4月1日 塩浸温泉に戻る
4月5日 日当温泉に移る
4月11日 浜之市に宿泊する
4月12日 鹿児島に戻る
4月14日 開成所を参観し、海軍養成の必要性を説く
4月27日 寺田屋登勢にお龍の妹君君江を案じる手紙を書く
この頃 亀山社中、薩摩藩の援助を受け英国商人グラバーから帆船ワイルウェフ号を6千3百両で購入する
5月1日 ワイルウェフ号、長崎を出港し鹿児島へ向かう
5月2日 ワイルウェフ号、五島列島中通島潮屋崎沖で転覆する
黒木小太郎、池内蔵太ら12名が殉難する
鹿児島入りした桜島丸号から、ワイルウェフ号遭難を報を聞く
西郷吉之助、兵糧米の受領を辞退する
5月29日 西郷吉之助と会談する
6月1日 お龍を伴い桜島丸号に乗船する
6月2日 桜島丸号、鹿児島を出航する
6月4日 桜島丸号、長崎に寄港しお龍を小曾根英四郎の別邸に預ける
6月-日 五島に渡り、江ノ浜郷に「慶応二丙寅五月二日暁天溺死各霊之墓」の碑を建てる
6月14日 桜島丸号、下関に到着する
6月15日 桜島丸号、乙丑丸と改め長州藩海軍総督高杉晋作の指揮下に入る
6月16日 木戸貫治と会談し、兵糧米を報国の資としてもらう
品川省吾に会談の時刻を伝える手紙を書く
6月17日 乙丑丸、長州藩軍艦4隻と共に小倉藩領門司浦・田ノ浦を砲撃する
6月20日 白石正一郎方で高杉晋作と会談する
6月-日 山口に向かう
6月下旬 藩主毛利敬親に拝謁し、羅紗生地などを拝領する
7月4日 木戸貫治に下関到着を知らせる手紙を書く
7月20日 将軍徳川家茂(21)、大坂城内で病死する
7月27日 桂小五郎に幕府軍の動静を伝える手紙を書く
7月28日 三吉慎蔵に亀山社中の苦境を伝える手紙を書く
8月1日 長州藩、小倉城を陥落させる
8月7日 幕府、芸州口から広島に撤退する
8月13日 森玄道・伊藤助太夫に小曽根英四郎の身柄保全を依頼した手紙を書く
8月15日 長崎に戻り、小曽根英四郎方を拠点とする
8月16日 三吉慎蔵に宛て幕府が海峡封鎖を解いた旨を伝える手紙を書く
8月下旬 越前藩士下山尚の訪問を受け面談する
9月2日 勝海舟、長州藩と和議交渉をするため安芸宮島に向かう
10月1日 プロシア商人チョルチーと帆船購入を交渉する
10月5日 吉井友実に謝礼の手紙を書く
10月28日 帆船を受け取り、大極丸と命名する
11月-日 溝渕広之丞に自身の真情を伝える手紙を書く
11月16日 溝渕広之丞に騎銃入手の周旋を伝える手紙を書く
11月20日 寺田屋登勢にお龍の母親の面倒を依頼する手紙を書く
11月下旬 五代才助、広沢兵助と会談し『商社示談箇条書』を作成する
12月4日 坂本家に下関海戦・寺田屋遭難事件を伝える手紙を書く
兄権平に家宝の甲冑・宝刀を求める手紙を書く
姉乙女にお龍との結婚と新婚旅行を伝える手紙を書く
12月5日 一橋慶喜、第15代将軍に就く
12月上旬 長崎に戻る
12月14日 溝淵広之丞を伴い、下関に着く
12月15日 木戸貫治に会談を求める手紙を書く
12月17日 木戸貫治に溝淵広之丞を紹介し、長州・土佐藩の復交を図る
12月24日 伊藤助太夫に船の周旋と旅費を依頼する手紙を書く
12月25日 孝明天皇(37)、崩御する

