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2007年9月 アーカイブ

2007年9月 7日

坂本龍馬暗殺事件概要

龍馬、33回目の誕生日

慶応3年(1867年)11月15日、京都河原町の近江屋で、中岡慎太郎とともに坂本龍馬は暗殺された。事件の夜、前日から風邪気味だった龍馬は用達しに不便を覚え、潜伏していた土蔵から母屋の2階に移っていたところを襲われたのである。龍馬はほぼ即死、従僕の山田藤吉は16日、中岡は17日に死亡した。この日は、彼の33回目の誕生日でもあった。

龍馬が京都に入ったのは、10月9日のことである。はじめ材木商の酢屋嘉兵衛方に投宿し(『10月14日付岡内俊太郎書簡』)、大政奉還に奔走していたが、浪士の巨魁である彼の動静には幕吏の目が光っていた。そこで龍馬は、身辺に危険が迫っていることから、河原町の土佐藩邸に入ることを希望した。

ところが、土佐藩側はこれを拒んだ。龍馬はこの年の4月に脱藩罪を許されたとはいえ、かつては国法を犯した者である。これに藩内の保守派が反発し、彼を受け入れる雰囲気はなかったのだった(『10月18日付望月清平宛龍馬書簡』)。こうした事情から、藩邸に近い土佐藩御用達の醤油商の近江屋を定宿としていた(「10月13日近江屋に移る」『岡内の書簡抄』)。

事件当日、龍馬は近江屋の3軒南の大和屋に下宿する土佐藩参政福岡藤次のところを、午後3時と5時に訪ねたが不在であった。福岡の愛妾おかよは、このとき福岡が帰るまで近江屋へ遊びにおいでと誘われたが、福岡の従者和田が引き止めたのでこれを断り、その夜の危難をまぬがれることができたと語っている(坂本中岡銅像建設会編 「福岡子爵未亡人より実話を拝聴」『雋傑坂本龍馬』 坂本中岡銅像建設会、大正15年)。

近江屋に戻ると、夕方午後6時頃に土佐の中岡慎太郎が訪ねてきた。中岡も同じく4月に脱藩罪が許され、京都白川村で浪士を集めた陸援隊を組織して、その隊長になっていた。訪問は、前年9月に起きた「三条制札事件」で、新選組に捕らえられていた土佐藩士宮川助五郎の身柄引き取りを論議するためだという。

龍馬は2階奥八畳の間で北側の床の間を背にし、火鉢を間にはさみ、南を向いて中岡と対座して話を聞いた。行灯は中岡の右手にともっていた。2つ部屋をおいた表八畳の間では、従僕の藤吉が内職の楊子削りをやっていた。

『宮地彦三郎真雄略伝』(宮地美彦編、大正10年)によれば、海援隊士の宮地彦三郎が、大坂から伏見を経て帰京し下宿に行く前に近江屋に立ち寄っている。龍馬は2階から大声で使命を終えた宮地をねぎらい、「2階に上がって来ぬか」と誘った。中岡も「彦三郎、上がれや」と誘ったが、「帰途なので、下宿に戻って旅装を解き、改めて御伺いします」と階下より挨拶して帰宿した。だが、帰着して間もなく同志より、龍馬・中岡遭難の急報に接したとある。

しばらくして菊屋峰吉が近江屋にやって来て、ついで岡本健三郎が訪ねてきた。峰吉は、土佐藩邸に出入りしていた書店菊屋の息子で、このときは中岡の使いで薩摩屋に手紙を届け、その返事を持ってきたのだった。岡本は下目付をつとめる藩の同志で、今年10月に龍馬の随員として越前福井へ同行し、三岡八郎(由利公正)との会談にも同席していた。

彼らは雑談をしていたが、小一時間ほどして龍馬が峰吉に「腹が減った。軍鶏を買って来てくれ」と頼んだ。岡本は誘われたが用事があるとして、峰吉と連れ立って近江屋を出た。四条通りで2人は別れ、峰吉は四条小橋の鳥新まで行き、用事をすませて近江屋に引き返したのは、午後9時過ぎだった。
その間に、惨劇は起こった。

数分間の惨劇

刺客の一団が近江屋に斬り込んだのは、峰吉たちの出立から間もなくのことだった。

表で来客を告げる声があり、藤吉が応対に出ると、男が1人立っていた。男は名刺を差し出し、「松代藩の者だが、才谷先生御在宿ならば、お目にかかりたい」と告げた。

藤吉は名刺を受け取ると、2階の龍馬に届けるため、階段を上がっていった。その隙に3人の刺客が侵入し、藤吉を尾行した刺客の1人が、無言のまま抜き打ちに斬りつけた。藤吉は抵抗しようとしたが、さらに背後から数太刀を浴びせられ、その場に倒れた。

大きな物音を耳にした龍馬は、藤吉がふざけていると思い、「ほたえな!」と大喝した。その瞬間、2人の刺客が、疾風の如く奥八畳の間に斬り込んできた。1人は、「こなくそ!」と叫びながら中岡の後頭部を斬撃した。もう1人は、龍馬の前額部を横に払った。

とっさに龍馬は、後ろの床の間に置いていた佩刀(陸奥吉行・長二尺二寸)を取ろうと身をひねったが、さらに右の肩先から左の背骨にかけて大袈裟に斬られた。

それでも刀を掴んで立ち上がったが、刺客の三の太刀が襲い、刀を抜く暇なく、鞘のままかろうじて受け止めた。だが、敵の斬撃は凄まじく、鞘越し3寸程刀身を斜めに削り、その余勢をもって龍馬の前額部を鉢巻なりに深く横に払った。

脳漿が吹き出すほどの重傷を受けた龍馬は、「石川(中岡慎太郎の変名)、刀はないか、刀はないか」と叫びながら、その場に崩れた。

中岡も佩刀を屏風の後ろに置いていたので、それを取る間もなく、短刀を取ったが抜く隙もなく、鞘のまま闘った。だが、初太刀の深手で思うように動けず、左右の手と両足を斬られて気絶した。

刺客は念のため、二太刀ほど中岡の臀部を骨に達するまで深く斬りつけ、その死を確かめてから、「もうよい、もうよい」と言って立ち去った。中岡はこの激痛で蘇生したが、死を装ってやり過ごした。

しばらくして、龍馬が正気を取り戻した。「残念、残念」と、刀を抜いて行灯の火に照らし、頭部の傷を映して確認する。さらに中岡の方をかえりみて、「慎太、慎太、傷はどうだ。手は利くか」と尋ねた。中岡は、「利く」と答えた。

龍馬は次の六畳間へはって進み、階段口から家人に医者を求めたが、もはやその声に力はなかった。そして、かすかな声で、「おれは脳をやられた。もういかん」と言い、うつ伏せたまま絶命した。

中岡は痛みに耐えながら中敷居から裏の物干しにはい出て、家人を呼んだが答えがなく、さらに屋根伝いに北隣の井筒屋嘉兵衛方の屋上まで進んだが、そこで力尽き動けなくなった。

残された証言

近江屋では、主人新助は階下の奥の間に妻子といたが、2階の騒動は龍馬の身に異変が起きたと思い、土佐藩邸に告げようと表へ飛び出した。ところが、刺客の仲間が門口に立番していたので、いったん引き返して妻子を物置に隠した後、裏手から裏寺町通りに抜け蛸薬師の小路より土佐藩邸に急を告げた。

知らせを受けた藩邸からは、下横目をつとめる島田庄作が一番最初に駆けつけた。島田は近江屋の表に立番がいないので抜刀して、屋内に気を配り刺客を待ち構えた。

そこへ、峰吉が帰ってきた。近江屋の表戸が少し開いているので不思議に思い中をのぞくと、刀を抜いた男が仁王立ちしていた。峰吉は驚き離れて様子をうかがっていたが、気づいた島田がそばに来て、「おい、お前は峰吉じゃないか。何用があってここへ来た。実は今、坂本と中岡がやられた。今にも賊が降りてきたら、一刀のもとに殺してやる」と語った。

事情を聞かされた峰吉は半信半疑で中に入り、勝手知ったる台所から裏口に出ると、物置に人の気配がした。物置の戸を開けると、井口新右衛門夫婦が隠れていて、ガタガタとふるえながら、「峰吉さん、悪者が入って2階は大騒ぎになっている」と語った。

峰吉は子供心に恐ろしい有様を見たくなり、台所に戻り2階へ上がろうとしたが、上から血潮がポトポトと垂れていることに気づいた。2階の上口には藤吉が横倒れに苦しんでおり、峰吉は大声で助けを求め、すぐに島田と近江屋の家人が上がってきた。

峰吉は気を取り直して周囲を確認し、血の海の中に横たわる龍馬、隣家の屋根から助けを求める中岡を発見した。峰吉が座敷に移すと中岡は息を吹き返し、この始末を白川の陸援隊本部に伝えるよう命じた(吉田喜太郎 「菊屋峰吉談話」『維新史蹟図説』 東山書房、大正13年)。

龍馬と中岡に手当が加えられたが、龍馬は眉間を深く斬られて脳漿が飛び出し、まだ体温が残っていたが、すでに事切れていた。中岡は数十ヶ所を斬られる重傷を負いながら、意識はしっかりしていた。

こうしている間に土佐藩邸から曽和慎八郎が、大森から谷干城と毛利恭助が、近江屋に駆けつけた。さらに峰吉の注進により、陸援隊から留守居の田中顕助が、薩摩の吉井幸輔を伴って駆けつけ、遅れて陸援隊士本川安太郎、香川敬三も集まった。

中岡は痛みに耐えながらも刺客の乱入の模様を語り、駆けつけた同志に向かい、次の言葉を伝えた。

「因循姑息と罵りし幕府党中にも、這般の挙をなすものあり、諸君決して等閑なる勿れ」(秋月鏡川 『後藤象二郎』 興雲閣、明治31年)

