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坂本龍馬、江戸に留学し千葉定吉道場入門

日根野弁治に入門

嘉永元年(1848年)、14歳になった坂本龍馬は、高知城下築屋敷にある小栗流日根野弁治道場に入門した。小栗流は将軍家直臣の小栗仁右衛門正信が流祖であるといわれ、看板は和術だが剣術・居合・小太刀・槍術・薙刀術など諸武芸を総じて教えていた。

剣術との出会いは、龍馬に大きな変化をもたらす。道場での荒稽古に鍛えられ、臆病で気が弱かった気質は一変した。剣の筋はよく、自信をもった龍馬は熱心に修行に打ち込み、本人もまわりも驚くほどの上達をみせたのである。

やがて骨格はひきしまり、身長は5尺7寸(約173cm、当時の平均身長は約156cm)にまでに達し、心身ともにたくましい若者へと成長した。

嘉永6年(1853年)3月、19歳になった龍馬は、師匠日根野から初伝目録にあたる『小栗流和兵法事目録』を授けられた。そして、さらなる剣術修行を重ねるため藩庁から15ヶ月間の国暇を許され、溝渕広之丞とともに江戸へ出発した。

このとき父八平は、『修行中心得大意』と題する訓戒状を書いて与えている。海援隊士の関義臣の遺談によると、龍馬はこれを紙に包み「守」の一字を自書し、のちまで肌身から離さず持っていたという。

『修行中心得大意』
 修行中心得大意
一、片時も不忘忠孝、修行第一之事
一、諸道具に心移り、銀銭不費事
一、色情ニうつり、国家之大事をわれ、心得違有間じき事
右三ヶ条胸中ニ染メ修行をつミ、目出度帰国専一ニ候
以上
丑ノ三月吉日 老父(印)
  龍馬殿
一、片時も忠孝の心を忘れず、修行を第一とすること。
一、色々な道具に心を奪われ、金銭を使わないこと。
一、色事に心を移して、国家の大事を忘れ、心得違いをすることのないこと。
右の三ヶ条を胸に刻んで修行を積み、めでたく帰国するように。
以上。

千葉定吉に入門

龍馬が、江戸における剣術の師匠に選んだのは、北辰一刀流の千葉定吉である。定吉は、江戸三大道場の1つ北辰一刀流の開祖千葉周作の実弟であり、周作の「大千葉」に対し「小千葉」と呼ばれていた。

嘉永6年(1853年)4月中旬頃に江戸に到着し、築地の土佐藩中屋敷に寄宿した龍馬は、そこから定吉の桶町千葉道場(東京八重洲京橋)に通い修行に励んだ。

ただし、定吉は鳥取藩江戸屋敷の剣術師範に召し抱えられていたので、長男の重太郎が、師範代として指導にあたった。このとき重太郎は30歳で、龍馬とは兄弟の様に親しかったという。

黒船の脅威

龍馬が修行を始めた矢先の嘉永6年(1853年)6月3日、天下を震撼させる大事件が起きた。アメリカの東インド艦隊司令官ペリーが、4隻の黒船を率いて突如浦賀に来航したのである。ペリーの目的は、鎖国を続ける幕府を開国させることにあり、要求を受け入れない場合には大砲と軍艦を差し向ける砲艦外交で迫った。

6月6日、幕府は江戸湾岸に藩邸をもつ諸藩に対して、海岸警備のための動員を命じている。このため土佐藩は藩邸のある品川を警備をすることになり、江戸詰めの藩士が下屋敷に集められた。このとき剣術修行中であった龍馬も臨時御用の名目で召集され、9月まで品川藩邸につとめていた。

黒船来航で江戸は、大騒ぎとなった。龍馬はこの様子を父宛の手紙に、「異国船が所々に来ているそうなので、戦がはじまるのも近いことかと思われます。その節には異国人の首を打ち取り、土産にして帰国するつもりです」とつづり、攘夷の気炎をあげている。

