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世の人はわれをなにともゆはゞいへ わがなすことはわれのみぞしる

03. 龍馬死す

コナクソ

表で来意をつげる声があり、藤吉が応対に出ると、そこには1人の男が立っていました。男は「信州松代(十津川郷とも)のものだが、才谷先生にお目にかかりたい。どうぞこれを通してもらいたい」と、名札を差し出しました。

あやしむことなく名札を受け取ると、取り次ぐため藤吉は階段をあがっていきました。

その隙に3人の刺客が、屋内に侵入します。ひとりは藤吉のあとを追い、階段をあがりきったところで、その背を抜き打ちに斬りつけました(「其背部に大傷を見る」『男爵安保清康自叙伝』)。藤吉は抵抗しましたが、さらに数太刀をあびせられ、その場に倒れました。

大きな物音を聞いた龍馬は、誰かがふざけていると思い、「ホタエナ(騒ぐな。土佐の方言)」と大喝しました。

その瞬間、刺客たちがふすまを開け、奥の間に飛び込んできました。ひとりは「コナクソ(この野郎。四国の方言)」とさけびながら中岡の後頭部を、ひとりは龍馬の前額部を横にはらいました

手もとに刀はなく、龍馬は後ろの床の間に、中岡も屏風の後ろに置いていました。

龍馬は佩刀(陸奥吉行・長二尺二寸)を取ろうと背後へ身をひねったところ、刺客の二の太刀が袈裟がけに背中を走りました。

それでも刀をつかんで立ちあがると、刺客の三の太刀を鞘のままで受け止めました。しかし、刺客の斬撃は凄まじく、鞘越し3寸程刀身を斜めに削り、その余勢をもって龍馬の前額部を鉢巻なりに深く横にはらいました。

脳しょうが吹き出し、もはやこらえきれず龍馬はその場にくずれ落ちました

一方、中岡にも刀を取る余裕がなく、腰にさした短刀で鞘のまま防戦。奮闘しましたが初太刀の深手で思うように体が動かず、左右の手足を斬られ、ついに昏倒しました。右手首はわずかに皮を止めてほとんど切断されていたといいます。

刺客は中岡のでん部を骨に達するほど深く斬りつけ、その死を確かめると、「もうよい、もうよい」との言葉を残して立ち去りました。中岡はこの激痛で蘇生しましたが、死を装ってやり過ごしました。

ほどなくして、龍馬が正気を取りもどします。刀を支えに身をおこすと、刃先を行灯の火に照らし「残念、残念」とつぶやき、中岡に向かい「慎太、慎太、どうした。手が利くか」と声をかけました。「手は利く」と、中岡は応じます。

龍馬は、行灯を片手に隣の6畳間まではって行き、手すりのところから「新助、医者を呼べ」と階下に声をかけました。だが、そこで力尽き、「慎太、僕は脳をやられたから、もう駄目だ」と言い残し、龍馬は絶命しました。

中岡は、激痛に耐えながら裏の物干しにはい出て、近江屋の家人を呼んだが答えはありません。さらに屋根伝いに北隣の井筒屋嘉兵衛方の屋上まで進みましたが、悪寒が襲い進むことも声をあげることもできなくなりました。

【ホタエナ】
「坂本と中岡の死」『坂本龍馬関係文書 第二』の中に「店頭にて若者共が戯れ居るならむと思ひ「ホタエナ」と一聲叱咤せり」とある。

【コナクソ】
『谷干城遺稿』(島内登志衛編、明治45年)の中に「そして置いて矢庭にコナクソと云つて斬つた」とある。

惨劇のあと

このとき近江屋の1階には、奥の間に井口新助夫婦とふたりの子がいました。

突然のけたたましい物音に驚き、新助は急いで表に飛び出そうとしますが、刺客のひとりが門口に立っていました。やむなく引きかえすと、妻子の頭上から布団をかぶせ押さえ、「声を立ててはいかん。静かにせい」と、息をひそめていました。

しばらくして近江屋は静寂を取りもどし、新助は様子をうかがいながら裏口から裏寺町へぬけ出ると、蛸薬師の図子から土佐藩邸に注進しました。

知らせを受けた藩邸からは、さっそく下横目の島田庄作が現場にかけつけます。刺客の見張りがいないので、島田が抜刀して屋内の様子をうかがっているところへ、軍鶏肉をたずさえた峰吉が帰ってきました。

島田の立ち姿を驚く峰吉に、「うむ、峰吉か、しずかにせい。いま龍馬がやられた。賊はまだ2階にいる。出てきたら斬ろうと思って待っているのじゃ」と話しました。

半信半疑だった峰吉はひとりで屋内に入り、2階へあがりかけたところで、たらたら血が流れ落ちていることに気づきます。

血だらけの階段をかけあがると、2階の上り口には藤吉が横倒れに苦しんでいました。奥の部屋では血の海の中に龍馬が倒れており、物干し場から隣家の屋根へ移ったところに中岡が倒れていました