「天下の大事は偏に岩倉公の之を負荷せられんことを願ふのみ、子之を岩倉公に告げよ」(多田好問編 『岩倉公実記』 皇后宮職、明治39年)

「誠に遺憾千万であるが、併し此通りである。速くやらなければ君方もやられるぞ」(島内登志衛編 「明治39年谷干城講演」『谷干城遺稿』 靖献社、明治45年)

「なかなか実にどうも鋭いやり方で自分等も随分従来油断はせぬが、何しろ非常な所謂武辺場数の奴に相違ない。此くらい自分等二人居つて不覚を取ることはせぬ筈だが、どうする間もない。たつたコナクソと言ふ一言でやられた」(島内登志衛編 「明治39年谷干城講演」『谷干城遺稿』 靖献社、明治45年)

「手許に刀を置かざりし故に、不覚を取りき、諸君今後注意せよ」(瑞山会編 『維新土佐勤王史』 冨山房、大正元年)

そして、「自分もこれ位やられたから、とても助かるまい」と言ったが、そばにいた田中が、「長州の井上聞多はアレ程斬られたのに助かったから、先生も気を確かにお持ちなされ」と励ました。

土佐藩から派遣された藩医川村盈進の治療により、中岡は一時は回復して焼き飯などを食した。しかし、後頭部に受けた深い傷が致命傷になり、次第に吐き気をもよおし、17日夕刻に絶命。従僕の藤吉も6ヶ所の傷を受けており、16日に絶命した。

事件関係者の行動

坂本龍馬暗殺のタイムライン

時間 人物 出来事 史料
慶応3年(1867年)
10月09日 坂本龍馬 大坂から京都へ上り、材木商酢屋喜兵衛方に投宿する 『岡内俊太郎書簡』
10月13日 坂本龍馬 酢屋から醤油商近江屋新助方へ宿を移す 『岡内の書簡抄』
10月 伊東甲子太郎 龍馬の宿を訪ね、同席の中岡慎太郎とともに身辺警戒の忠告を与えたという 『池田徳太郎事歴』
10月17日 吉井幸輔 龍馬に近江屋からの転居を進言する 『望月清平宛龍馬書簡』
10月18日 坂本龍馬 望月清平に転居先の周旋を依頼する手紙を書く 『望月清平宛龍馬書簡』
同日 坂本龍馬 伊東甲子太郎ら御陵衛士の屯所月真院を訪ねる 『史談会速記録』
10月23日 坂本龍馬 後藤象二郎より越前福井行を依頼される 『岡本健三郎宛龍馬書簡』
10月24日 坂本龍馬 岡本健三郎とともに福井へ旅立つ 『岡本健三郎宛龍馬書簡』
11月05日 坂本龍馬 福井から帰京する 『神山左多衛雑記』
11月10日 中村半次郎 散歩途中に龍馬と出会う 『京在日記』
11月11日 坂本龍馬 幕府大目付永井尚志と会談する 『龍馬書簡』
11月14日 坂本龍馬 風邪のため近江屋の土蔵から、母屋2階に移るという(井口新之助談) 『坂本龍馬関係文書』
同日 寺田屋登勢 近江屋に使いを差し向け、土佐藩邸に移ることを勧めたという 『伏見寺田屋覚書』
11月15日
15:00 坂本龍馬 福岡藤次の下宿を訪問する 『雋傑坂本龍馬』
17:00 坂本龍馬 再び福岡藤次の下宿を訪問する 『雋傑坂本龍馬』
- 坂本龍馬 中岡慎太郎の訪問を受け、2階で面談する 『後藤象二郎』
- 宮地彦三郎 近江屋を訪ねて龍馬、中岡慎太郎とあいさつを交わす 『宮地彦三郎真雄略伝』
- 坂本龍馬 岡本健三郎と菊屋峰吉が来訪する 『後藤象二郎』
- 淡海槐堂 近江屋を訪ねて雑談したという 『淡海槐堂先生略伝』
- 菊屋峰吉 龍馬に頼まれて軍鶏を買いに出掛け、岡本健三郎も近江屋を辞去する(菊屋峰吉談話) 『維新史跡図説』
20:00 坂本龍馬 刺客に襲われ、脳をやられてほぼ即死 『寺村左膳道成日記』
- 中岡慎太郎 意識はあるものの全身を斬られて重傷 『寺村左膳道成日記』
- 山田藤吉 背中を斬られ意識不明の重体 『寺村左膳道成日記』
20:30 菊屋峰吉 近江屋に帰宅し、島田庄作から事件を聞く(菊屋峰吉談話) 『維新史跡図説』
- 谷干城 一報を受けて毛利恭助とともに駆けつける 『谷干城遺稿』
- 曽和慎八郎 土佐藩邸から駆けつける 『殉難録稿』
- 田中顕助 峰吉の知らせを受け、吉井幸輔とともに近江屋に馳せつける(田中光顕口述) 『坂本龍馬関係文書』
11月16日 山田藤吉 死亡 『宮地彦三郎書簡』
11月17日 中岡慎太郎 午後になって絶命 『宮地彦三郎書簡』
同日 海援隊 大坂の隊士が近江屋に駆けつける 『海援隊日記』
同日 坂本龍馬 中岡慎太郎とともに東山の霊山に埋葬される 『海援隊日記』
11月27日 海援隊 長崎の隊士のもとに事件が伝えられる 『保古飛呂比』
12月02日 お龍 佐柳高治から訃報を聞く 『三吉慎蔵日記』
12月07日 陸奥陽之助 海援隊士、陸援隊士とともに天満屋の紀州藩士三浦休太郎を襲撃する -
明治3年(1872年)
9月20日 今井信郎 坂本龍馬殺害に関わったとして、禁固刑に処せられる 『坂本龍馬関係文書』

事件現場に残された証拠

遺留品

【鞘】
刺客が現場の近江屋に残したものと思われる刀の鞘1本。

  • 尾張藩の記録『尾張藩雑記』に「刀身壱本」とある。
  • 鳥取藩の記録『慶応丁卯筆記』に「刀ノ鞘壱本黒塗」とある。
  • 『今井信郎実歴談』の中で今井信郎は、渡辺吉太郎のものと証言している(「其晩渡辺が六畳へ鞘を置て返つて来ました」)。
  • 『谷干城遺稿』の中で谷干城は、元新選組隊士の篠原泰之進、内海次郎、阿部十郎から十番隊組長原田左之助の鞘と思うとの証言を得たと語っている。
  • 『渡辺家由緒暦代系図履暦書』で渡辺篤は、世良敏郎のものと証言している(「刀ノ鞘ヲ忘レ残シ返リシハ世良敏郎ト云人」)。

【下駄】
刺客が現場の近江屋に残したものと思われる下駄2足。

  • 尾張藩の記録『尾張藩雑記』に「中村屋」と「......堂」の焼き印の下駄とある。
  • 鳥取藩の記録『慶応丁卯筆記』に「中村屋」と「カイ々堂」の下駄とある。ただし、「商売柄客の出入りが多く、誰が履いていたものかはわからないが、恐らくは近江屋にかけつけた土佐藩士のものではないだろうか」と推測している。(事件当日、天気は雨)
  • 大正15年(1926年)に刊行された『坂本龍馬関係文書』に、近江屋新助の息子新之助の証言として、当時新選組隊士が出入りしていた瓢亭の焼き印のある下駄が残されていたとある。

