見廻組渡辺篤説
見廻組渡辺篤説とは
坂本龍馬・中岡慎太郎殺害の犯人であると、元見廻組の渡辺篤が名乗り出たもので、実行犯は「京都見廻組」、黒幕は「幕府」である。
渡辺篤がつづったものとして、『渡辺家由緒暦代系図履暦書』がある。これは明治44年(1911年)に書かれたものであるが、龍馬殺害の様子は、記者が今井信郎の実歴談を改ざんした『近畿評論』(明治33年)の内容と似ている。
また、共犯として今井信郎の名を挙げているにも関わらず、今井の証言には渡辺の名が出てこない(渡辺吉太郎は別人)、現場の近江屋には5、6名の者がいたと事実と異なることを記述していることなどから、この証言は渡辺の売名行為であると考えられている。
阪本龍馬を殺害した老剣客
大正4年(1915年)、元見廻組肝煎の渡辺篤は、死に臨んで、弟安平と弟子飯田常太郎に、自分が坂本龍馬暗殺に関与したことを告白した。そして、自分の死後に『渡辺家由来緒暦代系図履暦書摘書』を公表するように、と遺言した。
その死から7ヶ月、同年8月5日の大阪朝日新聞に「阪本龍馬を殺害した老剣客ー悔恨の情に責められて逝くー」と題した記事が掲載され、渡辺篤の経歴とともに近江屋討ち入りの光景を述べている。
「阪本龍馬を殺害した老剣客ー悔恨の情に責められて逝くー」(大正4年、大阪朝日新聞)阪本龍馬を殺害した老剣客ー悔恨の情に責められて逝くー。
京都柳馬場綾小路下る所に撃剣道場を開いて数多くの子弟たちの指南をする傍ら、中学校や警察・在郷軍人会の撃剣教師を勤めている渡辺篤もと一郎という一刀流の達人があった。十二の年から一刀流の門に入っておそるべき進境を示した。二十五歳で鳥羽・伏見の初陣に剛勇の名を知られたが、維新後は、後進子弟の誘掖に一身を捧げ、本年一月六日七十三歳の高齢を以て没した。その臨終の際に、
△皆伝の愛弟子なる飯田常太郎氏と、自分の実弟に当たる渡辺安平の両氏を枕辺に招いて、今まで胸の裡に秘めておいた一大秘密を打ち明けた。その秘密は下の一条である。時は慶応二年十一月十五日の未明のこと、命によって勤王の志士坂本龍馬、中岡慎太郎を京都河原三条下る客舎に襲うて暗殺したは、かくいう自分らの所為であった。
この日、自分は伝来の備前国光の一刀を手挟んで首尾よく一刀の下にめざす坂本龍馬を討取って使命を果たした。(中略)
△勤王無二の坂本、中岡両氏を殺戮したという天譴は今更ヒシヒシと胸を責める。ツイ躊躇して居る間に時は猶予なくとんでいって名乗り出る機会をわれから失くした。老境に入った今日、坂本氏の身代わりの人が京都大学へ入学したというはなしを耳にして今更に輪廻の恐ろしい事を感じたが、いまこの末期に臨んで何事も打ち明け、心おきなく世を去りたい。余の死後、これを公に発表して世間に事の真相を告白し、誤謬を正してもらいたい、という切なる希望であったそうな。
△討入りの光景、について語る処によれば、一同が乗りこんだ時間は午後二時ごろであったろう。うまく家人を騙して表戸を明けさせ、ズッと奥へ通ったが、龍馬の居間は二階である。そこで自分と同行の会津藩士佐々木唯二郎の両人は、にわかに急用あって面会にきた旨を申し入れてその返事も待たずに両人は二階へ上がり、自分は龍馬が一刀を抜こうとして切尖がまだ鞘を放れないところを備前国光の名刀を抜く手も見せず一刀流の早業で物の見事に斬りつけた。佐々木は続いて首を落とした。龍馬は討たれながら屈強な体格を乱しもせず従容死についた健気さは目の前に髣髴して思わず襟を正させる云々。委細は仏壇の抽斗にある遺言状をみてくれとの事に、飯田氏と実弟安平氏とは相謀って、この一大秘密を遺言どおり世間へ発表しようと目論んでいる
