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世の人はわれをなにともゆはゞいへ わがなすことはわれのみぞしる

03. お仁王さま

坂本乙女の一生

坂本乙女は、天保3年(1832年)1月に郷士坂本八平と幸の三女として生まれました。本来の名は「留(とめ)」で、3人つづいた女児の誕生をこれで留めるという意で名づけられました。「とめ」に敬称の「お」をつけると「おとめ」となり、これの当て字が「乙女」になります。

安政3年(1856年)ころ、兄・権平のすすめで山内家の御典医・岡上樹庵と結婚し、安政5年(1858年)に長男・赦太郎、慶応3年(1867年)に長女・菊栄(通説では庶子)を出産しました。

菊栄は、母より受けた教育を次のように伝えており、乙女が龍馬に対し母親・師匠としてどのようにのぞんでいたか知ることができます。

宮地仁 『おばあちやんの一生 岡上菊榮伝』 岡上菊栄女史記念碑建設会、昭和25年(1950年)

しきたり
座敷を歩くにも小笠原流のすり足で、飲食等武家の作法通りにし、客膳たる高脚の本膳には古式通りの三汁五采を供へ、自分の膳にすら魚は尾頭付きの鯛を常としたが、而も魚肉は只表面を食べるばかり、菊栄等が、裏の片身に箸を付くのをみては、武士の子にあるまじき尾籠の振舞とて叱責した。又来客に出す菓子は紅白のニ種を、夫れ/\別の高つきに盛った。そして之を食する作法として、先ず白菓子を先きに喰べ、次ぎに赤菓子を喰べる、そして如何なる場合にも双方三個以上を食するは違法なりとて、之を厳禁した。

学習
かの女(菊栄)が6歳の春を迎えて、寺子屋入りをして習字や「孝経」の素読を受けるやうになると、自宅では乙女からは別に「小学」「大学」の講義を授けた。武術は小太刀、懐剣、手裏剣の外、柔道、騎馬、水泳まで習った。

水泳練習
まづかの女を丸裸にして、その胴体を荒縄で縛り、縄尻を物干竿の先きへ括りつける。まるで竹竿へくくりつけた亀の子同然だ。かうしておいてかの女の体を水につける。かうやられたら何が何でも、手足をバタ/\やって体を浮かすようにせねば溺れるから、かの女も自然に泳ぎの要領を覚える。かの女の泳いでゐるうちは、その儘にしておくが、かの女が溺れかけると竹竿を手許に引き寄せる。

肝試し
その一例を云ふと、かの女の7歳のとき懐剣を枕もとに置いて寝たが、真夜中に何者かに揺り起された。四辺を見ると其所には黒頭巾の大男が突立っていた。かの女はビックリして叫ばうとしたが、母の日頃の教訓はこゝぞと思って懐剣の鞘を払って、寄らば突かんと身構えた時、大男は覆面を取って、母乙女の姿となり、ただ一語「それでよろしい」と云って立去った。

女子教育
一体男のする事で女に出来ぬものは何一つない。それが女に出来ないのは、女は男に叶はぬものとして、昔からそれをやらせなかったからだ。いづれ男女同様の仕事をする時がくる。其時女は家庭で男に従ふべきも、社会へ出て対等の場合は婦人も男子と競争せねばならぬ。今私がお前に教へるのは、其時の為じゃ。

しかしながら、乙女の結婚生活は不幸なものでした。姑とは折り合いが悪く、夫は癇癪持ちで気に喰わぬことがあると、彼女の髪をつかんで殴りつけたといいます。

龍馬にあてた手紙の中に、

「尼になり山の奥にでも入りたい」(「先日下され候御文の内にぼふずになり、山のをくへでもはいりたしとの事聞へ」『文久3年6月29日付龍馬書簡』)

「病気がよくなれば土佐を出て他国へ出かけたい」(「御病気がよくなりたれバ、おまへさんもたこくに出かけ候御つもりのよし」『慶応3年6月24日付龍馬書簡』)

と愚痴をこぼしていることからも、岡上家とは不和であったことがわかります。

龍馬は乙女をいさめ、「お前さまも出家するには、まだ若すぎるかと思うよ」「私が土佐に帰るまでは、死んでも待っていて下さい」と旅出を思いとどまるよう説得しています。

だが慶応3年(1867年)11月ころ、夫と女中・公文婦喜の間に子供(菊栄)が生まれたことから、ついに乙女は離縁を申し出て実家に帰ったといいます。

その後、慶応4年(1868年)3月に身寄りがなく頼ってきた龍馬の妻お龍(楢崎龍)と同居をはじめましたが、わずか数ヶ月で彼女を追い出しています。勝ち気な2人の性格が合わなかったこと、お龍の素行が悪かったことに原因があったといわれています。