坂本龍馬年表 七

和暦 西暦 月日 内容
慶応3年 1867年 1月2日 下関の伊藤助太夫方に居住し、自然堂と号する
1月3日 木戸準一郎に伊藤助太夫方を定宿としたことを伝える手紙を書く
1月5日 中岡慎太郎と会談する
1月6日 伊藤助太夫・森玄道に急便をつかわし、三吉慎蔵に京都情勢を伝えることを依頼する
1月9日 下関を発ち長崎に向かう
1月11日 長崎に到着する
1月13日 溝淵広之丞の周旋により清風亭で後藤象二郎と会見する
「昨まで刺さば突うと云う敵同士」が意気投合する
1月14日 木戸準一郎に「土佐国は一新の起歩」を見せたと伝える手紙を書く
1月17日 伊藤助太夫に下関出発を伝える手紙を書く
1月20日 姪春猪に近況を伝える手紙を書く
1月24日 姉乙女に門田為之助と会談したことを伝える手紙を書く
2月10日 お龍を伴い下関伊藤助太夫方に帰る
この頃 竹島・蝦夷地開拓策を練る
2月13日 千屋寅之助の訪問を受ける
姉乙女に近況を伝える手紙を書く
2月16日 三吉慎蔵に後藤象二郎との会談を伝える手紙を書く
2月20日 大山格之助の訪問を受ける
2月22日 三吉慎蔵に情勢を伝える手紙を書く
2月-日 兄権平、「陸奥吉行」を西郷吉之助に託す
2月下旬 土佐藩、坂本龍馬と中岡慎太郎の脱藩罪赦免を決定する
2月27日 3月上旬まで病気療養する
3月14日 河田左久馬を蝦夷開拓計画に誘う手紙を書く
3月20日 下関に立ち寄った中岡慎太郎の訪問を受ける
三吉慎蔵に近況を伝える手紙を書く
3月24日 姪春猪にかんざしを送ることを約束した手紙を書く
4月上旬 後藤象二郎・福岡藤次の計らいで亀山社中を海援隊に改編する
隊長に任命され、『海援隊約規』を制定する
4月6日 伊藤助太夫から借りた6百両を小曽根英四郎より返済させる
4月7日 姉乙女に近況を伝える手紙を書く
4月14日 高杉晋作(28)、病死する
この頃 大洲藩からいろは丸を契約日数15日間、一航海5百両で借りる
4月19日 いろは丸に銃器・弾薬・米・砂糖などを積み込み、長崎を出航する
土佐商会主任岩崎弥太郎、龍馬を訪問する
4月23日 いろは丸、讃岐箱ノ岬と六島の間を航行中、長崎に向かう紀伊藩船明光丸と衝突する
いろは丸、機関室が破壊され浸水し、船首から沈み始める
いろは丸、一度後退した明光丸に再び衝突される
いろは丸、乗組員は明光丸に移乗し、備後鞆ノ津に退避するため明光丸に牽引される
4月24日 いろは丸、午前4時頃、備中宇治島沖で号笛ノ声波間ニ揺らいで沈没する
鞆ノ津に上陸し、宿屋桝屋に入る
魚屋万蔵方で明光丸船将高柳楠之助と談判を開始する
4月25日 紀州藩に1万両の借金を申し込む
4月26日 1万両の返済期限有無をめぐって談判は不調に終わる
4月27日 高柳楠之助、長崎での談判再開を約束し鞆を発つ
佐柳高次・腰越次郎が明光丸に斬り込みをかけようとするのを制止する
4月28日 大坂の菅野覚兵衛・高松太郎に事件を報じる手紙を書き、航海日記の写しを添える
4月29日 下関に帰り、談判の結果によっては一身を投げ出す覚悟で身辺整理を始める
明光丸、長崎に入港し事件を長崎奉行所に届け出る
