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チラシのウラです。

01. 運命の前夜

近江屋事件

慶応3年(1867年)11月15日、京都河原町通蛸薬師下ル近江屋で、土佐藩海援隊長・坂本龍馬と陸援隊長・中岡慎太郎が何者かによって殺害されました。龍馬はほぼ即死、取り次ぎに出た従僕の山田藤吉は16日、かろうじて意識のあった中岡も17日に死亡しました。

それは大政奉還によって幕府が瓦解し、維新政府の樹立に向けて権力闘争が激化するなかで、突然おきた出来事でした。維新の立役者である龍馬が殺害されたこの事件は、幕末最大の謎ともいわれ、犯人は京都見廻組、新選組、薩摩藩、紀州藩、土佐藩と諸説入り乱れています。

当時は刺客の特定ができず、新選組が有力視されていましたが、明治になって維新政府に降伏した元京都見廻組の今井信郎が自供したため、今日では京都見廻組の犯行であることが定説となっています。

ただし、今井の供述だけで確たる証拠はなく、すべての謎が解明されたわけではありません。現場にかけつけ瀕死の中岡から証言をきいた土佐藩の谷干城は、自分が見聞した事実と異なる点があり、今井信郎は売名の徒であると批判しています。

大政奉還を建策し、平和的な政権委譲に尽力した功労者が、なぜ殺害されなければならなかったのか。このサイトでは、同時代に記録された史料や残された現場証人の証言をもとに、事件の全容を再構築することで龍馬暗殺の真相にせまりたいと考えます。

【中岡慎太郎】
陸援隊長。土佐国安芸郡北川郷柏木村の大庄屋・中岡小伝次の長男として生まれる。学問を間崎哲馬、剣術を武市半平太に学び、文久元年(1861年)に武市が結成した土佐勤王党に参加。文久3年(1863年)、土佐勤王党への弾圧がはじまると脱藩し、長州に身をよせた。坂本龍馬とともに薩長同盟の締結に奔走し、慶応2年(1866年)1月に成功。慶応3年(1867年)4月、土佐藩から脱藩罪を許されてのち、陸援隊の隊長に任ぜられる。同年11月15日夜、坂本龍馬とともに京都近江屋で暗殺された。

中岡慎太郎
中岡慎太郎

事件前夜

慶応3年(1867年)10月9日、龍馬は大政奉還の実現を見届けるため、海援隊の岡内俊太郎・中島作太郎とともに京都に入りました。

はじめは河原町通り車道にある材木商「酢屋」中川嘉兵衛方を下宿としていましたが、人との応対に不便があるので、10月13日ごろ土佐藩邸に近い蛸薬師の醤油商「近江屋」井口新助方に転居しました。(『修訂防長回天史』)

末松謙澄 「岡内の書翰抄」『修訂防長回天史』 大正10年(1921年)

そのうち才谷も木屋町の宿にては人と応対に不便に御座候故、才谷一人、中島に別れて御邸の近か河原町に転じ……

このころ龍馬は、身辺に危機がせまっていることを感じていました。昨年1月に伏見の寺田屋で襲撃を受けたさい、奉行所の捕り方を殺傷しており、幕吏の厳しい追跡を受ける身となっていたからです。

そのため、安全な河原町の藩邸に入ることを希望しましたが、土佐藩側はこれを拒絶します。この4月に脱藩の罪が許されたとはいえ、かつて国法をおかしたものを迎えいれる雰囲気は、土佐藩にはありませんでした。

龍馬の身を案じた薩摩藩士・吉井幸輔は、「いまだ土佐藩邸に入ることができないと聞きました。四条先斗町のような街中にいては、用心が悪いのです。その理由はこの30日ばかり前、幕吏どもが龍馬が京都へ入ってきたと間違った情報を聞いて、薩摩藩邸にも探索にきたそうです。早く二本松の薩摩藩邸に入りなさい」とすすめました。

しかし龍馬は、「まだ土佐本国では私や海援隊士たちが脱藩したことが問題視されているうえ、私ひとりでさえ土佐藩邸に入ることができません。ここでまた、薩摩藩邸に身を潜めることは、土佐に対して実に嫌みになってしまいますので、万一の時は、主従ともにここで一戦の上、土佐藩邸に引きこもろうと決心しております」と申し出を断っています(『慶応3年10月18日付 望月清平宛龍馬書簡』)。

