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14. 新選組説 (一) 原田左之助の鞘

実行犯は原田左之助、黒幕は三浦休太郎

坂本龍馬・中岡慎太郎暗殺事件の犯人として当時最も有力だったのが新選組説でした。実行犯は十番組長・原田左之助ら新選組隊士、黒幕は紀州藩士・三浦休太郎です。

事件直後に家来の注進を受けた土佐藩重役・寺村左膳は、「才谷即死セリ、石川ハ少々息は通ひ候ニ付、療養ニ取掛りたりと云、多分新撰組等之業なるべしとの報知也」と記録しており、当初から新選組の関与が疑われていました。

これは新選組が京都の治安維持として志士を弾圧していたからですが、容疑をかけられた直接の要因は事件現場に刺客の遺留品と思われる鞘が残されており、新選組隊士のものとの証言があったためです。

証言をしたのは元新選組の御陵衛士で、事件を調査をしていた土佐藩士・谷干城の聞き取りに対し「これは原田左之助の刀の鞘と思う」と証言しました。また、中岡が聞いたという「コナクソ」は伊予の方言で、原田の出身が伊予であることから新選組の犯行だと特定されました。

黒幕とされた紀州藩は、龍馬と金銭をめぐる争いを抱えていました。

事件のおきた年の慶応3年(1867年)4月、海援隊が運用していた「いろは丸」が、紀州藩船と衝突して沈没する事故がおこりました。紀州藩は御三家の威光を傘に着たのに対し、龍馬は策略をめぐらして談判した結果、紀州藩が賠償金8万3千両(のち7万両に減額)を支払うことになります。

現在のお金に換算すると約160億円で、大藩の紀州藩といえども財政を傾かせかける額の賠償金でした。

この直後の11月に龍馬暗殺がおきたことから、面目をつぶされ巨額の賠償金を背負わされた紀州藩は、公用人・三浦休太郎が新選組と共謀して暗殺を実行させたと考えられました。

実際、海援隊士らはそう判断しました。そして12月7日夜、海援隊の陸奥陽之助、沢村惣之丞、宮地彦三郎らに陸援隊士・十津川郷士を加えた総勢16名が、復讐を果たすべく、三浦の宿舎を襲撃しています。

刺客の遺留品

龍馬が暗殺された事件現場には、刺客のものと思われる遺留品がありました。刀の鞘1本と、料亭の下駄2足です。これを証拠として新選組は土佐藩の告発を受けることになりますが、この遺留品について尾張藩と鳥取藩の記録に次のようにあります。

『尾張藩雑記 慶応三年ノ四』

土藩浪士頭齋谷梅太郎右方エ九人斗帯刀人這入リ梅太郎切害ニ及ビ其節残居候品、刀銵壱本ト下駄弐足、右下駄焼印有之、一足ハ二軒茶屋中村屋印、一足ハ下河原……堂印有之段々承様候処、祇園町永楽屋へ遊興ニ罷越候者三人ノ内、一人ハ土佐藩、二人は佐土原藩ノ良申立居候へ共、全ハ当時白川ニ旅宿罷在候坂本龍馬ノ徒党ノ者ノ良相聞候へ共、聢ト佐様ハ未相分、猶探索ノ上巨細申上ベク候。以上。十一月廿日。

『慶応丁卯筆記』

慶応三年十一月廿三日 鳥取藩記録 坂本龍馬、中岡慎太郎遭害ノ件筆記廿三
一、十一月十六日夜五ツ時分、河原町通四条上ル弐丁目西側土州屋敷前但シ同屋敷ノ横稲荷社ノ図子ヨリ行当リノ家醤油商近江屋新助方ニ(中略)何者共不分侍ヒ八九人計乱入、矢庭ニ二階へ抜刀ヲ振テ罷上リ三人エ切テ懸リ(中略)死骸夫々取片付候処、跡ニ残シ置候品左ニ
一、刀ノ鞘 壱本 但シ 黒塗
一、下駄 弐足 但シ 印付、内壱足ハ 噲 如此 焼印有之候由、内壱足ハ 中 如此 印有之由

