ryomadna.net

世の人はわれをなにともゆはゞいへ わがなすことはわれのみぞしる

09. 見廻組今井信郎説 (四) 今井信郎の弁明

暗殺に非ず

谷干城の批判に対し、今井信郎は表だって意見することはありませんでしたが、明治42年12月17日の日付で大阪新報の記者・和田天華が送った質問に答えています。

「龍馬暗殺に関し今井信郎答書」『阪本龍馬』 (明治45年6月、東亜堂書房)

拝復未接
芳咳候へ共御英名は夙つとに伝承罷りあり候。沍寒之節愈々御健勝筆硯に従事被成候段為邦家奉大賀候。さて御照会之件は既に明治四十年大阪時事に連載相成、詳細に尽候間、今又不贅、史実としては明治四年中刑部省に於て中解部児島氏の取調を受、次官佐々木氏の判決文、同七年平山陳平編輯、静岡藩史に記載是れあり候得共、維新当時は貴論之如、複雑を極候間、将来名分明なる時、可是有、要するに幕府は攘夷因循兵力の微弱なるを曝露し、所謂志士なる火事場盗賊に苦るしめられ、土崩瓦解せるも、勤王愛国の念慮は毫も衰弱したるものに是れなくは事実の上に顕然たり。近藤勇、新見錦、芹沢鴨の如、立場に依て其名を異に致す者と信じ候。実に玉石混交の時世、是か非か後世の史論に譲り左に御回答仕り候。
一、暗殺に非ず、幕府の命令に依り職務を以、捕縛に向格闘したるなり。
二、新撰組と関係なし。余は当時京都見廻り組与力頭なりし。
三、彼れ曾て伏見に於て同心三名を銃撃し、逸走したる問罪の為なり。
四、場所は京都蛸薬師角近江屋と云醤油店の二階なり。
 以上
 十二月十七日
 遠州初倉村
 今井信郎
大阪新報社
和田天華殿

そのなかで当時の心境は、「幕府は弱腰をみやぶられ、志士と称する火事場盗賊に苦しめられて崩壊しつつあったが、勤王愛国の精神は衰弱していないことだけはあきらかであった。新選組の近藤勇、新見錦、芹沢鴨は立場のちがいはあるが、その国を憂うることは信じている」というもので、龍馬殺害の是非はのちの評論にゆずり、次のことを事実として回答しています。

1. 暗殺ではなく、幕府の命を受けた職務として捕縛にむかい、斬り合いになった。
2. 新選組は関係ない。当時の今井信郎は見廻組与力頭だった。
3. 龍馬の罪状は、寺田屋遭難で伏見奉行所の同心3名を銃撃して逃走した罪
4. 事件現場は京都蛸薬師にある近江屋という醤油屋の2階。

近畿評論のねつ造

当時、今井信郎が真の下手人であるかは結論が出ませんでしたが、新聞雑誌には「我こそは」と名のり出る名聞狂者が数多くあり、今井も同類のものとみなされてしまいました。

そのため大正13年(1924年)、今井の告白記事を寄稿した結城礼一郎は、その手記『お前たちのおぢい様』で記事のねつ造を認め、「記事は、旧友の息子である自分が、今井さんに無理をお願いして話してもらったのである。新聞の読み物として書いたのだから、事実も多少脚色し、龍馬を斬った光景などは大いに芝居がかりで書いた。今井さんに大変ご迷惑をかけたことを心からお詫びする」と証言しました。

結城礼一郎 「坂本龍馬を斬つた今井信郎」『お前達のおぢい様』 (大正13年7月、玄文社)