『慶応3年10月18日付 望月清平宛龍馬書簡』

拝啓
然ニ小弟宿の事、
色〻たずね候得ども
何分無之候所、昨夜
藩邸吉井幸輔
より、こと伝在之候ニ、
未屋鋪ニ入事あた
ハざるよし。四條ポン
ト町位ニ居てハ、用心
あしく候。其故ハ此三十
日計後ト、幕吏ら龍馬
の京ニ入りしと謬
伝して、邸江もたず
ね来りし。されバ二本
松薩邸ニ早〻入候よふ
との事なり。小弟思ふ
ニ、御国表の不都合の上、
又、小弟さへ屋鋪ニハ
入ルあたハず。又、二本松
邸ニ身をひそめ候ハ、
実ニいやミで候得バ、
萬一の時も存之候時ハ、
主従共ニ此所ニ一戦の
上、屋鋪ニ引取申べし
と決心仕居申候。又、
思ふニ、大兄ハ昨日も小弟
宿の事、御聞合被下
候彼御屋鋪の辺の寺、
松山下陳を、樋口
真吉ニニ周旋致
させ候よふ御セ話被下
候得バ、実ニ大幸
の事ニ候。上件ハ
唯、大兄計ニ内〻申上候
事なれバ、余の論を
以て、樋口真吉及
其他の吏〻ニも御
御申聞被成候時ハ、猶
幸の事ニ候。不一
 宜敷 頓首/\/\
 十八日    龍馬
望月清平様    龍
     机下

[現代語・意訳]
さて、私は宿のことを色々と探してみたのですが、何分、適当なところがありません。
昨夜、薩摩藩邸の吉井幸輔から伝言があり、「いまだ土佐藩邸に入ることができないと聞きました。四条先斗町のような街中にいては、用心が悪いのです。その理由はこの30日ばかり前、幕吏どもが龍馬が京都へ入ってきたと間違った情報を聞いて、薩摩藩邸にも探索にきたそうです。早く二本松の薩摩藩邸に入りなさい」とのことでした。
私が思うに、まだ土佐本国では私や海援隊士たちが脱藩したことが問題視されているうえ、私ひとりでさえ土佐藩邸に入ることができません。ここでまた、薩摩藩邸に身をひそめることは、土佐に対して実に嫌みになってしまいますので、万一のときは、主従ともにここで一戦のうえ、土佐藩邸に引きこもろうと決心しております。
思いますに、望月大兄は昨日も私の宿のことを御相談くだされているとのこと、土佐藩邸の周辺の寺で、松山藩の下陣を樋口真吾から周旋してくださるようにお世話して頂ければ、実に大きな幸いでございます。
宿の件は、望月大兄にだけ内々に申しあげていることですので、何か話のついでに、樋口真吾やその他の者にもお申し聞かせて頂ければ、なお幸いなことでございます。不一
宜しく 頓首/\/\
十八日    龍馬
望月清平様   龍
机下

土蔵潜伏はあったのか?

こうした事情から、近江屋の主人・井口新助は龍馬を気づかい、裏庭の土蔵の中に部屋をこしらえ、万一のときには裏手のはしごを降りて誓願寺へ逃れられる手はずを整えていました。このことは他人に知られないよう、家のものにも秘密としており、食事や寝具の世話をひとりで受け持っていました。

ところが、11月11日ごろから龍馬は風邪気味となり、用便のために母屋まで降りるのは不便だとして、14日朝から土蔵を出て母屋2階の奥座敷にうつったといいます(「井口新之助談話」『坂本龍馬関係文書 第二』)。

岩崎鏡川 「井口新之助談話」『坂本龍馬関係文書 第二』 日本史籍協会、大正15年(1926年)

藩邸の胥吏堀内慶助(後良和)はこれを憂い、近江屋新助に謀りて、龍馬が福井より帰京するを待ちて龍馬をこの家に潜伏せしめぬ。新助は裏庭の土蔵の中に、一室をこしらえ、龍馬をここに入れ、万一の際には、裏手誓願寺の地内に遁れ出づるべく、梯子を架し置き、寝具飲食の如きまで、この室に運び入れて、出入のものにもその所在を知らしめざる程なりしも……