5月4日 三吉慎蔵の見舞いを受ける
5月5日 三吉慎蔵に見舞いの礼を書く
5月7日 伊藤助太夫に手紙を書き、後事を託す
5月8日 三吉慎蔵に万一の場合のお龍の措置を手紙で依頼する
下関を出発する
5月11日 秋山氏に万国公法の礼を書く
5月13日 長崎に到着する
後藤象二郎に事件の顛末を報告し、紀州藩との交渉再開の準備をする
5月15日 紀州藩代表と会談し、航海日誌を提出し海路図を示す。互いに過失無きを譲らず
5月16日 長崎滞在中の英国海軍提督に万国の例に照らして裁定を求めることを提案する
5月17日 三吉慎蔵に土佐商会員を乗船させることを伝える手紙を書く
伊藤助太夫に談判進捗を伝える手紙を書く
西郷吉之助と乾退助、中岡慎太郎の周旋で会談し武力討幕の密約成る
5月22日 後藤象二郎、紀州藩代表の茂田一次郎と崇徳寺で会談する
英国商人オールト宅で後藤象二郎・岩崎弥太郎と会談する
この頃 「船を沈めたそのつぐないは金を取らずに国を取る」という俗謡を作り、長崎市中で流行させる
5月27日 高柳楠之助を会談に誘うが、高柳は応じず
紀州藩、密かに薩摩藩士五代才助に調停を依頼する
5月28日 お龍にいろは丸事件の談判大詰めを伝える手紙を書く
伊藤助太夫にいろは丸事件の談判大詰めを伝える手紙を書く
伊藤助太夫に小曽根清三郎を唐物取引に推薦する手紙を書く
5月29日 五代才助の調停により、紀州藩から賠償金8万3千両が支払われることで事件が解決する
小谷耕蔵・渡辺剛八にいろは丸事件の結果を伝える手紙を書く
この月 兄権平養子の清次郎(春猪の夫)、土佐を出奔し龍馬を頼る
6月2日 後藤象二郎の宿で、後藤・岩崎弥太郎と会談する
6月3日 岩崎弥太郎をたずね、「兼而余素心の在る所」を聞く
6月6日 岩崎弥太郎と共に大洲藩士玉井氏をたずね、いろは丸船価について相談する
6月9日 後藤象二郎と共に土佐藩船夕顔で長崎を発つ
岩崎弥太郎、龍馬に馬乗袴を贈り「覚えず流涕数行」して見送る
6月10日 下関に寄港し、木戸準一郎を訪問するも不在
木戸準一郎に肥後藩士荘村助右衛門を紹介する手紙を書く
この頃 船中で後藤象二郎に八ヵ条の案(船中八策)を告げる
6月12日 兵庫に入港し、大坂まで陸行する
6月14日 土佐藩論が「船中八策」路線に決定する
6月15日 京都に入り、河原町三条下ル材木商酢屋中川嘉兵衛方に下宿する
中岡慎太郎の来訪を受け、いろは丸事件の詳細を話す
6月-日 長岡謙吉に「船中八策」を起草させる
6月22日 薩摩藩の西郷吉之助・小松帯刀・大久保一蔵、土佐藩の後藤象二郎・福岡藤次・寺村左膳・真辺栄三郎・中岡慎太郎らと会談をおこない、「薩土盟約」が結ばれる
6月23日 佐々木三四郎の招きで、毛利恭助・中岡慎太郎と共に東山カイカイ堂で会談する
6月24日 兄権平に贈られた陸奥守吉行の礼と近況を伝える手紙を書く
姉乙女・姪春猪に宛て脱藩してきた坂本清二郎に失望し、乙女の脱藩計画をいましめる手紙を書く
6月26日 薩土芸三藩、王政復古についての意見が一致し、「約定書」が作成される
この頃 大政奉還論を説き、後藤象二郎と共に武力討幕論を抑える

