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坂本龍馬暗殺事件概要

坂本龍馬暗殺事件概要

慶応3年(1867年)11月15日、京都河原町の近江屋で、中岡慎太郎とともに坂本龍馬は暗殺された。その夜、前日から風邪気味だった龍馬は、用達しに不便を覚えて普段寝起きしていた土蔵から母屋の2階に移っていた。この日は、彼の33回目の誕生日でもあった。

龍馬が京都に入ったのは、10月9日のことである。はじめ材木商の酢屋嘉兵衛方に投宿し、大政奉還に奔走していたが、浪士の巨魁である彼の動静には、幕吏の目が光っていた。そこで龍馬は、身辺に危険が迫っていることから、河原町の土佐藩邸に入ることを希望した。

ところが、土佐藩側はこれを拒んだ。龍馬はこの年の4月に脱藩罪を許されたとはいえ、かつては国法を犯した者である。これに藩内の保守派が反発し、彼を受け入れる雰囲気はなかったのである。こうした事情から、土佐藩御用達の醤油屋で藩邸に近い近江屋を宿としていた。

11月15日の夕方、陸援隊長の中岡慎太郎が、近江屋を訪ねてきた。前年9月に起きた「三条制札事件」で、新選組に捕らえられていた元土佐藩士の宮川助五郎の身柄引き取りを相談するためだという。

龍馬は2階奥の8畳間で北側の床の間を背にし、火鉢をはさんで南面して中岡と対座し、話を聞いた。2つ部屋を隔てた表の間では、従僕の藤吉が内職をしていた。

少しして土佐藩士岡本健三郎が、龍馬を訪ねてくる。ほとんど同じころ、今度は菊屋峰吉がやって来た。峰吉は土佐藩邸に出入りしていた書店菊屋の息子で、このときは中岡の使いで薩摩屋に手紙を届け、その返事を持ってきたのだった。

彼らはしばらくの間話し込んでいたが、龍馬は腹が減ってきたので、峰吉に軍鶏を買ってくるよう頼んだ。岡本は誘われたが用事があるとして、峰吉とともに近江屋を出た。四条通りで2人は別れ、峰吉は四条小路の鳥新で軍鶏を注文し、四半時(30分)後に戻ってきた。

この間に、事件は起きた。

刺客が近江屋に侵入したのは、2人の出立から間もなくのことだった。

表で来客を告げる声があり、藤吉が応対に出ると、男が1人立っていた。男は名刺を差し出し、「拙者は十津川の者だが、坂本先生御在宿ならば御意を得たい」と告げた。

藤吉は名刺を受け取り、2階の龍馬のもとへ届けるため、階段を上がっていった。その隙に3人の刺客が侵入し、藤吉を尾行した刺客の1人が、無言のまま抜き打ちに斬りつけた。藤吉は抵抗しようとしたが、さらに背後から数太刀を浴びせられ、その場に倒れた。

この騒ぎを聞いた龍馬は、藤吉がふざけていると思い、「ほたえな!」と大喝した。この声で刺客は標的の居場所を確信し、2人の刺客が、疾風の如く奥の8畳間に斬り込んだ。1人は、「こなくそ!」と叫びながら中岡の後頭部を斬撃した。もう1人は、龍馬の前額部を横に払った。

とっさに龍馬は、後ろの床の間に置いていた佩刀(陸奥吉行)を取ろうと身をひねったが、さらに右の肩先から左の背骨にかけて大袈裟に斬られた。

それでも刀を掴んで立ち上がろうとしたが、刺客の三の太刀が襲い、鞘のままかろうじて受け止めた。だが、敵の斬撃は凄まじく、鞘越し3寸程龍馬の刀身を斜めに削り、その余勢をもって龍馬の前額部を深く薙ぎ払った。

脳漿が吹き出すほどの重傷を受けた龍馬は、「石川、刀はないか、刀はないか」と叫びながら、その場に崩れた。

中岡も刀を屏風の後に置いたので、それを取る間もなく短刀を取ったが、これを抜く隙もなく、鞘のまま闘った。だが、敵は巧みに寄せつけず、中岡は左右の手と両足とを斬られ、気絶した。

刺客は念のため、2度ほど中岡の腰を背骨に達するまで深く斬りつけ、その死を確かめてから、「もうよい、もうよい」と言って立ち去った。中岡は、この二太刀受けた痛みで蘇生したが、死を装ってやり過ごした。

