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チラシのウラです。

15. 新選組説 (二) 土佐の仇討ち

告発

土佐藩は小目付・谷干城の調査によって、坂本龍馬暗殺の犯人は新選組の原田左之助と断定します。そして参政・福岡藤次が、幕府老中・板倉勝静に対し新選組を訴えました。

そのさい土佐藩としては復讐論をとらないとしながらも、幕府が相当な処分を下さない限り、藩上層部は藩士たちの暴発をおさえられない、と揺さぶりをかけています。

鳥取県立博物館編 『贈従一位池田慶徳公御伝記』 鳥取県立博物館、昭和62年

其当分一向手掛り無之様子ニ御坐候処、段々探索、終ニ本人相分、両三日前土州より閣老板倉侯え申出候由。元々松山脱藩にて、新撰組と相成居候者両人と申、確証を以訴へ出、弊藩ニ於ては、妄りニ復讐論は立サセ不申候ニ付、幕府に於て相当之御所置被下度、尤主人容堂も不日上京仕候へは、壮年客気之徒も多分陪従仕候、万一公辺ニ於て、相当之御所置無之節は、壮年輩共憤懣之余り、如何様之挙動ニ及候も難量御坐候間、其辺御差含被下、異論不差起様之御所置、希上候趣申上置候由にて、早速御取調ニ相成候処、土州より申出候趣ニ相違無之由ニ御坐候。

[現代語・意訳]
しばらく手がかりがなかったのですが、探索の結果ついに犯人がわかり、土佐藩より閣老・板倉勝静へ申し出がありました。「元は松山藩士でしたが今は新選組にいる2人で、確証もあります。弊藩(土佐藩)では、みだりに復讐論は立てさせませんので、幕府において相当のご処置をしてください。ただし、主人・山内容堂が上京するさいには、意気軒昂な藩士も従ってきます。万一、公儀が相当のご処置をなされないときは、彼らが憤怒のあまり、どのような行動に出るかはわかりません。そのあたりをご理解していただき、異論がないようなご処置を希望します」との申し出があり、さっそく取り調べたところ土佐藩の申し出に間違いはありませんでした。

親幕派の雄藩である土佐藩の訴えをむげにはできず、慶応3年(1867年)11月26日、大目付・永井尚志は、新選組局長・近藤勇を呼び出して龍馬暗殺に関する取り調べをおこないました。(「十一月廿六日 一、近藤勇今日御呼立、御調ノ由」『神山左多衛日記』)

この聴取の内容を伝える記録はありませんが、新選組に処分が下されていないことから、近藤が土佐藩からの嫌疑を否定したことは間違いありません。ただし、大政奉還で政局が混迷するなか対立を避けるため、幕府は土佐藩の訴えを認めています

天満屋事件

幕府による新選組への処分がない状況が続き、とうとう土佐藩の一部が暴発。12月7日、海援隊・陸援隊士たちが、紀州藩公用人・三浦休太郎の宿舎を襲撃しました。

主導したのは海援隊士の陸奥陽之助です。紀州藩士・伊達宗広の子で江戸遊学ののち脱藩し、龍馬の知遇を得て亀山社中・海援隊に参加していました。龍馬は陸奥を非常に高く評価していて、「二本差さなくても食っていけるのは、俺と陸奥だけだ」と語ったといいます。

陸奥に三浦の情報を提供したのは、紀州の材木商・加納宗七という男でした。勤王家である加納は、陸奥の義兄・伊達五郎らと親しくしており、彼らを通じて紀州藩の情報をつかんでいました。

11月末ごろ、京に出てきた加納は陸奥と面会し、重大な情報を伝えました。「紀州藩の三浦休太郎が会津・桑名藩と共謀し、京へ兵を派遣して薩摩藩邸などを焼き払い、勤王勢力を一掃し、幕府権威を回復させようと計画しています」というのです。

知らせを受けた陸奥は、先の龍馬暗殺も三浦陰謀によるものであり、いろは丸号沈没事件で多額の賠償金を負わされた紀州藩が新選組に命じて実行したと考えました。

「憎きは三浦なり、公私の仇讎必ず報ぜざるべからず」と陸奥は三浦を討つことを決断し、長崎から上洛した海援隊士、白川の陸援隊士らと計画をたてます。

三浦の身辺をさぐり、当初は警護が手薄な往来をねらいましたが失敗したため、即座に三浦の旅宿・天満屋を襲撃することに切り替えました。

12月7日、夕刻になって三浦在宿の情報がもたらされ、海・陸援隊一党16名が出動します。同士討ちをさけるため白手ぬぐいを鉢巻とし、陸奥をはじめ何人かはピストルを忍ばせていました。

参加したのは海援隊から陸奥陽之助、関雄之助(沢村惣之丞)、宮地彦三郎など、陸援隊からは岩村精一郎、本川安太郎、斎原治一郎(大江卓)など。ほかに十津川郷士の中井庄五郎、前岡力雄、商人の加納宗七も加わりました。

一方、不穏な動きを察知していた紀州藩は、会津藩を通して新選組に三浦休太郎の警護を依頼します。新選組からは三番隊組長・斎藤一、監察・大石鍬次郎、宮川信吉らが派遣され、顔合わせの酒宴がひらかれました。

そこへ海・陸援隊一党が討ち入りました。3手にわかれて侵入し、居合の達人といわれた十津川郷士・中井が2階へと踏み込み、正面の男に「三浦氏は其許か」と確認すると、すかさず抜き打ちをかけました。とっさにかわし、三浦は頬を負傷。

それが合図となり両者は入り乱れ、行灯のあかりが消え敵味方の区別がつかない暗闇での戦闘となりました。剣戟と銃撃の音が響くなか、「三浦を仕留めたぞ」と大声で叫ぶものがあり、その影は部屋の外へ飛び出します。

これは新選組の策で、偽りの声をあげて室外に飛び出し、襲撃者を路上へと誘導したのでした。このとき天満屋に居あわせた紀州藩士・三宅精一は「敵をおびき出したとっさの策は、よくもこのように一致して職務を尽くすことと、くれぐれも感心した」(『南紀徳川史』)と述べています。

陸奥たちは念のため三浦の生死を確かめようとしましたが、裏手の西本願寺に紀州藩兵が集まってきたので、すばやくその場を引きあげました。

2階で待機していた三浦は無事でしたが、紀州藩側は死者3名、負傷者4名。新選組は死者1名、重症後に死亡1名、負傷者4名。一方の海・陸援隊側では中井が死亡、手首を斬られた者1名、ほぼ全員が負傷しました。

その後、三浦は龍馬暗殺を追及されることはありませんでした。陸奥たちも紀州藩が龍馬を暗殺した証拠はなく、間違いであったことに気づいたのかもしれません。明治になってからは三浦安と名をあらため、新政府に出仕して貴族院議員や東京府知事をつとめています。

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