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見廻組今井信郎説 中

谷干城の反論

『近畿評論』5月号(第17号、明治33年)に掲載された今井信郎の告白記事は、事件直後に近江屋へ駆けつけた旧土佐藩士の谷干城が知るところとなった。そして、明治39年(1906年)11月、招魂社(護国神社)において「近畿評論を駁す」と題する演説がおこなわれることになった。

『谷干城遺稿』(明治45年靖献社)
 坂本が斬られたという報告があったので、すぐ現場に駆けつけていった者が、私と毛利恭助という者である。これは、京都三条上ル所の高瀬川から左に入る横町の大森というところに家があった。毛利と私はその大森の家に宿をしていたので、真っ先に駆けつけた。
 土佐の屋敷と坂本の宿(近江屋)は、わずかに一丁ばかりしか離れていないから、事件のことはすぐに知れ渡るはずだが、宿屋の者らは、賊が2階でどさくさ暴れたものだから、驚いてどこかへ逃げたのかも知れない。しばらくして山内の屋敷に急報してきた者もかなり遅く、私が駆けつけた時には、最早賊が逃げた後であった。
 それで事件現場を確認したのだが、ちょうど階段を上り付けたところに、坂本が斬倒されていた。そして、この階段を右に行ったところが、すなわち京都の方角に窓があった。ご承知の通り、京都では町に向いた窓は大きなかんぬきを置いて、そこへ泥を塗ってあるので、押しても突いても破れるものではない。その下には、龍馬の従僕(藤吉)が斬倒されていた。そして、右手の方の座敷に中岡が斬られていた。
 坂本は非常に大きな傷を負っており、額のところを5寸ほどやられているから、この一刀で倒されたのであろうが、後ろからもやられて背中に袈裟掛けに斬られていた。
 坂本の傷はそういう次第で、中岡の傷はどういうものかというと、後ろから頭を斬られており、それから左右の手を斬られていた。そして、足を両方とも斬られ、腹ばいに倒れたところをまた2太刀斬られており、その後ろから腰を斬った太刀は、ほとんど骨に達する程深く斬られていた。
 けれども、傷は脳に遠いものだったので、なかなか元気な石川(中岡の変名)でありますから、意識は確かであった。「どうか」と聞くと、「誠に遺憾千万であるが、この通りである。速くやらねば君らもやられるぞ、速くやらなけばいけない」というのが石川の持論であった。
 一体どういう状況であったかと聞いてみると、実は今夜お前のところに行ったが、お前が留守であったから、坂本を訪ねて談話していると、「十津川の者でござる。どうぞ御目にかかりたい」と何者かが訪ねてきた。
 そこで取次の従僕(坂本の僕)が、手札を持って上がってきた。この時、中岡は手前にいて、坂本はちょうど床を後にして前に座っていた。2人は行燈に頭を出して、その受け取った手札を見ようとしたところへ、2階へ上がる従僕について来た賊が、突然「コナクソ」と斬り込んできた。その時手前にいたのが、中岡である。
 実際の状況とこの人の話とでは、両人がいた位置も違い、机などを並べていたというけれども、そんな訳はなかった。2人が手札を見ようとするところへ斬り込み、中岡を先にやったのである。
 その言葉は「コナクソ」という一声で、中岡が“はっ”と思った時に、坂本は後ろの床に刀があるから、後ろを向いて刀を取ろうとした様子だけは覚えている。自分も素早く短刀を取ったけれども、如何せん取っただけで抜くこともできないから、そのまま振り回すと、賊は一度後ろへ下がり斬りかかってきた。
 両手を斬られ動かなくなったので、賊に飛びつこうとしたのだが、両足を斬られてしまった。そのため足が立たなくなり、仕方がないから、そのまま倒れて斬らせておくより他なく、倒れていた。
 すると「もうよい、もうよい」と言って、立ち去った。賊の言った言葉は、「コナクソ」という言葉と、「もうよい」という言葉以外は聞いていない。
 坂本は一体どうしていたであろうか、どうもわからないが、坂本も言うまでもなく斬られていた。中岡が倒れてしばらくしていると、倒れていた坂本がすっと起き上がり、行燈を掲げて階段の側まで行った。
 そして、そこで倒れ、「石川刀はないか、刀はないか」と二声三声言って、音が無い様になった。斬られていた場所は8畳の間であったけれども、立ち上がり、階段の側まで行燈を持って行き倒れたというのが、すなわち石川の話である。
 石川が言うには、「なかなか実にどうも鋭いやり方で、自分らも随分平素から油断はしていないが、賊は何しろ相当武辺場数を踏んだ奴に相違ない。自分ら2人がいて不覚をとるようなことはないが、どうする間もない。コナクソという一言でやられた」ということであった。
 それから傷についてだが、この人の話によると、まず坂本の横ほおを一つ叩いたとある。これは何か話にでも聞いたものかもしれないが、坂本は額を5本くらい斬られていた。それから、これは少々似ているが、横腹を斬り、また踏み込んで両腹を斬った。深い傷は、横に眉の上を斬られたもの、それから後ろから袈裟に斬られたものがあり、この2つがまず致命傷だった。