乙女とお龍の関係については、明治32年(1899年)11月の土陽新聞に掲載されたお龍の回想録『千里駒後日譚』では、龍馬が「しんのあねのよふ二」したっていると話した通り、乙女との仲は良かったと語っています。

川田雪山 『千里駒後日譚』 第4回土陽新聞、明治32年(1899年)

姉さんはお仁王と云ふ綽名があつて元気な人でしたが私には親切にしてくれました。(龍馬伝には「お乙女怒って彼女を離婚す」とあれど是れ亦誤りなり、お龍氏が龍馬に死別れて以来の経歴は予委しく之を聴きたれど龍馬の事に関係なければ今姑らく略しぬ。されど這の女丈夫が三十年間如何にして日月を過せしかは諸君の知らんと欲する所なるべし、故に予は他日を期し端を改めて叙述する所あらんと欲す。請ふ諒せよ)私が土佐を出る時も一処に近所へ暇乞ひに行つたり、船迄見送つて呉れたのはお乙女姉さんでした。

しかしその一方で、安岡秀峰(海援隊士の安岡金馬三男)が、晩年のお龍から聞いた話を書きまとめた『反魂香』『阪本龍馬の未亡人』では次のようにあり、坂本家とは非常に険悪であったと語っています。

安岡秀峰 『反魂香』 文庫、明治32年(1899年)

所が義兄及嫂との仲が悪いのです。なぜかといふと、龍馬の兄といふのが家はあまり富豊ではありませむから、内々龍馬へ下る褒賞金を当にして居たのですが、龍馬には子はなし金は無論お良より外に下りませむから、お良が居てはあてが外れる、と言つて殺す訳にもゆきませむから、只お良の不身持をする様に仕向て居たのです。
既に坂本は死むで仕舞ふし、海援隊は瓦解する、お良を養ふ者はさしずめ兄より外にありませむから、夫婦して苛めてやれば、きっと国を飛び出すに違ひない、その時はお良は不身持故、龍馬にかはり兄が離縁すると言へば赤の他人、褒賞金は此方の物といふ心で始終喧嘩ばかりして居たのです
之れが普通の女なら、苛められても恋々と国に居るでしやうが、元来きかぬ気のお良ですから、何だ金が欲しいばかりに、自分を夫婦して苛めやがる、妾あ金なぞはいらない、そんな水臭い兄の家に誰が居るものか、追い出されない内に、此方から追ん出てやろうといふ量見で、明治三年に家を飛び出して、京都東山へ家を借り、仏三昧に日を送つて居ましたが、坐して喰へば山も空しで、蓄はつきて仕舞ひ、遂には糊口に苦む様になりました。

安岡秀峰 『阪本龍馬の未亡人』 実話雑誌、昭和6年(1931年)

茲で少しくお良さんの性格を書いて置かう。お良さんは当時の婦人気質から言うと、御転婆な、京女には似合はない、大酒呑のおしやべりであつた。俗に言ふ侠の方で、随分人を食つた女であつたらしい。
坂本はぞつこんお良さんに惚れて居たが、坂本を首領と仰ぐ他の同志達は、お良さんを嫌つて居た。第一に生意気な女である、坂本を笠に着て、兎角他の同志を下風に見たがる、かう言つた性格が、坂本の死後、お良さんを孤立させた。坂本の姉のおとめは、誰よりもお良さんが嫌ひであつた。だから、坂本の家は、甥の高松太郎が相続してお良さんは坂本家から離縁された。と言つても其当時、戸籍は無かつたので、離縁に就いての面倒な手続きは要らなかつたのだ。

ふたりの仲については正反対の記録が残されていますが、おそらく「険悪」だったという『反魂香』の内容のほうが事実と考えらます。ことの真偽は別として、龍馬の死後お龍は困窮のなか(取材時も貧乏長屋で酒びたり)にあり、自分を見捨てた坂本家・海援隊隊士たちを恨んでいました。

仲が良いとした『千里駒後日譚』が掲載された土陽新聞の読者は高知人であり、龍馬の家族を悪しざまにいう記事は書くことはできなかったと考えられます。

晩年の乙女は、坂本家の養子・坂本直寛(姉千鶴の次男)に養われていましたが、明治12年(1879年)、この年土佐はコレラが流行し、人々は感染をおそれて野菜を食べませんでした。乙女もこれが原因で壊血病にかかり、8月に急死しました。享年48歳。

【千里駒後日譚】
川田雪山聞書。明治32年(1899年)11月から6回にわたり「土陽新聞」に連載された楢崎龍(お龍)の回想録。

【反魂香】
安岡秀峰著。明治32年(1899年)2月から6回にわり文学雑誌「文庫」に掲載された楢崎龍(お龍)の回想録。

【阪本龍馬の未亡人】
安岡秀峰著。先に発表した「反魂香」をもとにして、昭和6年(1931年)、実話雑誌に掲載された楢崎龍(お龍)の回想録。

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