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乙女の教育、「怯を矯め勇をはげまし、以って其の性情を一変す」

坂本のお仁王さま

坂本龍馬を知る上で、欠くことのできない女性がいる。「坂本のお仁王さま」のあだ名を持つ、三姉の乙女である。

この龍馬より3歳年上の姉は、体が大きく男勝りの性格で、剣術の腕前は切紙、馬術、弓術、水泳をこなす武芸に優れた女性だった。さらに、四書五経、和歌、絵画を学び、琴、三味線、一絃琴、舞踊、謡曲、浄瑠璃などにも長けた多趣味の持ち主でもあったという。

龍馬は12歳で母親を亡くした後、この姉の手によって育てられた。乙女は、夜中に龍馬を起こして寝小便を注意し、朝になると習字を学ばせ、古今集、新葉和歌集などを読み聞かせた。午後には自ら竹刀をとって剣術を仕込み、彼を厳しく鍛えあげた。

『坂本龍馬』 (大正3年、千頭清臣著)
坂本龍馬の姉は体が非常に大きく、坂本家の仁王といわれ、文武両道にして男勝りの性格の女性である。夜中や竹藪の中に入ってはピストルを撃ち、また弟龍馬の友人と剣術の試合をするなど、なかなか一般の繊弱な婦人ではない。
また、太閤記、源平盛衰記、三国志などの軍書類を愛読する。その多くは、貸本屋から多額の損料を出して、借りてきたものであるという。彼女の記憶は特に強く、一度読んだら大抵の内容を理解し、明白に覚えている。
弟龍馬の子供時代には、よく英雄談を読み聞かせ、精神的に弟を教化する上で大きな効力があったと思われる。

姉乙女の世話になったことを、龍馬はのちのちまで感謝しており、「乙大姉の名諸国ニあらハれおり候。龍馬より強いという評判なり」(『慶応元年9月9日、坂本乙女・おやべ宛』)、「おれは若い時、親と死別してからはお乙女姉さんの世話になって成長したので、親の恩より姉さんの恩が太い」(『千里駒後日譚』)と語っている。

坂本乙女の一生

坂本乙女は、天保3年(1832年)1月に坂本八平の三女として生まれた。安政3年(1856年)頃、兄権平の勧めで、同じ町内に住む山内家の御典医の岡上樹庵と結婚し、安政5年(1858年)に長男赦太郎、慶応3年(1867年)に長女菊栄(通説では庶子)を出産した。
娘菊栄は、母乙女の教育方法について、次のように述懐している。

『おばあちやんの一生 岡上菊栄伝』
座敷を歩くにも小笠原流のすり足で、飲食等武家の作法通りにし、客膳たる高脚の本膳には古式通りの三汁五采を供え、自分の膳にすら魚は尾頭付きの鯛を常とし、魚肉は表面を食べるのみで、それを裏表たべるのは武士の子にあるまじき下品な振る舞いとして教えられた。また、来客に出す菓子は紅白ニ品をそれぞれ別の高杯に盛り、白菓子を先に次に紅菓子を食べ、三つ以上は食べてはならぬとした。余った分は遊び相手の友達に与えるという風で、家事一切は数ある女中にまかせ、金に糸目をつけず、稽古事と人とのつき合いに日々を送っていた。

ところが、乙女の結婚生活はうまくいかなかったようで、特に姑の霜とは折り合いが悪かった。霜は、嫁の仕事である炊事家事が苦手だった乙女を嫌悪し、不手際に対する小言が絶えなかった。その上、樹庵には癇癪持ちという欠点があり、気に喰わぬことがあると彼女の髪をつかんで殴りつけたという。

乙女は、弟龍馬に書き送った手紙の中で、何度も愚痴(尼になる、龍馬を追って国を出る等)をこぼしていたが、夫樹庵と女中の間に子(菊栄のこと)が生まれたことが原因で、遂に自ら離縁を申し出て実家の坂本家に戻ったのである。

その後、慶応4年(1868年)3月に、身寄りがなく頼ってきた龍馬の妻お龍(坂本鞆)と同居を始めたが、わずか数ヵ月で彼女を追い出している。これは、勝ち気な2人の性格が合わなかったこと、お龍の素行が悪かったことに原因があったと考えられている。

彼女たちの暮らしぶりについては、土陽新聞に掲載されたお龍の回想録『千里駒後日譚』にある。この中では、かつて龍馬が「しんのあねのよふ二」お龍は乙女を慕っていると語っている通り、2人の仲が良く描かれている。

『千里駒後日譚』 (明治32年、土陽新聞掲載)

乙女姉さんはお仁王というあだ名されただけあって中々元気で、雷が鳴る時などは向鉢巻をして太鼓を叩いてワイワイと騒ぐ様な人でした。権平兄さんと喧嘩でもする時はチャンと端座ってひじを張って、兄さんの顔を見つめ、「それはイケませぬ」と云う様な調子でした。

龍馬は大変姉さんと仲好しで、何時でも長い長い手紙を書きました。乙女姉さんは権平兄さんに隠して書くので、「龍馬に書いている手紙を色男かなんかにやる様に、俺に隠さないでもいいじゃないか」と怒っていたそうです。

姉さんはお仁王というあだ名があって元気な人でしたが、私には親切にしてくれました。私が土佐を出る時も一緒に近所へ暇乞いに行ったり、船迄見送ってくれたのは乙女姉さんでした。

しかし一方で、安岡重雄(海援隊士の安岡金馬三男)が、晩年のお龍から聞いた昔話を書きまとめた『反魂香』では次のようになり、坂本家とは非常に険悪であったと語っている。

『反魂香』 (明治32年、安岡重雄著)
私は義兄(権平)および義姉(乙女)とは仲が悪かった。龍馬の兄の家はあまり豊かではなく、義兄は龍馬に下る報奨金をあてにしていたので、妻である私が邪魔だった。だからといって殺すわけにもいかないから、お龍が不身持ちをするようにし向けてきた。
既に坂本は死んでしまうし、海援隊も瓦解し、お龍を養うのは兄のほかいないから、夫婦していじめてやれば、きっと国を飛び出すに違いない。その時は、お龍は不身持ちゆえ、龍馬に代わって兄が離縁すれば、報奨金は兄のものになるという心で、いつもお龍と喧嘩していた。
これが普通の女なら、苛められても恋々と国にいるけど、元来勝ち気のお龍だから、何だ金が欲しいばかりに夫婦していじめやがる、私は金なんていらないし、そんな水くさい兄の家に誰がいるものか、追い出される前に、こっちから出て行ってやろうと家を飛び出しました。

晩年の乙女は「独」と改名し、坂本家の養子坂本直寛(姉千鶴の次男)に養われていた。そして明治12年(1879年)8月、この年大流行したコレラの感染を恐れて野菜を食べなかったためにビタミンCが欠乏し、壊血病にかかり急死した。享年49歳。

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