 坂本がどういう行動をとったかというと、どうもわからない。けれども、これも想像することができる。自分が想像するに、坂本は刀を取ったに違いない、刀を取ったが抜く間も無いから、鞘越しに一撃を受けた。
 そのため後ろから袈裟に斬られ、また重ねて斬ってきたので、太刀折のところが6寸程鞘越しに斬られた。刀身は3寸程刃が削れて、鉛を斬ったように削れている。それは、賊の攻撃を受けたが受け流したような形になり、その時横に斬られたのが、額の傷であろうと想像できる。
 傷の場所からいっても、この人の話と事実は、全く違うのである。それから、さらに疑うべきことは、お前ハ松代の人であるとか何とか言ったとあるが、そんなことで応接するどころの騒ぎではない。従僕の後について来て、突然コナクソと言って斬り込み、実に素早くやったのである。
 私どもが現場に駆けつけてから、さてこれは何者の仕業であろうか、誰にやられたかということについては、まだ心に掛けて詮議中である。
 石川の判断では、これは人を散々斬っている新選組の者の仕業だろうとのことだった。それでコナクソという言葉について判断した。石川の推測では、賊は四国人であろう。コナクソは四国人の言葉であるが、賊は土佐の者ではないだろう。なぜなら、土佐の者で、この時期石川を斬る者は無い。大多数の有志は皆、一致合体している時だったのである。
 また、1つの証拠として、刀の鞘が残っていた。それから証拠を念入りに調べたが、「コナクソ」という言葉と「もうよい」という言葉の他に、賊が残していったものは、刀の鞘だけであった。
 石川は、申し上げた通り16日の午後1時か2時頃、昔で言うと八ツ時というくらいに、とうとう死んでしまったが、その死ぬ直前に傍にいたのは、すなわち今の宮内大臣の田中光顕であった。
 これも土佐の白川屋敷に囲ってあった浪人組(陸援隊)の者であり、すなわち自分の大将がそういう災難にあったものであるから、やって来たのであった。
 田中が石川を慰めて、「これは貴様の傷は浅い。長州の井上聞多を見よ、聞多はあの通り酷い傷だったが治った。貴様は充分に治るぞ」と言って力づけた。
 しかしながら、後ろから斬られた傷が、脳へ幾分か損傷を負わせたようで、次第に吐き気を催し吐き、とうとう翌日の八ツ前に倒れた。けれども死ぬ前に、「速くやらぬとこの様にやられる、実に遺憾である」と懇々とさとし、帰らぬ人となった。
 その後、この下手人を調べることになった。まず、新選組と鑑定をつけたものでありますから、この方の手がかりを探さなければならないということで、石川が斬られたのが15日、その頃新選組に元いたが意見が分かれて、高台寺という寺で御陵衛士を名のっていた者が14、5人あった。
 伊東甲子太郎が頭で、その甲子太郎が18日の夜、新選組の者に殺害された。甲子太郎の遺体は七条油小路に放置されていたので、居合わせた者が7人程で引取りに向かったが、新選組の待ち伏せによって皆殺された。
 伊東一派は、七条少し脇の方あたりで斬殺されたのだが、その中に伏見の方へ出ていて、留守にしていた者が2、3人いた。その残された者は、始め白川の土佐屋敷へ逃げてきた。だが、白川の土佐屋敷はあの当時は野原であって、浪人が大勢いるが危険であるので、薩摩の屋敷の方へ保護を頼んだが、ここも危ないというので、伏見の薩摩屋敷で保護してもらった。
 この残された者たちは、元々新選組に入っていた者であるから、刀の鞘に見覚えがあるだろうというので、私と毛利恭助とそれから薩摩の中村半次郎の3人で、伏見の薩摩屋敷へ行って、甲子太郎の一党の者に会い、その刀の鞘を見せた。
 ところが、その2、3人が評議した結果、「これは原田左之助の刀と思う・・・」と証言した。なるほど、・・・この原田左之助という者は、腕前の男である。新選組の中でも、まず実行委員という理屈で、人を斬り込みに行く時には、いつでも先に立って行く。
 私などが、「ハァ、なるほど、そのようだ」と言い、「賊は武辺場数の者であろう。何しろ敏速なやり方である。これは原田に違いない」と話し合い、賊の1人は原田左之助で、斬った者は新選組の者に間違いない、ということで結論が出ている。
 ところが、この33年5月の近畿評論という雑誌を見ると、「坂本、石川両人を殺害した者は拙者なり」と明白に言っている。その挙動はどうかと見ると、これが非常におかしい。しかも、芝居の仇討ちでもやりそうなヌルイやり方で、もっともその中では、このように話せば長い様でありますけれども、実は電光石火であったと断りはしてある。
 第一に書生はどうしたかというと、窓から出て逃げたとある。しかし、逃げ出したという場所には、実は大きな柱があり、泥を塗ってあるので、押しても突いても動くものではない。逃げようとしても逃げることは、できないのである。
 ただ2階へ上がる行き詰まりのところに明かり窓があるが、それは高くて、ただ明かりを取るためのもので、決して逃げ出ることもどうすることもできない。
