坂本龍馬、幻の剣術試合と北辰一刀流免許皆伝の謎
江戸再留学
安政3年(1856年)8月20日、坂本龍馬は、願い出た剣術修行が藩庁に認められ、再び江戸へ向かった。9月下旬江戸に到着し、前回同様に築地中屋敷藩邸へ入り、先に出張していた武市半平太(瑞山)、大石弥太郎と同宿した。
のちに土佐勤王党を組織した武市は、龍馬と親戚関係にあり、6歳年上の28歳であった。謹厳な武市が龍馬の大言壮語を評して「坂本の法螺」といえば、龍馬は「武市の窮屈」と応じ、そのあごが長いことをひやかして「アギ」と呼んだ仲であった。
武市は、すでに土佐にいる頃に小野派一刀流を修めており、城下新町田淵で剣術道場を開き、下士たちの崇敬を集めていた。『維新土佐勤皇史』に、「瑞山身長六尺、隆準修ガク、眼に異彩あり。その顔蒼白、喜怒色にあらわれず。人あるいは墨龍先生とよぶ。一たび口を開けば音吐高朗、人の肺腑に徹す」とある。
武市は京橋浅蜊河岸の桃井春蔵道場に通い、翌年皆伝を受けると同時に塾頭に抜擢されている。龍馬は桶町千葉道場に再び入門し、今回は北辰一刀流本家の玄武館にも足を運び、剣術修行に励む日々を送った。
安政剣術試合
安政4年(1857年)10月3日、江戸鍛冶橋の土佐藩邸において、長州藩の桂小五郎、肥後藩の上田馬之助、豊後藩の村上圭蔵、千葉周作門下の海保帆平ら当代一流の剣客が出場した剣術試合が開催された。
龍馬もこの試合に参加しており、島田駒之助なる人物と対戦して勝利を収めている。桂は福富健次に勝利し、斎田尾三郎と引き分けた。*1
続く安政5年(1858年)10月25日、桃井春蔵の士学館で、千葉家を招いた剣術試合がおこなわれた。龍馬は、勝ち抜き戦で連戦連勝だった桂小五郎と立ち会うことになった。
10本の勝負は互角で、11本目の勝負のとき、桂が上段で打ち込んできたところを得意の利生突き(鉄砲突き)で打ち破っている。そのとき見物人の大歓声で、道場は破れんばかりであったという。
この試合を観戦していた武市半平太は、故郷に送った手紙に「若し坂本負け候時は野生の順番と相成り候処、幸にして天下に恥をさらさざるは此上の幸に候。あまりうれしさに拙画を以て当日の有様を御高覧に供し候間、御一笑下され度、先ずは寒気御顧専一に候」と書きつづった。*2
北辰一刀流長刀法目録
龍馬の修行期間は安政3年(1856年)8月から約1年間という期限が決められていたが、途中でさらに1年間の延長が認められた。そして安政5年(1858年)1月、24歳のときに、千葉定吉から『北辰一刀流長刀法目録』が与えられた。
これは現存する唯一の龍馬の北辰一刀流目録で、免許皆伝の証と伝えられてきたが、現在では薙刀の初伝であることが判明している。
ちなみにこの伝書は「千葉重太郎一胤」の名前に続いて、「千葉佐那女、千葉里幾女、千葉幾久女」と定吉の3人の娘の名が署名されており、龍馬と佐那が婚約した記念に定吉が授けたものであるとも伝えられている。
龍馬は他流試合を数多くこなし、この頃には剣術家として知られた存在になっていた。当時の生活の様子を伝えるものとして、帰国する直前に書かれたと推測される姉乙女宛の手紙が残されている。
『安政五年七月頃 坂本乙女宛』[表面]
此状もつて行者ニ、せんの大廻の荷のやり所がしれん言ハれんぞよ。此男のに物ぢやあきに、状が龍馬から来たけんどまちがつたと御いい下さらる可く候。
先便差出し申し候しよふ婦は皆々あり付申候よし、夫々に物も付申し候よし、其荷は赤岡村元作と申し候ものゝにて候。此状もちて行くものニて御座候。めしをたいてもらい候者ニて候。誠ニよき者故よろしく御取り成す可く成り下せられ候。