この記事には、渡辺が一刀で龍馬を斬り倒した後に佐々木がその首を打ち落としたなどと記者のヨタ記事が追加されているが、渡辺の履歴書には事件について次のようにつづられている。
『渡辺家由緒暦代系図履暦書』(明治44年8月19日、渡辺篤著)明治44年8月19日付
慶応3卯年2月5日、見廻組に任命され、7人扶持を頂戴した。同年4月に肝煎並、同年8月25日に肝煎に仰せつけられ、外に5人扶持を与えられた。
同年11月15日、土佐藩の坂本龍馬、中岡慎太郎というものが、密かに徳川将軍を覆そうと謀り、その陰謀を四方にめぐらせていたので、見廻組頭取の佐々木只三郎の命により、自分をはじめ今井信郎と外3名の組の者(内1人は世良敏郎)と相談し、夕暮れ時に坂本の旅宿へ踏み込み、正面に座っていた龍馬を斬りつけ、横に倒れたところを突き刺し、左右にいた両名も同時に討ち果たした。その中の1名が中岡慎太郎であったことは、後日聞いた。従僕も同じように即死した。
13、4歳位の給仕で命が助かった者が1名おり、これは騒ぎに驚き自分の前の机の下に頭を入れて平伏していたが、子供なので見逃した。
従僕は背が高く非常に太っており、案内を請うと、2階から取り次ぎのために降りてきた。偽名の名刺を差し出し、取り次ぎの従僕と共に2階へ上がり、ただちに正面に座っていた坂本を斬りつけ、龍馬が後ろの床にある刀を取ろうとしたが、とりあえず打ち倒した。
龍馬が下宿していたところは、河原町通り三条下ル三四丁目西側の醤油屋の2階で、才谷梅太郎との偽名を使い隠れ住んでおり、土佐藩邸の前にあった。
乱闘のうちに行燈は消え、暗闇の中で決めていた合い言葉も、思うように使うことができなかった。一時は同士討ちの恐れもあったが、なんとか無事に任務を遂行することができた。
組頭の佐々木氏も現場に立ち会い、同じように働いた。向かいの土佐屋敷にはたくさん藩士が詰めており、夜中のため襲撃の騒ぎを聞き駆けつけてくる恐れがあるので、表入り口を固める者を1名、また2階の上がり口に1名を置き、これに備えた。
○従僕は相撲か。
一、見廻組の総頭は、信州飯田藩主の堀岩見守で、1万石の大名である。この堀から招かれて、会津藩お抱えの鍛冶である大和秀国の打った1尺程の脇差し1振りを拝領した。まだ研ぎ上げていない荒打ちのままのものであった。
刀の鞘を忘れ残してきたのは、世良敏郎という人で、書物は少し読むけれども武芸はあまり得意でないため、鞘を置き忘れる失態をおかした。日頃から剣術の鍛錬をしなかったこともあり、呼吸を切らし、歩くこともできない始末であった。自分は世良の腕を肩にかけ、鞘のない刀を袴の中へ縦に隠し入れて、世良を連れて引き上げた。
河原町を四条に出て、四条通りを千本通りまで、千本通りを下立売、下立売通りを知恵光院まで、知恵光院を北へ入り、西側の寺院(名前を忘れる)にたどり着いた。
○四条通りは、宵の口で非常ににぎわっていたので、世良を肩にかけながら「ヨイヤナイカ、ヨイヤナイカ」と大声を上げて歩き、抜き身の刀を隠し持っていることを知られないのに都合がよかった。
右の寺に佐々木氏は下宿していたので、各人はそれぞれ道を変えて戻り、都合よく任務を果たしたので、一同は祝杯を上げてから、夜明けに帰宅した。この件は秘密の公務であったので父に打ち明けたのみで、誰にも語っていない。
翌日、坂本が斬られたと評判になり、新選組の浪士が斬ったとか色々な噂が流れた。こうして書くと軽く聞こえるかもしれないが、その当時の苦心は言葉では言い尽くせない。
坂本を討ち果たすため、間者に増次郎という者を使い、前々より坂本の下宿にて同氏の挙動を探索していた。事件の当時、見廻組一同は先斗町の料亭青楼の2階を借り、日が暮れるのを待っていた。