伊藤甲子太郎等が斬られたのは慶応三年十一月十八日の夜で、其の三日前の十五日の夜に土佐の坂本龍馬、中岡慎太郎が河原町蛸薬師の油屋と云ふ旅宿の二階で斬られた。世間では之れも新撰組だと云つて居るが、実際は新撰組ではない見廻組のした事だ。新撰組の方では十五日の夜は丁度伊東一類を斬る為め重立が密議を開いて居て、中々蛸薬師なぞへ出かける余裕はなかつた。其れに市井の破落漢が途上で乱暴して居たのを通りがゝりに斬つて捨てると云ふのなら兎に角、仮りにも土州の坂本ともあらうものを斬るのに、重立が関係せぬと云ふ事はない。あれは全く見廻組だ。見廻組の今井信郎と云ふ男が二三の同志と一緒に踏込んで斬つたのだと祖父様もかねがね仰やつてだつだ。
 この今井と云ふのは祖父様と別懇の御友達で、三河御譜代の立派な御旗本だ。その年まで江戸に居て剣術師範をして居たが、見廻組の佐々木只三郎に見出されて十月に初めて京都に上り直ちに頭並に抜擢された。其の時坂本は才谷梅太郎と変名して盛んに薩長の間を斡旋して居た。志士と云ふより寧ろ策士と云つた方の質で、慶喜に大政奉還を決意させたのも表面は後藤象二郎と云ふ事になつてるが其の裏には坂本が居た。其の坂本が最近又福井へ行つて春嶽さんに会つて来た。何をして来たか分らぬ、斯様云ふ危険な人物は斬つて仕舞つた方が宜からうと思つて、桑名の渡辺吉太郎と京都の与力の桂準之助とを連れて十五日の夜今井が蛸薬師の油屋へ行つた。而して名札へ善い加減の名を書いて坂本さんに御目にかゝりたいと云ふと、取次の者がハイと云つて立つた。こいつは居るナと思つたので取次にの者について直ぐ二階へ上つた。二階には丁度二人の人が居た。何方が坂本か分らぬから探りの為め坂本さん暫くと声をかけた。すると其中の一人が誰方でしたナと云つたので、之が坂本に違ひないと思つて踏込んで先ず坂本を斬り、それから中岡を斬つた。坂本は直ぐ死んで仕舞つたが中岡は翌日まで生きて居た。此の今井は鳥羽伏見の戦争には一番先きへ進んで一番先きに鉄砲を打ち、関東へ帰つてからは越後口に転戦して驍名を馳せ、到頭函館まで落ちて行つて維新の戦争の最初の幕から最後の幕まで戦ひ通した人だ。お父さんが甲斐新聞の主筆をして居た時、態々祖父様を尋ねて来て一晩話して行つた事があつた。
 其の時祖父様がお父さんに向つて「之がそれ何時か話した坂本龍馬を斬つた人だ、参考の為め能く聴て置くがいい」と仰やつたから「いや詰らん事です御話しする程の事ではありません」と何様しても口を開かうとしなかつたのを、無理に御願ひして一通り話して頂いた。其の位今井さんと云ふ人は謙遜の人だつた。尤も以前はそんなでもなかつたさうだが、基督信者になつてからガラリと変つて、御維新当時の事なぞ誰が何と云つても喋つた事なく、敬虔なる信者として篤実なる老農として余生を送つて居た。
 今井さんから伺つた話を其のまゝ蔵つて置くのは勿体ないと思つたから、少し経つて甲斐新聞へ書いた。素より新聞の続き物として書いたのだから事実も多少修飾し、龍馬を斬つた瞬間の光景なぞ大いに芝居がゝりで大向ふをやんやと言はせるつもりで書いた。処が之れが悪かつた。後になつて大変な事になつて仕舞つた。と云ふのは其の時甲斐新聞の編集長に岩田鶴城と云ふ男が居た。京都の人で、其の後お父さんが大阪で帝国新聞を起した時にも参加して京都支局で働いてた者だ。此の岩田が甲斐新聞をやめて京都へ帰つた時、京都で発行されてる近畿評論と云ふ雑誌へお父さんの書いた今井信郎の話をそつくり其のまゝ寄稿した。確か明治三十三年頃の事だつたと思ふ。
 左様すると其れを見て、之れは怪しからぬ事実を誤つてると云つて怒り出したのが谷干城さんだ。谷さんは坂本の殺された時逸早く駆けつけた人で、其の時未だ死に切れずに居る中岡慎太郎から斬られた刹那の有様を一通り聴いて居たので、其れを近畿評論と比較して、此処が違つてる彼処が違つてる、話は何様しても捏造したものとしか思へぬと云つて公開の席で演説したり又其の演説の筆記を処方へ配つたりした。島内登志衛編『谷干城遺稿』の中にもちやんと蒐録してある。谷さんは第一、今井と云ふ男が近頃になつて私が坂本を殺しましたと名乗つて出るのが怪しい、畢竟売名の手段に過ぎぬとまで罵つて居るが、之れは谷さんの方が無理だ。今井さんは決して自ら名乗つて出たのでも何でもない、滅多に口を開かなかつたのを、自分の旧友の息子が強ひてとせがんだので止むを得ず話したのだ、無論それが新聞や雑誌へ出されようとは思つて居なかつたのだ。谷さんも近畿評論の記事の出所を御調べになつたら、彼んなにまでムキになる必要もなかつたらう。
 本当に残念な事をした、と同時に又お父さんは、お父さんの軽々しき筆の綾から今井さんに飛んだ迷惑をかけた事を衷心から御詫びする。殊に其の後谷さんの議論が世間の注意を惹き起した為め、一しきり坂本龍馬の資格問題がやかましくなり、今では歴史上の一疑問として史学専門家の間に種々と攻究され、然かも其の多くは谷さんの所論を真実として今井さんを偽者と見るやうになつて仕舞つた。愈よ以て申訳がない。然し今井さんが坂本龍馬を斬つたと云ふ事は実際動すべからざる事実で、当時新撰組に籍を置き、同時に見廻組とも最も親しく往来して居た祖父様が左様仰やるのだから少しも疑ふ余地はない。「あの晩は己達は近藤の処に集つて居た。(谷さんが疑をかけている)原田左之助も一緒に居た。次の日に其の評判を聞いて、之は中々腕の利いた奴が出て来たわいと話して居た位だ。そして其の後其れは今井がやつたのだと聴いて今井なら成程無理はないと噂したものだ。実際今井の短剣は当時江戸でも有名なもので、やつと云つて構へる……躰が剣の中へ隠れて仕舞ふと云はれたものだ。あの狭い座敷で咄嗟の間にあれだけの働きをするのは今井でなければ出来ない業だ」と祖父様極力推賞しておいでだつた。今井さんは今井さんで又、上り立てゝ?はあるし癪には触はつてる。一つ己の腕を見て呉れ位の気を起して、勢ひ込んでやつたものと見える。
 坂本の斬られたのが幾分刺激になつたと見えて、十二月の九日、維新史で有名な − いや日本の歴史で稀に見るクウデターが行はれた。大山師の岩倉が急遽参内して、中川宮以下廿七人の参朝を停止し、会桑二藩の禁裡守護を免じた。之れからが愈よ維新の大変だ。

しかしこの証言も西南戦争で名を馳せた谷子爵の前では黙殺されてしまい、明治末期まで龍馬殺害の犯人は新選組説が有力視されてきました。

見廻組説が認められるようになったのは、旧土佐勤王党員でつくる瑞山会が維新史編さんに取り組み、20数年をかけてまとめ上げた『維新土佐勤王史』(大正元年、冨山房)に今井信郎口書が登場してからになります。

今日では資料や証言などをあわせると、「京都守護職・松平容保の特命を受けた京都見廻組が坂本龍馬を殺害した」というのが事件の真相と考えられ、見廻組説が定説となっています。


▲ 一番上にもどる