坂本龍馬、落ちこぼれだった少年時代
泣き虫龍馬
少年時代の坂本龍馬は、臆病で意気地の無い子供だった。いつも無口で、10歳を過ぎても寝小便の癖が直らず、近所の人々は「洟垂(愚か者)」と呼んでいた。
12歳のとき、城下小高坂にある楠山庄助の私塾に入ったが成績はふるわず、通学の途中に学友たちから馬鹿にされていたが、言い返すこともできず、いつも泣いて帰っていた。
そして、あまりの出来の悪さから退塾させられ、龍馬は正規の学問を学ぶ機会を失ってしまったのだという。
龍馬落ちこぼれの逸話
少年時代の龍馬が落ちこぼれだったとして、次のような逸話が残されている。
坂崎紫瀾 『汗血千里駒』 春陽堂、明治16年(1883年)龍馬は、12、3歳の頃までは(中略)あたかも愚人に等しく、わけて夜溺の癖さえあれば、その友に凌ぎ侮らるることあれども、あえて悖逆色とてなく、尋常の才ある童子が早く頭角嶄然と人目を驚かす類のなかりし......
弘松宣枝 『阪本龍馬』 民友社、明治29年(1896年)12歳になって楠山の塾に入ったが勉強は進まず、通学途中で学友にからかわれては泣いて家に帰った。
瑞山会編 『維新土佐勤王史』 冨山房、大正元年(1912年)十四歳を過ぐるも夜ばれの癖を絶たず。
千頭清臣 『坂本龍馬』 博文館、大正3年(1914年)世の龍馬伝曰く。初め龍馬は怯懦にして、暗愚なるが如く。居常寡黙、十歳を過ぎても夜溺れ(寝小便なり、土佐の方言)の癖止まず。隣人称して洟垂(痴児の意、亦土佐の方言なり)という。十二歳の時、始めて市外小高坂楠山(或は志和ともいう)某の学舎に入りしも、業進まず通学の途上屡々学友に揶揄せられ、泣きて帰る。
一般的に少年時代の龍馬は愚童だったと伝えられているが、千頭清臣は、著書『坂本龍馬 第2版の増補』で自らこの説を否定し、龍馬の少年時代を知る先輩の話として大器晩成型であったと紹介している。
千頭清臣 『坂本龍馬』 博文館、大正3年(1914年)坂本の幼年時代は真の馬鹿にてありきと評し居る者あり。これは大なる間違いなりと聞く。能く坂本の幼年時代を知れる先輩の話に依れば「坂本は決して馬鹿者にあらず。子供相當分別ありし人なり」と云う。要するに坂本が其姉に贈りし手紙の一に「どうぞ、私を昔の鼻汁垂れと思ひ下され間敷候云々」といふ物あり。是よりして子供時代を事實上まさしく馬鹿なりきと、誤解する人を生じたるかと察せらる。(中略)尤も當時其附近郷の婦人連が誰れ云ふとなく「龍馬さんはぼんやりだ」と謂い居りしと聞く。これ或は実を得たる批評ならむか。所謂大器晩成とは是等の謂なるべく、坂本は断じて現代青年の如き小才子にてはあらざりしなり。[現代語・意訳]
坂本龍馬の幼年時代は、真の馬鹿であったと評している者がいる。これは大きな間違いであると聞く。よく坂本の幼年時代を知る先輩の話によれば、「坂本は決して馬鹿者ではない。子供なりの分別があった子だった」という。要するに坂本がその姉(乙女)に送った手紙の一節に、「どうぞ、私を昔のハナタレと思わないで下さい云々」というものがある。これによって、彼の子供時代を事実上まさしく馬鹿であったと、誤解する人が出てきたと察する。(中略)もっとも近郷の婦人たちは誰言うとなく「龍馬さんはぼんやりだ」と言っていたと聞く。これはあるいは実を得た批評ではないだろうか。いわゆる大器晩成とはこのようなことをいい、坂本は断じて現代青年の如き小才子ではない。
楠山塾退塾の真相
龍馬が楠山塾を退塾した原因は、落ちこぼれだったからではなく、堀内という同級生と口論になり、怒った堀内が抜刀して斬りかかってきたところを、龍馬が文庫のフタで受け止めたという騒ぎを起こしたからであるという。
この一件の報告を受けた楠山は、「非は堀内にあり」として堀内を退塾処分とした。だが、父の八平は、「龍馬もまた罪なきにあらず」として、龍馬を自ら退塾させたのが真相という。
退塾後の龍馬は、正規の学問を受けることなかったが、父の影響で歌の道を学び、中国の古典を読むなどして独学に励んだという。この多感な少年時代に朱子学を学ばなかったことが、封建的な思想から離れ、龍馬の自由で独創的な発想を育んだのであろうと考えられる。
龍馬が愚童だったという逸話が生まれたのは、彼が書き送った『慶応2年12月4日 坂本権平、一同宛』の手紙の中に、
「一、私唯今志のびて、西洋船を取り入たり、又ハ打破れたり致し候ハ、元より諸国より同志を集め水夫を集め候へども、仕合セにハ薩州にてハ小松帯刀、西郷吉之助などが如何程やるぞ、やりて見候へなど申くれ候つれバ、甚だ当時ハ面白き事にて候。どふぞ/\昔の鼻たれと御笑い遣わされまじく候」
という一文があり、龍馬が大器晩成型であることを強調するために、伝記などで脚色されたからである。
