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12. 見廻組渡辺篤説 (二) 渡辺篤の告白

渡辺家由緒暦代系図履暦書

大正4年(1915年)8月5日付の大阪朝日新聞に掲載された渡辺篤の記事には、もとになった履歴書が存在しました。『渡辺家由緒暦代系図履暦書』と題し、明治44年(1911年)8月19日に渡辺篤本人が記述したものです。

『渡辺家由緒暦代系図履暦書』(明治44年8月19日、渡辺篤著)

慶応三年卯年二月五日見回り組御雇被仰付御扶持方七人扶持被下、同年四月朔日組肝煎並被仰付、同年八月廿五日肝煎被仰付外に役扶持五人扶持被下給、同年十一月十五日土州藩士坂本龍馬中岡慎太郎なる者潜に徳川将軍をくつがへさんと謀り、其連累四方に多々ある故に、見廻り組頭取佐々木只三郎の命により自分始め組の者今井信郎外三名申合せ、黄昏より龍馬の旅宿え踏込、正面に坐し居龍馬え切り付横に倒れし所を突込み、左右に一両名居りし者同時に打果し、其中壱名が中岡なる者の由後日聞込む。従僕も相たをし即死す。壱人命を助かりし者是は十三四位の給仕か、右の動作に驚き自分の前の机の下え頭を突込平伏致居る子供故其儘見遁し候。従僕は余程太り背高にて案内を乞と二階より取次に降り来、偽名の名刺を差出、取次の従僕と共に二階へ上り直に正面に坐し居坂本に切り付、龍馬後ろの床にある刀を取らんとせしも取り得ず相仆れ候。下宿せし所は河原町三条下る三四丁目西側醤油屋の二階に才谷梅太郎と偽名し潜居致居る土佐屋敷の前也。なかばに行灯は消へ合言葉を致置候へ共正々ならず。一時はどしうちの難んを相恐れ候へ共無事に仕遂げ候。尤頭取佐々木氏もとも々其場へ臨み相働き候。向の屋敷には沢山藩士詰め居候事故、最中の音響を聞て駆け来りしも難計に付夜中の事に付、表入口戸の内に固め居候者壱人置、又二階上り口に壱人置、備へを相立候事也。
 ○従僕は相撲取か。
 一、見廻組の総頭として信州飯田の藩主堀石見守一万石の大名也。右堀より被召招罷出候処、会津の抱鍛治大和守秀国の打ちし一尺程の脇差身一振り拝受す、あら打のまゝ也。
刀の鞘を忘れ残し返りしは世良敏郎と云人にて書物は少し読候へ共、武芸の余り無き者故鞘を残し返ると云不都合出来、帰途平素剣術を学ぶ事薄き故、呼吸相切れ歩みも難出来始末に依て、拙子世良の腕を肩に掛け鞘のなき刀を拙子の袴の中え竪に入て保護し連れ帰り候。河原町の四条え出て四条を千本通り迄、千本を下立売、下立売を智恵光院迄、智恵光院を北え入西側の寺院(名相忘る)迄漸く相帰り候。