増次郎は、坂本の下宿の近くで同氏の様子を探るため、コモをかぶり乞食の風体で下宿所醤油屋の軒下にいたところに坂本が他所から戻ってきたことを確認し、その報告に帰ってきた。
このとき日はほとんど暮れていたが、手はずを十分に協議した上で出かけ、前述の通りに坂本を始末した。
この事件の前後に5、6回程真剣勝負をしているが、維新の前のことで殺気立っており、諸藩の藩士が各方面から京都に入り込み、実に油断できない情勢だった。他所に出かけるときには、刀の鯉口をゆるめ、前後左右に気を配り歩いていた。
いうまでもなく、市中の見廻りをおこなう見廻組は不逞浪士に目をつけられていたので、少しも油断することはできなかった。そのため、日々腕を鍛えていた。壮年の頃は体重が20貫ほどあり、気力も十分だったので、一度も敗れるようなことはなかった。
同月19日頃、坂本を討った褒賞として15人扶持を月々頂戴することになった。1人扶持とは、日に米5合。15人扶持では、1日7升5合となる。これを頂戴した。
一、新選組局長の近藤勇は、元幕府百人組同心の出身で、京都において新選組を組織した。諸方の浪士を集めた二・三百人の組で、徳川幕府に敵対する人を斬り殺し、あるいは捕縛して、大いに権勢をふるった。京都見廻組とは親しくしており、慶喜公が下坂した後も壬生寺に屯所を設け、その後稲荷総所の近辺に移転した。
近藤が大坂に下ったとき、伏見藤ノ森を通行中に薩摩藩から狙撃された。肩先を一発撃ち抜かれたが、落馬をこらえ血まみれのまま大坂城に入城した。愉快なる豪傑である。
東京へ引き上げた後、副長の土方歳三は、官軍の甲州進軍に抗戦しようと一軍を率いたが、論議した結果大砲を官軍へと引き渡した。
これを遺憾に思った近藤は、自ら甲州に向かい大砲を取り戻そう画策したが、官軍の鳥井丹波守の兵士に近藤を知る人間があり、近藤であることを重役に語ったために捕らわれ、斬殺された。
斬殺の際は、非常に立派な最期であった。近藤の首級は京都三条の橋上にさらされた。我々が坂本を討った翌日、近藤と佐々木が会ったとき、「昨日はお手柄であった」と微笑したと聞いている。
だが、この襲撃の様子は、新聞記者の結城礼一郎が、今井信郎から聞いた話を読み物風に改ざんした『今井信郎実歴談』(明治33年、近畿評論第17号)の内容とよく似ているのである。また、この履暦書の原本として、明治13年(1880年)6月25日、渡辺が36歳の頃に記述したものがあるが、これには見廻組隊士の個別の名前があがっていない。
『履暦書原本』(明治13年6月25日、渡辺篤著)同年十一月、土佐藩士坂本良馬ナル者、潜ニ徳川将軍ヲクツガヘサント計ル者ニテ、連累諸方ニ多々アル故、頭佐々木只三郎並拙者始外五名申合セ、夕方ヨリ良馬旅宿え急踏入候処、五六名慷慨ノ士居合、軽ク相戦ヒ首尾克悉ク打果シ候也。右旅宿ハ河原町通三条下ル三四丁目西側醤油屋ノ二階ニ居テ、才谷梅太郎ト俗名ヲ唱、潜居イタシ候也
こうした理由に加え、明治37年(1904年)の昭憲皇太后の夢枕事件で龍馬の評判が全国的になっていたこともあり、この告白は後世に名を残したい渡辺の虚言と考えられている。
見廻組渡辺篤説総評
◆『渡辺家由緒暦代系図履暦書』によると...
| 刺 客 | 佐々木只三郎、渡辺篤、今井信郎、世良敏郎、他2名 |
| 黒 幕 | 幕府 |
| 目 的 | 徳川幕府の転覆を画策しているため殺害 |
| 論 点 |
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