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世の人はわれをなにともゆはゞいへ わがなすことはわれのみぞしる

02. 落ちこぼれだった少年時代

泣き虫龍馬

幼いころの坂本龍馬は、臆病で意気地のない子でした。いつも無口なうえ10歳を過ぎても寝小便の癖が直らなかったので、近所の人々は陰で「洟垂(愚か者)」とよんでいました。

12歳になり城下小高坂にある楠山庄助の私塾へ通うようになりますが成績はふるわず、通学途中に学友からたびたび馬鹿にされ、泣きながら家に帰ったといいます。

この性格が災いしたのか、ほどなくして龍馬は学友と喧嘩をおこし塾をやめています。堀内某という学友と口論となり、抜刀のうえ斬りつけられますが、龍馬は文庫の蓋でこれを防ぎました。その後、堀内は退塾となりましたが、龍馬の父は「龍馬また罪なきにあらじ」とし、龍馬を退塾させたと伝わります。

以後漢学を学ぶ機会はなく、後年、龍馬は「余、早くより学を廃し、今は不幸にして無学者となれり」(『阪本龍馬』)と語っています。

この多感な少年時代に、武士の基礎学問である漢学を学ばなかったことが、封建的な思想から離れ、龍馬の自由で独創的な発想をはぐくんだとも考えられています。

坂崎紫瀾 『汗血千里駒』 春陽堂、明治18年(1885年)

龍馬は十二三歳の頃までは余にその所行の沈着にして小児のごとく思えず、あたかも愚人に等く、就中夜溺の癖さえあればその友に凌ぎ侮らる〻事あれども、あえて悖逆色とてなく尋常の才ある童子が早く頭角嶄然と人目を驚かす類のなかりしは、これぞ龍馬が大器晩成の徴証と謂わんか。

弘松宣枝 『阪本龍馬』 民友社、明治29年(1896年)

幼にして、怯弱物に臆し、十四まで夜溺止まず。友に侮らる〻もあえて逆わず。所行沈着にして小児らしきところなく、かつて小高阪某家に通学す、途中屡々学友に揶揄せられ、屡々泣きながら帰る。されば固より修学の時少く、尋常の才ある童子が嶄然頭角を現わす類いなかりしは、これ彼が大器晩成の徴証と謂わんか。
十三歳の頃、学舎において痛く友人に嘲笑せられ、怫然剣を抜てこれを斬らんとし、たちまち一場の騒動を惹起してより、是より断然文事を廃し武を修めたり。後ち人に語りて曰く、余早くより学を廃し今は不幸にして無学者となれり、と。

瑞山会編 『維新土佐勤王史』 冨山房、大正元年(1912年)

そもそも龍馬の伝記において最も特色あるは、彼がいわゆる大器晩成の事実なりとす、彼の童時は物に臆して涕泣し易く、故に群児の侮蔑を受くるも、あえて怒らず、後年彼が兄権平に与えし書中にも、左の談語ありき。「どふぞ昔の鼻垂れと御笑下されまじく候」。
幸子は龍馬が十一歳の時、即ち弘化三年乙巳八月、未だ愛児の嶄然頭角を世に露わすを見るに及ばすして身まかりぬ。当時龍馬は小高坂村の楠山某家に就き、習字と四書の素読を始めしに、たまたま学友と衝突して切りかけられ、薦めに退学したり。父母は再び過ちあらんことを恐れて、他に通学なさしめざりしより、遂に文学の素養を有する期を失いたり。彼は已に十四歳を過ぐるも、時に夜溺の癖を絶たず、父といえどもその遅鈍なるに大息せしが。

千頭清臣 『坂本龍馬』 博文館、大正3年(1914年)