坂本龍馬年表 八

和暦 西暦 月日 内容
慶応3年 1867年 7月1日 中岡慎太郎と共に十津川屋敷をたずねる
7月4日 後藤象二郎と真辺栄三郎、京都を出立する
長岡謙吉と共に大坂まで同行する
7月5日 大坂に到着する
7月6日 長崎で英国軍艦イカルス号水兵殺害事件起こる
7月7日 後藤象二郎・真辺栄三郎が土佐藩船空蝉に乗るのを見送る
7月9日 黒田了介・永山弥一郎の訪問を受ける
7月20日 上京する
7月26日 中岡慎太郎の紹介で岩倉具視と会談する
7月28日 佐々木三四郎、英国水兵殺害事件の審問のため大坂に下る
7月29日 越前藩邸で事件の概要を聞き、松平春嶽から山内容堂宛の親書託され京都を発つ
佐々木三四郎、老中板倉伊賀守の宿舎で審問を受け、土佐で英国公使と会談することが決まる
この月 中岡慎太郎、京都白川の土佐藩邸で陸援隊が発足し、隊長に就任する
8月1日 佐々木三四郎、早朝兵庫に向かい薩摩藩船三邦丸に乗り込む
佐々木に松平春嶽の親書を手渡し、そのまま同行する
8月2日 須崎に入港し、土佐藩船夕顔に乗り移る
8月3日 外国惣奉行平山図書頭一行の搭乗する幕船回天丸、須崎に到着する
8月5日 寺田屋登勢に土佐到着を伝える手紙を書く
長岡謙吉に土佐到着を伝える手紙を書く
8月6日 イギリス公使ハリー・パークス一行の搭乗する軍艦バジリスク号、須崎に到着する
8月7日 後藤象二郎、土佐藩船夕顔丸にてハリー・パークスと会談する
8月8日 長崎での審問が決定し、ハリー・パークスは横浜へ向かう
兄権平にイカルス号事件を伝え、無銘了戒の刀をねだる手紙を書く
秘かに上陸し、川原塚茂太郎をたずねる
8月12日 夕顔丸、佐々木三四郎・通訳官アーネスト・サトーらを乗せて須崎を出港する
8月14日 下関に上陸し、佐々木高行にお龍を紹介する。同日、夕方出港する
三吉慎蔵に下関到着を伝え、連合艦隊編成を説く手紙を書く
8月15日 長崎に到着し、深夜に佐々木三四郎を訪問する
下手人捜しのための懸賞金を用意することで意見が一致する
8月16日 佐々木三四郎・岩崎弥太郎と会談する
陸奥陽之助に手紙を書く
8月17日 岩崎弥太郎と会談する
8月18日 佐々木三四郎と共に奉行所に出頭する
8月19日 岡内俊太郎に手紙を書く
8月20日 長崎滞在中の木戸準一郎に佐々木三四郎を紹介する
大政奉還論を述べるが、木戸は消極的
8月21日 岩崎弥太郎に長州藩船修理費用の融通を依頼する
8月24日 鹿児島に向けて無断出港した横笛丸の乗組員にイカルス号事件の嫌疑がかかり、呼び戻しが決まる
佐々木三四郎に石田英吉への金銭援助を依頼する手紙を書く
8月25日 岡内俊太郎・石田英吉ら、幕船長崎丸で鹿児島に向かう
佐々木三四郎に手紙を書く
8月26日 佐々木三四郎に木戸準一郎の土佐批判を伝える手紙を書く
8月下旬 佐々木三四郎を宴会に誘う手紙を書く
9月2日 横笛丸、長崎に到着する
9月3日 横笛丸乗組員、運上所において審問を受ける
9月6日 佐々木三四郎に武器購入を伝える手紙を書く
9月10日 横笛丸乗組員、真犯人不明のまま嫌疑が晴れる
佐々木三四郎に菅野覚兵衛・渡辺剛八の勇気を賞賛する手紙を書く
9月11日 土佐商会員による英米人傷害事件が起きる
佐々木三四郎と協議し、奉行所に自首させる
9月13日 陸奥陽之助に手紙を書く
9月14日 オランダ商人ハットマンとライフル銃一千三百挺購入の契約をする
陸奥陽之助、丹後田辺藩と商業契約を交わす
9月18日 芸州藩船震天丸を借りてライフル銃を積み込み、長崎を出港する