右下駄壱足ハ祇園二軒茶屋之内、中村屋ト申、料理茶屋之由。今一足ハ河原町、噲々堂ト申、会席料理屋之貸下駄之由ニ候得共、多分之入込来客渡世之儀ニ付、何レ之者共不相分、恐らくハ同藩士之趣も難計様子ニ相聞、吟味中之由(中略)恐ラクハ右切害人ハ宮川ノ徒哉モ難計趣ニモ仄ニ相聞候由堅ク口外ヲ憚リ申候事。

<< 鞘 >>

事件直後に現場にかけつけた土佐藩小目付・谷干城が、遺留品である刀の鞘の持ち主について調査した結果、御陵衛士から原田左之助のものであるとの証言を得ています。

『谷干城遺稿』 靖献社、明治45年(1912年)

其のあとでさあ此下手人を調べることになつた。先づ新選組と鑑定を附けたものでありますから、此方の手掛りを探さなければならぬといふもので、石川が斬られたのが十五日、それからして新選組に元居つて意見が分れて、高台寺といふ寺へ行つて居つた者が十四五人あつた。伊東甲子太郎といふのが頭で、其の甲子太郎が十八日の夜新選組の者に殺された。甲子太郎を殺して置いてサア伊東が災難に遭ふたから、片時も参つと云ふてやつたので、居合した者が七人程皆行つたが、新選組は待伏して皆殺された。
七条少し脇の方で其斬残されのが其中に伏見の方へ出て行て、家に居らざつたのが二三人あつた。其斬残されたのは初め白川の土佐屋敷へ来た。白川の土佐屋敷はあの時分は野原であつて、浪人が大変居るが、危険であるからもう不用心故、薩摩の屋敷の方へ頼んだ所がこゝも危いと云ふので、伏見の薩摩屋敷へ囲つて居つた。
そこで彼の斬残されの者等は、元々新選組に這入つて居つたものであるからして、刀に見覚えがあらうと云ふので、私と毛利とそれから彼の薩摩の中村半次郎と三人で、伏見の薩摩屋敷へ行つて、彼の甲子太郎の一類の者に会ふて、其の刀の鞘を見せた。所が此の二三人が評議して見て、是は原田佐之助の刀と思ふと……言出した。成程……此原田左之助といふのは腕前の男だ。新選組の中で先づ実行委員と云ふ理窟で人を斬りに行くには何時にても先に立つて行く。そこで私などがハア成程どうも其挙動と云ひ、如何にも武辺場数の者であらう。何しろ敏捷なやり方である。どうしてもそれに相違ないと云ふので最早一人は原田左之助其他、斬つた者ハ新選組の者に相違ないと云ふことにまあ決定して居る。

御陵衛士とは、天皇陵をまもる名目で新選組から分離した伊東甲子太郎一派でしたが、近江屋事件の3日後に党首の伊東が新選組によって七条油小路で斬殺されます。その遺骸は路上にさらされ、引き取りに来た御陵衛士たちも待ち伏せた新選組に粛清されました。

このとき虎口を脱した御陵衛士残党は薩摩藩邸に保護され、のち京都を留守にしていたものたちが合流しました。御陵衛士と薩摩藩の間に面識はなかったのですが、衛士のひとり・富山弥兵衛が薩摩出身という縁を頼ったようです。

近江屋事件直後から谷干城は、龍馬暗殺の関与が噂される新選組を調べていました。有力な傍証は、現場遺留品の鞘と、中岡慎太郎が聞いた「コナクソ」の声音です。

聞きつけた薩摩藩の大久保一蔵(利通)から「元新選組ならば、遺留品に見覚えがあるかもしれない」との通達があり、さっそく中村半次郎の案内で毛利恭助とともに伏見薩摩藩邸を訪れました。

中村の『京在日記』11月21日の項に「我は土州藩毛利暴助、谷清兵衛同行ニて伏見の越し泊ス」、22日の項に「土州毛利、谷、我三人伏見より帰り」とあります。

谷が面談した御陵衛士は阿部十郎、篠原秦之進、内海次郎の3人で、彼らに鞘の鑑定を求めたところ原田左之助のものであることが判明しました。ただし、阿部自身の談話には鞘についての言及はなく、犯人の根拠は中国・四国なまりの声音だったといいます。

