見廻組今井信郎説 上
見廻組今井信郎説とは
坂本龍馬・中岡慎太郎暗殺の犯人として現在最も有力な説であり、実行犯は「京都見廻組」、黒幕は「会津藩主松平容保」である。
刺客の1人である今井信郎が五稜郭で降伏した後、坂本龍馬殺害の犯人として明治3年(1870年)2月に取調べを受け、9月禁錮刑に処せられている。その際の自供によると、「自分は確かに現場にいたが見張り役であり、直接手は下さなかった」とあり、判決もそれを認めている。
今井信郎の自供
明治2年(1869年)11月9日、旧幕府軍衛鉾隊副隊長の今井信郎は、函館戦争で新政府軍に敗れ、降伏人として兵部省軍務局糺問所へと送られた。そこで訊問追求された際、坂本龍馬殺害を自白したため、翌3年2月22日に身柄を刑部省伝馬町牢に移され、取調べを受けた。
『兵部省・刑部省口書』(『坂本龍馬関係文書』(岩崎鏡川著、大正15年東京大学出版会)箱館降伏人兵部省口書(明治三年二月)
今井信郎口書
午ノ三十歳
(前略)
坂本龍馬を殺害した件は、見廻組与頭佐々木唯三郎の差図であり、龍馬は謀反を企て、前年召し捕りに向かったところを取り逃がしていた(寺田屋遭難)ので、この度はきっと召し捕るため万一手に余るときは討ち果たしても構わないとの命令であった。私は上京して早々の事だったので、詳しい内容は知らなかった。
佐々木唯三郎、渡辺吉太郎、高橋安次郞、桂隼之助、土肥仲蔵、桜井大三郎と私の7人で、河原町三条下ル龍馬の旅宿(近江屋)へ昼頃行ったがが、同人は留守であったので、その夜五ツ頃(午後8時)に再び行ったところ滞在していた。
そこで佐々木唯三郎を先頭に、後から直ぐに桂隼之助、渡辺吉太郎、高橋安次郞が2階へ上がり、土肥仲蔵、桜井大三郎と私は下に控えていたので、2階の様子は知らない。
彼らが2階から下り聞くところによれば、「召し捕ろうとしたが、3人居合わせたのでやむを得なく討ち果たした」ということで、直ちに立ち退くことになり、一同はその場を立ち去った。
二条通りで高橋と渡辺の2人は見廻組屋敷に帰り、佐々木は帰り、その他私たちはそれぞれの旅宿に帰宅した。(下略)
午二月
刑部省口書
箱館降伏人
元京都見廻組
今井信郎 口上
午三拾歳
(前略)慶応3年5月22日に京都見廻組を申しつけられ、70俵6人扶持の俸禄を請けたが、旅費の支給に遅延があったので同年10月上旬頃に上京した。
その頃、在京の見廻り役岩田織部は御用に就き江戸へ戻り、後任の小笠原弥八郎が上京していた。
私は周旋方をつとめていたので、もっぱら諸藩士らとの交際で暇は無く、同僚の姓名もいちいち覚えてはいなかった。
10月中頃、与頭の佐々木唯三郎の旅宿へ呼び出され、私と見廻組渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼之助、土肥仲蔵、桜井大三郎の6人が集まった。
唯三郎が申し聞くところ、土佐藩の坂本龍馬に不審の儀があり、前年伏見で捕縛された時、短筒を放ち伏見奉行所の同心2名打ち倒し、その機に乗じて逃亡していた。
現在、河原町三条下ル土佐藩邸の向かいの町家(近江屋)に滞在しており、今回は取り逃がさず捕縛するため、万一手に余る場合は討ち取っても構わないとの御差図があり、一同は連れ立って出発した。
もっとも龍馬の旅宿は2階にあり、同宿の者もあるようなので、渡辺吉太郎、高橋安次郞、桂隼之助が2階へ踏み込み、私と土肥仲蔵、桜井大三郎は台所を見張り、救援の者が来ればこれを防ぐと手筈を定めた。
同日昼八ツ時(午後2時)頃、一同は龍馬の旅宿に向かったが、桂隼之助が唯三郎から申しつけられ、一足先に偽言をもって在否を探ったところ留守中とのことで、一同は東山周辺で時間を潰し、同夜五ツ時(午後8時)頃再び訪れた。
佐々木唯三郎が先に入り、松代藩と偽名を書いた手札を差し出し、「坂本先生に面会を願いたい」と申し入れた。取次の者が2階へ上がったので、後から引き続いて、かねての手筈の通り、渡辺吉太郎、高橋安次郞、桂隼之助がつけ、佐々木唯三郎は2階の上り口、私と土肥仲蔵、桜井大三郎は台所周辺を見張っていた。