 ○四条通りは夜の口ゆえ大に相賑ひ居候間世良なる者を肩にかけながら「よひやないかゝゝゝゝゝゝ」と声高を上げて通行候故抜き身を持ち居候事人に不分都合よき事也。
右寺に頭取佐々木氏下宿致し被居候故他の面々も皆道を替へて相戻り都合克相果し候段一同相祝し盃を上げ夜明け候て緩々帰宅致秘密の事故、父に相語りし而已にてだれにも不語候。一両日を経して坂本が切られたとの評風頗りに有之、新選組の浪士が切つたとか取々の噂に候。記せば軽く相聞え候へ共其時の苦心言語に不被述候。
坂本を打果すに付ては諜吏増次郎と云者を相遣ひ、前々より下宿所なり同氏の挙動等探索為致、当日先斗町之青楼の二階をかり一同、日の暮るゝを待居、増次郎は坂本の下宿近処にて同氏之様子を探りこもをかぶり乞食となつて下宿所醤油やの庇下に相臥し居り候処え、坂本他より相戻りし事正に相見止、其趣注進にかえり折柄日も殆ど相暮れ候に付、其手配り十分に協議の上相出候て前述る如く之始末に候。右之外前後五六回も真剣勝負致し候事も有之、維新前之事にて殺気相立諸藩士は諸方より京都え入り込、実に油断ならぬ時勢、他出毎に刀の鯉口をゆるめ前後左右気を配り歩行致候也。況や京洛の見廻り組に付人に被目付け居候故少も油断不出来。依て日々腕を固め居候。壮年には体重二十貫余有之元気も十分到居敗を取る事無之候。同月十九日ごろ坂本を打ちし功として十五人扶持づゝ月々頂戴致候なり。壱人扶持とは日に米五合也。十五人扶持にて一日七升五合となる。右頂戴す。
一、新撰組之頭近藤勇は元幕府百人組之同心より出て、京都に於て新撰組を組織し諸方之浪士を集め、二三百人の組にて徳川幕府え抗敵せし人を切り殺、或は捕縛し世上に有名大に勢権を振ひ、京都見廻り組と親敷致居、慶喜公下坂后も右組は葛野郡壬生寺に屯所を拵へ、其后稲荷総所近辺に相転候。右近藤下坂之節伏見藤ノ森通行ノ際薩藩ニ狙撃せられ、肩先を後一発被打候ニ相違なしと考え鞍を以て落馬すりこらへ、其儘大坂城え乗切て参、惣身血塗れと相成居候。愉快なる強傑也。東京へ引取後副将土方俊三なる人甲州え官軍参り候に付、一戦せんと一同召連れ出張候所何か論議之上大炮を官軍え渡し引挙候を遺憾に思ひ、自ら甲州え罷越右器械を取返さんと論議之処、官軍鳥井丹波守之兵士に近藤を見しり居人有之候て近藤なる事を重役え相語、為に捕はれ終に斬殺せらる。斬殺之際自若として立派に斬らせ候由。后近藤之首級を京都三条の橋上にさらされ候。坂本をうちし翌日近藤に頭佐々木出会候処、夜前はをてがらやつたなと微笑致し候由承り候也。

