まにまにまに

龍馬死す

コナクソ!!

峰吉たちが近江屋を出てから少しして、表で来意をつげる声があった。従僕の藤吉が応対に出ると、そこに1人の男が立っており、「信州松代(十津川郷とも)のものだが、才谷先生にお目にかかりたい。どうぞこれを通してもらいたい」と、名札を差し出した。

あやしむことなく名札を受け取ると、2階の龍馬に取り次ぐため藤吉は階段をあがろうとした。背を向けたその隙に、3人の刺客が屋内に侵入する。ひとりは藤吉のあとを追いかけ、階段をあがりきったところでその背を抜き打ちに斬りつけた(「其背部に大傷を見る」『男爵安保清康自叙伝』)。藤吉は抵抗したが、さらに数太刀をあびせられ、その場に斬りたおされた。

2階奥の間では、龍馬と中岡慎太郎が火鉢をはさみながら座っている。大きな物音を聞き、龍馬は1階で誰かがふざけていると思い、「ホタエナ!(騒ぐな。土佐の方言)」と大喝した。

その瞬間、刺客たちがふすまを開け、部屋に飛び込んできた。ひとりは「コナクソ!!(この野郎。四国の方言)」とさけびながら中岡の後頭部を、ひとりは龍馬の前額部を横にはらった

龍馬暗殺

襲撃を受けたふたりの手もとに刀はなく、龍馬は後ろの床の間に、中岡も屏風の後ろに置いていた。とっさに龍馬は佩刀(陸奥守吉行・長二尺二寸)を取ろうと、背後へ身をひねった。しかし、刺客はその動きを見逃さず、二の太刀が右肩先から袈裟がけに龍馬の背中を走る。

それでも龍馬は刀をつかんで立ちあがると、せまる刺客の三の太刀を鞘のままで受け止めた。だが、刺客の斬撃は凄まじく、鞘越し3寸程刀身を斜めに削り、その余勢をもって龍馬の前額部を鉢巻なりに深く横にはらった。脳しょうが吹き出し、もはやこらえきれず龍馬はその場にくずれ落ちた

一方、中岡にも刀を取る余裕がなく、腰にさしていた短刀で鞘のまま防戦。奮闘したが初太刀の深手で思うように体が動かず、左右の手足を斬られついに昏倒する。このとき右手首は、わずかに皮を止めてほとんど切断されていたという。

刺客は中岡のでん部を骨に達するほど深く斬りつけ、その死を確かめると「もうよい、もうよい」との言葉を残して立ち去った。中岡はこの激痛で蘇生したが、死を装ってやり過ごした。

ほどなくして、龍馬が正気を取りもどした。刀を支えに身をおこすと、刃先を行灯の火に照らし「残念、残念」とつぶやき、中岡に向かい「慎太、慎太、どうした。手が利くか」と声をかけた。「手は利く」と、中岡は応じる。

龍馬は行灯を片手に隣の6畳間まではって行き、手すりのところから「新助、医者を呼べ」と階下に声をかけた。だが、そこで力尽き、「慎太、僕は脳をやられたから、もう駄目だ」と言い残し、龍馬は絶命した。

中岡は激痛に耐えながら裏の物干しにはい出て、近江屋の家人を呼んだが答えはない。さらに屋根伝いに北隣の井筒屋嘉兵衛方の屋上まで進んだが、はげしい悪寒が襲い進むことも声をあげることもできなくなった。

【ホタエナ】
「坂本と中岡の死」『坂本龍馬関係文書 第二』の中に「店頭にて若者共が戯れ居るならむと思ひ「ホタエナ」と一聲叱咤せり」とある。

【コナクソ】
『谷干城遺稿』(島内登志衛編、明治45年)の中に「そして置いて矢庭にコナクソと云つて斬つた」とある。

龍馬遭難時の佩刀と拳銃
龍馬遭難時の佩刀と拳銃

惨劇のあと

このとき近江屋の1階には、奥の間に井口新助夫婦とふたりの子がいた。突然のけたたましい物音に驚き、異変をかんじた新助は土佐藩邸に急報しようとした。藩邸は近江屋とは道をひとつはさんだ向かいにある。しかし、表口には刺客の見張りが立っており、やむなく引きかえすと、妻子の頭上から布団をかぶせ押さえて「声を立ててはいかん。静かにせい」と息をひそめていた。

しばらくして近江屋は静寂を取りもどした。新助は様子をうかがい裏口から裏寺町へぬけ出ると、蛸薬師の図子(細道)から土佐藩邸に注進した

知らせを受けた藩邸からは、さっそく下横目・島田庄作が近江屋にかけつけた。表に見張りの姿はなく、島田は抜刀して屋内の様子をうかがう。そこへ軍鶏肉をたずさえた峰吉が帰ってきた。島田の立ち姿を驚く峰吉に、「峰吉か、しずかにせい。いま龍馬がやられた。賊はまだ2階にいる。出てきたら斬ろうと思って待っているのじゃ」と話した。