はたして、この通説にある龍馬が土蔵に潜伏していたという事実はあったのでしょうか

これを裏付けるものは、井口新助の「裏庭の土蔵のなかに一室をこしらえ、龍馬をここに入れ、万一の際には、……」という証言のみで、これは新助の死後、長男・新之助によって語られた情報です。近江屋事件については多くの関係者が証言していますが、誰ひとりとして土蔵の存在に言及したものもいなければ、それにふれた個所もありません

10月中旬まで龍馬とともに「新官制擬定書」を起草していた尾崎三良は、『男爵尾崎三良手扣』『尾崎三良自叙略伝』などの回顧録を残していますが、近江屋の土蔵については何も記録していません。

事件当日に近江屋を訪れ、のちに証言を残している菊屋峰吉、海援隊隊士の宮地彦三郎、菅野覚兵衛、現場にかけつけた土佐藩士の谷干城、田中顕助らも同様です。

龍馬の不覚

また、龍馬の日常行動から土蔵にかくれるような危機意識を感じることはできません

事件5日前の11月10日、福岡藤次とともに二条城近くの大和郡山藩の屋敷に下宿する幕府若年寄格・永井尚志のもとを訪れてます。永井は留守のため帰宅しますが、その帰り道に市中を散歩していた薩摩藩士・中村半次郎と会っています。中村は『京在日記』に「山田・竹之内両士同行散歩のところ、途中にて土州士坂元竜馬へ逢う」と書いています。

翌11日の朝、ふたたび永井を訪ねて、いろいろなことを議論し意見がピッタリと一致したようです。ただし、幕府の方は気の毒だが、今まさに戦の時機であり、修羅か極楽の道であろうか行動をおこさなければならないとも決意しています(『慶応3年11月11日付龍馬書簡』)。

『慶応3年11月11日付 林謙三宛龍馬書簡』

○扨、今朝永井玄蕃方ニ参り色〻談じ候所、天下の事ハ危共、御気の毒とも言葉に尽し不被申候。大兄御事も今しバらく命を御大事ニ被成度、実ハ可為の時ハ今ニて御座候。やがて方向を定め、シユラか極楽かに御供可申奉存候。謹言。
 十一月十一日
  龍馬
 追白、彼玄蕃ヿハヒタ同心ニて候、再拝〻。

さらに14日も永井と面談していますが、日中に何度も会っていると嫌疑を受けるので、夜中に来てほしいと永井の要望がありました(「坂本龍馬も参り候事に相成り候えども、毎々は嫌疑もこれあるに付き、夜中に出懸け候事にて、すなわち昨夜も参り申し候」『丁卯日記』)。

このころ龍馬は永井と積極的に会っていますが、永井から身の安全を約束されていたようです。不穏な噂を耳にした寺田屋お登勢は、近江屋から土佐藩邸に移るようすすめましたが、龍馬は「過日、永井玄蕃頭・会津肥後守等に面会し、今は何も憂うることなし、安心せよとのことにて候」(『伏見寺田屋の覚書』)と答えたといいます。

この時期自由に行動できたのは幕府要人の保証があったからであり、この認識が龍馬の危機意識を気薄にさせた原因かもしれません。

事件の当日も昼ごろに近くの福岡藤次の下宿を訪問し(『雋傑坂本龍馬』)、夕方には近江屋に立ち寄った宮地彦三郎を階上から声高にねぎらっています(『宮地彦三郎真雄略伝』)。

これらの事実から龍馬が土蔵の部屋に身をひそめていたことも、前日から風邪をひいて寝込んでいたことも認めることはできません。土蔵の一件は、井口家の活躍を語るため、井口新助(もしくは新之助)による作り話の類と思われます。

【近江屋(井口)新助】
土佐藩御用達醤油商。京都河原町蛸薬師下ルで醤油屋を営む、近江屋の2代目。尊攘派志士たちをよく支援し、鳥羽伏見の戦いのさいは、軍資金・食糧を提供したという。

【坂本龍馬関係文書 第一・第二】
岩崎鏡川編。坂本龍馬とその関係者の書簡・談話・記録をまとめたもの。龍馬研究に欠くことのできない史料である。


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