乙女の教育、「怯を矯め勇をはげまし、以って其の性情を一変す」
坂本のお仁王さま
坂本龍馬を知る上で、欠くことのできない女性がいる。「お仁王さま」のあだ名を持つ、三姉の乙女である。
この龍馬より3歳年上の姉は、体が大きく男勝りの性格で、剣術、馬術、弓術、水泳などの武芸に優れていた一方、経書、和歌、絵画を学び、琴、三味線、一絃琴、舞踊、謡曲、浄瑠璃などもたしなむ文武両道の女性であった。
龍馬は12歳で母親を亡くした後、この姉の手によって育てられた。乙女は、夜中に龍馬を起こして寝小便を注意し、朝になると習字を学ばせ、古今集、新葉和歌集などを読み聞かせた。午後には自ら竹刀をとって剣術を仕込み、彼を厳しく鍛えあげたという。
千頭清臣 『坂本龍馬』 博文館、大正3年(1914年)坂本の姉乙女子は体格非常に大きく、坂本家の仁王と言われ、略文武の技に通じたる男勝りの女なりき。夜間或いは竹藪の中に入りてピストルを放つが如き、又弟龍馬の朋友と撃剣の試合をなすが如き、なかなかに通常織弱の婦人にあらず。又『太閤記』・『源平盛衰記』・『三国志』などの軍書類を愛読したり。その多くは、貸本屋より幾千の損料を出して一時借り出せし書なりという。而して彼女の記憶は特に強く、一度目に触るれば、大体の道筋は明白に之を脳中に印象したり。弟龍馬の子供時代には、善く英雄談を試み、之を聞かしたりといえば、精神的に弟を教化する上に於て多大の効力ありしと思わる。[現代語・意訳]
坂本龍馬の姉乙女は体が非常に大きく、坂本家の仁王といわれ、文武両道にして男勝りの女性である。夜間あるいは竹藪の中に入ってはピストルを撃ち、また弟龍馬の友人と剣術の試合をおこなうなど、なかなかに通常の繊弱な婦人ではない。また、太閤記・源平盛衰記・三国志などの軍書類を愛読する。その多くは、貸本屋から幾千の損料を出して一時的に借り出したものであるという。彼女の記憶は特に強く、一度読んだものは、大抵の内容を明白に覚えている。 弟龍馬の子供時代には、よく英雄談を読み聞かせたといい、精神的に弟を教化する上で大きな効力があったと思われる。
姉乙女の世話になったことを、龍馬はのちのちまで感謝しており、「おれは若い時親に死別れてからはお乙女姉さんの世話になつて成長つたので親の恩より姉さんの恩が大い」(川田雪山 『千里駒後日譚』第4回 土陽新聞、明治32年)と語っていた。
坂本乙女の一生
坂本乙女は、天保3年(1832年)1月に郷士坂本八平と幸の三女として生まれた。安政3年(1856年)頃、兄権平の勧めで山内家の御典医岡上樹庵と結婚し、安政5年(1858年)に長男赦太郎、慶応3年(1867年)に長女菊栄(通説では庶子)を出産した。
岡上菊栄は、母乙女の教育方法について次のように述懐している。
宮地仁 『おばあちやんの一生 岡上菊榮伝』 岡上菊栄女史記念碑建設会、昭和25年(1950年)座敷を歩くにも小笠原流のすり足で、飲食等武家の作法通りにし、客膳たる高脚の本膳には古式通りの三汁五采を供え、自分の膳にすら魚は尾頭付きの鯛を常とし、魚肉は表面を食べるのみで、それを裏表たべるのは武士の子にあるまじき下品な振る舞いとして教えられた。また、来客に出す菓子は紅白ニ品をそれぞれ別の高杯に盛り、白菓子を先に次に紅菓子を食べ、三つ以上は食べてはならぬとした。余った分は遊び相手の友達に与えるという風で、家事一切は数ある女中にまかせ、金に糸目をつけず、稽古事と人とのつき合いに日々を送っていた。