同時代の記録

『尾張藩雑記 慶応三年ノ四』
近江屋新助方ニ止宿土藩浪士頭齋谷梅太郎右方エ九人斗帯刀人這入リ梅太郎切害ニ及ビ其節残居候品、刀身壱本ト下駄弐足、右下駄焼印有之、一足ハ二軒茶屋中村屋印、一足ハ下河原......堂印有之段々承様候処、祇園町永楽屋へ遊興ニ罷越候者三人ノ内、一人ハ土佐藩、二人は佐土原藩ノ良申立居候へ共、全ハ当時白川ニ旅宿罷在候坂本龍馬ノ徒党ノ者ノ良相聞候へ共、聢ト佐様ハ未相分、猶探索ノ上巨細申上ベク候。以上。十一月廿日。
『慶応丁卯筆記』
慶応三年十一月廿三日 鳥取藩記録 坂本龍馬、中岡慎太郎遭害ノ件筆記廿三
一、十一月十六日夜五ツ時分、河原町通四条上ル弐丁目西側土州屋敷前但シ同屋敷ノ横稲荷社ノ図子ヨリ行当リノ家醤油商近江屋新助方ニ(中略)何者共不分侍ヒ八九人計乱入、矢庭ニ二階へ抜刀ヲ振テ罷上リ三人エ切テ懸リ(中略)死骸夫々取片付候処、跡ニ残シ置候品ハ刀ノ鞘壱本黒塗、下駄弐足印付、右壱足ハ中村屋、今一足ハ河原町カイ々堂(中略)恐ラクハ右切害人ハ宮川ノ徒哉モ難計趣ニモ仄ニ相聞候由堅ク口外ヲ憚リ申候事。
「寺村左膳道成日記」『青山文庫所蔵資料集』
同年十一月十五日
朝七ツ時より寺田同道外五人斗召連四条之芝居見物ニ参る。自分芝居見物始而也。(中略)随分面白し夜五時ニ済、近喜迄帰る処留守より家来あわてたる様ニ而注進有、子細ハ坂本良馬当時変名才谷楳太郎ならびに石川清之助今夜五比両人四条河原町之下宿ニ罷在候処、三四人之者参リ才谷ニ対面致度とて名札差出候ニ付、下男之者受取二階へ上リ候処、右之三人あとより付したひ二階へ上リ矢庭ニ抜刀ニ而才谷石川両人へ切かけ候処、不意之事故両人とも抜合候間も無之、其儘倒候由、下男も共ニ切られたり、賊は散々ニ逃去候よし、才谷即死セリ、石川ハ少々息は通ひ候ニ付、療養ニ取掛りたりと云、多分新撰組等之業なるべしとの報知也。右承る否御目附方よりハ夫々手分し而探索させたるよし也。
然るに此者両人とも近比之時勢ニ付、寛大之意を以黙許せしと雖ども、元御国脱走者之事故未御国之命令を以、両人とも復籍の事ニも相成ず、其儘ニ致し有し故表向不関係之事。
事件のあった当日、土佐藩士寺村左膳は芝居見物の帰り道に坂本龍馬・中岡慎太郎襲撃の報を受けた。
朝4時頃から寺田ほか5人ばかり召し連れて四条の芝居見物に参る。自分は芝居見物が初めてである。(中略)随分面白く夜8時に終わり、近喜まで帰ったところ家来よりあわてた様子で注進があり、子細は才谷梅太郎(坂本龍馬)ならびに石川清之助(中岡慎太郎)が、今夜8時頃四条河原町の下宿にいたところ、3、4の者が訪れ、才谷に面会を申し入れて名札を差し出したので、下男の者(藤吉)が受け取り2階へ上がると、その3人が後からついて2階へ上がり、突然抜刀して才谷と石川に斬りかかった。不意のことゆえ両人は刀を抜き合う間もなく、そのまま倒れた。下男もともに斬られた。賊は散々に逃げ去った。才谷は即死、石川は少々息があったので療養に取りかかった。たぶん新選組の仕業であろうとの報告である。御目付役によりそれぞれ手分けして探索させているという。
しかるにこの両人とも近頃の時勢になったので、寛大な意をもって黙認されていたが、元お国を脱藩した者であり、未だお国の命令で復籍となっていないので、2人の遭難は表向きは土佐藩と無関係である。
「寺村左膳手記』」『維新日乗纂輯』
一、十一月十五日之夜五ツ頃、坂本良馬旅宿へ、何者共不知七人推参致し、石川清之助と両人対話の処(但二階也)、右七人の中三人、状を持参せりとて差出すや否や、抜討に切付、良馬は即死。清之助并家来一人は深手を受。只今両人共養生中也。相手は即坐に逃去り、不相分候。此相手追て相聞へ候には、幕の新撰組と云也。
「神山左多衛雑記」『坂本龍馬全集』
同年十一月十五日
永楽屋に留連して朝五時半頃、富田、田中、藤次、自分四人中村屋へ転席飯酒を呼、妓も来る(中略)黄昏、尾鶴へ転席、熊沢氏の巣窟也。此時藤次、熊沢、宇和林に今一人并下村省助、田中幸助と自分七人也。町奉行より今日宮川祐五郎を受取、河原町御邸牢家へ入れ候事、今夜五過比尾鶴より藤次、幸助自分一時に帰る。自分一人松力へ行、三人共籠也。松力へ行否、我宿より家来申来には、才谷楳太郎等切害せられ候よし、仍而直に藤次下宿へ行、諸事手賦等取扱致候事。
但楳太郎即死。石川精之助数ヶ所疵受、楳太郎家来深手也。

見廻組今井信郎説 上

見廻組今井信郎説とは

坂本龍馬・中岡慎太郎暗殺の犯人として現在最も有力な説であり、実行犯は「京都見廻組」、黒幕は「会津藩主松平容保」である。

刺客の1人である今井信郎が五稜郭で降伏した後、坂本龍馬殺害の犯人として明治3年(1870年)2月に取調べを受け、9月禁錮刑に処せられている。その際の自供によると、「自分は確かに現場にいたが見張り役であり、直接手は下さなかった」とあり、判決もそれを認めている。

今井信郎の自供

明治2年(1869年)11月9日、旧幕府軍衛鉾隊副隊長の今井信郎は、函館戦争で新政府軍に敗れ、降伏人として兵部省軍務局糺問所へと送られた。そこで訊問追求された際、坂本龍馬殺害を自白したため、翌3年2月22日に身柄を刑部省伝馬町牢に移され、取調べを受けた。

『兵部省・刑部省口書』(『坂本龍馬関係文書』(岩崎鏡川著、大正15年東京大学出版会)
箱館降伏人     
 兵部省口書(明治三年二月)
今井信郎 
午ノ三十歳
   口書
(前略)
 坂本龍馬を殺害した件は、見廻組与頭佐々木唯三郎の差図であり、龍馬は謀反を企て、前年召し捕りに向かったところを取り逃がしていた(寺田屋遭難)ので、この度はきっと召し捕るため万一手に余るときは討ち果たしても構わないとの命令であった。私は上京して早々の事だったので、詳しい内容は知らなかった。
 佐々木唯三郎、渡辺吉太郎、高橋安次郞、桂隼之助、土肥仲蔵、桜井大三郎と私の7人で、河原町三条下ル龍馬の旅宿(近江屋)へ昼頃行ったがが、同人は留守であったので、その夜五ツ頃(午後8時)に再び行ったところ滞在していた。
 そこで佐々木唯三郎を先頭に、後から直ぐに桂隼之助、渡辺吉太郎、高橋安次郞が2階へ上がり、土肥仲蔵、桜井大三郎と私は下に控えていたので、2階の様子は知らない。
 彼らが2階から下り聞くところによれば、「召し捕ろうとしたが、3人居合わせたのでやむを得なく討ち果たした」ということで、直ちに立ち退くことになり、一同はその場を立ち去った。
 二条通りで高橋と渡辺の2人は見廻組屋敷に帰り、佐々木は帰り、その他私たちはそれぞれの旅宿に帰宅した。(下略)




   午二月
   刑部省口書
箱館降伏人    
元京都見廻組   
今井信郎  口上
午三拾歳   

 (前略)慶応3年5月22日に京都見廻組を申しつけられ、70俵6人扶持の俸禄を請けたが、旅費の支給に遅延があったので同年10月上旬頃に上京した。
 その頃、在京の見廻り役岩田織部は御用に就き江戸へ戻り、後任の小笠原弥八郎が上京していた。
 私は周旋方をつとめていたので、もっぱら諸藩士らとの交際で暇は無く、同僚の姓名もいちいち覚えてはいなかった。
 10月中頃、与頭の佐々木唯三郎の旅宿へ呼び出され、私と見廻組渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼之助、土肥仲蔵、桜井大三郎の6人が集まった。
 唯三郎が申し聞くところ、土佐藩の坂本龍馬に不審の儀があり、前年伏見で捕縛された時、短筒を放ち伏見奉行所の同心2名打ち倒し、その機に乗じて逃亡していた。
 現在、河原町三条下ル土佐藩邸の向かいの町家(近江屋)に滞在しており、今回は取り逃がさず捕縛するため、万一手に余る場合は討ち取っても構わないとの御差図があり、一同は連れ立って出発した。
 もっとも龍馬の旅宿は2階にあり、同宿の者もあるようなので、渡辺吉太郎、高橋安次郞、桂隼之助が2階へ踏み込み、私と土肥仲蔵、桜井大三郎は台所を見張り、救援の者が来ればこれを防ぐと手筈を定めた。
 同日昼八ツ時(午後2時)頃、一同は龍馬の旅宿に向かったが、桂隼之助が唯三郎から申しつけられ、一足先に偽言をもって在否を探ったところ留守中とのことで、一同は東山周辺で時間を潰し、同夜五ツ時(午後8時)頃再び訪れた。
 佐々木唯三郎が先に入り、松代藩と偽名を書いた手札を差し出し、「坂本先生に面会を願いたい」と申し入れた。取次の者が2階へ上がったので、後から引き続いて、かねての手筈の通り、渡辺吉太郎、高橋安次郞、桂隼之助がつけ、佐々木唯三郎は2階の上り口、私と土肥仲蔵、桜井大三郎は台所周辺を見張っていた。
 奥の間にいた家人が騒ぎ立ったので、それを取り鎮めて階段へ戻ると、吉太郎、安次郎、隼之助が下りてきて、「龍馬の外に合宿している者がいたが、手に余ったので、龍馬を討ち取り、外2名も斬りつけ傷を負わせたが、生死の程はわからない」と報告した。
 「それならば仕方無い」と、引き揚げを唯三郎が命じたので、それぞれ旅宿へと帰った。
 その後の始末は一切存じない。もちろん龍馬の件に旧幕府がどのような考えがあったのかは、前述の通り新人であったので知らない。旧幕府では、閣老などの重職者からの命令を御差図と呼んでいたが、その辺からの指示であったのか、または見廻組は京都守護職に属していたので、松平肥後守からの指示であったのかはわからない。その後は宿を引き払い、二条城へ移った。(下略)

今井信郎への判決

上記の供述により、今井信郎は、明治3年(1870年)9月20日、宮崎小判事の達しによって禁錮刑を申しつけられた。これで坂本龍馬暗殺事件は、法的には解決となった。この裁判記録は、司法省記録「断刑伺書」明治三年の部に収められたが、一般にはほとんど知られることはなかった。

『兵部省・刑部省口書』(『坂本龍馬関係文書』(岩崎鏡川著、大正15年東京大学出版会より)
   申 渡
庚午九月二十日      静岡藩
  宮崎少判事達      元京師見廻組
小嶋中解部
岡部少判事 扱      今井信郎

