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坂本龍馬、土佐藩郷士坂本八平直方の次男として誕生

その名は龍馬

坂本龍馬は、天保6年(1836年)11月15日、土佐国高知城下本丁筋1丁目にある郷士坂本家の次男として生まれた。生まれたときから、顔に点々とホクロがあり、背中には龍や馬のたてがみのような奇妙な産毛がはえていたので、「龍馬」と名づけられた。

諱は「直柔(はじめ直陰)」、号は「自然堂」を名のり、変名に「才谷梅太郎、西郷伊三郎、高坂龍次郎、大浜濤次郎、取巻抜六」などがある。紋付から推定すると、成年時の身長は5尺7寸(約173cm)、体重は19貫(約71kg)である。

龍馬が生まれたとき、父の八平直足は39歳、母の幸は38歳。兄と3人の姉があり、長男の権平直方は21歳、長女の千鶴は19歳、次女の栄は年齢不詳で、三女の乙女は4歳であった。

坂本家は、城下屈指の豪商才谷屋が、郷士株を取得して分家した「郷士」である。家格は低かったが、161石8斗4升の領知と3人扶持切米5石(10石4斗)の俸禄があるとともに、本家才谷屋からの財産分けなどもあって、非常に裕福な家であった。

姓の「坂本」は、祖先が近江国坂本村におこったことにちなみ、家紋は、明智氏の一門であるということから「組み合わせ角に桔梗紋」をもちいている。

この郷士という土佐藩の制度は、藩主山内氏が、関ヶ原合戦の戦功により土佐に転封されたときに生まれたものである。山内氏は、一領具足と呼ばれる長宗我部氏の遺臣を農民に落として支配したが、彼らを懐柔するため一部の者を郷士として取り立てたのである。

その後も、新田開発を条件に、何度か郷士の募集がおこなわれた。やがて、時代とともに郷士規格もゆるみ、郷士株の売買が公認されると、町人がその株を譲り受けることで郷士になることができた。これが町人郷士と呼ばれるもので、坂本家はこの町人郷士にあたる。

龍馬誕生の逸話

古来より英雄が生まれるときには、不思議な前兆が起きたという瑞夢がつくられる。龍馬の場合には、次のような逸話が残されている。

『汗血千里駒』(明治16年、坂崎紫瀾著)
一説には、龍馬の名の由来は、その生まれる前夜にあり、母が庭にある梅の木の梢から龍が天に昇る夢をみた吉瑞(よいことの前兆)をとったものである。
『阪本龍馬』 (明治29年、弘松宣枝著)
その夜、父が黄金の馬が天から降りてくる夢をみ、母は地上から黄金の龍が天に昇る夢をみた。翌朝、目が覚め出産したので、龍馬と名づけた。
『維新土佐勤王史』 (大正元年、瑞山会編)
前夜、母幸は、蛟龍が口から赤々と神火を吐きながら胎内に飛び込んで来る夢をみた。驚いて目覚めると出産しており、これを聞いた父八平は、この子を龍馬と名づけた。
『坂本龍馬』 (大正3年、千頭清臣著)
龍馬は、生まれたときから顔に点々とホクロがあり、背中にはひとかたまりの怪毛があった。そのため、様々な逸話が作られた。これは、その主なものである。
  • 母幸が、雲龍奔馬が胎内に入るを夢をみ、目覚めた後龍馬を生んだ。
  • 母幸は、常日頃から猫を可愛がっており、妊娠中も抱いていたので、獣の精気が胎児に感染して、龍馬の背中に怪毛がはえた。
  • 母の奇妙な夢と子の怪毛を、父が易者に占ってもらうと、易者は、「龍が昇天し、火炎が母胎に入る。奇夢なり。大器にして晩成し、必ず家名をあげるであろう」と答えた。そのため、父は、この子に龍馬と名づけた。

坂本家の系譜

龍馬の祖先は、太郎五郎といい、その父は近江国坂本城城主の明智左馬之助秀満であるという。秀満は、本能寺の変で織田信長を討ち滅ぼした明智光秀の一門である。

坂本家の伝承によると、太郎五郎は、明智氏が滅び坂本城が落城した際、壷いっぱいの黄金とともに土佐へ逃れ、長岡郡才谷村に移り住んだとある。

太郎五郎とその一族は、この地で「大浜」を名のり、1町48代5歩の土地を耕し、2代目の彦三郎、3代目の太郎左衛門と農業を営んで暮らしていた。天正16年(1588年)の検地では、才谷村の地高は15町5反6代3歩、小作人45人がいる中で、1町あまり土地を所有しているのはわずか3人で、大浜氏は地域の有力な農民であった。

そして、4代目の八兵衛守之のとき、高知城下の本丁筋3丁目の借家で、「才谷屋」と号して質屋を開いた。延宝5年(1677年)に酒造業、元禄7年(1694年)には本丁筋2丁目の借家で諸品売買を始めて、商売を広げていった。

才谷屋は、元禄14年(1701年)に5代目の八郎兵衛正禎が、虎屋久右衛門から本丁筋3丁目の屋敷を買い取り、念願の持ち家商人となった。その後も、才谷屋は驚異的な発展をみせ、城下町において豪商の播磨屋、富商の櫃屋と肩を並べるほどの財産家となった。

6代目の八郎兵衛直益の時代に、才谷屋は最盛期を迎えた。高知の古い俗謡に、「浅井金持ち、川崎地持ち、上の才谷屋道具持ち、下の才谷屋娘持ち」というものがあり、直益は「道具持ち」といわれた上の才谷である。

明和7年(1770年)3月5日、直益は、土佐西端の幡多郷士の募集に応じ、新規郷士株を購入した。そして、財産分与のとき、長男八平直海が郷士株を相続して「坂本家」を創立し、次男八次直清が才谷屋を相続した。

この郷士株を譲り受けるときには、その姓も一緒に相続するのが習慣であり、坂本は郷士株の姓を名のったにすぎない。だが、才谷屋が明智一門の子孫であるという言い伝えは、一族の中では強く信じられていたようである。

その後、坂本家は、2代目の八蔵直澄、3代目の八平直足(養子)、4代目の権平直方と続き、権平の弟が龍馬直柔である。権平のあとは、娘春猪の婿で養子の坂本清次郎が離籍したため、妹千鶴の次男の坂本直寛(高松習吉)を養子として迎えた。

龍馬のあとは、子がなかったので姉千鶴の長男の高松太郎が、明治4年(1871年)に永世15人扶持を賜り、坂本直と名を改め相続した。その後は、直衛という人があり、北海道に定住している。

本家の才谷屋は、幕末のころにはかつての勢いを失い、嘉永2年(1849年)に9代目の八太郎直与が酒造業を他家に譲り、もっぱら質屋と仕送屋を営んでいた。仕送屋とは、藩士の家禄を抵当に金銭を貸し出すことをその生業としていた。

ところが、明治維新によって封建制度が崩れ士族が没落すると、貸し付けた金の大半が貸し倒れとなった。大打撃を受けた才谷屋は衰退の道をたどり、明治15年(1882年)に破産した。

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