佐々木三四郎に預けていた木戸準一郎の手紙の返還を求める手紙を書く
9月20日 下関に寄港し、伊藤俊輔と会談する。菅野覚兵衛・陸奥陽之助に銃2百挺を分与し、大坂に直行させる
木戸準一郎に後藤象二郎を下げ、乾退助を土佐藩の中心とすることを提案する手紙を書く
9月22日 下関を出帆する
9月23日 浦戸に入港し、対岸の種崎に上陸する
9月24日 岡内俊太郎に書状を持たせ、渡辺弥久馬を呼びに派遣させる
9月25日 午後6時、城下はずれの松ヶ鼻で渡辺弥久馬・本山只一郎・森権次と会談する
9月27日 本山只一郎に藩論の統一とライフル銃購入を促す手紙を書く
9月29日 戸田雅楽を伴い6年ぶりに実家に帰る
10月1日 震天丸で浦戸出航するが、風波のため機関が故障し、須崎に引き返す
10月3日 後藤象二郎・福岡藤次、老中板倉伊賀守に大政奉還建白書を差し出す
10月5日 岡内俊太郎の交渉で空蝉丸を借り、須崎を出港する
10月6日 大坂に到着し、土佐堀藩邸で海援隊士らと再開する
10月9日 京都入りし、材木商酢屋に投宿する
兄権平に大坂到着を知らせる手紙を書く
10月10日 白川土佐藩邸の中岡慎太郎をたずねる
10月10日頃 後藤象二郎に銀座移転論を述べた手紙を書く
10月13日 将軍徳川慶喜、二条城に在京四十藩の重臣を招集する
登城前の後藤象二郎に決死の覚悟を促す手紙を書く
後藤象二郎より決死の覚悟を伝える返書が届く
後藤象二郎より大政奉還を伝える手紙が届く
10月14日 将軍徳川慶喜、朝廷に大政奉還を上奏する
薩長二藩に討幕の密勅が下る
10月15日 朝廷、幕府の大政奉還を受理する
この頃 河原町蛸薬師下ル醤油商近江屋新助宅に移る
10月16日 戸田雅楽・中島作太郎・岡内俊太郎と共に「新官制擬定書」を作成する
10月17日 西郷吉之助、薩摩に下る
10月18日 望月清平に身辺切迫を伝える手紙を書く
10月19日 いろは丸賠償金再交渉のため中島作太郎を長崎に派遣する
10月20日 長岡謙吉を横浜に派遣する
10月22日 陸奥陽之助に仙台の国産取引に関する手紙を書く
10月24日 岡本健三郎に福井出立時刻を伝える手紙を書く
岡本健三郎を伴い福井へ向かう
10月28日 福井に到着し、村田巳三郎と会談する
11月1日 松平春嶽に謁見し、後藤象二郎からの上京要請を伝える
11月2日 三岡八郎の来訪を受け、朝から深夜まで新政府財政策を聞く
11月3日 福井を出立する
11月5日 帰京する
この頃 「船中八策」をもとに「新政府綱領八策」を起草する
11月7日 陸奥陽之助に海援隊の経営と「世界の咄し」にふれた手紙を書く
11月10日 林謙三に返書を書く
中島作太郎、いろは丸の賠償金を7万両に減額する
11月11日 永井尚志をたずね、会談する
林謙三に永井尚志との会談を伝える手紙を書く
11月13日 風邪のため床に臥せる
陸奥陽之助に刀談義の手紙を書く
長岡謙吉、帰京する
11月14日 坂本清次郎に手紙を書く
11月15日 夕方、中岡慎太郎の来訪を受け、岡本健三郎・菊屋峯吉も来る
五ッ半(午後9時)頃、岡本健三郎・菊屋峯吉は所用のため外出する
刺客の襲撃を受け、絶命する
中岡慎太郎・藤吉は重傷を負う
近江屋新助、事件を河原町の土佐藩邸に知らせる
11月16日 藤吉(25)、絶命する
海援隊士、大坂薩万に凶報が届き京都に急行する
11月17日 海援隊士、京都に到着する
中岡慎太郎(30)、絶命する
11月18日 東山霊山に3名を埋葬する