[現代語・意訳]
 明治44年8月19日付
慶応3卯年2月5日、見廻組に任命され、7人扶持を頂戴する。同年4月に肝煎並、同年8月25日に肝煎に仰せつけられ、外に5人扶持を与えられた。同年11月15日、土佐藩・坂本龍馬と中岡慎太郎というものが密かに徳川将軍を倒そうと謀り、その陰謀を四方にめぐらせていたので、見廻組頭取の佐々木只三郎の命令により、自分をはじめ今井信郎と外3名の組のもの(内1人は世良敏郎)と相談し、夕暮れ時に龍馬の旅宿へ踏み込み、正面に座っていた龍馬を斬りつけ横に倒れたところを突き刺し、左右にいた両名も同時に討ち果たした。その中の1名が中岡慎太郎であったことは後日聞いた。従僕も同じように即死した。13、4歳位の給仕で命を助けたものが1名おり、これは騒ぎに驚き自分の前の机の下へ頭を入れて平伏していたが、子供だったので見逃した。
従僕は背が高く非常に太っており、案内を請うと2階から取り次ぎのために降りてきた。偽名の名札を差し出し、取り次ぎの従僕とともに2階へあがり、ただちに正面に座っていた坂本を斬りつけると、龍馬は後ろの床にある刀を取ろうとしたができずに倒れた。龍馬が下宿していたところは河原町通り三条下ル三四丁目西側の醤油屋の2階で、才谷梅太郎との偽名を使い隠れ住んでおり、土佐藩邸の前にあった。乱闘のうちに行燈は消え、暗闇の中で決めていた合い言葉も思うように使うことができなかった。一時は同士討ちの恐れもあったが、なんとか無事に任務を遂行することができた。組頭の佐々木氏も現場に立ち会い同じように働いた。向かいの土佐屋敷にはたくさん藩士が詰めており、夜中のため襲撃の騒ぎを聞き駆けつけてくる恐れがあるので、表入り口を固める者を1名、また2階の上がり口に1名を置き、これに備えた。
 ○従僕は相撲か。
 一、当時の見廻組の総頭は、信州飯田藩主・堀親義で1万石の大名である。この堀から招かれて、会津藩お抱えの鍛冶である大和秀国の打った1尺程の脇差し1振りを拝領した。まだ研ぎ上げていない荒打ちのままのものであった。
刀の鞘を忘れ残してきたのは、世良敏郎というもので書物は少し読むけれども武芸はあまり得意でないため、鞘を置き忘れる失態をおかした。日頃から剣術の鍛錬をしなかったこともあり、呼吸を切らし歩くこともできない始末であった。自分は世良の腕を肩にかけ、鞘のない刀を袴の中へ縦に隠し入れたまま連れ帰った。河原町を四条に出て、四条通りを千本通りまで、千本通りを下立売、下立売通りを知恵光院まで、知恵光院を北へ入り、西側の寺院(名前を忘れる)にたどり着いた。
 ○四条通りは宵の口で非常ににぎわっていたので、世良を肩にかけながら「ヨイヤナイカ、ヨイヤナイカ」と大声を上げて歩き、抜き身の刀を隠し持っていることを知られないのに都合がよかった。
右の寺に佐々木氏は下宿していたため各人はそれぞれ道を変えて戻り、都合よく任務を果たしたので一同は祝杯を上げ、夜明けに帰宅した。この件は秘密の公務だったので父に打ち明けたのみで、誰にも語っていない。翌日、坂本が斬られたと評判になり、新選組の浪士が斬ったとか色々な噂が流れた。こうして書くと軽く聞こえるかもしれないが、その当時の苦心は言葉では言い尽くせない。
坂本を討ち果たすために間者の増次郎という者を使い、前々より坂本の下宿にて同氏の挙動を探索していた。事件の当時、見廻組一同は先斗町の料亭青楼の2階を借り、日が暮れるのを待っていた。増次郎は、坂本の下宿の近くで同氏の様子を探るためコモをかぶり乞食の風体で下宿所醤油屋の軒下にいたところ、坂本が他所から戻ってきたことを確認しその報告に帰ってきた。このとき日はほとんど暮れていたが、手はずを十分に協議した上で出かけ、前述の通りに坂本を始末した。
この事件の前後に5、6回程真剣勝負をしているが、維新前のことで殺気立っており、諸藩士が各方面から京都に入り込み、実に油断できない情勢だった。他所に出かけるときには、刀の鯉口をゆるめ前後左右に気を配り歩いていた。いうまでもなく、市中の巡回をおこなう見廻組は不逞浪士に目をつけられていたので、少しも油断することはできなかった。そのため日々腕を鍛えていた。壮年の頃は体重が20貫ほどあり、気力も十分だったので、一度も敗れるようなことはなかった。
11月19日ごろ、坂本を討った褒賞として15人扶持を月々頂戴することになった。1人扶持とは日に米5合。15人扶持では1日7升5合となる。これを頂戴した。
一、新選組局長・近藤勇は元幕府百人組同心の出身で、京都において新選組を組織した。諸方の浪士を集めた二・三百人の組で、徳川幕府に敵対する人を斬り殺し、あるいは捕縛して大いに権勢をふるった。京都見廻組とは親しくしており、慶喜公が下坂した後も壬生寺に屯所を設け、その後稲荷総所の近辺に移転した。近藤が大坂に下ったとき、伏見藤ノ森を通行中に薩摩藩から狙撃され、肩先を一発撃ち抜かれたが落馬をこらえ、血まみれのまま大坂城に入城した。愉快なる豪傑である。東京へ引き上げた後、副長・土方歳三は官軍の甲州進軍に抗戦しようと一軍を率いたが、論議した結果大砲を官軍へと引き渡した。これを遺憾に思った近藤は、自ら甲州に向かい大砲を取り戻そう画策したが、官軍の鳥井丹波守の兵士に近藤を知る人間があり、近藤であることを重役に語ったために捕らわれ斬殺された。斬殺の際は、非常に立派な最期であった。近藤の首級は京都三条の橋上にさらされた。我々が坂本を討った翌日、近藤と佐々木が会ったとき「昨日はお手柄であった」と微笑したと聞いている。

