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08. 見廻組今井信郎説(三) 谷干城の反論

近畿評論を駁す

『近畿評論』5月号(第17号、明治33年)に掲載された今井信郎の告白記事は、土佐閥の重鎮となっていた谷干城の知るところになりました。このころ「皇后の瑞夢」で坂本龍馬は有名になっており、谷はこの名のりを人気に便乗した売名行為と判断しました。

そして明治39年(1906年)11月、招魂社(護国神社)において「近畿評論を駁す」と題する演説がおこなわれました。

島内登志衛編 「坂本中岡暗殺事件」『谷干城遺稿』 靖献社、明治45年(1912年)

今日御話を申上げますのは、昨年でございましたが、何か話をして呉れいと云ふ御相談の時に、御話を申上げる積りであつたが、余程古いことでございますが、之を御話申したいと思ふのは、何より起つたかと申すと、近畿評論と云ふて京都で発行して居ります、明治三十三年の五月の雑誌に、坂本龍馬、中岡慎太郎の両人の殺害せられたことが載つて居る。
此雑誌を故片岡健吉氏から廻して来まして、どうも読んで見たが、予て聞いて居る所と大変違ふ様であるので、御前は親しく其際に臨んで居つたことであるから、一つ辯駁をしてはどうであらうかと云ふことで、即ち是は片岡氏が送つて呉れた近畿評論と云ふ雑誌の第十七号であります。
読んで見ました所が成る程どうも途方もない間違いであるが、併し此話は即ち坂本、中岡両氏を自ら殺害したと云ふ御当人の直話を書いたものであつて、それでどうも生きて居る人が現に私がやつたと云ふのを、それは御前ではないと云ふて辯駁することは甚だむつかしい話であります。併ながら世の中には一種稀代な人があつて、何か一世に自分の履歴を遺したいとか、功名を世に伝へたいとか云ふことで、好んでさう云ふことをする人が無いとも云へない。
何しても一向事実とは合はないから、時機を見て辯じて置かうと云ふ考を持つて居りましたから、昨年でございましたか、御求めの時に、此御話をしやうと云ふ考を起したのであります。所が折角其依頼を受けた片岡氏も既に故人になりまして、最早余程古ぼけた御話になつて居るが、大学には歴史専門の諸君も沢山御在りなさることでありますから、どうか私が御話申上げる所を御参考となし下されて、事実の真相を御吟味になれば誠に私も大慶に存じます。又死んだ両人に於ても此雑誌に記しある如く、少の抵抗もし得ず如何にもまぬけた斬られかたでは如何にも残念であらうと思ひます。それで此話をする前に少し当時の土佐景況に就て一通り御話を申上げて置きたいと思ふ。
(中略)
そこで此坂本の斬られたと云ふ報知のあつた場合に直ぐに駈付て行つた者が、私と毛利恭助と云ふ者である。是は京都三条上る所の高瀬川より左に入る横町の大森と云ふ家がある。毛利両人は其大森の家に宿をして居つた。それで先づ速い中であつた。土佐の屋敷と坂本の宿とは僅に一丁計りしか隔て居らぬから、直に知れる筈なれども、宿屋の者等は二階でどさくさやるものだから、驚て何処へ逃げたか知れぬ。暫くして山内の屋敷へ言つて来たものも、余程後れ私が行つた時も最早疾うの後になつて居る。
それで行つて見た所が、丁度階子の上り付けた所に坂本は斬倒されて居る。夫からして階子を上つて右ニ行き詰めた所が、即ち京都の方に窓がある。御承知の通り京都では、町に向いた窓は大きな閂を置いて其へ泥を塗つてある。なか/\押しても突いても破れべきものでない。其下に龍馬の僕が斬倒されて居る。そこで右手の方の座敷には即ち中岡が斬られて居る。
もう坂本は非常な大傷で額の所を横に五寸程やられて居るから此一刀で倒れねばならんのであるが、後ろからやられて背中に袈裟に行つて居る。坂本の傷ハさう云ふ次第で、それからして中岡の傷はどう云ふものかと云ふと、後ろから頭へ掛けて後ろへ斬られ、それから又左右の手を斬られて居る。そして足を両方ともになぐられたものぢやから、両方斬られて居る。其内倒れたやつを又二太刀やつたものであるから、其後からやつた太刀と思ふのは、殆ど骨に達する程深く行つて居る。
