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土佐藩士が語る坂本龍馬

武市瑞山(土佐藩士)

武市瑞山

「肝胆元より雄大 奇機自ら湧出 飛潜誰か織る有らん 偏龍名に恥じず 右武市先生、自然堂先生を評し、語録を以って題辞に代ふ」(『坂本龍馬関係文書』第一)

板垣退助(土佐藩士)

板垣退助

「豪放不埒、是れ龍馬の特質なり。到底吏人たるべからず。龍馬もし不惑の寿を得たらんには、恐らく薩の五代才助、土の岩崎弥太郎たるべけん」(千頭清臣 『坂本龍馬』)

田中光顕(土佐藩士)

田中光顕

「当時龍馬は、このお竜をつれて、一緒に歩いていた。これには、どうも驚かされた。男女同行は、この頃はやるが、龍馬は、維新前石火刀伎の間において、平気で、こういう狂態を演じていた。そういうところは高杉と、そっくりである。あまり人には見せなかったが、裸になると、背中は真黒だ。そのうえ黒毛がさんさんとして生えていたのは珍しい。『龍馬のいわれがわかったか』彼はそう言ったものだが、なるほど、この背中を見ると龍馬の名にふさわしかった」(田中光顕 『維新風雲回顧録』)

「見廻組、新選組のものにしきりにつけねらわれた。『君は危険だから、土州藩邸に入れ』伊東甲子太郎がこうすすめたこともあったが彼は聞き入れなかった。藩邸に入ると門限その他、万事窮屈の思いをせねばならない。自由奔放、闊達不覇の彼はそういうことを好まなかった。で、やはり名をかえ藩邸の附近に宿をとっていた。のみならず彼は平生『王政維新の大業さえ成就したなら、この一身もとよりおしむ所にあらず、もう無用の身だ』といっていた」

佐々木高行(土佐藩士)

佐々木高行

「坂本は時として随分過激な語を吐きしが、性来は頗るやさしき男なりき。老人、幼者、婦女等に対しては殊に穏にせり。長崎に在りし際、時々部下の壮士を率いて酒楼に上りし事ありしが女共は何時も『坂本サン、坂本サン』と言いて非常に慕いたり。尤もこれは単に個人として坂本の親切に感ずるばかりでなく、坂本が居る時は壮士等は敢えて乱暴の振舞をなさぬ故に坂本の来るは彼等の歓迎すべきはず筈なりき。坂本また言いし事あり。『我々は今国事に奔走して幕府の指目する所となり居れば、何日何時縛につくやも測られず。もし萬一我々が、芸妓風情と相携えて撮影することありて、之により其踪跡を物色せらるるあらば、志士の面目として大いに恥づべき業なれば、我々じゃ断じて此の如き卑猥の行為あるべからず』と彼は疎大豪放なるが如くして、其實思慮の周密なること斯の如し」

「元来、坂本という男は時と場合とにより臨機応変、言わばデタラメに放言する人物なりき。例えば温和過ぎたる人に会する時には非常に激烈なる事を言い、これに反して粗暴なる壮士的人物には極めて穏和なる事を説くを常とせり。斯様の筆法なる故に、坂本には矛盾などいう語は決してあてはまらぬなり。昨日と今日と吐きし言葉が全く相違するといって少しも意とせず、所謂人によりて法を説くの義なりと知るべし」

土方久元(土佐藩士)

土方久元

「維新の豪傑にしては、余は西郷、高杉、坂本の三士を挙ぐべし。三士共に其言行頗る意表に出で、時として大いに馬鹿らしき事を演じたけれど、又実に非凡の思想を有し、之を断行し得たりし」(千頭清臣 『坂本龍馬』)

平井収二郎(土佐藩士)


「元より龍馬は人物なれども書物を読まぬゆえ、時として間違いし事も御座候得ば、よくよく御心得あるべく候」

岡内重俊(土佐藩士)


「藩商高知より来る。人物最も狡猾なり。余之を龍馬に告げたるに、龍馬平然として『商人の狡猾なるは当然なり。狡猾ならずんば利を得る能はず』と答へ、余をして辞に窮せしめたり」(千頭清臣 『坂本龍馬』)

谷干城(土佐藩士)

谷干城

『近畿評論』で今井信郎が暗殺の下手人であると告白した事に対し
「両人(坂本龍馬・中岡慎太郎)共に武辺の場数者、特に坂本は剣術の秀逸なれば、顔を見合して話をしつつヲメヲメ斬らるる恥鈍漢にあらず。実地を予の目撃せし所とは大なる相違あり。今井は売名の徒なり」

吉田数馬(土佐藩士)


「少年の時分、二、三の友人と共に坂本先生に伴はれて種崎へ桃見に行った。其の休息した掛け茶屋の女は嘗て、坂本先生の家に奉公したものであったが、坂本先生が黒に盲縞の羽織袴を着けて居るのを見て、『坂本の旦那、弥智がないじゃありませんか(とんでもないの意)と言ひしが、坂本先生は只にやりにやりと笑いながら、何も答えはしなかった。帰途についた時、坂本先生は『今日は下駄が三分で刀が二朱じゃ。滔々たる天下只、奢侈隠避を是事としてゐる。世の先覚者は率先して、三百年の惰眠を打破せねばならぬ。それで俺は女の注目を惹く様な縞柄の着物は着ぬ』と云った」(川田正澂 『吉田数馬先生』)

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