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坂本龍馬暗殺事件概要

龍馬、33回目の誕生日

慶応3年(1867年)11月15日、京都河原町の近江屋で、中岡慎太郎とともに坂本龍馬は暗殺された。事件の夜、前日から風邪気味だった龍馬は用達しに不便を覚え、潜伏していた土蔵から母屋の2階に移っていたところを襲われたのである。龍馬はほぼ即死、従僕の山田藤吉は16日、中岡は17日に死亡した。この日は、彼の33回目の誕生日でもあった。

龍馬が京都に入ったのは、10月9日のことである。はじめ材木商の酢屋嘉兵衛方に投宿し(『10月14日付岡内俊太郎書簡』)、大政奉還に奔走していたが、浪士の巨魁である彼の動静には幕吏の目が光っていた。そこで龍馬は、身辺に危険が迫っていることから、河原町の土佐藩邸に入ることを希望した。

ところが、土佐藩側はこれを拒んだ。龍馬はこの年の4月に脱藩罪を許されたとはいえ、かつては国法を犯した者である。これに藩内の保守派が反発し、彼を受け入れる雰囲気はなかったのだった(『10月18日付望月清平宛龍馬書簡』)。こうした事情から、藩邸に近い土佐藩御用達の醤油商の近江屋を定宿としていた(「10月13日近江屋に移る」『岡内の書簡抄』)。

事件当日、龍馬は近江屋の3軒南の大和屋に下宿する土佐藩参政福岡藤次のところを、午後3時と5時に訪ねたが不在であった。福岡の愛妾おかよは、このとき福岡が帰るまで近江屋へ遊びにおいでと誘われたが、福岡の従者和田が引き止めたのでこれを断り、その夜の危難をまぬがれることができたと語っている(坂本中岡銅像建設会編 「福岡子爵未亡人より実話を拝聴」『雋傑坂本龍馬』 坂本中岡銅像建設会、大正15年)。

近江屋に戻ると、夕方午後6時頃に土佐の中岡慎太郎が訪ねてきた。中岡も同じく4月に脱藩罪が許され、京都白川村で浪士を集めた陸援隊を組織して、その隊長になっていた。訪問は、前年9月に起きた「三条制札事件」で、新選組に捕らえられていた土佐藩士宮川助五郎の身柄引き取りを論議するためだという。

龍馬は2階奥八畳の間で北側の床の間を背にし、火鉢を間にはさみ、南を向いて中岡と対座して話を聞いた。行灯は中岡の右手にともっていた。2つ部屋をおいた表八畳の間では、従僕の藤吉が内職の楊子削りをやっていた。

『宮地彦三郎真雄略伝』(宮地美彦編、大正10年)によれば、海援隊士の宮地彦三郎が、大坂から伏見を経て帰京し下宿に行く前に近江屋に立ち寄っている。龍馬は2階から大声で使命を終えた宮地をねぎらい、「2階に上がって来ぬか」と誘った。中岡も「彦三郎、上がれや」と誘ったが、「帰途なので、下宿に戻って旅装を解き、改めて御伺いします」と階下より挨拶して帰宿した。だが、帰着して間もなく同志より、龍馬・中岡遭難の急報に接したとある。

しばらくして菊屋峰吉が近江屋にやって来て、ついで岡本健三郎が訪ねてきた。峰吉は、土佐藩邸に出入りしていた書店菊屋の息子で、このときは中岡の使いで薩摩屋に手紙を届け、その返事を持ってきたのだった。岡本は下目付をつとめる藩の同志で、今年10月に龍馬の随員として越前福井へ同行し、三岡八郎(由利公正)との会談にも同席していた。

彼らは雑談をしていたが、小一時間ほどして龍馬が峰吉に「腹が減った。軍鶏を買って来てくれ」と頼んだ。岡本は誘われたが用事があるとして、峰吉と連れ立って近江屋を出た。四条通りで2人は別れ、峰吉は四条小橋の鳥新まで行き、用事をすませて近江屋に引き返したのは、午後9時過ぎだった。
その間に、惨劇は起こった。

数分間の惨劇

刺客の一団が近江屋に斬り込んだのは、峰吉たちの出立から間もなくのことだった。

表で来客を告げる声があり、藤吉が応対に出ると、男が1人立っていた。男は名刺を差し出し、「松代藩の者だが、才谷先生御在宿ならば、お目にかかりたい」と告げた。

藤吉は名刺を受け取ると、2階の龍馬に届けるため、階段を上がっていった。その隙に3人の刺客が侵入し、藤吉を尾行した刺客の1人が、無言のまま抜き打ちに斬りつけた。藤吉は抵抗しようとしたが、さらに背後から数太刀を浴びせられ、その場に倒れた。

大きな物音を耳にした龍馬は、藤吉がふざけていると思い、「ほたえな!」と大喝した。その瞬間、2人の刺客が、疾風の如く奥八畳の間に斬り込んできた。1人は、「こなくそ!」と叫びながら中岡の後頭部を斬撃した。もう1人は、龍馬の前額部を横に払った。

とっさに龍馬は、後ろの床の間に置いていた佩刀(陸奥吉行・長二尺二寸)を取ろうと身をひねったが、さらに右の肩先から左の背骨にかけて大袈裟に斬られた。

それでも刀を掴んで立ち上がったが、刺客の三の太刀が襲い、刀を抜く暇なく、鞘のままかろうじて受け止めた。だが、敵の斬撃は凄まじく、鞘越し3寸程刀身を斜めに削り、その余勢をもって龍馬の前額部を鉢巻なりに深く横に払った。