2007年08月17日

坂本龍馬逸話 一

名前の由来

坂本龍馬が生まれる前日の夜、父八平は黄金の馬が天から降りてくる夢を、母幸は体内から黄金の龍が天へ駆け登る夢をみた。翌日、目が覚めると出産したので龍馬と名づけたという。

母幸が日頃から可愛がっていた猫を妊娠中も常に腹の上で寝かせていたため、獣の精気が胎児に感染し、背中にひとかたまりの怪毛が生えた。この怪毛を易者にみてもらうと、「大器にして晩成し、必ず家名をあげるだろう」と出たので龍馬と名づけたという。

風雨の水練

ある雨の日のこと。坂本龍馬は日課である水泳の練習をするため、剣術修行で通っている日根野道場前を流れる鏡川へと出かけた。

その途中、偶然水練の師匠と出会い「龍馬、今からどこへ行くのだ?」と聞かれたので、「此は仰せまでもなく稽古にまいり候なり」と答えた。

師匠が「雨が降るこの天気だから、今日の稽古は休みだ」と言うと、「否、河水に入る稽古なれば晴雨となくぬるる覚悟いたしてこそ候」と笑って返答し、平然と水練をおこなったという。

人使いの名人

ある日のこと。藩命による幡多郡四万十川の土木工事があり、坂本龍馬は父の友人である池田虎之進の配下としてその工事の監督をすることになった。

まず龍馬は作業場をいくつかに区切り、互いの作業を競争させた。そして工夫たちを叱咤激励し、出来具合に応じて褒賞を与えた。

龍馬の監督下にある工夫たちの働きぶりが見事で作業全体が大きくはかどり、工事は無事終了した。

仕事が終わった後工夫たちは、「坂本の若旦那に使われていると知らぬ間に仕事がはかどるが、仕事が済んでみると急に疲れが出てクタクタになるのはどうしてだろう」と話し合い、「あれが本当の人使いの名人というものなのだろう」と笑ったという。

坂本龍馬逸話 二

天狗退治

いつの頃からか市外潮江に一人の怪しい坊主が住み着き、自らを「天狗の使者なり」と言い、近隣の農民を騙してわずかな生活の糧を奪っていた。

左源太なる人物はこれに深く憤りを感じ、坂本龍馬に「できることならば、君と一緒にこの怪僧を懲らしめたい」と相談をもちかけ、龍馬はこれを快諾した。

2人は深夜に坊主のもとを訪れ、坊主が天狗台と呼ぶ場所へと案内された。天狗台は屋上にあり、そこには祭壇が設けてあった。

坊主は「ひざまずいて礼拝し、決して仰ぎ見てはいけない。そうすれば石槌蔵王権現の降臨があるであろう」と語った。

龍馬が祭壇の下に身を潜めしばらく待つと、祭壇の後ろに黒影が現れ、奇妙な音を発して「我こそは神霊なれ」と叫んだが、言葉が終わらないうちに龍馬は素早く黒影を捕まえ、その面に鉄拳を叩き込んだ。

すると黒影は「許してくれ、私は先程の天狗の使者だ」と叫んだ。龍馬は厳しくこの邪智(悪知恵)を非難し、即刻この坊主を追放したという。

強情、坂本の如きは未だかつてその例を見ず

ある日のこと。江戸で剣術修行中であった坂本龍馬は、柔術師範家の信田歌之助に稽古試合を申し入れた。

龍馬は三度挑み、三度とも信田に絞め落とされ負けた。それにも関わらず、龍馬が「先生、今一度」と重ねて挑戦してきたので、疲れた信田は「最早、技量の程はわかったであろう」と挨拶して帰った。