けれども脳に遠いものであるからして、なか/\元気な石川でありますから、気分は至て慥たしかである。どうかと云ふと誠に遺憾千万であるが、併し此通りである。速くやらなければ君方もやられるぞ、速くやらなければいかぬと云ふのが、石川の論であつた。(註、省略)
そこでまあ一体どう云ふ始末であつたかと聞いて見ると、実は今夜ハお前の方へ行つたが、お前が留守であつたから、坂本の所へ来て二人が話して居る中に、十津川の者でござる。どうぞ御目に掛りたいと云ふて来た。そこで取次の僕が(坂本の僕)手札を持って上つて来る。中岡は手前に居つて坂本は丁度床を後にして前に居つた。それで二人で行燈へ頭を出して、其受取つた手札を見居る、読む暇はありませぬ。見居る所へ僕が上つて来るに附いてずつと上がつて来た。そして置いて矢庭にコナクソと云つて斬つた。それで手前に居つたのが中岡である。
行つて見ると居つた位置も違ひ、机などを列べて居つたと云ふけれども、そんな訳でなかつた。矢庭に二人が手札を見やうとする所へ斬込んで来た。中岡を先きにやつた。其言葉は所謂コナクソと云ふ一声、そして斬られた其時はつと思ふた時に、坂本は後ろの床に刀があるから、向いて刀を取らうとする様だけは覚へて居る。自分も直ぐ短刀を取つたけれども、奈何せむそれを取つたなりで抜くことは出来ぬから、振廻し向ふは後へ退り/\なぐられた。そこでもう手はきかぬ様になつたから、唯向ふに武者振り附かうとする両足をなぐられて仕舞つた。それで足が立たぬ様になつて、仕方がないから、其儘に倒れて斬らせて置くより仕様がない。其儘倒れて居つた。さうするともう宜い、もう宜いと云ふて、出て行つた。賊の言ふた言葉はコナクソと云ふ言葉と、もう宜いと云ふ言葉より外聞きはしない。
そこで坂本はどうしたであらうかどうも分らない、分らないが坂本も素より斬られた。今の中岡が斬られて倒れて暫くして居る中に、坂本が倒れて居たが、すつと起上つて行燈を提げて階子段の傍まで行つた。そして其処で倒れて、石川刀はないか、刀はないかと、二声三声言ふて、それでもう音が無い様になつた。斬られて居つた所は八畳の間であつたけれども、兎もあれ立上つた儘、階子段の傍まで行燈を持つて行つて倒れたと云ふのが是が、即ち石川の話。
それで石川の言ふには、なか/\実にどうも鋭いやり方で自分等も随分従来油断はせぬが、何しろ非常な所謂武辺場数の奴に相違ない。此くらい自分等二人居つて不覚を取ることはせぬ筈だが、どうする間もない。たつたコナクソと言ふ一声でやられた。斯う云ふ話であつた。
それからして今の傷から云ひましても此人の言ふ所に依ると、先づ其横鬢を一つたゝいた。是は何か話にでも聞いたものでないか、此額をやられたのは、五ほんくらいやられた。それから是は稍々似て居るが、横腹を斬つた。又踏込んで両腹を斬つた。それが深い傷と云ふのは横に眉の上をやられて居る、それから後ろから袈裟にやられた。此二つが先づ致命傷。
そこで坂本はどう云ふことをしたかと云ふと、どうも分らぬ。けれども是も想像が出来る。自分は刀を確に取つたに相違ない、刀を取つたがもう抜く間もないから、鞘越しで受けた。それで後ろから袈裟にやられて、又重ねて斬つて来たから、太刀折の所が六寸程鞘越しに切られて居る。身は三寸程刃が削れて鉛を切つた様に削れて居る。それは受けたが受流した様な理窟になつて、そして其時横になぐられたのが額の傷であらうかと想像される。
傷の所から云ふても此人の言ふて居る所とは全く違ふ。それから又疑ふべきことは、お前ハ松代の人であるかとか、何とか云ふことは、そんなことを応接するどころの騒ぎでない。僕の後に附いて来て矢庭にコナクソと云ふてやつた。実に速にやつた。