 もし逃げ出るならば、石川、坂本の斬られているところへ行かなければならない。そこには低い敷居があり、その下で坂本が机を置いて読書していた。その場所からは出られるが、そこでは石川、坂本の両人がドサバサドサバサやっているので、逃げようとしても逃げることはできないのである。
 ところが、この先生は、書生が3人いたが、2人は逃げて1人は仕留めたと言っている。どうも途方も無い間違いである。
 まあ全体がこの様な有様で、この事件は、私ら土佐の者らの推測では、元紀州の光明丸といろは丸が衝突した時に、坂本らが非常に激烈な談判をして、賠償金を取ったからそれを恨み、紀州人が新選組を使って実行したのであろう。
 紀州の巨魁である三浦安ー三浦久太郎が犯人に間違いない、あれがすなわち新選組を扇動して斬らせたのであろうと判断したので、誠につまらぬ者たちが、三浦安のところへ斬り込んだが、向こうはドッコイそうはいかぬと新選組に命じて準備をしていたから、こちらの方から向かった者のが逆にやられてしまった。
 また、斬ったと語る今井という人は、松代藩の者であると名のったと言っているが、松代藩の者だなどと言っても、ウッカリ会うことはない。皆用心しており、特に坂本は才谷梅太郎と名前を変え、ことに新選組から狙われていたから、薩摩の方からも危ないのでどうぞ私の方(薩摩屋敷)へ入るようにと勧められていたが、屋敷に入ると出入りに窮屈だから入ると言わなかった。
 そのため、普段から非常に警戒していたので、松代藩などと言って来ても会わないのであるが、十津川の者は終始出入りしていた。勤王論者が十津川に多かった。それで、賊が十津川と言って訪ねてきたから、取次も安心して通したのである。
 十津川ということを詐称されたというので、十津川人が大変怒って、すなわち三浦久太郎を斬りに行った場合にも、十津川人が参加していた。十津川人の中井承五郎という者は、大分人を斬った様子だったが、新選組によってとうとう斬られてしまった。それから龍馬を訪ねてきた書生は、遺憾じゃと言うので、三浦の所へ斬り込んだが、構えていたので散々失敗を取った。
 そういう理由で、この人は「松代藩じゃ」と名のったと言っているが、決してそのようなことはない。十津川と名のったのは、かなり巧妙なやり方である。従僕も、十津川人と名のったから取次をしたのである。そういう次第であり、残された鞘は、原田左之助が差していた刀の鞘である。こういうことに、私どもは一致している。
 ところが、この人の話では、鞘を落としてきたという。これも後で聞いたのであろうと思う。その鞘は紀州人のものであり、紀州人の鞘であるというので、サア三浦じゃと言って、三浦の所へ復讐に行って返り討ちにあったとある。
 そうではない、紀州人は紀州であるが、紀州人が新選組を扇動して、新選組の者が斬りに来た。鞘は全く原田左之助の鞘である、こういうことになっている。
 随分妙な物好きではあるけれども、推測してみると、徳川の旗下で譜代恩顧の者であるから、両英雄を倒したと名のるとそれが事実となって後世に名が伝わり、事件の事実はこうであったのかもしれないと認められると考えたに違いない。
 御話を申し上げている通り、片岡健吉からどうか調べてくれ、という依頼があったので、引き受けたのである。この片岡も故人となり、また私が死んでしまえば、遂に事実を明らかにすることができない。
 古いことを御存知の方もございますし、また歴史を御調べになる方もございますので、どうか充分な御研究を願いたいと思います。はたして、今井という人が手を下して斬ったものとすれば、この雑誌に語ったことは間違っているに違いない。いずれにしても、今井が斬ったということは、この証拠の上では認められないと思う。
 どうぞ私が申し上げたことを御記憶の上で、御研究を願いたいと思う。今井が両人を斬ったというのは、大変な間違いである。また、あの時代は斬自慢をする様な世の中であったから、誰が誰を斬ったというのは実に当てにならないと思う。どうぞ御参考のためにお話ししますが、今後の調査を願いたいと思います。

谷は、次の点から今井信郎が犯人というのは間違いであり、何か一世に自分の功績を残したいことを望む者の虚言で、「今井売名奴」と結論づけている。

【坂本龍馬の傷】
今井:「横鬢」を1つ叩いた。
谷:「額の所を横に五寸程」斬られていた。
【坂本龍馬の傷】
今井:横に左の腹を斬って、それから踏み込んで右から又一つ腹を斬った。
谷:後ろから背中を袈裟に斬られていた。
【従僕に渡した手札】
今井:松代藩。
谷:十津川藩。
【斬った状況】
今井:「ヤヤ坂本さん暫く」と挨拶すると、「どなたでしたねえ」と龍馬が答えたので、素早く抜いて斬りつけた。
谷:手札を見ようとしたところに突然侵入し、「コナクソ」と中岡を斬りつけた。
【残された鞘の持ち主】
今井:渡辺吉太郎。
谷:原田左之助。
【下手人】
今井:今井信郎、渡辺吉太郎、桂隼之助、某。
谷:原田左之助と新選組。

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