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「龍馬誠実可也の人物、併せて撃剣家、事情迂闊、何も不知とぞ」

水戸の遊説家

安政5年(1858年)11月19日、江戸から帰国した坂本龍馬のもとに、加藤於莵之介と菊地清兵衛を名のる手紙が届いた。加藤の本名は住谷寅之介、菊池は大胡聿蔵といい、水戸藩の尊皇攘夷志士であった。彼らは、孝明天皇から水戸藩に出された密勅の内容を伝えるために西国諸藩を遊説していた。

手紙には、土佐入国の斡旋と会談の申し込みが書かれていた。龍馬は会談に応じる旨を返書にしたため、川久保為介と甲藤馬太郎を連れ、藩境の立川に逗留していた住谷を訪問した。住谷は、このときのことを日記に次のように記している。

『住谷信順廻国日記』
同二三日、龍馬(二五歳)尋来る。川久保為介(二一歳)、甲藤馬太郎(同)。龍馬誠実可也の人物、併撃剣家、事情迂闊、何も不知とぞ。
[中略]
外両人は国家の事一切不知。
龍馬も役人名前更に不知、空敷日を費し遺憾々々。

この中で住谷は、誠実でかなりの人物であると龍馬を評価している。しかしながら、一介の剣術家であり、世情にうとく役人の名前なども知らず、空しく日々を過ごしていると落胆している。

結局、目的であった土佐入国を果たすことができなかった住谷らは、失意の内に土佐を去ることになった。

学問のすゝめ

事情迂闊と評された龍馬だが、この頃から学問に励み、和文と漢文の書物を読みあさり、特に好んで歴史書を読んでいたという。さらに安政6年(1859年)9月には、西洋式砲術の技術を磨くため徳弘孝蔵に正式に入門し、高島流を学んだ。

◆資治通鑑を読む

江戸剣術修行を終えて土佐に帰国した龍馬は、熱心に読書を始め、暇をみつけては同志の門田為之助、大石弥太郎のもとを訪ね、国事について語り合っていた。

ある日大石は、門田から「近頃、アザ(龍馬のあだ名)が読書を始めたそうだ」という話を聞いた。大石は、普段から龍馬が本を読まないことを知っていたので、直接会い噂の真偽を確かめることにした。

すると、確かに龍馬は読書をしており、「時勢が僕に読書の必要性を感じさせた。だから、僕はこれを読む」と、読んでいた『資治通鑑』を示した。

これは中国の歴史書であり、訓点のない白文であったから、大石はなおもあやしんで、「ここで聞いているから音読してくれないか」と頼んだ。

龍馬は承知し、声を出して音読を始めたが、読みは間違いだらけで、訓点を無視して棒読みするだけのものだった。

大石が驚いて、「君はそれで意味がわかるのか?」と尋ねると、龍馬は、「物事の要点さえ掴めればそれでよい。わざわざ細かいことを気にする必要もあるまい」と平然と答えたという。

◆蘭学を学ぶ

ある日龍馬は、蘭学者のもとでオランダ政体論についての講義を聴講していた。講義の途中、突然龍馬が、「僕が思うに、先生は原文を間違って訳しています。もう一度、よく調べてみて下さい」と指摘した。

これを聞いた蘭学者は憤慨し、「私は君の先生だ。どうして間違った講義を教えなければならないのか」と反論した。しかし、龍馬も「それでは、原文が間違っています。それでは論理が通りません」と言って譲らなかった。

そこで蘭学者が念のためもう一度教科書を読み直すと、龍馬の指摘するとおり翻訳に誤りがあることがわかった。蘭学者は、「申し訳ない。私は訳を間違えていた。確かにこれでは本来の意味が通らない」と龍馬に謝罪した。

蘭学者は、訳を聴いているだけで、龍馬が原文を理解したことに大変驚いたという。

桜田門外の変

安政5年(1858年)9月、大老井伊直弼は、孝明天皇が水戸藩に勅書を下賜した「戊午の密勅」事件をきっかけに、将軍継嗣問題で対立していた一橋派及び日米修好通商条約の調印を批判をした公卿・諸藩士に対する徹底的な弾圧を開始した。

この「安政の大獄」により、水戸藩には家老の安島帯刀、京都留守居役の鵜飼吉左衛門父子、茅根伊予之介ら4名が処刑され、藩主徳川慶篤は差控、前藩主徳川斉昭は国許永蟄居という重い処分が下された。

さらに、越前藩の橋本左内、長州藩の吉田松陰、儒学者の頼三樹三郎ら尊皇攘夷志士を処刑し、一橋藩主の一橋慶喜、越前藩主の松平慶永(春嶽)、尾張藩主の徳川慶勝らが隠居・謹慎などに処せられた。

一橋派だった土佐藩主山内豊信も、安政6年(1859年)2月に隠居処分が勧告され、山内豊範に家督を譲り、容堂と号して隠居していた。同年10月には、公卿三条実万と通じていたことを理由に、謹慎が命じられた。

これによって幕府の権威は強化されたようにみえたが、大弾圧に対する反動は大きかった。水戸・薩摩藩の浪士18名が、万延元年(1860年)3月3日、江戸城に登城中の井伊を桜田門外において暗殺したのである。

この知らせが土佐に伝わったとき、快挙と喜ぶ者もあれば、国法を破るものだと非難する者もあった。だが龍馬は、「諸君、そんなに興奮することはない。彼らは臣下としてするべきことをしただけである。自分もまた他日ことに当たる時はこのような働きをするつもりだ」と語り、郷士仲間はその志に感服したという(『維新土佐勤王史』)。

永福寺門前事件

文久元年(1861年)3月4日、土佐藩にくすぶる上士と下士の対立が表面化する刃傷事件がおこった。

当夜、桃の節句の酒宴を終えた上士の山田広衛が、茶人の松井繁斉と連れ立って歩いていたところ、永福寺の門前で、下士の中平忠次郎と突き当たった。中平は詫びを入れて立ち去ろうとしたが、山田は無礼を許さず、中平を斬り捨てた。

このとき中平と一緒にいた宇賀喜久馬は、現場から逃げ出し、事の次第を中平の兄、池田寅之進に急報した。池田は押っ取り刀で永福寺に駆けつけると、近くの小川で刀を洗っている山田を発見し、背後から斬り伏せた。近家から提灯を借りてきた松井も、池田に斬り捨てられた。

この事件は、翌日瞬く間に広がった。山田の家には上士たち、池田の家には下士たちが集結し、互いに対決する気運が高まり城下は騒然となった。龍馬も他の同志たちとともに、池田方に駆けつけていた。

このままでは両陣営の衝突は避けられ状況の中、老巧の者が、「池田も仇を討った以上は、今更命を惜しむ理由も無い。そうかといって上士へオメオメ引き渡すわけにもいかない。ここは池田が潔く腹を切って、武士の名誉を立てるしかあるまい」と主張し、池田と宇賀の両名が切腹することで事態の決着をつけた。

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