だが結婚生活はうまくいかったようで、姑霜とは折り合いが悪く、夫樹庵は癇癪持ちで気に喰わぬことがあると彼女の髪をつかんで殴りつけたという。弟龍馬に宛てた手紙の中に、「尼になり山の奥に入りたい」(「先日下され候御文の内にぼふずになり、山のをくへでもはいりたしとの事聞へ」『文久3年6月29日付龍馬書簡』)、「病気がよくなったら龍馬のもとに出かけたい」(「御病気がよくなりたれバ、おまへさんもたこくに出かけ候御つもりのよし」『慶応3年6月24日付龍馬書簡』)とあることからも、岡上家とは不和であったことがわかる。
慶応3年(1867年)11月頃、樹庵と女中公文婦喜の間に子(菊栄)が生まれたことから、乙女は自ら離縁を申し出て実家に戻った。
その後、慶応4年(1868年)3月に、身寄りがなく頼ってきた龍馬の妻お龍(楢崎龍)と同居を始めたが、わずか数ヵ月で彼女を追い出している。これは、勝ち気な2人の性格が合わなかったこと、お龍の素行が悪かったことに原因があったといわれる。
乙女とお龍の関係について、明治32年(1899年)11月の土陽新聞に掲載されたお龍の回想録『千里駒後日譚』は、龍馬が「しんのあねのよふ二」乙女を慕っていると語る通り、仲が良かったと記している。
川田雪山 『千里駒後日譚』第4回 土陽新聞、明治32年姉さんはお仁王と云ふ綽名があつて元気な人でしたが私には親切にしてくれました。(中略)私が土佐を出る時も一処に近所へ暇乞ひに行つたり、船迄見送つて呉れたのはお乙女姉さんでした。
しかしその一方で、安岡秀峰(海援隊士の安岡金馬三男)が、晩年のお龍から聞いた話を書きまとめた『反魂香』、『阪本龍馬の未亡人』では次のように坂本家とは非常に険悪であったと語っている。
安岡秀峰 『反魂香』 文庫、明治32年所が義兄(権平)及嫂との仲が悪いのです。なぜかといふと、龍馬の兄といふのが家はあまり富豊ではありませむから、内々龍馬へ下る褒賞金を当にして居たのですが、龍馬には子はなし金は無論お良より外に下りませむから、お良が居てはあてが外れる、と言つて殺す訳にもゆきませむから、只お良の不身持をする様に仕向て居たのです。
既に坂本は死むで仕舞ふし、海援隊は瓦解する、お良を養ふ者はさしずめ兄より外にありませむから、夫婦して苛めてやれば、きっと国を飛び出すに違ひない、その時はお良は不身持故、龍馬にかはり兄が離縁すると言へば赤の他人、褒賞金は此方の物といふ心で始終喧嘩ばかりして居たのです。
之れが普通の女なら、苛められても恋々と国に居るでしやうが、元来きかぬ気のお良ですから、何だ金が欲しいばかりに、自分を夫婦して苛めやがる、妾あ金なぞはいらない、そんな水臭い兄の家に誰が居るものか、追い出されない内に、此方から追ん出てやろうといふ量見で、明治三年に家を飛び出して、京都東山へ家を借り、仏三昧に日を送つて居ましたが、坐して喰へば山も空しで、蓄はつきて仕舞ひ、遂には糊口に苦む様になりました。
安岡秀峰 『阪本龍馬の未亡人』 実話雑誌、昭和6年茲で少しくお良さんの性格を書いて置かう。お良さんは当時の婦人気質から言うと、御転婆な、京女には似合はない、大酒呑のおしやべりであつた。俗に言ふ侠の方で、随分人を食つた女であつたらしい。
坂本はぞつこんお良さんに惚れて居たが、坂本を首領と仰ぐ他の同志達は、お良さんを嫌つて居た。第一に生意気な女である、坂本を笠に着て、兎角他の同志を下風に見たがる、かう言つた性格が、坂本の死後、お良さんを孤立させた。坂本の姉のおとめは、誰よりもお良さんが嫌ひであつた。だから、坂本の家は、甥の高松太郎が相続してお良さんは坂本家から離縁された。と言つても其当時、戸籍は無かつたので、離縁に就いての面倒な手続きは要らなかつたのだ。
晩年は「独」と改名し、坂本家の養子坂本直寛(姉千鶴の次男)に養われていた。明治12年(1879年)8月、この年大流行したコレラの感染を恐れて野菜を食べなかったため壊血病にかかり急死した。享年48歳。