其方儀、京都見廻組在勤中、与頭佐々木唯三郎差図ヲ受、同組のものと共二、高知藩坂本龍馬捕縛ニ罷越討果候節、手ヲ下サズド雖モ、右事件二関係致し、加之其後及脱走、屡々官軍ニ抗撃遂降伏いたし候とは乍申、右始末不届ニ付屹度可処厳科処、先般被仰出之御趣意ニ基キ、寛典ヲ以、禁錮申付ル。
但、静岡藩え引渡遣ス。
右申渡趣受書申付ル。
静岡藩士族
高倉清太郎
右之通申渡、信郎引渡候間得其意。
   庚午九月廿日

今井信郎実歴談

月日は流れ幕末も遠い昔となったころ、今井信郎は、京都時代の旧友である結城無ニ三のもとを訪ねた。その夜、結城の子礼一郎を交えて昔話に花を咲かせ、礼一郎に頼まれた今井は、坂本龍馬殺害の経緯を語り明かした。

当時甲斐新聞の主筆であった礼一郎は、貴重な話をそのまましまっておくのはもったいないと思い、後日新聞の連載記事として掲載した。この記事は、後に『今井信郎実歴談』として近畿評論の第17号に転載され、論争を巻き起こすことになる。

『今井信郎実歴談』(明治33年、近畿評論第17号)
(今井信郎氏は今尚ほ遠州金谷に住す、本文は氏の談話筆記にして鶴城氏の寄稿に係る)
十一月十五日、先斗町にて時を過す、
同志合て四人、松代藩士なりと称す
 ご承知のように当時は世の気が立っておりましてスワといえば抜く斬るという始末ですから、お互い十分警戒していて、なかなか隙などあるものではありません。
 私も坂本という奴は幕府のためにもならねば、朝廷の御ためにもなるものでもない、ただ事を好んで京都を騒がせる悪漢ゆえ、ぜひ斬ってしまわなければならない、と思いましたが、さて誰が坂本でどこにいるのが少しもわかりませんので、これには非常に困りました。
 しかし、幸いなことにふとしたことから蛸薬師にいる西谷(才谷梅太郎と変名)というのが坂本だということを確かめましたから、いよいよやってしまうことに決めました。
 それで11月15日の晩、今夜はぜひというので、桑名藩の渡辺吉太郎というのと、京都の與力で桂迅之助(桂早之助)というのと、他にもう一人、合計4人で出かけました。私は一番の年上で26歳、渡辺は24歳(実際は26)、桂は21(実際は28)だったと思います。
 私はその頃は今出川にいましたが、夕方4人でそこに集まってまだ少し早いから、どこかで時間を過ごそうじゃないかと申して、先斗町へ行って夜10時過ぎまで酒を呑んで、それから揃って出掛けました。
 渡辺ですが、松村とも言っておりました。なかなか胆の据わった男で、桂も若さに似合わぬ腕利きでありました。惜しいことに2人とも鳥羽で討ち死にしてしまいました。
(この時記者は他にもう一人というその一人は誰ですかと尋ねたところ、今井氏はそれはまだ生きている人です。そして、その人が己の死ぬまでは決して己の名前を口外してくれるな、とくれぐれも頼みましたから今も申し上げることはできませんと答え、しいて頼んだが、遂に口を開かなかった。思うに、今なおある一部の人の間に坂本を斬った者の中には意外な人物があるとの説が伝えられ、あるいは、その人物は今某の政府高官にあるといった風評があるのは、つまりこの辺りの事情によるものではないだろうか。今井氏にして語らず、その人物が語らなければ、維新歴史のこの重要な事実は、遂にその幾分かを闇に葬り去ることになり、惜しんでも惜しみきれないものである)
 もうかなり寒くなっていまして、表通りにも人の往来もなく、十五夜の月がキラキラと頭上の方で光っていましたが、4人とも十分用心して、10時を余程過ぎた時間に蛸薬師のその醤油屋へ到着しました。
 そして、「私たちは松代藩のこれこれだが、坂本先生に火急お目にかかりたい」と申したところ、取次の者が、「ハイ」と言って立って行きましたから、”こいつは締めた、いるに違いない、いさえすれば何とかして斬ってしまおう”と思っていますと、取次が「こちらへ」と案内しますので、後へついて2階へ上がりました。
 松代ですか。あの真田の藩です。坂本とは前から通じていたのです。4人ともいい加減の名前を言ったので、今でも覚えていません。
 とにかく、こちらへと言いますから、行ってみますと、2階は8畳と6畳の2間になっていました。
坂本さん暫く、横鬢を切る、
京都の風評、脳天を三つ、
 6畳の方には書生が3人いて、8畳の方には坂本と中岡が机を中へ挟んで座っておりました。中岡は、当時改名していて石川清之助といっておりました。けれども、私は初めての事であり、どちらが坂本だか少しもわかりません。他の3人も勿論知りませんので、早速機転をきかして、「ヤヤ、坂本さんお久しぶりです」と挨拶しますと、入り口に座っていた方の人が、「どなたでしたかねえ」と答えたのです。
 そこで、ソレと手早く抜いて斬りつけました。最初、その横ほおを抜き打ちざま真横に叩いて、体をすくめる拍子に横に左の腹を斬って、それから踏み込んで右からまた一つ腹を斬りました。
 この二太刀で、流石の坂本もウンと言って倒れてしまいましたので、私はもう息絶えたと思いましたが、後から聞きますと、明日の朝まで生きていたそうです。
 それから、中岡の方です。これは私どもも中岡とは知らず、坂本さえ知らなかったのですから無理はありません。坂本をやってから、手早く脳天を3つほど続けて叩きましたから、そのまま倒れてしまいました。お話すれば長いのですが、これは本当に電光石火で、一瞬にやったことなのです。
 しかし、部屋に入る私のすぐ後ろには渡辺がついていましたが、それが腰の鞘を立ててハシゴを上がりましたので、6畳にいた書生が怪しいと見て、ソレッと声を掛けましたので、少し手順が狂ったのです。
 そうでなければ4人とも坂本の部屋へ入り込む計画でしたが、書生が騒いだため、渡辺と桂は、早速に抜刀して6畳にいた書生たちと斬り合い、その間に私どもが8畳の方で坂本をやっつけたのです。書生は、渡辺と桂に斬り立てられて、窓から屋根伝いに逃げてしまいました。
 私はその晩の前に相談していた佐々木只三郎のところに泊まり、翌日市中の噂を聞くと大変な騒ぎになっていました。なんでも、皆これは新選組の仕業であろう、多分は紀州の三浦休太郎が新選組と共謀してやったのだろうとの風評です。
 それに、その晩渡辺が6畳に置き忘れてきた鞘が、よく紀州藩士が差していた鞘に似ていましたから、ますますこれは三浦の仕業に違いない、ということでした。
 しばらく経つと、はたして土佐の若い者が、三浦の家を襲撃しました。すると、その時ちょうど近藤勇がそこに居合わせて、一緒になって追い返しましたので、斬ったのは三浦と近藤だという風評が高くなりました。

見廻組今井信郎説 中

谷干城の反論

『近畿評論』5月号(第17号、明治33年)に掲載された今井信郎の告白記事は、事件直後に近江屋へ駆けつけた旧土佐藩士の谷干城が知るところとなった。そして、明治39年(1906年)11月、招魂社(護国神社)において「近畿評論を駁す」と題する演説がおこなわれることになった。