そこで私共が行つてから、さて是は何者の所業であらうか、誰にやられたかと云ふことに付ては、未だ今に心に掛けて詮議中である。石川の判断では之はどうしても人を散々斬つて居る新選組の者だらう。それでコナクソと云ふ言葉に付て判断した。石川の云ふにどうも四国人であらふ。コナクソと云ふことは四国人が能う言ふが、土佐の者ではなからう。土佐の者は其の時分石川を斬る者ハ無い。皆殆ど有志は一致合体して居る時であつた。
そこで一つの証拠が残つて居るのは刀の鞘がある。刀の鞘と云ふものを一つの証拠にそれから吟味してコナクソと云ふ言葉ともう宜いと云ふ言葉の外に、賊の残して行つたものは刀の鞘だけである。
それで石川は誠に遺憾千万である、甚だ不覚を取つた。片時もやらなければ皆有志の徒はやられるから、速く事を挙げいといふことを頻に言ふた。そこで石川は今申す通り十六日の午後一時か二時頃、昔で云ふと八ツ時と云ふくらゐに、とう/\死んだが、其の死なぬ前に傍に居たのは、即ち今の宮内大臣田中光顕、是も土佐の白川屋敷に囲つてあつた浪人組で、即ち自分の大将がさう云ふ災難に遭ふたものであるから、田中が取敢ずやつて来た。
それから田中が石川を慰めて、是は貴様の傷は余程浅い。井上を見よ、聞多はあの通り酷い傷だが癒つた。貴様は充分に癒るぞ、と云ふて、力を附けた。併ながら後から斬つたのが脳へ幾分か掛つたものと見えて、次第に嘔気を催し吐出して、とう/\翌日の八ツ前くらゐに斃れた。けれども死ぬ前に懇々として話した。それは速くやらぬと此様にやられる、実に遺憾であると云ふて斃れて仕舞つた。
其のあとでさあ此下手人を調べることになつた。先づ新選組と鑑定を附けたものでありますから、此方の手掛りを探さなければならぬといふもので、石川が斬られたのが十五日、それからして新選組に元居つて意見が分れて、高台寺といふ寺へ行つて居つた者が十四五人あつた。伊東甲子太郎といふのが頭で、其の甲子太郎が十八日の夜新選組の者に殺された。甲子太郎を殺して置いてサア伊東が災難に遭ふたから、片時も参つと云ふてやつたので、居合した者が七人程皆行つたが、新選組は待伏して皆殺された。
七条少し脇の方で其斬残されのが其中に伏見の方へ出て行て、家に居らざつたのが二三人あつた。其斬残されたのは初め白川の土佐屋敷へ来た。白川の土佐屋敷はあの時分は野原であつて、浪人が大変居るが、危険であるからもう不用心故、薩摩の屋敷の方へ頼んだ所がこゝも危いと云ふので、伏見の薩摩屋敷へ囲つて居つた。
そこで彼の斬残されの者等は、元々新選組に這入つて居つたものであるからして、刀に見覚えがあらうと云ふので、私と毛利とそれから彼の薩摩の中村半次郎と三人で、伏見の薩摩屋敷へ行つて、彼の甲子太郎の一類の者に会ふて、其の刀の鞘を見せた。所が此の二三人が評議して見て、是は原田佐之助の刀と思ふと……言出した。成程……此原田左之助といふのは腕前の男だ。新選組の中で先づ実行委員と云ふ理窟で人を斬りに行くには何時にても先に立つて行く。そこで私などがハア成程どうも其挙動と云ひ、如何にも武辺場数の者であらう。何しろ敏捷なやり方である。どうしてもそれに相違ないと云ふので最早一人は原田左之助其他、斬つた者ハ新選組の者に相違ないと云ふことにまあ決定して居る。
所で豈図らんや此三十三年五月の近畿評論と云ふ雑誌を見ると、坂本、石川両人を殺害した者は拙者なりと明白に言つて居る。そこで其挙動はどうかと云ふて見ると、如何にもおかしい。恰も芝居の讐討でもやりさうな間鈍るいやり方で、尤も其中に斯く云へば長い様でありますけれども、実は電光石火であつたと断りはしてある。
けれども第一に書生はどうしたかと云ふと、窓から出て逃げたと云ふ。けれども逃出やうと云ふ所は、実は大きな柱があつて泥を塗つてあるから、押しても突いても動くものでない。逃げやうとしても逃げることは出来ない。唯二階へ上がる行詰の所に明り取りがあるが、それは高うて唯明りを取る為めのもので、決して逃出るも、どうすることも出来ない。若し逃出るならば石川、坂本の斬られる其処へ行かなければならぬ。其処ハ低い敷居があつて其下に坂本が机を置いて書見して居る。其処ハ出らるゝが、其処ハ両人が居つてドサバサ/\やり居るから、逃げやうとしても逃げることは出来ない。
