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世の人はわれをなにともゆはゞいへ わがなすことはわれのみぞしる

01. 運命の前夜

土蔵潜伏はあったのか?

こうした事情から、近江屋の主人・井口新助は龍馬を気づかい、裏庭の土蔵の中に部屋をこしらえ、万一のときには裏手のはしごを降りて誓願寺へ逃れられる手はずを整えていました。このことは他人に知られないよう、家のものにも秘密としており、食事や寝具の世話をひとりで受け持っていました。

ところが、11月11日ごろから龍馬は風邪気味となり、用便のために母屋まで降りるのは不便だとして、14日朝から土蔵を出て母屋2階の奥座敷にうつったといいます(「井口新之助談話」『坂本龍馬関係文書 第二』)。

岩崎鏡川 「井口新之助談話」『坂本龍馬関係文書 第二』 日本史籍協会、大正15年(1926年)

藩邸の胥吏堀内慶助(後良和)はこれを憂い、近江屋新助に謀りて、龍馬が福井より帰京するを待ちて龍馬をこの家に潜伏せしめぬ。新助は裏庭の土蔵の中に、一室をこしらえ、龍馬をここに入れ、万一の際には、裏手誓願寺の地内に遁れ出づるべく、梯子を架し置き、寝具飲食の如きまで、この室に運び入れて、出入のものにもその所在を知らしめざる程なりしも……

はたして、この通説にある龍馬が土蔵の部屋に潜伏していたという事実はあったのでしょうか

これを裏付けるものは、井口新助の「裏庭の土蔵のなかに一室をこしらえ、龍馬をここに入れ……」という証言のみで、これは新助の死後、長男・新之助によって語られた情報です。近江屋事件については多くの関係者が証言していますが、誰ひとりとして土蔵の存在に言及したものもいなければ、それにふれた個所もありません

10月中旬まで龍馬とともに「新官制擬定書」を起草していた尾崎三良は、『男爵尾崎三良手扣』『尾崎三良自叙略伝』などの回顧録を残していますが、近江屋の土蔵については何も記録していません。

事件当日に近江屋を訪れ、のちに証言を残している菊屋峰吉、海援隊隊士の宮地彦三郎、菅野覚兵衛、現場にかけつけた土佐藩士の谷干城、田中顕助らも同様です。

また、龍馬の日常行動からは、土蔵にかくれるような危機意識を感じることはできません

11月10日、福岡藤次とともに二条城近くの大和郡山藩の屋敷に下宿する幕府若年寄格・永井尚志のもとを訪れますが、留守のため帰宅。その帰り道に、市中を散歩していた薩摩藩士・中村半次郎と出会っており、中村の『京在日記』に「山田・竹之内両士同行散歩のところ、途中にて土州士坂元竜馬へ逢う」と書かれています。

翌11日朝、ふたたび永井をたずね、さまざまなことを議論し意見がピッタリと一致したようです(「彼玄蕃ことはヒタ同心にて候」『慶応3年11月11日付龍馬書簡』)。事件前夜(14日夜)も永井のもとを訪れ、面談をしています(「坂本龍馬も参り候事に相成り候えども、毎々は嫌疑もこれあるに付き、夜中に出懸け候事にて、すなわち昨夜も参り申し候」『丁卯日記』)。

このころ龍馬は永井と積極的にあっていますが、永井からは身の安全を約束されていた(「過日、永井玄蕃頭・会津肥後守等に面会し、今は何も憂うることなし、安心せよとのことにて候」『伏見寺田屋の覚書』)といいます。自由に行動できたのは幕府要人の保証があったからであり、この認識が龍馬の危機意識を気薄にさせた原因かもしれません。

事件の当日も昼ごろに近くの福岡藤次の下宿を訪問し(『雋傑坂本龍馬』)、夕方には近江屋に立ち寄った宮地彦三郎を階上から声高にねぎらっています(『宮地彦三郎真雄略伝』)。

これらの事実から龍馬が土蔵の部屋に身をひそめていたことも、前日から風邪をひいて寝込んでいたことも認めることはできません。土蔵の一件は、井口家の活躍を語るため、井口新助(もしくは新之助)による作り話の類と思われます。

【近江屋(井口)新助】
土佐藩御用達醤油商。京都河原町蛸薬師下ルで醤油屋を営む、近江屋の2代目。尊攘派志士たちをよく支援し、鳥羽伏見の戦いのさいは、軍資金・食糧を提供したという。

【坂本龍馬関係文書 第一・第二】
岩崎鏡川編。坂本龍馬とその関係者の書簡・談話・記録をまとめたもの。龍馬研究に欠くことのできない史料である。

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