『谷干城遺稿』(明治45年靖献社)
 坂本が斬られたという報告があったので、すぐ現場に駆けつけていった者が、私と毛利恭助という者である。これは、京都三条上ル所の高瀬川から左に入る横町の大森というところに家があった。毛利と私はその大森の家に宿をしていたので、真っ先に駆けつけた。
 土佐の屋敷と坂本の宿(近江屋)は、わずかに一丁ばかりしか離れていないから、事件のことはすぐに知れ渡るはずだが、宿屋の者らは、賊が2階でどさくさ暴れたものだから、驚いてどこかへ逃げたのかも知れない。しばらくして山内の屋敷に急報してきた者もかなり遅く、私が駆けつけた時には、最早賊が逃げた後であった。
 それで事件現場を確認したのだが、ちょうど階段を上り付けたところに、坂本が斬倒されていた。そして、この階段を右に行ったところが、すなわち京都の方角に窓があった。ご承知の通り、京都では町に向いた窓は大きなかんぬきを置いて、そこへ泥を塗ってあるので、押しても突いても破れるものではない。その下には、龍馬の従僕(藤吉)が斬倒されていた。そして、右手の方の座敷に中岡が斬られていた。
 坂本は非常に大きな傷を負っており、額のところを5寸ほどやられているから、この一刀で倒されたのであろうが、後ろからもやられて背中に袈裟掛けに斬られていた。
 坂本の傷はそういう次第で、中岡の傷はどういうものかというと、後ろから頭を斬られており、それから左右の手を斬られていた。そして、足を両方とも斬られ、腹ばいに倒れたところをまた2太刀斬られており、その後ろから腰を斬った太刀は、ほとんど骨に達する程深く斬られていた。
 けれども、傷は脳に遠いものだったので、なかなか元気な石川(中岡の変名)でありますから、意識は確かであった。「どうか」と聞くと、「誠に遺憾千万であるが、この通りである。速くやらねば君らもやられるぞ、速くやらなけばいけない」というのが石川の持論であった。
 一体どういう状況であったかと聞いてみると、実は今夜お前のところに行ったが、お前が留守であったから、坂本を訪ねて談話していると、「十津川の者でござる。どうぞ御目にかかりたい」と何者かが訪ねてきた。
 そこで取次の従僕(坂本の僕)が、手札を持って上がってきた。この時、中岡は手前にいて、坂本はちょうど床を後にして前に座っていた。2人は行燈に頭を出して、その受け取った手札を見ようとしたところへ、2階へ上がる従僕について来た賊が、突然「コナクソ」と斬り込んできた。その時手前にいたのが、中岡である。
 実際の状況とこの人の話とでは、両人がいた位置も違い、机などを並べていたというけれども、そんな訳はなかった。2人が手札を見ようとするところへ斬り込み、中岡を先にやったのである。
 その言葉は「コナクソ」という一声で、中岡が“はっ”と思った時に、坂本は後ろの床に刀があるから、後ろを向いて刀を取ろうとした様子だけは覚えている。自分も素早く短刀を取ったけれども、如何せん取っただけで抜くこともできないから、そのまま振り回すと、賊は一度後ろへ下がり斬りかかってきた。
 両手を斬られ動かなくなったので、賊に飛びつこうとしたのだが、両足を斬られてしまった。そのため足が立たなくなり、仕方がないから、そのまま倒れて斬らせておくより他なく、倒れていた。
 すると「もうよい、もうよい」と言って、立ち去った。賊の言った言葉は、「コナクソ」という言葉と、「もうよい」という言葉以外は聞いていない。
 坂本は一体どうしていたであろうか、どうもわからないが、坂本も言うまでもなく斬られていた。中岡が倒れてしばらくしていると、倒れていた坂本がすっと起き上がり、行燈を掲げて階段の側まで行った。
 そして、そこで倒れ、「石川刀はないか、刀はないか」と二声三声言って、音が無い様になった。斬られていた場所は8畳の間であったけれども、立ち上がり、階段の側まで行燈を持って行き倒れたというのが、すなわち石川の話である。
 石川が言うには、「なかなか実にどうも鋭いやり方で、自分らも随分平素から油断はしていないが、賊は何しろ相当武辺場数を踏んだ奴に相違ない。自分ら2人がいて不覚をとるようなことはないが、どうする間もない。コナクソという一言でやられた」ということであった。
 それから傷についてだが、この人の話によると、まず坂本の横ほおを一つ叩いたとある。これは何か話にでも聞いたものかもしれないが、坂本は額を5本くらい斬られていた。それから、これは少々似ているが、横腹を斬り、また踏み込んで両腹を斬った。深い傷は、横に眉の上を斬られたもの、それから後ろから袈裟に斬られたものがあり、この2つがまず致命傷だった。
 坂本がどういう行動をとったかというと、どうもわからない。けれども、これも想像することができる。自分が想像するに、坂本は刀を取ったに違いない、刀を取ったが抜く間も無いから、鞘越しに一撃を受けた。
 そのため後ろから袈裟に斬られ、また重ねて斬ってきたので、太刀折のところが6寸程鞘越しに斬られた。刀身は3寸程刃が削れて、鉛を斬ったように削れている。それは、賊の攻撃を受けたが受け流したような形になり、その時横に斬られたのが、額の傷であろうと想像できる。
 傷の場所からいっても、この人の話と事実は、全く違うのである。それから、さらに疑うべきことは、お前ハ松代の人であるとか何とか言ったとあるが、そんなことで応接するどころの騒ぎではない。従僕の後について来て、突然コナクソと言って斬り込み、実に素早くやったのである。
 私どもが現場に駆けつけてから、さてこれは何者の仕業であろうか、誰にやられたかということについては、まだ心に掛けて詮議中である。
 石川の判断では、これは人を散々斬っている新選組の者の仕業だろうとのことだった。それでコナクソという言葉について判断した。石川の推測では、賊は四国人であろう。コナクソは四国人の言葉であるが、賊は土佐の者ではないだろう。なぜなら、土佐の者で、この時期石川を斬る者は無い。大多数の有志は皆、一致合体している時だったのである。
 また、1つの証拠として、刀の鞘が残っていた。それから証拠を念入りに調べたが、「コナクソ」という言葉と「もうよい」という言葉の他に、賊が残していったものは、刀の鞘だけであった。
 石川は、申し上げた通り16日の午後1時か2時頃、昔で言うと八ツ時というくらいに、とうとう死んでしまったが、その死ぬ直前に傍にいたのは、すなわち今の宮内大臣の田中光顕であった。
 これも土佐の白川屋敷に囲ってあった浪人組(陸援隊)の者であり、すなわち自分の大将がそういう災難にあったものであるから、やって来たのであった。
 田中が石川を慰めて、「これは貴様の傷は浅い。長州の井上聞多を見よ、聞多はあの通り酷い傷だったが治った。貴様は充分に治るぞ」と言って力づけた。
 しかしながら、後ろから斬られた傷が、脳へ幾分か損傷を負わせたようで、次第に吐き気を催し吐き、とうとう翌日の八ツ前に倒れた。けれども死ぬ前に、「速くやらぬとこの様にやられる、実に遺憾である」と懇々とさとし、帰らぬ人となった。
 その後、この下手人を調べることになった。まず、新選組と鑑定をつけたものでありますから、この方の手がかりを探さなければならないということで、石川が斬られたのが15日、その頃新選組に元いたが意見が分かれて、高台寺という寺で御陵衛士を名のっていた者が14、5人あった。
 伊東甲子太郎が頭で、その甲子太郎が18日の夜、新選組の者に殺害された。甲子太郎の遺体は七条油小路に放置されていたので、居合わせた者が7人程で引取りに向かったが、新選組の待ち伏せによって皆殺された。
 伊東一派は、七条少し脇の方あたりで斬殺されたのだが、その中に伏見の方へ出ていて、留守にしていた者が2、3人いた。その残された者は、始め白川の土佐屋敷へ逃げてきた。だが、白川の土佐屋敷はあの当時は野原であって、浪人が大勢いるが危険であるので、薩摩の屋敷の方へ保護を頼んだが、ここも危ないというので、伏見の薩摩屋敷で保護してもらった。
 この残された者たちは、元々新選組に入っていた者であるから、刀の鞘に見覚えがあるだろうというので、私と毛利恭助とそれから薩摩の中村半次郎の3人で、伏見の薩摩屋敷へ行って、甲子太郎の一党の者に会い、その刀の鞘を見せた。
 ところが、その2、3人が評議した結果、「これは原田左之助の刀と思う・・・」と証言した。なるほど、・・・この原田左之助という者は、腕前の男である。新選組の中でも、まず実行委員という理屈で、人を斬り込みに行く時には、いつでも先に立って行く。
 私などが、「ハァ、なるほど、そのようだ」と言い、「賊は武辺場数の者であろう。何しろ敏速なやり方である。これは原田に違いない」と話し合い、賊の1人は原田左之助で、斬った者は新選組の者に間違いない、ということで結論が出ている。
 ところが、この33年5月の近畿評論という雑誌を見ると、「坂本、石川両人を殺害した者は拙者なり」と明白に言っている。その挙動はどうかと見ると、これが非常におかしい。しかも、芝居の仇討ちでもやりそうなヌルイやり方で、もっともその中では、このように話せば長い様でありますけれども、実は電光石火であったと断りはしてある。
 第一に書生はどうしたかというと、窓から出て逃げたとある。しかし、逃げ出したという場所には、実は大きな柱があり、泥を塗ってあるので、押しても突いても動くものではない。逃げようとしても逃げることは、できないのである。
 ただ2階へ上がる行き詰まりのところに明かり窓があるが、それは高くて、ただ明かりを取るためのもので、決して逃げ出ることもどうすることもできない。
 もし逃げ出るならば、石川、坂本の斬られているところへ行かなければならない。そこには低い敷居があり、その下で坂本が机を置いて読書していた。その場所からは出られるが、そこでは石川、坂本の両人がドサバサドサバサやっているので、逃げようとしても逃げることはできないのである。
 ところが、この先生は、書生が3人いたが、2人は逃げて1人は仕留めたと言っている。どうも途方も無い間違いである。
 まあ全体がこの様な有様で、この事件は、私ら土佐の者らの推測では、元紀州の光明丸といろは丸が衝突した時に、坂本らが非常に激烈な談判をして、賠償金を取ったからそれを恨み、紀州人が新選組を使って実行したのであろう。
 紀州の巨魁である三浦安ー三浦久太郎が犯人に間違いない、あれがすなわち新選組を扇動して斬らせたのであろうと判断したので、誠につまらぬ者たちが、三浦安のところへ斬り込んだが、向こうはドッコイそうはいかぬと新選組に命じて準備をしていたから、こちらの方から向かった者のが逆にやられてしまった。
 また、斬ったと語る今井という人は、松代藩の者であると名のったと言っているが、松代藩の者だなどと言っても、ウッカリ会うことはない。皆用心しており、特に坂本は才谷梅太郎と名前を変え、ことに新選組から狙われていたから、薩摩の方からも危ないのでどうぞ私の方(薩摩屋敷)へ入るようにと勧められていたが、屋敷に入ると出入りに窮屈だから入ると言わなかった。
 そのため、普段から非常に警戒していたので、松代藩などと言って来ても会わないのであるが、十津川の者は終始出入りしていた。勤王論者が十津川に多かった。それで、賊が十津川と言って訪ねてきたから、取次も安心して通したのである。
 十津川ということを詐称されたというので、十津川人が大変怒って、すなわち三浦久太郎を斬りに行った場合にも、十津川人が参加していた。十津川人の中井承五郎という者は、大分人を斬った様子だったが、新選組によってとうとう斬られてしまった。それから龍馬を訪ねてきた書生は、遺憾じゃと言うので、三浦の所へ斬り込んだが、構えていたので散々失敗を取った。
 そういう理由で、この人は「松代藩じゃ」と名のったと言っているが、決してそのようなことはない。十津川と名のったのは、かなり巧妙なやり方である。従僕も、十津川人と名のったから取次をしたのである。そういう次第であり、残された鞘は、原田左之助が差していた刀の鞘である。こういうことに、私どもは一致している。
 ところが、この人の話では、鞘を落としてきたという。これも後で聞いたのであろうと思う。その鞘は紀州人のものであり、紀州人の鞘であるというので、サア三浦じゃと言って、三浦の所へ復讐に行って返り討ちにあったとある。
 そうではない、紀州人は紀州であるが、紀州人が新選組を扇動して、新選組の者が斬りに来た。鞘は全く原田左之助の鞘である、こういうことになっている。
 随分妙な物好きではあるけれども、推測してみると、徳川の旗下で譜代恩顧の者であるから、両英雄を倒したと名のるとそれが事実となって後世に名が伝わり、事件の事実はこうであったのかもしれないと認められると考えたに違いない。
 御話を申し上げている通り、片岡健吉からどうか調べてくれ、という依頼があったので、引き受けたのである。この片岡も故人となり、また私が死んでしまえば、遂に事実を明らかにすることができない。
 古いことを御存知の方もございますし、また歴史を御調べになる方もございますので、どうか充分な御研究を願いたいと思います。はたして、今井という人が手を下して斬ったものとすれば、この雑誌に語ったことは間違っているに違いない。いずれにしても、今井が斬ったということは、この証拠の上では認められないと思う。
 どうぞ私が申し上げたことを御記憶の上で、御研究を願いたいと思う。今井が両人を斬ったというのは、大変な間違いである。また、あの時代は斬自慢をする様な世の中であったから、誰が誰を斬ったというのは実に当てにならないと思う。どうぞ御参考のためにお話ししますが、今後の調査を願いたいと思います。

