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京都見廻組・渡辺篤説 (三) 渡辺篤説の真相

老人の夢物語

元京都見廻組の渡辺篤が語る龍馬暗殺証言の信ぴょう性には疑問の余地があり、「今井信郎証言の空白となっている部分を埋める真実を語った」とするものと、「人びとの注目を引きたい渡辺篤が作り話を語った」と意見がわかれている。

ただし、さきに結論を述べると渡辺篤は龍馬暗殺に関与していない

渡辺篤供述の変遷

渡辺篤の関与を裏づける根拠としては、明治13年(1880年)に書かれた『渡辺家由緒暦代系図履暦書-原本』があげられる。これは明治39年(1906年)に発刊された『近畿評論第17号』の今井信郎実歴談が世に出る前の記述で、京都見廻組の仕業であることをはじめて明かしたとされている。

しかし、龍馬暗殺の実行犯が京都見廻組であることの告白は、はたして秘密の暴露にあたるのだろうか。これは真犯人しか知ることのできない事実だったのか。実は見廻組の仕業であることが、見廻組と新選組の間で周知の事実であったことは、新選組隊士の証言からも明らかである。

明治2年(1869年)、坂本龍馬暗殺への関与の疑いがあるとして取り調べをうけた新選組隊士たちは、次の様に供述している。

大石鍬次郎
「且同年十月比、土州藩坂本龍馬、石川清之助両人を暗殺之儀、私共の所業には無之、是は見廻り組海野某、高橋某、今井信郎外壱人にて暗殺致候由、勇より慥に承知仕候。」

相馬肇
「坂本龍馬儀は私は一向存知不申候得共、隊中へ廻文を以て右之者暗殺致候嫌疑相晴候趣全見廻り組にて暗殺致候由之趣初而承知仕候」

ここで坂本龍馬の暗殺は「新選組ではなく、京都見廻組の仕業である」と明言している。大石にいたっては具体的な隊士の名前をあげているほどである。このことからも「佐々木只三郎が率いる一派が、不逞浪士の巨魁・坂本龍馬を討ちとった」ことは快挙として知られていたことがわかる。

『渡辺家由緒暦代系図履暦書-原本』が記録したことはこの事実にすぎず、関与していない渡辺篤には他の隊士や襲撃の様子などは知りえなかったのである。それが今井信郎実歴談が公表されたあとになると、渡辺篤の記述も具体的になっていくが、その主役は渡辺篤だ。そして、より面白くするため密偵の増次郎を放ち居場所をさぐり、現場で足腰が立たなくなった武芸の得意でない世良敏郎を助けたなど書き加えている。

渡辺篤の告白にいま一つ信頼がおけないのはこのような記述があることで、龍馬排除は必殺の公務であり、腕が立たない世良をつれていく理由がない。

まだ生きている人

その他渡辺篤の関与を結びつける証拠として、『近畿評論第17号』の中で今井が語った「まだ生きている人が、己の死ぬまでは決して己の名を言うてくれるなと頼みましたから答えられません」が、渡辺篤を指しているというものがある。

しかし、この話は新聞記者・結城礼一郎が創作したものである。「新聞の続き物として書いたのだから事実も多少修飾し」と認めているように、政府高官となり正体を明かすことができない容疑者Xは、読者の興味を引く題材ではないだろうか。

また、新政府の取り調べを受けたさい、渡辺篤をかばうために渡辺吉太郎の名前を偽証したとの主張もあるがこじつけである。このときの判決で大石鍬次郎は斬首、横倉甚五郎は獄死、相馬肇は終身流刑と厳しい処分が科せられている。この状況のなかで命をかけてまで偽証する理由がどこにあるのだろうか

このことから渡辺篤実歴談は、明治37年(1904年)の葉山の御夢で龍馬の評判が全国的になっていたこともあり、まわりを見返したい、後世に名を残したいと考えた渡辺篤の虚言と考えられる。

今井信郎の子孫・今井幸彦氏は、その著書『坂本龍馬を斬った男』の中で、「その晩年は不遇で孤独なものだったように思われる。いってみれば、貧しい孤独な老人の、たまたま同性にヒントを得た夢物語であり、また、なにか人びとの関心を引いてみたくなった寂しさからであろう。まことに気の毒な老人である」と否定している。

【渡辺篤】
剣術は大野応之助に西岡是心流を学び、18歳で免許となる。元治元年(1864年)22歳の時、剣術上覧試合で銀5丁を賜り、9月に京都文武場剣術世話心得となる。慶応3年(1867年)2月、見廻組御雇となり7人扶持を受ける。4月、見廻組肝煎介、8月に同肝煎と昇進した。維新後は、奈良県出仕、同文武場教授、大阪裁判所出仕、京都府学務課出仕、京都府立第一中学剣術教授を歴任、大正4年(1915年)1月6日病没。

【今井信郎】
江戸幕臣。剣術は直心影流を榊原健吉に学び、免許皆伝を受ける。慶応3年(1867年)、上京して見廻組に参加し、昇進して肝煎となる。戊辰戦争では東北各地を転戦し、五稜郭に立て籠もり官軍に抵抗したが、明治2年(1869年)6月に降伏。坂本龍馬暗殺に見張役として関わっていたと自白したため投獄されたが、明治5年(1872年)に特赦放免。晩年はキリスト教に入信し、初倉村村会議員、同村長を歴任した。


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