事件現場に残された証拠
遺留品
『鞘』刺客が現場の近江屋に残したものと思われる刀の鞘1本。
- 尾張藩の記録に「刀身壱本」、鳥取藩の記録に「刀ノ鞘壱本黒塗」とある。
- 元新選組隊士である篠原泰之進、内海次郎、阿部十郎が、十番隊組長原田左之助の鞘であると証言している。
『下駄』刺客が現場の近江屋に残したものと思われる下駄2足
- 尾張藩の記録に「中村屋」と「……堂」との焼き印の下駄2足、鳥取藩の記録に「中村屋」と「カイ々堂」との焼き印の下駄2足が残されていたとある。
- 『鳥取藩筆記』は、「商売柄客の出入りが多く、誰が履いていたものかはわからないが、恐らくは近江屋にかけつけた土佐藩士のものではないだろうか」と推測している。(事件当日、天気は雨)
- 大正15年(1926年)に刊行された岩崎鏡川著の『坂本龍馬関係文書』には、当時新選組隊士が出入りしていた瓢(ひざご)亭の焼き印のある下駄が残されていたとある。
同時代の記録
『尾張藩雑記 慶応三年ノ四』近江屋新助方ニ止宿土藩浪士頭齋谷梅太郎右方エ九人斗帯刀人這入リ梅太郎切害ニ及ビ其節残居候品、刀身壱本ト下駄弐足、右下駄焼印有之、一足ハ二軒茶屋中村屋印、一足ハ下河原……堂印有之段々承様候処、祇園町永楽屋へ遊興ニ罷越候者三人ノ内、一人ハ土佐藩、二人は佐土原藩ノ良申立居候へ共、全ハ当時白川ニ旅宿罷在候坂本龍馬ノ徒党ノ者ノ良相聞候へ共、聢ト佐様ハ未相分、猶探索ノ上巨細申上ベク候。以上。十一月廿日。
『鳥取藩慶応丁卯筆記』慶応三年十一月廿三日 鳥取藩記録 坂本龍馬、中岡慎太郎遭害ノ件筆記廿三
一、十一月十六日夜五ツ時分、河原町通四条上ル弐丁目西側土州屋敷前但シ同屋敷ノ横稲荷社ノ図子ヨリ行当リノ家醤油商近江屋新助方ニ(中略)何者共不分侍ヒ八九人計乱入、矢庭ニ二階へ抜刀ヲ振テ罷上リ三人エ切テ懸リ(中略)死骸夫々取片付候処、跡ニ残シ置候品ハ刀ノ鞘壱本黒塗、下駄弐足印付、右壱足ハ中村屋、今一足ハ河原町カイ々堂(中略)恐ラクハ右切害人ハ宮川ノ徒哉モ難計趣ニモ仄ニ相聞候由堅ク口外ヲ憚リ申候事。
『寺村左膳道成日記』同年十一月十五日事件のあった当日、土佐藩士寺村左膳は芝居見物の帰り道に坂本龍馬・中岡慎太郎襲撃の報を受けた。
朝七ツ時より寺田同道外五人斗召連四条之芝居見物ニ参る。自分芝居見物始而也。(中略)随分面白し夜五時ニ済、近喜迄帰る処留守より家来あわてたる様ニ而注進有、子細ハ坂本良馬当時変名才谷楳太郎ならびに石川清之助今夜五比両人四条河原町之下宿ニ罷在候処、三四人之者参リ才谷ニ対面致度とて名札差出候ニ付、下男之者受取二階へ上リ候処、右之三人あとより付したひ二階へ上リ矢庭ニ抜刀ニ而才谷石川両人へ切かけ候処、不意之事故両人とも抜合候間も無之、其儘倒候由、下男も共ニ切られたり、賊は散々ニ逃去候よし、才谷即死セリ、石川ハ少々息は通ひ候ニ付、療養ニ取掛りたりと云、多分新撰組等之業なるべしとの報知也。
右承る否御目附方よりハ夫々手分し而探索させたるよし也。
然るに此者両人とも近比之時勢ニ付、寛大之意を以黙許せしと雖ども、元御国脱走者之事故未御国之命令を以、両人とも復籍の事ニも相成ず、其儘ニ致し有し故表向不関係之事。
今夜五ツ時(午後8時)、坂本龍馬(当時の変名は才谷梅太郎)と石川清之助(中岡慎太郎)が滞在する四条河原町の下宿に3、4の者が訪れ、才谷に面会を申し入れて名札を下男(藤吉)に差し出した。2階へ取り次ぐ下男の後に付き従った3人が、突然抜刀して才谷と石川に襲いかかった。不意のことで両人は刀を抜き合う間もなく斬られ、そのまま倒れた。下男も斬られ、賊はちりぢに逃げ去った。才谷は即死し、石川は少々息があり治療を受けている。多分新選組の仕業であるとの知らせである。