谷は、次の点から今井信郎が犯人というのは間違いであり、何か一世に自分の功績を残したいことを望む者の虚言で、「今井売名奴」と結論づけている。

【坂本龍馬の傷】
今井:「横鬢」を1つ叩いた。
谷:「額の所を横に五寸程」斬られていた。
【坂本龍馬の傷】
今井:横に左の腹を斬って、それから踏み込んで右から又一つ腹を斬った。
谷:後ろから背中を袈裟に斬られていた。
【従僕に渡した手札】
今井:松代藩。
谷:十津川藩。
【斬った状況】
今井:「ヤヤ坂本さん暫く」と挨拶すると、「どなたでしたねえ」と龍馬が答えたので、素早く抜いて斬りつけた。
谷:手札を見ようとしたところに突然侵入し、「コナクソ」と中岡を斬りつけた。
【残された鞘の持ち主】
今井:渡辺吉太郎。
谷:原田左之助。
【下手人】
今井:今井信郎、渡辺吉太郎、桂隼之助、某。
谷:原田左之助と新選組。

見廻組今井信郎説 下

近畿評論の捏造

ところが、大正13年(1924年)になって、今井信郎の告白を掲載した『近畿評論』の記事の一部が、捏造されていたことが発覚した。『近畿評論』へ寄稿した結城礼一郎が、その手記『お前たちのおぢい様』で告白したのである。

この中で結城は、「記事は、旧友の息子である自分が、今井さんに無理をお願いして話してもらったのである。新聞の読み物として書いたのだから、事実も多少脚色し、龍馬を斬った光景などは大いに芝居がかりで書いた。今井さんに大変ご迷惑をかけたことを心からお詫びする」と述懐している。

『お前達のおぢい様』(大正13年7月、結城禮一郎)
 今井さんと云ふ人は謙遜の人だった。尤も以前はそんなでもなかったさうだが、基督信者になってからガラリと変って、御維新当時の事なぞ誰が何と云っても喋った事なく、敬虔なる信者として篤実なる老農として余生を送って居た。
 今井さんから伺った話をそのまま蔵って置くのは勿体ないと思ったから、少し経って甲斐新聞へ書いた。素より新聞の続き物として書いたのだから事実も多少修飾し、龍馬を斬った瞬間の光景なぞ大いに芝居がかりで大向ふをやんやと言はせるつもりで書いた。
 処が之れが悪かった。後になって大変な事になって仕舞った。と云ふのは其の時甲斐新聞の編集長に岩田鶴城と云ふ男が居た。京都の人で、其の後お父さんが大阪で帝国新聞を起した時にも参加して京都支局で働いてた者だ。此の岩田が甲斐新聞をやめて京都へ帰った時、京都で発行されてる近畿評論と云ふ雑誌へお父さんの書いた今井信郎の話をそっくり其のまま寄稿した。確か明治三十三年頃の事だったと思ふ。
 左様すると其れを見て、之れは怪しからぬ事実を誤ってると云って怒り出したのが谷干城さんだ。谷さんは坂本の殺された時逸早く駆けつけた人で、其の時未だ死に切れずに居る中岡慎太郎から斬られた刹那の有様を一通り聴いて居たので、其れを近畿評論と比較して、此処が違ってる彼処が違ってる、話は何様しても捏造したものとしか思へぬと云って公開の席で演説したり又其の演説の筆記を処方へ配ったりした。島内登志衛編『谷干城遺稿』の中にもちゃんと蒐録してある。
 谷さんは第一、今井と云ふ男が近頃になって私が坂本を殺しましたと名乗って出るのが怪しい、畢竟売名の手段に過ぎぬとまで罵って居るが、之れは谷さんの方が無理だ。今井さんは決して自ら名乗って出たのでも何でもない。滅多に口を開かなかったのを、自分の旧友の息子が強ひてとせがんだので止むを得ず話したのだ。無論それが新聞や雑誌へ出されようとは思って居なかったのだ。
 谷さんも近畿評論の記事の出所を御調べになったら、彼んなにまでムキになる必要もなかったらう。本当に残念な事をした、と同時に又お父さんは、お父さんの軽々しき筆の綾から今井さんに飛んだ迷惑をかけた事を衷心から御詫びする。

暗殺に非ズ

今井信郎自身は、谷干城の反論に対して意見することはなかったが、和田天華(『坂本龍馬』の著者、明治45年6月)の質問に答えている。

龍馬殺害に関して、今井は暗殺の行為を否定し、見廻組は幕府の命を受けた職務を遂行し、捕縛に向かったところ斬り合いになったと弁明している。さらに、新選組はこの件に関係なく、罪状は伏見同心3名を銃撃して逃走したことであると回答している。

「和田天華への回答」
要するに幕府は攘夷因循兵力の微弱なるを曝露し、所謂志士なる火事場盗賊に苦るしめられ、土崩瓦解せるも、勤王愛国念慮は毫も衰弱したるもに是れなくは事実の上に顕然たり。近藤勇、新見錦、芹沢鴨の如、立場に依て其名を異に致す者と信じ候。実に玉石混交の時世、是か非か後世の史論に譲り左に御回答仕り候。
一、暗殺に非ず、幕府の命令に依り職務を以、捕縛に向格闘したるなり。 二、新撰組と関係なし。余は当時京都見廻り組与力頭なりし。
三、彼れ曾て伏見に於て同心三名を銃撃し、逸走したる問罪の為なり。
四、場所は京都蛸薬師角近江屋と云醤油店の二階なり。
(明治四十二年)十二月十七日
   遠州初倉村
   今井信郎
大阪新報社
和田天華殿

見廻組今井信郎説総評

◆『兵部省・刑部省口書』によると...

刺 客 佐々木只三郎、今井信郎、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼之助、土肥仲蔵、桜井大三郎
黒 幕 京都守護職松平容保
目 的 捕縛だが手に余るときは討ち取っても構わない
論 点
  • 兵部省・刑部省による取り調べでの今井信郎の口供
  • 刺客の人数は、7人である
  • 佐々木只三郎は、「松代藩」と書かれた名札を従僕に渡した
  • 佐々木只三郎指揮の下に、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼之介が2階へ踏み込み、今井信郎、土肥仲蔵、桜井徳太郎は台所を見張った
  • 遺留品は、無し

◆『今井信郎実歴談』によると...

刺 客 今井信郎、渡辺吉太郎、桂隼之助、某
黒 幕 -
目 的 世を騒がす悪漢であるため斬ってしまおう
論 点
  • 結城礼一郎が、今井信郎から聞いた話を甲斐新聞に連載した記事
  • 刺客の人数は、4人である
  • 「松代藩」と書かれた名札を取次に渡した
  • 現場の6畳の間には、3人の書生がいた
  • 今井の役割が、台所の見張りから、龍馬と中岡を斬った実行犯に変わっている
  • 龍馬を斬る前に、「坂本先生、お久しぶり」と一度言葉を交わし、本人と確認した後に龍馬の横鬢を斬りつけた
  • 渡辺吉太郎が、現場に鞘を忘れてきた

◆『近畿評論を駁す』によると...

