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世の人はわれをなにともゆはゞいへ わがなすことはわれのみぞしる

04. 証拠と証言

残された遺留品

坂本龍馬・中岡慎太郎暗殺現場の近江屋には、刺客のものと思われる刀の鞘が1本と下駄が2足残されていました。鞘は黒塗りで、下駄には祇園「中村屋」と下河原町「噲々(カイカイ)堂」の焼印がおされていました。

『尾張藩雑記 慶応三年ノ四』

土藩浪士頭齋谷梅太郎右方エ九人斗帯刀人這入リ梅太郎切害ニ及ビ其節残居候品、刀銵壱本ト下駄弐足、右下駄焼印有之、一足ハ二軒茶屋中村屋印、一足ハ下河原……堂印有之段々承様候処、祇園町永楽屋へ遊興ニ罷越候者三人ノ内、一人ハ土佐藩、二人は佐土原藩ノ良申立居候へ共、全ハ当時白川ニ旅宿罷在候坂本龍馬ノ徒党ノ者ノ良相聞候へ共、聢ト佐様ハ未相分、猶探索ノ上巨細申上ベク候。以上。十一月廿日。

『慶応丁卯筆記』

慶応三年十一月廿三日 鳥取藩記録 坂本龍馬、中岡慎太郎遭害ノ件筆記廿三
一、十一月十六日夜五ツ時分、河原町通四条上ル弐丁目西側土州屋敷前但シ同屋敷ノ横稲荷社ノ図子ヨリ行当リノ家醤油商近江屋新助方ニ(中略)何者共不分侍ヒ八九人計乱入、矢庭ニ二階へ抜刀ヲ振テ罷上リ三人エ切テ懸リ(中略)死骸夫々取片付候処、跡ニ残シ置候品左ニ
一、刀ノ鞘 壱本 但シ 黒塗
一、下駄 弐足 但シ 印付、内壱足ハ 噲 如此 焼印有之候由、内壱足ハ 中 如此 印有之由

右下駄壱足ハ祇園二軒茶屋之内、中村屋ト申、料理茶屋之由。今一足ハ河原町、噲々堂ト申、会席料理屋之貸下駄之由ニ候得共、多分之入込来客渡世之儀ニ付、何レ之者共不相分、恐らくハ同藩士之趣も難計様子ニ相聞、吟味中之由(中略)恐ラクハ右切害人ハ宮川ノ徒哉モ難計趣ニモ仄ニ相聞候由堅ク口外ヲ憚リ申候事。

現場から逃走するさい、刺客が抜き身のまま刀をさげていたり、裸足のままでいたとは考えにくいのですが、出どころの異なる史料が記録している以上、ふたつの遺留品があったことは疑う余地がありません。

ただし、下駄は「商売がら客の出入りが多く、誰のものかわからない。恐らくは近江屋にかけつけた土佐藩士のものではないだろうか」との推測があり、証拠から外す必要があります。

近江屋事件の捜査にあたった土佐藩士・谷干城も下駄の存在にはふれておらず、刀の鞘を証拠品として聞き取りをおこなっています。

谷が新選組から分離した御陵衛士に鞘を見せると、彼らは新選組の原田左之助の鞘に相違ないと証言しました。原田は四国の伊予松山出身であり、「コナクソ」は四国の方言なので刺客のひとりに間違いないとして、新選組の犯行と断定されました。

刀の鞘
■ 尾張藩の『尾張藩雑記』に「刀銵(鞘の誤記か)壱本」とある。
■ 鳥取藩の『慶応丁卯筆記』に「刀ノ鞘壱本黒塗」とある。
■ 『今井信郎実歴談』の中で今井信郎は、見廻組・渡辺吉太郎の鞘と証言している(「其晩渡辺が六畳へ鞘を置て返つて来ました」)。
■ 『谷干城遺稿』の中で谷干城は、元新選組隊士の篠原泰之進、内海次郎、阿部十郎から十番隊組長・原田左之助の鞘であるとの証言を得ている。
■ 『渡辺家由緒暦代系図履暦書』で渡辺篤は、見廻組・世良敏郎の鞘と証言している(「刀ノ鞘ヲ忘レ残シ返リシハ世良敏郎ト云人」)。

下駄
■ 尾張藩の『尾張藩雑記』に「中村屋」「……堂」の焼き印の下駄とある。
■ 鳥取藩の『慶応丁卯筆記』に「中村屋」「噲々堂」の下駄とある。
■ 『坂本龍馬関係文書』に近江屋新助の息子・新之助の談話として、残されていた下駄には「瓢亭」の焼き印があり、確認したところ新選組隊士に貸したという証言を得たという。なお、この証言は数十年経過したあとのものである。

【今井信郎実歴談】
明治33年(1900年)の『近畿評論』5月号に発表された今井信郎の談話筆記。今井から坂本龍馬殺害の様子を聞いた結城礼一郎の記事を、岩田鶴城が無断寄稿した。後日、結城は龍馬殺害の光景は読みもの風に脚色したと語っている。

【谷干城遺稿】
『今井信郎実歴談』に対する谷干城の反論で、明治39年(1906年)におこなわれた講演の速記録。調査の結果、犯人は新選組の原田左之助であることが判明しており、今井は売名奴であると非難している。