峰吉が大声で助けを呼ぶと、島田と新助、新助の弟・新三郎が2階にあがってきて、一緒に中岡を座敷へ運びこみました。

藩邸からは医者・川村盈進が派遣され、さっそく治療にあたりました。龍馬は眉間を深く斬られており、まだ体温は残っていましたが、すでに事切れています。中岡は数十ヶ所を斬られる重傷を負いながらも、意識はしっかりしていました(「田中光顕口述」『坂本龍馬関係文書』)。

馬場文英(福岡藩御用達の呉服商)が書いたとされる『土藩坂本龍馬伝』には、「其遺骸を点検するに、直柔は大小三十四ヶ所慎太郎は大小とも二十八ヶ所。僕藤吉は大小共に七ヶ所の洟を受得たり」との記録があり、無数の刀傷があったことを伝えています。

その間に土佐藩邸から曽和慎八郎、つづいて大森方(越後屋とも)から谷干城と毛利恭助が、近江屋にかけつけました。

「早く陸援隊に通知せよ」との中岡の命を受けた峰吉は裸馬にまたがり、白川土佐藩邸にある陸援隊本陣に注進しました。知らせをうけた田中顕助は押っ取り刀で飛び出すと、途中で薩摩藩邸に立ち寄り、吉井幸輔と合流してかけつけました。一足遅れて陸援隊隊士の本川安太郎、香川敬三も到着しました。

中岡の遺言

意識のあった中岡は治療をうけながら、集まった同志に向かい、次のように語りました。

後藤象二郎
「因循姑息と罵りし幕府党中にも、這般の挙をなすものあり、諸君決して等閑なる勿れ」「誠に遺憾千万であるが、併し此通りである。速くやらなければ君方もやられるぞ」

谷干城遺稿』「明治39年谷干城講演」
「なかなか実にどうも鋭いやり方で自分等も随分従来油断はせぬが、何しろ非常な所謂武辺場数の奴に相違ない。此くらい自分等二人居つて不覚を取ることはせぬ筈だが、どうする間もない。たつたコナクソと言ふ一言でやられた」

坂本龍馬関係文書』「田中光顕口述」
「突然2人の男が2階へ駆上つて来て斬り掛つたので、僕は兼て君(即ち伯)から貰つて居た短刀で受けたが、何分手許に刀が無かつたものだから不覚を取つた」

維新土佐勤王史
「手許に刀を置かざりし故に、不覚を取りき、諸君今後注意せよ」

死をさとった中岡は後事を諸士にたのみ、特に香川敬三には、「天下の大事は偏に岩倉公の之を負荷せられんことを願ふのみ、子之を岩倉公に告げよ」(『岩倉公実記』)と遺言します。

陸援隊副隊長の田中顕助が、「長州の井上聞多をご覧なさい。あれ程斬られても、まだ生きている。先生決して力を落とし給うな」と枕もとで中岡をはげまし、一時は焼き飯を食べるなどの回復をみせました。

だが、後頭部に受けた深い傷が致命傷となり、しだいに吐きけをもよおし、遂に17日の夕刻に絶命しました。享年25歳。

【谷干城】
土佐藩士。子爵。江戸に出て安井息軒に学び、帰国して藩校致道館の史学助教授に任ぜられた。文久元年(1861年)、武市半平太と出会って尊王攘夷に傾倒し、慶応2年(1866年)の長崎視察のさい、後藤象二郎や坂本龍馬と交わる。翌年5月には、中岡慎太郎の仲介で薩摩藩の西郷吉之助らと会見し、薩土討幕の密約を結んだ。戊辰戦争では藩兵大監察として戦功を立て、維新後は陸軍に出仕。明治10年(1877年)、西南戦争の際には熊本城を死守し、勇名を馳せた。

谷干城
谷干城

【田中顕助】
土佐藩士。伯爵。武市半平太に師事し、土佐勤王党に参加。八月十八日の政変を契機に弾圧がはじまると、元治元年(1864年)には脱藩して長州に渡り、高杉晋作の知遇を受ける。慶応3年(1867年)、中岡慎太郎率いる陸援隊に幹部として加わる。中岡亡き後は副隊長として同隊を統率し、鳥羽・伏見の戦いでは高野山に陣取って紀州藩を牽制した。維新後は宮内大臣などの要職を歴任し、政界引退後は維新志士の遺墨の収集、保存に尽力した。

田中顕助
田中顕助

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