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11. 見廻組渡辺篤説 (一) 老剣客の悔恨

渡辺篤 -阪本龍馬を殺害した老剣客-

渡辺篤は、天保14年(1843年)12月18日、京都二条御門番組与力の渡辺時之進(均)の長男として生まれました。名は一郎、字は子信。

13歳で剣術をはじめ円明流、のちに西岡是心流を学び18歳で免許を授かりました。そのほか日置流弓術、大坪流馬術、無辺流槍術、荻野流砲術、西洋練兵太鼓をおさめています。

元治元年(1864年)、二条城において将軍・徳川家茂の上覧試合があり丁銀5枚を賜わります。禁門の変では二条城を警護、9月に京都文武場剣術世話心得に就任しました。慶応3年(1867年)2月、京都見廻組御雇となり七人扶持を受け、4月に肝煎介、8月に肝煎と昇進しました。

同年11月に新遊撃隊となり、同15日、見廻組の佐々木只三郎・今井信郎らとともに坂本龍馬を暗殺しました。同19日に功績として十五人扶持を賜ったといいます。

慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いに参戦。維新後は奈良県出仕、同文武場教授、大阪裁判所出仕、京都府学務課出仕、京都府立第一中学剣術教授を歴任しました。

晩年は名前を一郎から篤に改名しており、大正4年(1915年)1月6日に病没しました。臨終の床で龍馬暗殺を弟子・飯田常太郎、弟・渡辺安平に打ち明け、父からおくられた刀で斬ったと語っています。

渡辺篤

龍馬を殺した渡辺篤ってだれだ

大正4年(1915年)、元見廻組肝煎の渡辺篤は死にのぞんで、弟子・飯田常太郎と弟・渡辺安平に自分が坂本龍馬を斬ったことを告白しました。そして、自分の死後にこの事実を公表し、龍馬暗殺にまつわる誤りを正して欲しいと遺言しました。

その死から7ヶ月経た8月5日の大阪朝日新聞に「阪本龍馬を殺害した老剣客 ー悔恨の情に責められて逝くー」と題した記事が掲載され、渡辺篤の経歴とともに近江屋事件のてん末が語られました。さらに、9月1日・2日の大阪朝日新聞京都附録に「阪本龍馬を殺した剣客 -発表された遺言の記録- 上下」と題した履歴書が、娘きみ女によって発表されました。

「阪本龍馬を殺害した老剣客 ー悔恨の情に責められて逝く-」(大正4年、大阪朝日新聞)

阪本龍馬を殺害した老剣客ー悔恨の情に責められて逝くー。
京都柳馬場綾小路下る所に撃剣道場を開いて、数多の弟子達の指南をする傍ら、中学校や警察在郷軍人会の撃剣教師を勤めて居る渡辺篤といふ一刀流の達人があつた。十二の歳から一刀流の門に入つて恐るべき進境を示した。二十五歳で鳥羽・伏見の初陣に剛勇の名を知られたが、維新後は後進子弟の誘掖に一身を捧げたのであつたが、本年一月六日七十三歳の高齢を以て歿した。
その臨終の際に、皆伝の愛弟子なる飯田常太郎氏と自分の実弟に当たる渡辺安平の両氏を枕辺に招いて、今迄胸の裡に秘めて置いた一大秘密を打明けた。その秘密は下の一条である。時は慶応二年十一月十五日の未明のこと、命によつて勤王の志士阪本龍馬、中岡慎太郎を京都河原三条下る客舎に襲うて、暗殺したは斯くいふ自分等の所為であつた。この日自分は伝来の備前国光の一刀を手挟んで首尾よく一刀の下にめざす阪本龍馬を討取つて使命を果たした。(中略)
勤王無二の阪本、中岡両氏を殺戮したという天譴は今更ヒシヒシと胸を責める。ツイ躊躇して居る間に時は猶予なくとんでいつて名乗り出る機会を我から失くした。老境に入つた今日、阪本氏の身代りの人が京都大学へ入学したという話を耳にして今更に輪廻の恐ろしい事を感じたが、今この末期に臨んで何事も打ち明け、心おきなく世を去りたい。余の死後、これを公に発表して世間に事の真相を告白し誤謬を正してもらいたい、という切なる希望であつたそうな。
討入りの光景に就て語る処によれば、一同が乗込んだ時間は午前二時頃であつたろう。巧く家人を騙して表戸を明けさせ、ズッと奥へ通つたが、龍馬の居間は二階である。そこで自分と同行の会津藩士佐々木只二郎の両人は俄に急用あつて面会に来た旨を申入れて、その返事も待たず両人は二階へ上り、自分は龍馬が一刀を抜かうとして切尖が未だ鞘を放れないところを、備前国光の名刀を抜く手も見せず一刀流の早業で物の見事に斬りつけた。佐々木は続いて首を落した。龍馬は討たれながら屈強な体格を乱しもせず従容死に就いた健気さは、目の前に髣髴して思はず襟を正させる。委細は仏壇の抽斗にある遺言状をみてくれとの事に、飯田氏と実弟安平氏とは相謀つてこの一大秘密を遺言どおり世間へ発表しようと目論んでいる。

しかし、この記事には「渡辺篤が一刀で龍馬を斬り倒したあと佐々木がその首を落とした」という明らかなねつ造があり、渡辺篤の売名行為とみられました。『坂本龍馬関係文書』を編纂した岩崎鏡川も次のような批判を述べ断罪しています。

「二三年前に此地(京都)の方で、渡辺一郎(篤)といふ人が死に臨んで遺言して、自分が坂本中岡の下手人であるといふことを言はれた、それが大阪朝日新聞に出て居る。併し其話も誠に其当時の事情とは符号しないものであって、一見して詐りと思はれる事柄であります、さういふ様に、新聞雑誌に、中岡坂本の下手人と申す者が幾人あったか、殆ど我々の見ました範囲、聞きました範囲でも、五六人より下らないことで御座ります。これはどういふ譚かと言へば今申しました通り両先生の死なれました際の事情が、分明にならなかった処へ両先生の名声が、あまりに世の中に高いが為に、一種の名聞狂とでも申しませうか、俺が斬た、俺が殺したといふ様な者が続て出て来た」


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