大いそぎにて候故、御すいりよふすいりよふ。
此節は○がなく候故いけなく相成り申し候。私しかへりは今月の末より来初めにて候得共、御国へかへり候はひまどり申す可くと存じ奉り候。
又、明日は千葉へ、常州より無念流の試合斗り
[裏面]
申し候。今夜竹刀小手のつくらん故、いそがしく御状くは敷事かけ申さず候。
かしこかしこかしこ
坂本龍
これは半紙一枚の表裏に書かれたもので、先に大廻り船便で送った荷物の中にこの手紙を携えゆく赤岡村出身の元作の荷もあると注意した上で、元作は龍馬の使用人で良い人物なので労ってくださいと頼んでいる。また、先便で送った菖蒲が根付いたことを知り喜んでいる。
当時の龍馬は金に困っていたようで、今は金が欠乏しているので直航便を利用することができず、今月末か来月初めに江戸を出発するが、帰国するには時間がかかることを伝えている。
最後に明日は千葉道場で水戸から来る神道無念流との試合があり、今夜は竹刀籠手をつくろうのが忙しくて詳しい手紙が書けないことを断っている。
こうして、桶町千葉道場および玄武館での修行期間が満了した龍馬は、この年の7月頃、江戸に別れを告げて故郷土佐へ旅立った。このとき旅費の全てを師匠に献じ、懐中には一銭も残さず、昼に剣術試合の謝礼を得て夜は安宿に泊まる武者修行をしながら東海道を下ったという逸話が残されている。
幻の剣術試合
▼*1 土佐藩邸剣術試合
安政4年(1857年)10月、江戸鍛冶橋土佐藩邸でおこなわれた剣術試合は、坂本龍馬達人説の根拠とされてきたが、次の理由で後世の創作であることが判明している。
⇒同時代の史料『山内家日記』に該当する記述がない。
⇒出場者である桂小五郎の自伝『木戸孝允公伝』に該当する記述がない。
⇒剣術試合が開催された時、江戸に滞在していない人物が出場している。
▼*2 士学館剣術試合
安政5年(1858年)10月、士学館でおこなわれた剣術試合の模様は、士学館塾頭をつとめていた武市半平太が故郷の小南五郎衛門に宛てた手紙に書かれている。
しかし、この剣術試合があった年の9月に龍馬は土佐に帰国しており、時期的にこの試合に参加することは不可能である。また桂小五郎も10月には萩への帰国の途についており、武市も前年の9月に土佐に帰国している。
つまり、剣術試合のおこなわれた当日3人は江戸に滞在しておらず、武市の手紙は後世に作られた偽物だった。
龍馬の剣術の実力は?
龍馬は、一流の剣客であったと伝わる。しかし近年では、その根拠とされてきた『北辰一刀流長刀法目録』が薙刀の免許であることが判明したことから、実際の腕前は二流であったとする説がある。
「名門の北辰一刀流では、薙刀の目録しか伝授されていない」、「寺田屋で幕吏の襲撃を受けたとき、刀を抜かずに拳銃で応戦している」等が、この説の論点である。
龍馬の通算3年間に渡る桶町千葉道場での修行で与えられた免許は薙刀のみではあるが、2度目の江戸修行の3年後に龍馬は、小栗流の皆伝書である『小栗流和兵法三箇條』を日根野弁治から授かっている。
北辰一刀流の段位は、「初目録」、「中目録免許」、「大目録皆伝」の3段階あるが、仮に龍馬の腕が悪くとも、初目録程度は確実に伝授されているはずである。
また、千葉定吉の娘佐那は、「父は坂本さんを塾頭に任じ、翌5年1月北辰一刀流目録を与えました」と語り残しており、龍馬が北辰一刀流で授かった免許は、長刀目録だけではなく、単にその他は現存していないと考える方が自然である。