奥の間にいた家人が騒ぎ立ったので、それを取り鎮めて階段へ戻ると、吉太郎、安次郎、隼之助が下りてきて、「龍馬の外に合宿している者がいたが、手に余ったので、龍馬を討ち取り、外2名も斬りつけ傷を負わせたが、生死の程はわからない」と報告した。
「それならば仕方無い」と、引き揚げを唯三郎が命じたので、それぞれ旅宿へと帰った。
その後の始末は一切存じない。もちろん龍馬の件に旧幕府がどのような考えがあったのかは、前述の通り新人であったので知らない。旧幕府では、閣老などの重職者からの命令を御差図と呼んでいたが、その辺からの指示であったのか、または見廻組は京都守護職に属していたので、松平肥後守からの指示であったのかはわからない。その後は宿を引き払い、二条城へ移った。(下略)
今井信郎への判決
上記の供述により、今井信郎は、明治3年(1870年)9月20日、宮崎小判事の達しによって禁錮刑を申しつけられた。これで坂本龍馬暗殺事件は、法的には解決となった。この裁判記録は、司法省記録「断刑伺書」明治三年の部に収められたが、一般にはほとんど知られることはなかった。
『兵部省・刑部省口書』(『坂本龍馬関係文書』(岩崎鏡川著、大正15年東京大学出版会より)申 渡
庚午九月二十日 静岡藩
宮崎少判事達 元京師見廻組
小嶋中解部
岡部少判事 扱 今井信郎
其方儀、京都見廻組在勤中、与頭佐々木唯三郎差図ヲ受、同組のものと共二、高知藩坂本龍馬捕縛ニ罷越討果候節、手ヲ下サズド雖モ、右事件二関係致し、加之其後及脱走、屡々官軍ニ抗撃遂降伏いたし候とは乍申、右始末不届ニ付屹度可処厳科処、先般被仰出之御趣意ニ基キ、寛典ヲ以、禁錮申付ル。
但、静岡藩え引渡遣ス。
右申渡趣受書申付ル。
静岡藩士族
高倉清太郎
右之通申渡、信郎引渡候間得其意。
庚午九月廿日
今井信郎実歴談
月日は流れ幕末も遠い昔となったころ、今井信郎は、京都時代の旧友である結城無ニ三のもとを訪ねた。その夜、結城の子礼一郎を交えて昔話に花を咲かせ、礼一郎に頼まれた今井は、坂本龍馬殺害の経緯を語り明かした。
当時甲斐新聞の主筆であった礼一郎は、貴重な話をそのまましまっておくのはもったいないと思い、後日新聞の連載記事として掲載した。この記事は、後に『今井信郎実歴談』として近畿評論の第17号に転載され、論争を巻き起こすことになる。
『今井信郎実歴談』(明治33年、近畿評論第17号)(今井信郎氏は今尚ほ遠州金谷に住す、本文は氏の談話筆記にして鶴城氏の寄稿に係る)
十一月十五日、先斗町にて時を過す、
同志合て四人、松代藩士なりと称す
ご承知のように当時は世の気が立っておりましてスワといえば抜く斬るという始末ですから、お互い十分警戒していて、なかなか隙などあるものではありません。
私も坂本という奴は幕府のためにもならねば、朝廷の御ためにもなるものでもない、ただ事を好んで京都を騒がせる悪漢ゆえ、ぜひ斬ってしまわなければならない、と思いましたが、さて誰が坂本でどこにいるのが少しもわかりませんので、これには非常に困りました。
しかし、幸いなことにふとしたことから蛸薬師にいる西谷(才谷梅太郎と変名)というのが坂本だということを確かめましたから、いよいよやってしまうことに決めました。
それで11月15日の晩、今夜はぜひというので、桑名藩の渡辺吉太郎というのと、京都の與力で桂迅之助(桂早之助)というのと、他にもう一人、合計4人で出かけました。私は一番の年上で26歳、渡辺は24歳(実際は26)、桂は21(実際は28)だったと思います。
私はその頃は今出川にいましたが、夕方4人でそこに集まってまだ少し早いから、どこかで時間を過ごそうじゃないかと申して、先斗町へ行って夜10時過ぎまで酒を呑んで、それから揃って出掛けました。
渡辺ですが、松村とも言っておりました。なかなか胆の据わった男で、桂も若さに似合わぬ腕利きでありました。惜しいことに2人とも鳥羽で討ち死にしてしまいました。