世の龍馬伝曰く。初め龍馬は怯懦にして暗愚なるがごとく。居常寡黙、十歳を過ぎても夜溺れ(寝小便なり、土佐の方言)の癖止まず。隣人称して洟垂(痴児の意、亦土佐の方言なり)という。十二歳の時、始めて市外小高坂楠山(あるいは志和ともいう)某の学舎に入りしも、業進まず、通学の途上屡々学友に揶揄せられ、泣きて家に帰る。されど時を経るに従い識量、ようやく群を抜き、大器晩成の称を得たりと。真か偽か、今これを断ずるに由なけれど、四五の逸事、なお片鱗を描くものなきにあらず。
堀内某という者、龍馬と共に学舎に遊ぶ。一日、龍馬と口論し、抜刀して龍馬を斬らんとするや、龍馬少も騒がず、手を伸べて文庫の蓋を取り、従容として堀内を防ぐ。諸友また堀内を抱き、龍馬を救い黒白を師に訴う。師曰く、非堀内にありと。しかして直ちに堀内を退学せしめたれば、龍馬の父、師を訪い、龍馬また罪なきにあらずと称し、請打て終に龍馬を退学せしむ。

【汗血千里駒】
坂崎紫瀾著。明治16年(1883年)から土陽新聞に掲載された坂本龍馬を主人公とする最初の小説。

【阪本龍馬】
弘松宣著。明治29年(1896年)に刊行された坂本龍馬の伝記。著者は坂本家とつながりがあり、龍馬の姉・千鶴の長女・茂の長男にあたる。

【維新土佐勤王史】
瑞山会編。大正元年(1912年)に刊行された土佐勤王党志士たちの活躍を記録した伝記。

【坂本龍馬】
千頭清臣著。大正3年(1914年)に刊行された坂本龍馬の伝記。

落ちこぼれ伝説の真相

一般に龍馬は落ちこぼれだったと伝えられています。

だが、伝記を書いた千頭清臣は、著書『坂本龍馬 第2版の増補』でこの説を否定し、当時を知る人びとの話として「坂本は決して馬鹿者にあらず。子供相当分別ありし人なり」であったと書き加えています。

千頭清臣 『坂本龍馬』 博文館、大正3年(1914年)

坂本の幼年時代は真の馬鹿にてありきと評し居る者あり。これは大なる間違いなりと聞く。よく坂本の幼年時代を知れる先輩の話によれば「坂本は決して馬鹿者にあらず。子供相当分別ありし人なり」と云う。要するに坂本がその姉に贈りし手紙の一に「どうぞ、私を昔の鼻汁垂れと思ひ下され間敷候云々」という物あり。これよりして子供時代を事実上まさしく馬鹿なりきと、誤解する人を生じたるかと察せらる。(中略)もっとも当時その附近郷の婦人連が誰れ云うとなく「龍馬さんはぼんやりだ」と謂い居りしと聞く。これあるいは実を得たる批評ならむか。所謂大器晩成とは是等の謂なるべく、坂本は断じて現代青年のごとき小才子にてはあらざりしなり。

[現代語・意訳]
坂本龍馬の幼年時代は、真の馬鹿であったと評している者がいる。これは大きな間違いであると聞く。よく坂本の幼年時代を知る先輩の話によれば、「坂本は決して馬鹿者ではない。子供なりの分別があった子だった」という。要するに坂本がその姉(乙女)に送った手紙の一節に、「どうぞ、私を昔のハナタレと思わないで下さい云々」というものがある。これによって、彼の子供時代を事実上まさしく馬鹿であったと、誤解する人が出てきたと察する。(中略)もっとも近郷の婦人たちは誰言うとなく「龍馬さんはぼんやりだ」と言っていたと聞く。これはあるいは実を得た批評ではないだろうか。いわゆる大器晩成とはこのようなことをいい、坂本は断じて現代青年の如き小才子ではない。

龍馬が落ちこぼれだったという通説が広まった原因は、彼が家族に書き送った手紙(『慶応2年12月4日付龍馬書簡』)の中に、

「一、私唯今志のびて、西洋船を取り入たり、又ハ打破れたり致し候ハ、元より諸国より同志を集め水夫を集め候へども、仕合セにハ薩州にてハ小松帯刀、西郷吉之助などが如何程やるぞ、やりて見候へなど申くれ候つれバ、甚だ当時ハ面白き事にて候。どふぞ/\昔の鼻たれと御笑い遣わされまじく候

という一文があり、龍馬が大器晩成の人であることを強調するために伝記などで誇張・脚色されたためです。


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