『嘉永六年九月二十三日 父坂本八平直足宛』
一筆啓上仕り候。
秋気次第に相増し候処、愈々御機嫌能御座成らせらる可く、目出度千万存じ奉り候。
次に私儀無異に相暮申し候。御休心成下らる可く候。
兄御許にアメリカ沙汰申し上げ候に付、御覧成らせらる可く候。
先ずは急用御座候に付、早書乱書御推覧成らせらる可く候。
異国船御手宛の儀は先ず免ぜられ候が、来春は又人数に加わり申す可く在じ奉り候。
  恐惶謹言。
  龍
 九月廿三日
 尊父様御貴下
御状下せられ、有難き次第に在じ奉り候。
金子御送り仰せ付けられ、何よりの品に御座候。
異国船処々に来り候へば、軍も近き内と在じ奉り候。
其節は異国の首を打取り、帰国仕る可く候。かしく。

佐久間象山に入門

沿岸警備の任務をとかれた龍馬は、築地の藩邸に戻り、桶町千葉道場での剣術修行を再び開始した。しかし、黒船の脅威を目の当たりにした龍馬は、西洋式砲術を学ぶ必要性を感じて、嘉永6年(1853年)12月1日に、西洋兵学家の佐久間象山の門をたたいた。

象山は「東洋道徳、西洋芸術」を唱える西洋兵学の第一人者として知られ、砲術・兵学・科学・医学と幅広い知識を持つ人物であった。門下には、長州藩の吉田松陰、長岡藩の小林虎三郎、河井継之助、幕臣の勝海舟、肥後藩の宮部鼎蔵、土佐藩の溝渕広之丞らが名を連ねていた。

なお、龍馬が象山から砲術を学んだのは、わずか4ヵ月と短い期間で終わっている。これは、翌安政元年(1854年)4月、象山が弟子吉田松陰の密航事件に連座し蟄居を命じられ、塾が閉鎖されてしまったからであった。

黒船来航の影響

嘉永6年(1853年)6月3日、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーは、日本を開国させるべく、4隻の軍艦(旗艦サスケハナ号、ミシシッピ号、サラトガ号、プリマス号)を率いて浦賀に来航した。

『太平の眠りをさます上喜撰 たった四はいで夜も寝られず』

前年のオランダ風説書により黒船来航を事前に知っていた幕府は、これまでの外国船同様に追い返そうとした。だが、ペリーはこれを断固として拒否し、アメリカ大統領フィルモアの国書を受け取るよう要求した。

そして、態度を曖昧にする幕府に対し、威圧をかける目的でミシシッピ号を測量と称して江戸湾内に進めた。この戦争準備ともとれる示威行動に幕府は危機感を抱き、協議をおこなった結果、国書の受け取りを決めた。

6月9日、幕府を代表して浦賀奉行の戸田氏栄が久里浜で国書を受け取り、将軍徳川家慶が病気であることを理由に、その回答は翌年春に出すことを約束した。ペリーは1年後の来航を告げ、6月12日に日本から去った。

それから10日後、12代将軍家慶が死去した。ところが、その後を継いだ徳川家定は病弱で幕政を担う力がなく、幕府中枢は混乱し迷走した。これまでの慣例を破り、幕政参加の権利を持たない諸大名や幕臣らに国書を回覧し、広く意見を求めたのである。

この結果、指導力の無さが露呈した幕府権威は失墜し、国政は幕府の独裁ではなく公儀制で決定するべきだという考えが広まった。さらには幕府の弱腰外交に対する批判が高まり、日本は天皇が統治する神聖な国であり、外国のケガレを排除するという攘夷思想が流行していった。

翌嘉永7年(1854年)1月、ペリーは軍艦7隻を率いて再び来航した。約1ヵ月にわたる協議の末、幕府は開国要求を受け入れ、3月3日に神奈川横浜村で「日米和親条約」が締結された。この条約により、下田・箱館の開港、漂流民保護、下田への領事赴任、物資補給という片務的最恵国待遇を約束させられた。

その後、続いてイギリス、ロシア、オランダなどの列強諸国との間にも同様の不平等条約が結ばれ、3代将軍徳川家光以来、200年あまり続いた鎖国制度は完全に崩壊した。

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