刺 客 原田左之助と新選組
黒 幕 紀州藩
目 的 いろは丸号事件における多額の賠償金支払いに対する報復
論 点
  • 今井信郎実歴談に対する谷干城の反論講演
  • 刺客の人数は、2人である
  • 刺客は、「十津川藩」と書かれた名札を従僕に渡した
  • 刺客は、いきなり「コナクソ」と叫んで斬り込み、先に中岡の後頭部を斬りつけた
  • 坂本の致命傷は、眉の上を横に斬られた傷と背中を袈裟に斬られた傷である
  • 現場に3人の書生はいなかった
  • 刺客が現場に置き忘れた鞘は、原田左之助のものである。元新選組隊士の証言がある

見廻組渡辺篤説

見廻組渡辺篤説とは

坂本龍馬・中岡慎太郎殺害の犯人であると、元見廻組の渡辺篤が名乗り出たもので、実行犯は「京都見廻組」、黒幕は「幕府」である。

渡辺篤がつづったものとして、『渡辺家由緒暦代系図履暦書』がある。これは明治44年(1911年)に書かれたものであるが、龍馬殺害の様子は、記者が今井信郎の実歴談を改ざんした『近畿評論』(明治33年)の内容と似ている。

また、共犯として今井信郎の名を挙げているにも関わらず、今井の証言には渡辺の名が出てこない(渡辺吉太郎は別人)、現場の近江屋には5、6名の者がいたと事実と異なることを記述していることなどから、この証言は渡辺の売名行為であると考えられている。

阪本龍馬を殺害した老剣客

大正4年(1915年)、元見廻組肝煎の渡辺篤は、死に臨んで、弟安平と弟子飯田常太郎に、自分が坂本龍馬暗殺に関与したことを告白した。そして、自分の死後に『渡辺家由来緒暦代系図履暦書摘書』を公表するように、と遺言した。

その死から7ヶ月、同年8月5日の大阪朝日新聞に「阪本龍馬を殺害した老剣客ー悔恨の情に責められて逝くー」と題した記事が掲載され、渡辺篤の経歴とともに近江屋討ち入りの光景を述べている。

「阪本龍馬を殺害した老剣客ー悔恨の情に責められて逝くー」(大正4年、大阪朝日新聞)
阪本龍馬を殺害した老剣客ー悔恨の情に責められて逝くー。
京都柳馬場綾小路下る所に撃剣道場を開いて数多くの子弟たちの指南をする傍ら、中学校や警察・在郷軍人会の撃剣教師を勤めている渡辺篤もと一郎という一刀流の達人があった。十二の年から一刀流の門に入っておそるべき進境を示した。二十五歳で鳥羽・伏見の初陣に剛勇の名を知られたが、維新後は、後進子弟の誘掖に一身を捧げ、本年一月六日七十三歳の高齢を以て没した。その臨終の際に、
△皆伝の愛弟子なる飯田常太郎氏と、自分の実弟に当たる渡辺安平の両氏を枕辺に招いて、今まで胸の裡に秘めておいた一大秘密を打ち明けた。その秘密は下の一条である。時は慶応二年十一月十五日の未明のこと、命によって勤王の志士坂本龍馬、中岡慎太郎を京都河原三条下る客舎に襲うて暗殺したは、かくいう自分らの所為であった。
この日、自分は伝来の備前国光の一刀を手挟んで首尾よく一刀の下にめざす坂本龍馬を討取って使命を果たした。(中略)
△勤王無二の坂本、中岡両氏を殺戮したという天譴は今更ヒシヒシと胸を責める。ツイ躊躇して居る間に時は猶予なくとんでいって名乗り出る機会をわれから失くした。老境に入った今日、坂本氏の身代わりの人が京都大学へ入学したというはなしを耳にして今更に輪廻の恐ろしい事を感じたが、いまこの末期に臨んで何事も打ち明け、心おきなく世を去りたい。余の死後、これを公に発表して世間に事の真相を告白し、誤謬を正してもらいたい、という切なる希望であったそうな。
△討入りの光景、について語る処によれば、一同が乗りこんだ時間は午後二時ごろであったろう。うまく家人を騙して表戸を明けさせ、ズッと奥へ通ったが、龍馬の居間は二階である。そこで自分と同行の会津藩士佐々木唯二郎の両人は、にわかに急用あって面会にきた旨を申し入れてその返事も待たずに両人は二階へ上がり、自分は龍馬が一刀を抜こうとして切尖がまだ鞘を放れないところを備前国光の名刀を抜く手も見せず一刀流の早業で物の見事に斬りつけた。佐々木は続いて首を落とした。龍馬は討たれながら屈強な体格を乱しもせず従容死についた健気さは目の前に髣髴して思わず襟を正させる云々。委細は仏壇の抽斗にある遺言状をみてくれとの事に、飯田氏と実弟安平氏とは相謀って、この一大秘密を遺言どおり世間へ発表しようと目論んでいる

この記事には、渡辺が一刀で龍馬を斬り倒した後に佐々木がその首を打ち落としたなどと記者のヨタ記事が追加されているが、渡辺の履歴書には事件について次のようにつづられている。

『渡辺家由緒暦代系図履暦書』(明治44年8月19日、渡辺篤著)
 明治44年8月19日付
 慶応3卯年2月5日、見廻組に任命され、7人扶持を頂戴した。同年4月に肝煎並、同年8月25日に肝煎に仰せつけられ、外に5人扶持を与えられた。
 同年11月15日、土佐藩の坂本龍馬、中岡慎太郎というものが、密かに徳川将軍を覆そうと謀り、その陰謀を四方にめぐらせていたので、見廻組頭取の佐々木只三郎の命により、自分をはじめ今井信郎と外3名の組の者(内1人は世良敏郎)と相談し、夕暮れ時に坂本の旅宿へ踏み込み、正面に座っていた龍馬を斬りつけ、横に倒れたところを突き刺し、左右にいた両名も同時に討ち果たした。その中の1名が中岡慎太郎であったことは、後日聞いた。従僕も同じように即死した。
 13、4歳位の給仕で命が助かった者が1名おり、これは騒ぎに驚き自分の前の机の下に頭を入れて平伏していたが、子供なので見逃した。
 従僕は背が高く非常に太っており、案内を請うと、2階から取り次ぎのために降りてきた。偽名の名刺を差し出し、取り次ぎの従僕と共に2階へ上がり、ただちに正面に座っていた坂本を斬りつけ、龍馬が後ろの床にある刀を取ろうとしたが、とりあえず打ち倒した。
 龍馬が下宿していたところは、河原町通り三条下ル三四丁目西側の醤油屋の2階で、才谷梅太郎との偽名を使い隠れ住んでおり、土佐藩邸の前にあった。
 乱闘のうちに行燈は消え、暗闇の中で決めていた合い言葉も、思うように使うことができなかった。一時は同士討ちの恐れもあったが、なんとか無事に任務を遂行することができた。
 組頭の佐々木氏も現場に立ち会い、同じように働いた。向かいの土佐屋敷にはたくさん藩士が詰めており、夜中のため襲撃の騒ぎを聞き駆けつけてくる恐れがあるので、表入り口を固める者を1名、また2階の上がり口に1名を置き、これに備えた。
  ○従僕は相撲か。
  一、見廻組の総頭は、信州飯田藩主の堀岩見守で、1万石の大名である。この堀から招かれて、会津藩お抱えの鍛冶である大和秀国の打った1尺程の脇差し1振りを拝領した。まだ研ぎ上げていない荒打ちのままのものであった。
 刀の鞘を忘れ残してきたのは、世良敏郎という人で、書物は少し読むけれども武芸はあまり得意でないため、鞘を置き忘れる失態をおかした。日頃から剣術の鍛錬をしなかったこともあり、呼吸を切らし、歩くこともできない始末であった。自分は世良の腕を肩にかけ、鞘のない刀を袴の中へ縦に隠し入れて、世良を連れて引き上げた。
 河原町を四条に出て、四条通りを千本通りまで、千本通りを下立売、下立売通りを知恵光院まで、知恵光院を北へ入り、西側の寺院(名前を忘れる)にたどり着いた。
 ○四条通りは、宵の口で非常ににぎわっていたので、世良を肩にかけながら「ヨイヤナイカ、ヨイヤナイカ」と大声を上げて歩き、抜き身の刀を隠し持っていることを知られないのに都合がよかった。
 右の寺に佐々木氏は下宿していたので、各人はそれぞれ道を変えて戻り、都合よく任務を果たしたので、一同は祝杯を上げてから、夜明けに帰宅した。この件は秘密の公務であったので父に打ち明けたのみで、誰にも語っていない。
 翌日、坂本が斬られたと評判になり、新選組の浪士が斬ったとか色々な噂が流れた。こうして書くと軽く聞こえるかもしれないが、その当時の苦心は言葉では言い尽くせない。
 坂本を討ち果たすため、間者に増次郎という者を使い、前々より坂本の下宿にて同氏の挙動を探索していた。事件の当時、見廻組一同は先斗町の料亭青楼の2階を借り、日が暮れるのを待っていた。
 増次郎は、坂本の下宿の近くで同氏の様子を探るため、コモをかぶり乞食の風体で下宿所醤油屋の軒下にいたところに坂本が他所から戻ってきたことを確認し、その報告に帰ってきた。
 このとき日はほとんど暮れていたが、手はずを十分に協議した上で出かけ、前述の通りに坂本を始末した。
 この事件の前後に5、6回程真剣勝負をしているが、維新の前のことで殺気立っており、諸藩の藩士が各方面から京都に入り込み、実に油断できない情勢だった。他所に出かけるときには、刀の鯉口をゆるめ、前後左右に気を配り歩いていた。
 いうまでもなく、市中の見廻りをおこなう見廻組は不逞浪士に目をつけられていたので、少しも油断することはできなかった。そのため、日々腕を鍛えていた。壮年の頃は体重が20貫ほどあり、気力も十分だったので、一度も敗れるようなことはなかった。
 同月19日頃、坂本を討った褒賞として15人扶持を月々頂戴することになった。1人扶持とは、日に米5合。15人扶持では、1日7升5合となる。これを頂戴した。
 一、新選組局長の近藤勇は、元幕府百人組同心の出身で、京都において新選組を組織した。諸方の浪士を集めた二・三百人の組で、徳川幕府に敵対する人を斬り殺し、あるいは捕縛して、大いに権勢をふるった。京都見廻組とは親しくしており、慶喜公が下坂した後も壬生寺に屯所を設け、その後稲荷総所の近辺に移転した。
 近藤が大坂に下ったとき、伏見藤ノ森を通行中に薩摩藩から狙撃された。肩先を一発撃ち抜かれたが、落馬をこらえ血まみれのまま大坂城に入城した。愉快なる豪傑である。
 東京へ引き上げた後、副長の土方歳三は、官軍の甲州進軍に抗戦しようと一軍を率いたが、論議した結果大砲を官軍へと引き渡した。
 これを遺憾に思った近藤は、自ら甲州に向かい大砲を取り戻そう画策したが、官軍の鳥井丹波守の兵士に近藤を知る人間があり、近藤であることを重役に語ったために捕らわれ、斬殺された。
 斬殺の際は、非常に立派な最期であった。近藤の首級は京都三条の橋上にさらされた。我々が坂本を討った翌日、近藤と佐々木が会ったとき、「昨日はお手柄であった」と微笑したと聞いている。