所が此先生は書生が三人居つたが二人は逃げて一人は斬止めた、斯うある。どうも途方もない間違つて居る。それでまあ全体そう云ふやうな有様で、此時のことは矢張り私等の国の者等の考も、元紀州の光明丸といろは丸と衝突の時に、坂本等が非常な激烈な談判をして、償金を取つたから其恨みに、紀州人が新選組を遣してやつたのであらう。そこで紀州の巨魁は今の三浦安–三浦久太郎に相違ない、あれが即ち新選組を煽動して斬らせたのであらうといふから、誠に詰らぬ壮士等が三浦安の所へ斬込んだ所、向ふがドッコイさうはいかぬと云ふので、新選組に言ふてやつて準備をして居つたから、此方から行つたのがやられた。
それで斬つたと云ふ今井は、松代藩の者であると言ふて行つたと云ふが、松代藩の者だなどといふてもウツカリ会ひはせぬ。皆用心して居る、殊に坂本は才谷梅太郎と云つて名を変へて居つて、殊に新選組から狙らはるゝので、薩摩の方からも危いに依て、どうぞ私の方へ参るやうにと云ふたが、屋敷の中へ這入ると出入りに窮屈だから這入らうと云はない。それ故平生警戒を加へて居るから、松代藩など云ふて来ても会ひはせぬのでありますが、十津川の者は始終出入して居りました。勤王論者が十津川に多かつた。それで十津川と云ふて来たから取次も安心した。そこで十津川と云ふことをかたられたといふので、十津川人が大変怒つて即ち三浦久太郎を斬に行つた場合にも、十津川人が出掛けて行つた。十津川人の中井承五郎と云ふは大分人を斬つた様子ぢやが、それから行つたが、とうとう斬られて仕舞つた。それから龍馬に話に来た書生は、遺憾ぢやと云ふので三浦の所へ斬りに行つたが、構へて居つて散々失敗を取つた。
さう云ふことで此人は松代藩ぢやと云つて行つたと云ふが、決してそうでない。十津川と云ふて行つたは余程巧なるやり方である。取次の僕も十津川人と云から取次をした。さう云ふ次第で其鞘は原田左之助が差して居つた刀の鞘である。斯う云ふことに私共に一斉に極めて居る。
所が此人の云ふに鞘を落して来たと云ふ。是もあとで聞いたらうと思ふ。其鞘は紀州の人の刀の装へである。紀州人の鞘であるといふのでサア三浦ぢやと云ふて、三浦の所へ復讐に行つて返討ちにあつた。さうでない紀州人は紀州であるが、紀州人が新選組を唆かして新選組の者が斬りに来た。鞘は全く原田左之助の鞘と、斯う云ふことになつて居る。
それで随分妙な物好であるけれども、推測して見ると徳川の旗下で譜代恩顧の者であるから、両英雄を倒したと云ふと事実となつて後世に伝へらるゝことゝなつて、成る程斯うであつたか知らぬと、どうしても事実と認めらるゝに相違ない。
それで御話を申上げる通り、片岡がどうぞ調べて呉れいといふことであつたから、請負ふて置いた。是も故人になり又私が死んで仕舞へば遂に事実を明にすることが出来ない。段々古いことを御知りの方もございませうし、又歴史を御取調べになる方も段々ございますから、どうぞ充分御研究を願いたいと思ふ。果して今井と云ふ人が手を下して斬つたものとすれば、此書いたものに言ふたことは間違つて居るに相違ない。
何れにしても今井が斬つたといふ事は、此証拠の上では認められぬと思ふ。どうぞ尚ほ御記臆の上で御研究を願ひたいと思ふ。随分誰がやつた彼がやつたと云ふことには、大変間違がある。且つ又何ぞあの時分の書いたものでも押へぬと、随分あの時分は斬自慢をする世の中であつたから、誰がやつた彼がやつたと云ふことは、実に当てにならぬと思ふ。どうぞ御参考に供しますが、尚ほ御取調を願いたいと思ひます。(谷干城遺稿、編者曰、明治三十三年頃歟)

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