しばらくして、龍馬が正気を取り戻した。刀を抜いて行灯の火に照らし、頭部の傷を確認する。さらに中岡の方をかえりみて、「石川、手は利くか」と尋ねた。中岡は、「利く」と答えた。

龍馬は次の6畳間へはって進み、階段口から家人に医者を求めたが、その声に力はなかった。そして、かすかな声で、「おれは脳をやられた。もういかん」と言い、うつぶせたまま絶命した。

中岡も苦痛に耐えながら、中敷居から裏の物干し台へはい出て、家人を呼んだが通じなかった。さらに屋根伝いに北隣の井筒屋嘉兵衛方の屋上まで進んだが、そこで力尽き動けなくなった。

近江屋の主人新助は階下の奥の間に妻子といたが、2階の騒動に驚き表へ出ると、そこには抜刀した男が見張りをしていた。異変が起きたことを知りすぐに引き返し、妻子とともに物置に隠れていた。やがて人の気配が消え、新助は裏口から裏寺町通りに抜けて、蛸薬師の小路より土佐藩邸に急を告げた。

知らせを受けた藩邸からは、下横目をつとめる島田庄作が第1に近江屋へ駆けつけた。島田は表に見張りがいないので屋内に気を配り、抜刀して敵を待ち構えていた。

そこへ、峰吉が帰ってきた。仁王立ちする島田の格好に驚いていると、「おい、お前は峰吉じゃないか。何用があってここへ来た。実は今、坂本と中岡がやられた。今にも賊が降りてきたら、一刀のもとに殺してやる」と事情を聞かされた。

だが、先刻まで何事もなく、峰吉は半信半疑でツカツカと中へ入った。勝手知ったる台所から裏口に出ると、物置の方から人の気配がした。物置の戸を開けると、そこには近江屋新助夫婦が隠れていて、ガタガタと震えながら、「峰吉さん、悪者が入って、2階は大騒ぎになっている」と語った。

峰吉は、子供心に恐ろしい有様を見たくなり、台所に戻り2階へ上がった。上がり口には背を斬られた藤吉が横倒れに苦しんでおり、峰吉が大声で助けを呼ぶと、早速島田がやって来た。

峰吉は気を取り直し、四方を確認した。奥の間には龍馬が倒れており、隣の屋根には苦しい息の中から助けを求める中岡を発見した。峰吉は中岡を救出し、8畳の座敷へと運び出した。

その間に、土佐藩邸から曽和慎八郎、谷干城、毛利恭助が相次いで駆けつけた。峰吉は中岡の依頼を受け、白河の陸援隊本部へ向かい、この事件を知らせた。居合わせた田中顕助は、途中薩摩藩邸に立ち寄り、吉井幸輔を伴って近江屋へ向かった。その後、香川敬三、本川安太郎も集まってきた。

中岡は重傷ながらも意識はしっかりしており、馳せ参じた同志に向かい、次の様に語った。

「誠に遺憾千万であるが、併し此通りである。速くやらなければ君方もやられるぞ」(『谷干城講演「坂本中岡暗殺事件」』)

「なかなか実にどうも鋭いやり方で自分等も随分従来油断はせぬが、何しろ非常な所謂武辺場数の奴に相違ない。此くらい自分等二人居つて不覚を取ることはせぬ筈だが、どうする間もない。たつたコナクソと言ふ一言でやられた」(『谷干城講演「坂本中岡暗殺事件」』)

「どうも四国人であらふ」(『谷干城講演「坂本中岡暗殺事件」』)

「因循姑息と罵りし幕府党中にも、這般の挙をなすものあり、諸君決して等閑勿れ」(秋月鏡川著 『後藤象二郎』)

「手許に刀を置かざりし故に、不覚を取りき、諸君今後注意せよ」(『維新土佐勤王史』 瑞山会著)

そして、「僕もこれ位やられたから、とても助かるまい」と中岡は言ったが、そばにいた田中顕助は、「長州の井上聞多は、あれ程斬られても生きたり、先生も意を強くせよ」と励ました。中岡は一時は回復して、焼き飯などを食した。

だが、後頭部に受けた深い傷が致命傷になり、次第に吐き気をもよおし、遂に17日夕刻に絶命した。享年30歳。従僕の藤吉も6ヶ所の傷を受けており、16日に絶命した。享年25歳。

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