見廻組今井信郎説 下
近畿評論の捏造
ところが、大正13年(1924年)になって、今井信郎の告白を掲載した『近畿評論』の記事の一部が、捏造されていたことが発覚した。『近畿評論』へ寄稿した結城礼一郎が、その手記『お前たちのおぢい様』で告白したのである。
この中で結城は、「記事は、旧友の息子である自分が、今井さんに無理をお願いして話してもらったのである。新聞の読み物として書いたのだから、事実も多少脚色し、龍馬を斬った光景などは大いに芝居がかりで書いた。今井さんに大変ご迷惑をかけたことを心からお詫びする」と述懐している。
『お前達のおぢい様』(大正13年7月、結城禮一郎)今井さんと云ふ人は謙遜の人だった。尤も以前はそんなでもなかったさうだが、基督信者になってからガラリと変って、御維新当時の事なぞ誰が何と云っても喋った事なく、敬虔なる信者として篤実なる老農として余生を送って居た。
今井さんから伺った話をそのまま蔵って置くのは勿体ないと思ったから、少し経って甲斐新聞へ書いた。素より新聞の続き物として書いたのだから事実も多少修飾し、龍馬を斬った瞬間の光景なぞ大いに芝居がかりで大向ふをやんやと言はせるつもりで書いた。
処が之れが悪かった。後になって大変な事になって仕舞った。と云ふのは其の時甲斐新聞の編集長に岩田鶴城と云ふ男が居た。京都の人で、其の後お父さんが大阪で帝国新聞を起した時にも参加して京都支局で働いてた者だ。此の岩田が甲斐新聞をやめて京都へ帰った時、京都で発行されてる近畿評論と云ふ雑誌へお父さんの書いた今井信郎の話をそっくり其のまま寄稿した。確か明治三十三年頃の事だったと思ふ。
左様すると其れを見て、之れは怪しからぬ事実を誤ってると云って怒り出したのが谷干城さんだ。谷さんは坂本の殺された時逸早く駆けつけた人で、其の時未だ死に切れずに居る中岡慎太郎から斬られた刹那の有様を一通り聴いて居たので、其れを近畿評論と比較して、此処が違ってる彼処が違ってる、話は何様しても捏造したものとしか思へぬと云って公開の席で演説したり又其の演説の筆記を処方へ配ったりした。島内登志衛編『谷干城遺稿』の中にもちゃんと蒐録してある。
谷さんは第一、今井と云ふ男が近頃になって私が坂本を殺しましたと名乗って出るのが怪しい、畢竟売名の手段に過ぎぬとまで罵って居るが、之れは谷さんの方が無理だ。今井さんは決して自ら名乗って出たのでも何でもない。滅多に口を開かなかったのを、自分の旧友の息子が強ひてとせがんだので止むを得ず話したのだ。無論それが新聞や雑誌へ出されようとは思って居なかったのだ。
谷さんも近畿評論の記事の出所を御調べになったら、彼んなにまでムキになる必要もなかったらう。本当に残念な事をした、と同時に又お父さんは、お父さんの軽々しき筆の綾から今井さんに飛んだ迷惑をかけた事を衷心から御詫びする。
暗殺に非ズ
今井信郎自身は、谷干城の反論に対して意見することはなかったが、和田天華(『坂本龍馬』の著者、明治45年6月)の質問に答えている。
龍馬殺害に関して、今井は暗殺の行為を否定し、見廻組は幕府の命を受けた職務を遂行し、捕縛に向かったところ斬り合いになったと弁明している。さらに、新選組はこの件に関係なく、罪状は伏見同心3名を銃撃して逃走したことであると回答している。
「和田天華への回答」要するに幕府は攘夷因循兵力の微弱なるを曝露し、所謂志士なる火事場盗賊に苦るしめられ、土崩瓦解せるも、勤王愛国念慮は毫も衰弱したるもに是れなくは事実の上に顕然たり。近藤勇、新見錦、芹沢鴨の如、立場に依て其名を異に致す者と信じ候。実に玉石混交の時世、是か非か後世の史論に譲り左に御回答仕り候。
一、暗殺に非ず、幕府の命令に依り職務を以、捕縛に向格闘したるなり。 二、新撰組と関係なし。余は当時京都見廻り組与力頭なりし。
三、彼れ曾て伏見に於て同心三名を銃撃し、逸走したる問罪の為なり。
四、場所は京都蛸薬師角近江屋と云醤油店の二階なり。
(明治四十二年)十二月十七日
遠州初倉村
今井信郎
大阪新報社
和田天華殿
見廻組今井信郎説総評
◆『兵部省・刑部省口書』によると...
| 刺 客 | 佐々木只三郎、今井信郎、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼之助、土肥仲蔵、桜井大三郎 |
| 黒 幕 | 京都守護職松平容保 |
| 目 的 | 捕縛だが手に余るときは討ち取っても構わない |
| 論 点 |
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◆『今井信郎実歴談』によると...
| 刺 客 | 今井信郎、渡辺吉太郎、桂隼之助、某 |
| 黒 幕 | - |
| 目 的 | 世を騒がす悪漢であるため斬ってしまおう |
| 論 点 |
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◆『近畿評論を駁す』によると...
| 刺 客 | 原田左之助と新選組 |
| 黒 幕 | 紀州藩 |
| 目 的 | いろは丸号事件における多額の賠償金支払いに対する報復 |
| 論 点 |
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