秘密の暴露 !?

これには「龍馬の首を落とした」という虚構はなく、龍馬暗殺に参加した渡辺篤の活躍が詳細につづられていました。

襲撃の様子は今井信郎の実歴談と似ていますが、事前に密偵の増次郎をはなち、龍馬を斬ったのは渡辺篤、現場に鞘を置き忘れたのは世良敏郎と新たな証言もみられます。

しかし、渡辺篤は襲撃者として今井信郎の名前をあげていますが、今井証言では渡辺篤の名前は出てきません。今井証言で出てくる渡辺吉太郎と渡辺篤はまったくの別人です。

そのため、すでに今井信郎の証言「坂本龍馬殺害者(今井信郎氏実歴談)」(『近畿評論第17号』)が新聞に発表されていたことから、渡辺篤が今井信郎の実歴談を借用し、自身の手柄話としたとの指摘もあります。

実行
佐々木只三郎、渡辺篤 !!、今井信郎、世良敏郎 !!、ほか2人

黒幕
京都見廻組与頭・佐々木只三郎

動機
徳川幕府の転覆を画策 !!

目的
殺害

だれの鞘
世良敏郎 !?

密偵
増次郎 !!を使い近江屋を下調べ

報償
月々15人扶持 !!

渡辺篤実歴談の真偽

『渡辺家由緒暦代系図履暦書』の信ぴょう性には検討の余地が残りますが、冒頭に「此書別ニ巻物ニ認有之候得共認メ洩レ之廉々有之ニ付、改テ相記候也」とあり、別の巻物からの再録とあります。

履歴書の原本となる巻物は、明治13年(1880年)6月25日に書かれたもので、これは今井信郎実歴談が近畿評論(第17号、明治33年)に掲載される20年も前のことでした。

『履歴書原本』(明治13年6月25日、渡辺篤著)

同年十一月土藩坂本良馬なる者、潜かに徳川将軍をくつがへさんと計る者にて、連累諸方に多々あるゆえ、頭佐々木只三郎ならび拙者はじめほか五名申し合せ、夕方より良馬の旅宿へ急に踏み入り候ところ、五六名慷慨の士が居り合せ、軽くあい戦ひ首尾よくことごとく討ち果たし候なり。右旅宿は河原町三条下ル三四丁目西側、醤油屋の二階において才谷梅太郎と俗名を唱え、潜居いたし候なり。

[現代語・意訳]
慶応3年11月土佐藩坂本龍馬なる者は、ひそかに徳川将軍を倒そうとはかっており、諸方の多くの者と連携している。そのため頭・佐々木只三郎、拙者と他5名は申し合わせて夕方より龍馬の旅宿へ踏み込んだところ、5、6名の意気さかんな志士が居あわせたが、戦って首尾よく討ち果たした。旅宿は河原町三条下ル三、四丁目西側の醤油屋の2階で、龍馬は才谷梅太郎と名のって潜居していた。

内容は簡潔に書かれ、龍馬暗殺の理由について、ひそかに徳川将軍を倒そうとはかっており、諸方の多くの者と連携しているからとしています。

襲撃は佐々木只三郎の指揮のもと自分と他5名とありますが、他の隊士の名前をあげていません。また現場には5、6名の志士がいたが討ちはたしたとありますが、実際に斬られたのは龍馬・中岡慎太郎・従僕藤吉の3名で事実と異なっています。

このように渡辺篤の証言は正確さに欠けるところがあるため、京都見廻組説の根拠として扱うには賛否があります。


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