信田は後日、「強情、坂本の如きは未だかつてその例を見ず(坂本程の強情な奴は今まで見たことがない)」と人に語ったという。

君は内に居て人を造り、僕は外に居て船を得べし

江戸剣術修行から帰国した坂本龍馬は、西洋事情に詳しい画家河田小龍のもとをたずね、会談を申し込んだ。

会談の中で龍馬は、「船は金策さえできれば手に入るわけだが、これを運用する同志がなければ何の用にも立たない。僕はこの点について悩んでいるのだが、何か工夫があるか聞きたい」とたずねた。

すると小龍は、「従来より俸禄に満足している人に志がない。在野にいる優秀な人物は、志はあるが行動を起こすための金銭が無く、何もできないでいることを嘆き憤る者も少なくない。この者たちを教育すれば人材を確保することができる」と答えた。

龍馬もこの案に賛同し、「もっともの意見だ。これから君は内にて同志の教育に専念して欲しい。僕は外にて汽船を手に入れることに骨を折ることにする」と海軍創設の約束を交わして別れを告げたという。

坂本龍馬逸話 三

ふるまい柿

土佐勤王党結成後のある日のこと。党首武市半平太のところに坂本龍馬・中岡慎太郎・吉村寅太郎がたずねてきたので、妻富子は柿を振る舞った。

柿はまだヘタのあたりが渋かったが、吉村は勧められるままに手にとり、「私の家にも柿の木はありますが、とてもこの味には及びもしません」とにこやかに味わって食べた。

中岡は柿をちらっと見ると礼儀正しく「かたじけない」と言って、いくら勧めても柿には手を出そうとしなかった。

龍馬は無遠慮にお盆にのせてある手頃な柿を手に掴み、勝手に包丁で皮をむいて食べてしまった。平気でたらいあげるので、富子が鈍感で味もわからない人と思っていると、要領よく甘い部分だけを切りとって食べ、渋いところはポイと棄てていたという。

資治通鑑を読む

江戸剣術修行を終えて土佐に帰国した龍馬はもっぱら読書につとめ、暇をみつけては同志の門田為之助・大石弥太郎のもとを訪ね、国事について語り合っていた。

ある日、大石は門田から、「近頃、アザ(龍馬のあだ名)が読書を始めたそうだ」という話を聞き、怪しいと思ったので直接会って真偽を確かめることにした。

すると確かに龍馬は読書をしており、「時勢は僕に読書の必要性を感じさせた。だから僕はこれを読む」と大石に資治通鑑を示した。ところが、この資治通鑑は返り点・送り仮名のない白文であったので、大石は本当に読めているのか試そう考え、「ここで聞いているから音読してくれないか」と頼んだ。

龍馬は承知し大声を出して音読を始めたが、読みは間違いだらけで、訓点を無視して棒読みするだけであった。大石が驚いて、「君はそれで意味がわかるのか?」とたずねると、龍馬は、「物事の要点さえ掴めればそれでよい。わざわざ細かいことを気にする必要もあるまい」と平然と答えたという。

蘭学を学ぶ

ある時、龍馬は蘭学者のもとでオランダ政体論についての講義を聴講していた。講義の途中に突然龍馬が、「僕が思うに先生は原義を間違って教えています。もう一度、よく調べてみて下さい」と指摘した。

これに対して蘭学者は憤慨し、「私は先生である。どうして間違った訳を教えなければならないのか」と反論したが、龍馬は「それでは教科書の原義が道理を失っています」と言ってゆずらなかった。

そこで蘭学者は念のためもう一度教科書を読み直すと、龍馬の指摘するとおり翻訳に誤りがあることがわかり、「申し訳ない。私は訳を間違えた。確かにこれでは本来の意味が通らない」と謝罪した。

蘭学者は訳を聴いているだけで龍馬が原義を理解したことに大変驚いたという。

坂本龍馬逸話 四