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坂本龍馬、河田小龍と交わした海軍創設の盟約

剣術修行の成果

安政元年(1854年)6月23日、坂本龍馬は15ヶ月間の江戸留学を終え、故郷土佐に帰国した。そして2ヶ月が経過した閏7月、師匠日根野弁治から『小栗流和兵法十二箇条並二十五箇条』を授けられた。これは中伝の目録にあたり、江戸での修行の成果が認められたものであった。

河田小龍との出会い

龍馬は、帰国した安政元年(1854年)の11月頃、高知城下築屋敷に住む画家の河田小龍を訪ね、会談を申し込んでいる。この小龍は、狩野派の画家であるが儒学・洋学にも造詣深く、当時土佐随一の知識人であった。

長崎で蘭学を学んだ小龍は、2年前の嘉永5年(1852年)7月に藩命を受け、アメリカから帰国した中浜万次郎の取り調べをおこなった。そして、このとき万次郎から聞いた海外事情を『漂巽紀略』という著書にまとめ上げ、藩主山内豊信に献上している。

また安政元年(1854年)8月には、土佐藩から薩摩藩に派遣された視察団の一人として、砲奉行や砲術指南役とともに鹿児島に出張し、大砲鋳造のための反射炉や近代兵器及び造船工場などを見学していた。

龍馬の求めに対し、小龍は自分はただの絵描きに過ぎないと応じる様子がなかった。だが龍馬の熱意に動かされ、海外の事情や近代文明の知識を説いた。また、「外国の汽船を買い求め、同志を集めて乗組員とし、旅客や官私の荷物を東西に運搬して、その運賃を得ながら同時に航海術を練習することが富国強兵への道である」と切論した。

この構想を聞いた龍馬は手を叩いて喜び、「僕は若い頃から剣術を好んできたが、剣では所詮一人の敵しか相手にできない。外国に勝つためには何か大業を成さなければ、志を果たすことは難しいと思っていた。君の意見は僕の考えと一致する。これからは互いに協力しよう」と固く盟約を結んだという。

また、龍馬は再び小龍のもとを訪れ、「船は金策さえできれば手に入るわけだが、これを運用する同志がなければ何の用にも立たない。僕はこの点について悩んでいるのだが、何か工夫があるか聞きたい」と尋ねた。

すると小龍は、「従来より俸禄に満足している人に志がない。在野にいる優秀な人物は、志はあるが行動を起こすための金銭が無く、何もできないでいることを嘆き憤る者も少なくない。この者たちを教育すれば人材を確保することができる」と答えた。

龍馬もこの案に賛同し、「もっともの意見だ。これから君は内にて同志の教育に専念して欲しい。僕は外にて汽船を手に入れることに骨を折ることにする」と、海軍創設の役割を分担して、それぞれが尽力することになったという。

『藤陰略話』
江戸から帰国した龍馬は、西洋事情に詳しい河田小龍のもとを訪ね、「事態の事にて君の意見必ずあるべし。聞たし」と時勢を処する意見を求めた。
ところが小龍は、「吾れは一介の画人で文人隠士に過ぎない、何ら君の真情に答える意見等持合わせぬ」と答え追い返そうとした。
だが龍馬が、「今日の時世において、筆硯の影に隠れて文雅に安逸を求める時代ではない。我々若者がかくも日夜悶々の日々を送る現在、何卒君が進むべき指針を与え給え」と迫ると小龍は、「愚存は攘夷はとても行わるべからず。仮令開港となりても、攘夷の備なかるべからず」と自説を語った。
そして、「此迄我邦に用ゆる所の軍備益なかるべけれども、未だ新法も開ざれば、何や歟や取用いざるべからず。其中に海上の一事に至ては何とも手の出べき事なし。已に諸藩に用い来りし勢騎船などは、児童の戯にも足らぬもの也。先ず其一を云うには弓銃手を乗せ浦戸洋へ乗出せば、船は翻転し弓銃手とも目標定めがたく、其上に十に七、八は皆船酔して矢玉を試ムむまでに及ばず。たまたま船に堪ゆるものありとも一術を施に及ばず。大概沿海諸藩皆此類なるべし。箇様のことにて外国の航海に熟したる大鑑を迎えしとき、何を以て鎖国の手段ヲをなすべきや。其危きは論までもなきこと也。今後は我拝に敵たわずとも、外船は時に来ること必然也。内には開鎖の論定まらず、外船は続々来るべし。内外の繁忙多端にして国は次第に疲弊し、人心は紛乱し、如何とも諠方なく遂に外人の為、呂宋の如く牛皮に包まるることにも至らんや。此等のこと藩府などへ喋々云立たりとも聞入べきことにもなく、実に危急の秋なるべし。何為ぞ黙視し堪ゆべけんや。故に私に一の商業を興し、利不利は格別、精々金融を自在ならしめ如何ともして一艘の外船を買求め、同志の者を募り、之に附乗せしめ、東西往来の旅客官私の荷物等を運搬し、以て通便を要するを商用として、船中の人費を賄い海上に練習すれば、航海の一端も心得べき小口も立べきや。此等盗を捕、縄を造るの類なれども、今日より初めざれば、後れ後れしして前談を助くるの道も随て晩れとなるべし。此のみ吾所念の所なり」と構想を披露した。
龍馬は手を叩いて喜び、「僕は若年より撃剣を好みしが、是も所謂一人の敵にして、何にか大業をなさざれば、とても志を伸ること難しとす。今や其時なり、君の一言、善く吾意に同ぜり。君の志何ぞ成らさらんや。必ず互いに尽力すべし」と堅く盟約を結び別れた。
後日、再び龍馬は小龍のもとを訪れ、「船且器械は金策すれば得べけれども、其用に適すべき同志無くんば仕方なし。吾甚だ此に苦しめり。何か工夫のあるべきや」と尋ねた。
すると小龍は、「従来俸禄に飽たる人は志なし。下等人民秀才の人にして、志あれども業に就べき資力なく、手を拱し慨歎せる者少からず。それ等を用いなば多少の人員もなきにあらざるべし」と答えた。
龍馬も承諾し、「如何にも同意せり。其人を造ることは君之を任し玉へ、吾は是より船を得を専らにして、傍ら其人も同じく謀るべし。最早如此約せし上は、対面は数度に及まじ、君は内に居て人を造り、僕は外に居て船を得べし」として別れを告げた。

徳弘孝蔵の砲術稽古

安政2年(1855年)11月、龍馬は、長岡郡仁井浜でおこなわれた徳弘孝蔵の砲術稽古に参加している。兄の権平がこの年9月に入門しており、龍馬自身は安政6年(1859年)9月入門帳に自著した。

徳弘は、西洋式砲術の開祖である高島秋帆の流れをくむ砲術家で、佐久間象山から学んだ砲術を深めるためのことであった。

このとき龍馬は、浜辺で12斤軽砲を操り、270目玉の弾を仰角3度に、導火線1寸3歩に火を付け、7町(約700m)先に着弾させている。

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