脳漿が吹き出すほどの重傷を受けた龍馬は、「石川(中岡慎太郎の変名)、刀はないか、刀はないか」と叫びながら、その場に崩れた。

中岡も佩刀を屏風の後ろに置いていたので、それを取る間もなく、短刀を取ったが抜く隙もなく、鞘のまま闘った。だが、初太刀の深手で思うように動けず、左右の手と両足を斬られて気絶した。

刺客は念のため、二太刀ほど中岡の臀部を骨に達するまで深く斬りつけ、その死を確かめてから、「もうよい、もうよい」と言って立ち去った。中岡はこの激痛で蘇生したが、死を装ってやり過ごした。

しばらくして、龍馬が正気を取り戻した。「残念、残念」と、刀を抜いて行灯の火に照らし、頭部の傷を映して確認する。さらに中岡の方をかえりみて、「慎太、慎太、傷はどうだ。手は利くか」と尋ねた。中岡は、「利く」と答えた。

龍馬は次の六畳間へはって進み、階段口から家人に医者を求めたが、もはやその声に力はなかった。そして、かすかな声で、「おれは脳をやられた。もういかん」と言い、うつ伏せたまま絶命した。

中岡は痛みに耐えながら中敷居から裏の物干しにはい出て、家人を呼んだが答えがなく、さらに屋根伝いに北隣の井筒屋嘉兵衛方の屋上まで進んだが、そこで力尽き動けなくなった。

残された証言

近江屋では、主人新助は階下の奥の間に妻子といたが、2階の騒動は龍馬の身に異変が起きたと思い、土佐藩邸に告げようと表へ飛び出した。ところが、刺客の仲間が門口に立番していたので、いったん引き返して妻子を物置に隠した後、裏手から裏寺町通りに抜け蛸薬師の小路より土佐藩邸に急を告げた。

知らせを受けた藩邸からは、下横目をつとめる島田庄作が一番最初に駆けつけた。島田は近江屋の表に立番がいないので抜刀して、屋内に気を配り刺客を待ち構えた。

そこへ、峰吉が帰ってきた。近江屋の表戸が少し開いているので不思議に思い中をのぞくと、刀を抜いた男が仁王立ちしていた。峰吉は驚き離れて様子をうかがっていたが、気づいた島田がそばに来て、「おい、お前は峰吉じゃないか。何用があってここへ来た。実は今、坂本と中岡がやられた。今にも賊が降りてきたら、一刀のもとに殺してやる」と語った。

事情を聞かされた峰吉は半信半疑で中に入り、勝手知ったる台所から裏口に出ると、物置に人の気配がした。物置の戸を開けると、井口新右衛門夫婦が隠れていて、ガタガタとふるえながら、「峰吉さん、悪者が入って2階は大騒ぎになっている」と語った。

峰吉は子供心に恐ろしい有様を見たくなり、台所に戻り2階へ上がろうとしたが、上から血潮がポトポトと垂れていることに気づいた。2階の上口には藤吉が横倒れに苦しんでおり、峰吉は大声で助けを求め、すぐに島田と近江屋の家人が上がってきた。

峰吉は気を取り直して周囲を確認し、血の海の中に横たわる龍馬、隣家の屋根から助けを求める中岡を発見した。峰吉が座敷に移すと中岡は息を吹き返し、この始末を白川の陸援隊本部に伝えるよう命じた(吉田喜太郎 「菊屋峰吉談話」『維新史蹟図説』 東山書房、大正13年)。

龍馬と中岡に手当が加えられたが、龍馬は眉間を深く斬られて脳漿が飛び出し、まだ体温が残っていたが、すでに事切れていた。中岡は数十ヶ所を斬られる重傷を負いながら、意識はしっかりしていた。

こうしている間に土佐藩邸から曽和慎八郎が、大森から谷干城と毛利恭助が、近江屋に駆けつけた。さらに峰吉の注進により、陸援隊から留守居の田中顕助が、薩摩の吉井幸輔を伴って駆けつけ、遅れて陸援隊士本川安太郎、香川敬三も集まった。

中岡は痛みに耐えながらも刺客の乱入の模様を語り、駆けつけた同志に向かい、次の言葉を伝えた。

「因循姑息と罵りし幕府党中にも、這般の挙をなすものあり、諸君決して等閑なる勿れ」(秋月鏡川 『後藤象二郎』 興雲閣、明治31年)

「天下の大事は偏に岩倉公の之を負荷せられんことを願ふのみ、子之を岩倉公に告げよ」(多田好問編 『岩倉公実記』 皇后宮職、明治39年)

「誠に遺憾千万であるが、併し此通りである。速くやらなければ君方もやられるぞ」(島内登志衛編 「明治39年谷干城講演」『谷干城遺稿』 靖献社、明治45年)

「なかなか実にどうも鋭いやり方で自分等も随分従来油断はせぬが、何しろ非常な所謂武辺場数の奴に相違ない。此くらい自分等二人居つて不覚を取ることはせぬ筈だが、どうする間もない。たつたコナクソと言ふ一言でやられた」(島内登志衛編 「明治39年谷干城講演」『谷干城遺稿』 靖献社、明治45年)

「手許に刀を置かざりし故に、不覚を取りき、諸君今後注意せよ」(瑞山会編 『維新土佐勤王史』 冨山房、大正元年)

そして、「自分もこれ位やられたから、とても助かるまい」と言ったが、そばにいた田中が、「長州の井上聞多はアレ程斬られたのに助かったから、先生も気を確かにお持ちなされ」と励ました。

土佐藩から派遣された藩医川村盈進の治療により、中岡は一時は回復して焼き飯などを食した。しかし、後頭部に受けた深い傷が致命傷になり、次第に吐き気をもよおし、17日夕刻に絶命。従僕の藤吉も6ヶ所の傷を受けており、16日に絶命した。

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