【渡辺家由緒暦代系図履暦書】
明治44年(1911年)に執筆された渡辺篤の手記。坂本龍馬を斬ったと名乗り出ているが、今井信郎が自供した刺客の中に渡辺篤の名前はない。『今井信郎実歴談』と『谷干城講演』を足したような内容で、虚言とも考えられている。

事件の第一報

慶応3年(1867年)11月15日夜、土佐藩重役の寺村左膳は、芝居見物の帰り道で龍馬と中岡が殺害されたとの注進を受けました。寺村の日記には次のように書かれており、これが近江屋事件を伝える第一報の記録です。

横田達雄編 「寺村左膳道成日記」『青山文庫所蔵資料集』 高知県立青山文庫後援会、昭和55年(1980年)

同年十一月十五日
朝七ツ時より寺田同道外五人斗召連四条之芝居見物ニ参る。自分芝居見物始而也。(中略)随分面白し夜五時ニ済、近喜迄帰る処留守より家来あわてたる様ニ而注進有、子細ハ坂本良馬当時変名才谷楳太郎ならびに石川清之助今夜五比両人四条河原町之下宿ニ罷在候処、三四人之者参リ才谷ニ対面致度とて名札差出候ニ付、下男之者受取二階へ上リ候処、右之三人あとより付したひ二階へ上リ矢庭ニ抜刀ニ而才谷石川両人へ切かけ候処、不意之事故両人とも抜合候間も無之、其儘倒候由、下男も共ニ切られたり、賊は散々ニ逃去候よし、才谷即死セリ、石川ハ少々息は通ひ候ニ付、療養ニ取掛りたりと云、多分新撰組等之業なるべしとの報知也。右承る否御目附方よりハ夫々手分し而探索させたるよし也。
然るに此者両人とも近比之時勢ニ付、寛大之意を以黙許せしと雖ども、元御国脱走者之事故未御国之命令を以、両人とも復籍の事ニも相成ず、其儘ニ致し有し故表向不関係之事。

[現代語・意訳]
同年11月15日
朝4時頃から寺田ほか5人ばかり召し連れて四条の芝居見物に参る。自分は芝居見物がはじめてである。(中略)随分面白く夜8時に終わり、近喜まで帰ったところ家来よりあわてた様子で注進があり、子細は才谷梅太郎(坂本龍馬)ならびに石川清之助(中岡慎太郎)が、今夜8時頃四条河原町の下宿にいたところ、3、4の者が訪れ、才谷に面会を申し入れて名札を差し出したので、下男の者(藤吉)が受け取り2階へあがると、その3人が後からついて2階へ上がり、突然抜刀して才谷と石川に斬りかかった。不意のことゆえ両人は刀を抜き合う間もなく、そのまま倒れた。下男もともに斬られた。賊は散々に逃げ去った。才谷は即死。石川は少々息があったので療養に取りかかったという。たぶん新選組の仕業であろうとの報告である。御目付役によりそれぞれ手分けして探索させているという。
しかるにこの両人とも近頃の時勢につき、寛大な意をもって黙認されていたが、元お国を脱藩した者であり、未だお国の命令で復籍となっていないので、2人の遭難は表向きは藩と無関係である。

この日記から事件直後に土佐藩上層は、かなりの情報をつかんでいたことがわかります。
「午後8時ごろ、名札を持って近江屋にたずねてきた3人が、坂本龍馬と中岡慎太郎に襲いかかった。龍馬は即死、中岡は治療を受けている。刺客は逃げたが、新選組の犯行だろう」。

また、土佐藩にとって龍馬と中岡は「元お国を脱藩した者であり、復籍となっていないので表向きは藩と無関係」な存在に過ぎない認識だったことがわかります。

このあとまとめられた手記では情報が更新され、刺客の人数が7人がなっています。

岩崎英重編 「寺村左膳手記』」『維新日乗纂輯』 日本史籍協会、大正15年(1926年)

一、十一月十五日之夜五ツ頃、坂本良馬旅宿へ、何者共不知七人推参致し、石川清之助と両人対話の処(但二階也)、右七人の中三人、状を持参せりとて差出すや否や、抜討に切付、良馬は即死。清之助并家来一人は深手を受。只今両人共養生中也。相手は即坐に逃去り、不相分候。此相手追て相聞へ候には、幕の新撰組と云也。

[現代語・意訳]
一、11月15日の夜8時頃、坂本龍馬の宿舎へ何者とも知れないものが7人訪問した。2階で石川清之助(中岡慎太郎)と対談していたところ、3人が手紙を持参してきたと差し出すと同時に、抜き打ちに斬りかかり、龍馬は即死。清之助と家来1人(藤吉)は深手を受け、2人とも養生中である。刺客は即座に逃げ去り、行方不明。伝聞によると、幕府新選組の犯行である。

【寺村左膳】
土佐藩士。中老職寺村主殿の3男として生まれる。前藩主山内容堂の御用役として公武合体に奔走し、土佐藩の大政奉還建白には後藤象二郎、福岡孝弟らとともに署名した。明治元年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いへの参戦に反対し、板垣退助ら討幕派と対立。同年6月、士籍を剥奪され安芸郡野根山に蟄居した。のちに赦免されたが、晩年は不遇だった。

【寺村左膳道成日記】
横田達雄編。土佐藩士・寺村左膳の日記。原本は所在不明で、写本が高知県高岡郡佐川町の青山文庫に所蔵されている。

【寺村左膳手記】
岩崎英重編。日記をまとめたもので、『維新日乗纂輯』の第3巻に収録されている。


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