「阿部隆明談話」『史談会速記録』

その時分に伏見の薩州邸は大山彦八という人が留守居をしておりまして、そうして坂本龍馬が撃れましたにつきましては、土州の毛利郷助、唯今の貴族院議員谷干城なる者がたびたび参りまして、坂本龍馬を撃ちました者を詮索致しました。
どういう声音であったか、何でも新撰組に違いないということでございまして、龍馬を撃ちました時分に「しとめた、しとめた」と言って声を上げました話を致しまして、マアそいういう声音で、中国か四国辺の者であろうという声音であったということでございます。
そうしますと今の伊予の松山藩でございましょう、新撰組の原田佐之助という者があって、その声によく似ておりますので、果して佐之助であろうということになりました。これか為にしばしば西郷なども来ました。また遠武秀行それから谷干城が来ましてだんだん相談を致しました。

調べを受けた御陵衛士残党は原田の関与を証言していますが、これは明らかに谷の新選組の犯行を前提にした見込み捜査の追認です。新選組に同志を殺害された直後の彼らの証言に客観性があるのか疑問は残ります。

しかし、谷はこれによって証拠固めができたと判断し、報告を受けた土佐藩は幕府に新選組を訴えています

<< 下駄 >>

遺留品の下駄は、史料から「中村屋」と「噲々(カイカイ)堂」のものであることがわかっています。また、その所有者についても「商売がら来客の出入りが多く、誰が履いていたものかはわからないが、恐らくは近江屋に駆けつけた土佐藩士のものではないだろうか」と推測されています。

ところが、この下駄は新選組出入りの「瓢(ヒサゴ)亭」のものとして取り上げられることがあります。出どころは大正15年(1926年)に刊行された『坂本龍馬関係文書』(岩崎鏡川著)で、近江屋新助の息子・新之助の談話として次のよう記述があります。

賊の遺留品とては、僅に下駄一足と、刀の鞘あるのみなりき。下駄には瓢亭の焼印ありき。瓢亭といへば、南禅寺と、先斗町の内なるべしと思ひ、新助は翌日(十六日)先斗町の瓢亭に至り「この下駄に見覚なきや」と尋ぬるに「如何にも、手前共の下駄なり」と答ふ、「さらばこの下駄を誰かに貸したる覚なきや」と問へば、「昨夜新選組の御方に貸しました」と答へぬ。

瓢亭の下駄は、近江屋新助の働きをかたる中ではじめて登場しました。証言したのは井口新之助ですが、「龍馬が土蔵に隠れていた」話と同様に井口家口伝だけに出てくる情報なので作り話と思われます。

ところが、なんの裏付けもない瓢亭の下駄が、現在では刺客の遺留品として事実認定され、新選組説の根拠のひとつとして扱われています。

【原田左之助】
天保11年(1840年)、伊予松山藩に生まれ、はじめ藩の武家奉公人だったが、のちに出奔。江戸試衛館の近藤勇とともに浪士組に参加して上洛し、新選組結成後は十番隊組長をつとめた。芹沢鴨一派の粛清、池田屋事件、油小路事件など主だった戦闘に関わったとみられる。甲陽鎮撫隊の敗走後、意見の違いから新選組を離脱し、永倉新八と共に靖兵隊を結成した。のちに彰義隊に参戦し、鉄砲傷がもとで明治元年5月17日に死亡したという。

【三浦休太郎】
文政12年(1829年)8月18日、紀州藩の支藩・西条藩士・小川武貴の子として生まれ、のちに母方の三浦家の養子となり郡奉行をつとめた。将軍継嗣問題のさい、西条藩の宗家である紀州藩主・徳川慶福(のちの徳川家茂)擁立のはたらきが認められ紀州藩に取りたてられる。京都時代は周旋役として朝幕間を奔走。慶応3年(1867年)12月、いろは丸事件の遺恨から坂本龍馬暗殺の関与を疑われ、海陸援隊士らの襲撃を受けたが頬を負傷するだけで難を逃れた。維新後は新政府に出仕し、元老院議官、貴族院議員、東京府知事、宮中顧問官などを歴任した。

三浦休太郎

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