半信半疑の峰吉は「そんなことがありますものか」と屋内に入り、中を確認してまわる。そして、2階へあがりかけたところで、たらたら血が流れ落ちていることに気づく。急いで階段をかけあがると、上り口には藤吉が横倒れに苦しんでいた。奥の部屋では血の海の中に龍馬が、物干し場から隣家の屋根へ移ったところに中岡が倒れていた。峰吉が大声で助けを呼ぶと、島田と新助が2階にあがってきて一緒に中岡を座敷へ運びこんだ。

駆けつけた人びと

藩邸から医者の川村盈進が派遣され、さっそく治療にあたった。龍馬は眉間を深く斬られており、まだ体温が残っていたがすでに事切れていた。中岡は数十ヶ所を斬られる重傷を負いながらも、意識はしっかりしていた(「田中光顕口述」『坂本龍馬関係文書』)。

馬場文英(福岡藩御用達の呉服商)が書いたとされる『土藩坂本龍馬伝』には、「其遺骸を点検するに、直柔は大小三十四ヶ所慎太郎は大小とも二十八ヶ所。僕藤吉は大小共に七ヶ所の洟を受得たり」との記録があり、無数の刀傷があったことを伝えている。

その間に土佐藩邸から曽和慎八郎、大森方(越後屋とも)から谷干城毛利恭助が近江屋にかけつけた(『坂本龍馬関係文書』)。続くように、藩邸からの知らせを受けた海援隊士・白峰駿馬(「坂本龍馬下宿の件」『坂本龍馬関係文書』)、福岡藤次の通知で海援隊士・島村要(土岐真金)と岡本健三郎(『土岐真金の履歴書控』)、宮地彦三郎(『宮地彦三郎真雄略伝』)があつまった。

「早く陸援隊に通知せよ」との中岡の命を受けた峰吉は裸馬にまたがり、白川土佐藩邸にある陸援隊本陣に注進した。知らせをうけた田中顕助は押っ取り刀で飛び出すと、途中で薩摩藩邸に立ち寄り、吉井幸輔と合流してかけつけた(「田中光顕口述」『坂本龍馬関係文書』)。一足遅れて陸援隊士の本川安太郎香川敬三が到着した。

中岡の遺言

意識のあった中岡は治療をうけながら、集まった同志にむかい次のように語った。

後藤象二郎
「因循姑息と罵りし幕府党中にも、這般の挙をなすものあり、諸君決して等閑なる勿れ」「誠に遺憾千万であるが、併し此通りである。速くやらなければ君方もやられるぞ」

谷干城遺稿』「明治39年谷干城講演」
「なかなか実にどうも鋭いやり方で自分等も随分従来油断はせぬが、何しろ非常な所謂武辺場数の奴に相違ない。此くらい自分等二人居つて不覚を取ることはせぬ筈だが、どうする間もない。たつたコナクソと言ふ一言でやられた」

坂本龍馬関係文書』「田中光顕口述」
「突然2人の男が2階へ駆上つて来て斬り掛つたので、僕は兼て君(即ち伯)から貰つて居た短刀で受けたが、何分手許に刀が無かつたものだから不覚を取つた」

維新土佐勤王史
「手許に刀を置かざりし故に、不覚を取りき、諸君今後注意せよ」

陸援隊副長の田中顕助が、「長州の井上聞多をご覧なさい。あれ程斬られても、まだ生きている。先生決して力を落とし給うな」と枕もとではげました。井上の遭難とは、元治元年(1864年)9月に襲われ数十カ所を斬られる瀕死の重傷を負ったが、医師の治療を受け一命を取り留めたことをさす。だが、死をさとった中岡は後事を諸士にたのみ、特に香川敬三には「天下の大事は偏に岩倉公の之を負荷せられんことを願ふのみ、子之を岩倉公に告げよ」(『岩倉公実記』)と遺言した。

中岡は一時は気をとりもどし、焼き飯を食べるなどの回復をみせた。しかし、後頭部に受けた深い傷が致命傷となり、しだいに吐きけをもよおし、遂に17日の夕刻に絶命した。享年25歳。

【谷干城】
土佐藩士。子爵。江戸に出て安井息軒に学び、帰国して藩校致道館の史学助教授に任ぜられた。文久元年(1861年)、武市半平太と出会って尊王攘夷に傾倒し、慶応2年(1866年)の長崎視察のさい、後藤象二郎や坂本龍馬と交わる。翌年5月には、中岡慎太郎の仲介で薩摩藩の西郷吉之助らと会見し、薩土討幕の密約を結んだ。戊辰戦争では藩兵大監察として戦功を立て、維新後は陸軍に出仕。明治10年(1877年)、西南戦争の際には熊本城を死守し、勇名を馳せた。

谷干城
谷干城

【田中顕助】
土佐藩士。伯爵。武市半平太に師事し、土佐勤王党に参加。八月十八日の政変を契機に弾圧がはじまると、元治元年(1864年)には脱藩して長州に渡り、高杉晋作の知遇を受ける。慶応3年(1867年)、中岡慎太郎率いる陸援隊に幹部として加わる。中岡亡き後は副隊長として同隊を統率し、鳥羽・伏見の戦いでは高野山に陣取って紀州藩を牽制した。維新後は宮内大臣などの要職を歴任し、政界引退後は維新志士の遺墨の収集、保存に尽力した。

田中顕助
田中顕助

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