(この時記者は他にもう一人というその一人は誰ですかと尋ねたところ、今井氏はそれはまだ生きている人です。そして、その人が己の死ぬまでは決して己の名前を口外してくれるな、とくれぐれも頼みましたから今も申し上げることはできませんと答え、しいて頼んだが、遂に口を開かなかった。思うに、今なおある一部の人の間に坂本を斬った者の中には意外な人物があるとの説が伝えられ、あるいは、その人物は今某の政府高官にあるといった風評があるのは、つまりこの辺りの事情によるものではないだろうか。今井氏にして語らず、その人物が語らなければ、維新歴史のこの重要な事実は、遂にその幾分かを闇に葬り去ることになり、惜しんでも惜しみきれないものである)
もうかなり寒くなっていまして、表通りにも人の往来もなく、十五夜の月がキラキラと頭上の方で光っていましたが、4人とも十分用心して、10時を余程過ぎた時間に蛸薬師のその醤油屋へ到着しました。
そして、「私たちは松代藩のこれこれだが、坂本先生に火急お目にかかりたい」と申したところ、取次の者が、「ハイ」と言って立って行きましたから、”こいつは締めた、いるに違いない、いさえすれば何とかして斬ってしまおう”と思っていますと、取次が「こちらへ」と案内しますので、後へついて2階へ上がりました。
松代ですか。あの真田の藩です。坂本とは前から通じていたのです。4人ともいい加減の名前を言ったので、今でも覚えていません。
とにかく、こちらへと言いますから、行ってみますと、2階は8畳と6畳の2間になっていました。
坂本さん暫く、横鬢を切る、
京都の風評、脳天を三つ、
6畳の方には書生が3人いて、8畳の方には坂本と中岡が机を中へ挟んで座っておりました。中岡は、当時改名していて石川清之助といっておりました。けれども、私は初めての事であり、どちらが坂本だか少しもわかりません。他の3人も勿論知りませんので、早速機転をきかして、「ヤヤ、坂本さんお久しぶりです」と挨拶しますと、入り口に座っていた方の人が、「どなたでしたかねえ」と答えたのです。
そこで、ソレと手早く抜いて斬りつけました。最初、その横ほおを抜き打ちざま真横に叩いて、体をすくめる拍子に横に左の腹を斬って、それから踏み込んで右からまた一つ腹を斬りました。
この二太刀で、流石の坂本もウンと言って倒れてしまいましたので、私はもう息絶えたと思いましたが、後から聞きますと、明日の朝まで生きていたそうです。
それから、中岡の方です。これは私どもも中岡とは知らず、坂本さえ知らなかったのですから無理はありません。坂本をやってから、手早く脳天を3つほど続けて叩きましたから、そのまま倒れてしまいました。お話すれば長いのですが、これは本当に電光石火で、一瞬にやったことなのです。
しかし、部屋に入る私のすぐ後ろには渡辺がついていましたが、それが腰の鞘を立ててハシゴを上がりましたので、6畳にいた書生が怪しいと見て、ソレッと声を掛けましたので、少し手順が狂ったのです。
そうでなければ4人とも坂本の部屋へ入り込む計画でしたが、書生が騒いだため、渡辺と桂は、早速に抜刀して6畳にいた書生たちと斬り合い、その間に私どもが8畳の方で坂本をやっつけたのです。書生は、渡辺と桂に斬り立てられて、窓から屋根伝いに逃げてしまいました。
私はその晩の前に相談していた佐々木只三郎のところに泊まり、翌日市中の噂を聞くと大変な騒ぎになっていました。なんでも、皆これは新選組の仕業であろう、多分は紀州の三浦休太郎が新選組と共謀してやったのだろうとの風評です。
それに、その晩渡辺が6畳に置き忘れてきた鞘が、よく紀州藩士が差していた鞘に似ていましたから、ますますこれは三浦の仕業に違いない、ということでした。
しばらく経つと、はたして土佐の若い者が、三浦の家を襲撃しました。すると、その時ちょうど近藤勇がそこに居合わせて、一緒になって追い返しましたので、斬ったのは三浦と近藤だという風評が高くなりました。