だが、この襲撃の様子は、新聞記者の結城礼一郎が、今井信郎から聞いた話を読み物風に改ざんした『今井信郎実歴談』(明治33年、近畿評論第17号)の内容とよく似ているのである。また、この履暦書の原本として、明治13年(1880年)6月25日、渡辺が36歳の頃に記述したものがあるが、これには見廻組隊士の個別の名前があがっていない。

『履暦書原本』(明治13年6月25日、渡辺篤著)
同年十一月、土佐藩士坂本良馬ナル者、潜ニ徳川将軍ヲクツガヘサント計ル者ニテ、連累諸方ニ多々アル故、頭佐々木只三郎並拙者始外五名申合セ、夕方ヨリ良馬旅宿え急踏入候処、五六名慷慨ノ士居合、軽ク相戦ヒ首尾克悉ク打果シ候也。右旅宿ハ河原町通三条下ル三四丁目西側醤油屋ノ二階ニ居テ、才谷梅太郎ト俗名ヲ唱、潜居イタシ候也

こうした理由に加え、明治37年(1904年)の昭憲皇太后の夢枕事件で龍馬の評判が全国的になっていたこともあり、この告白は後世に名を残したい渡辺の虚言と考えられている。

見廻組渡辺篤説総評

◆『渡辺家由緒暦代系図履暦書』によると...

刺 客 佐々木只三郎、渡辺篤、今井信郎、世良敏郎、他2名
黒 幕 幕府
目 的 徳川幕府の転覆を画策しているため殺害
論 点
  • 死に臨んだ渡辺篤の遺言
  • 刺客の人数は、6人である
  • 刺客として今井信郎の名をあげているにも関わらず、今井の証言では渡辺篤の名が出てこない(注:渡辺吉太郎は別人)
  • 増次郎という密偵を放ち、坂本龍馬の挙動を探索していた
  • 渡辺篤が二階に上がると素早く坂本龍馬を強襲し、斬撃を加え倒した
  • 12、3歳の少年給士は見逃した
  • 刺客が現場に置き忘れた鞘は、世良敏郎のものである

新選組原田左之助説 上

新選組原田左之助説とは

坂本龍馬・中岡慎太郎暗殺の犯人として当時最も有力だった説で、刺客は十番組長の原田左之助を中心とした新選組、黒幕は紀州藩の三浦休太郎である。

新選組が嫌疑をかけられた直接の要因は、事件現場に刺客の遺留品と思われる鞘が残されており、元新選組の御陵衛士(高台寺党)が「これは原田左之助の刀の鞘と思う」と証言したからである。

また、このころ海援隊のいろは丸が紀州藩船と衝突しており、その賠償金8万3千両をめぐって紀州藩と対立している最中であったので、海援隊士たちは、この一件の報復で紀州藩公用人の三浦休太郎が新選組と共謀して龍馬を暗殺したと考えていた。

そのため同年12月7日夜、海援隊の陸奥陽之助、沢村惣之丞、宮地彦三郎らに陸援隊や十津川郷士を加えた総勢16名が、三浦の宿舎である天満屋を襲撃した事件が起きている。

刺客の遺留品

龍馬暗殺の当日、事件現場の近江屋には、刺客が残したと考えられる遺留品が存在したという。刀の鞘1本と、料亭の下駄2足である。これを証拠として新選組は土佐藩の告発を受けることになるのだが、この遺留品については、鳥取藩と尾張藩の記録に次のように記録されている。

『鳥取藩慶応丁卯筆記』
終ニ死骸夫々取片付候処、跡ニ残シ置候品ハ刀ノ鞘壱本黒塗、下駄弐足印付、右壱足ハ中村屋、今一足ハ河原町カイ々堂
『尾張藩雑記 慶応三年ノ四』
近江屋新助方ニ止宿土藩浪士頭齋谷梅太郎右方エ九人斗帯刀人這入リ梅太郎切害ニ及ビ其節残居候品、刀身壱本ト下駄弐足、右下駄焼印有之、一足ハ二軒茶屋中村屋印、一足ハ下河原……堂印有之

■鞘について

事件直後に現場に駆けつけた谷干城は、鞘の持ち主について調査した結果、元新選組の御陵衛士から原田左之助のものであるとの証言を得た、と『谷干城遺稿』で語っている。

これによると、11月18日に御陵衛士党首である伊東甲子太郎が、新選組に暗殺された。そのとき京都を留守にしていた伊東の同志が伏見の薩摩藩邸に潜伏しているというので、彼らなら鞘に見覚えがあるかもしれない、と毛利恭助、中村半次郎とともに伏見に向かった。

そして、彼ら(阿部十郎、篠原秦之進、内海次郎)に刀の鞘を見せたところ、原田左之助のものであることが判明したという。この談話を裏付けるように、谷に同行した中村半次郎の『京在日記』の11月21日の項に、「我は土州藩毛利暴助、谷清兵衛同行ニて伏見の越し泊ス」、22日の項に、「土州毛利、谷、我三人伏見より帰り」とある。

ただ、御陵衛士のひとり阿部十郎の談話には鞘についての言及はなく、犯人の根拠は「中国・四国なまりの声音」だったという。

『史談会速記録』(阿部隆明談話)
その時分に伏見の薩州邸は大山彦八という人が留守居をしておりまして、そうして坂本龍馬が撃れましたにつきましては、土州の毛利郷助、唯今の貴族院議員谷干城なる者がたびたび参りまして、坂本龍馬を撃ちました者を詮索致しました。
どういう声音であったか、何でも新撰組に違いないということでございまして、龍馬を撃ちました時分に「しとめた、しとめた」と言って声を上げました話を致しまして、マアそいういう声音で、中国か四国辺の者であろうという声音であったということでございます。
そうしますと今の伊予の松山藩でございましょう、新撰組の原田佐之助という者があって、その声によく似ておりますので、果して佐之助であろうということになりました。これか為にしばしば西郷なども来ました。また遠武秀行それから谷干城が来ましてだんだん相談を致しました。

調べを受けた阿部たちは、原田左之助が犯人であると証言しているのだが、新選組に同志を殺害されたばかりの彼らの証言が証拠になるのかは疑問が残る。しかし、土佐藩はこれによって原田の犯行と断定し、幕府に新選組を訴えている。

■下駄について

遺留品の下駄は、史料から「中村屋」と「カイカイ堂」のものであることがわかっている。また、その所有者についても「商売がら来客の出入りが多く、誰が履いていたものかはわからないが、恐らくは近江屋に駆けつけた土佐藩士のものではないだろうか」と推測されている。

ところが、この下駄は、新選組出入りの「瓢亭」のものとして取り上げられることがある。この出どころは、大正15年(1926年)に刊行された『坂本龍馬関係文書』(岩崎鏡川著)に、近江屋新助の息子新之助の談話として次のよう記述がある。

刺客の遺留品としては、わずかに下駄一足と、刀の鞘があるばかりだった。下駄には瓢亭の焼印があったので、新助は翌十六日に先斗町の瓢亭へ行くと、そこのものであることを認めた。さらに、この下駄を誰かに貸した覚えはないか、と問うと「昨夜新選組の御方に貸しました」との返答があった。そこで刺客は新選組に違いないと確信した。

瓢亭の下駄は、事件後60年を経てはじめて登場し、その出どころは当事者の息子の伝聞である。この裏付けのない瓢亭の下駄が、後世になって刺客の遺留品として既成事実化し、新選組犯行説の根拠となってしまったのである。

いろは丸事件

慶応3年(1867年)4月23日、備中沖の六島付近において、海援隊のいろは丸と紀州藩の明光丸とが衝突した。160トンのいろは丸の右舷に、5倍もの重量がある明光丸が2度突っ込み、大破したいろは丸は曳航のかいなく沈没したのである。

その後、近くの鞆の津において事故処理をめぐる交渉がおこなわれたが、27日に藩命を優先した明光丸は長崎での再交渉を約束し、いろは丸の乗員を放置したまま出港してしまった。

この処置に激怒した龍馬は、「実に怨み報ぜざるべからず」と長崎の菅野覚兵衛、高松太郎にあてた手紙に記している。

長崎にて談判が再開されたが、紀州藩は徳川御三家の威光を笠に長崎奉行所に裁決を求めようとした。これに対し龍馬は、土佐藩参政の後藤象二郎を巻き込んで対立の構図を土佐藩対紀州藩へとすり替え、世界に通用する公論公法をもって処置すべきと主張した。

さらに、長崎の花街で「船を沈めたその償いは、金を取らずに国を取る」といった威勢のいい歌を流行らせて市民を味方につけ、心理的に紀州藩を追い込んでいった。

龍馬の強攻策に、紀州藩代表の茂田一次郎は勝算がないとみて、薩摩藩の五代才助に調停を求めた。だが、依頼を受けた五代は龍馬の同志であり、海援隊にいろは丸を周旋した本人でもあった。それゆえ、海援隊に不利な裁定を下すはずはなく、紀州藩が8万3千両の賠償金を支払う条件で決着がついた。

これを不服とした紀州藩は本藩から岩橋轍輔を派遣し、龍馬代理の中島作太郎と再度の交渉をおこない、同年12月8日に賠償額を7万両に引き下げることで合意した。この交渉中に、龍馬の暗殺がおきたのである。

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