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坂本龍馬、武市瑞山の「土佐勤王党」に第九番目の加盟

土佐勤王党の結成

安政7年(1860年)7月、攘夷の高まりを感じた武市瑞山(半平太)は、剣術修行と称して中国、九州を遊歴し、西国諸藩の情勢を視察した。そして翌年には、再び江戸に赴き、長州藩の久坂玄瑞、桂小五郎、薩摩藩の樺山三円ら尊攘志士たちと意見を交わした。

彼らは会談の中で、「自藩の藩論を勤王に統一し、藩主を奉じて京都へ上り、その勢力を背景に朝廷の権威を強化し、幕府に対抗する」ことを誓約した。

武市は、諸藩の有志との連携を深めると同時に、勤王運動における土佐藩の立ち後れを自覚する。そして、佐幕開国とする藩論を刷新するべく、同志の結集することを決意したのである。

こうして文久元年(1861年)8月、「土佐勤王党」は江戸で結成された。武市瑞山を筆頭に、大石弥太郎、島村衛吉、間崎哲馬、河野万寿弥、岡田以蔵らが血判署名した。盟約書は大石が起草し、武市が清書をおこなった。

この勤王党の主張は、あくまで藩を通じて尊皇攘夷の実現をはかるとしたものである。したがって、藩の枠を越えて連合し、義挙のためならば藩が潰れても構わないといった久坂の主張とは、大きく異なっていたのである。

『土佐勤王党盟約文』
盟曰
堂々たる神州戎狄の辱しめをうけ、古より伝はれる大和魂も、今は既に絶えなんと帝は深く歎き玉う。しかれども久しく治まれる御代の因循委惰という俗に習いて、独りも此心を振い挙て皇国の禍を攘う人なし。
かしこくも我が老公夙に此事を憂い玉いて、有司の人々に言い争い玉えども、却てその為めに罪を得玉いぬ。斯く有難き御心におはしますを、など此罪には落入玉いぬる。君辱かしめを受る時は臣死すと。
況むや皇国の今にも衽を左にせんを他にや見ゆるべき。彼の大和魂を奮い起し、異姓兄弟の結びをなし、一点の私意を挟まず、相謀りて国家興復の万一に裨補せんとす。
錦旗若し一たび揚らバ、団結して水火をも踏まむと、爰に神明に誓い、上は帝の大御心をやすめ奉り、我が老公の御志を継ぎ、下は万民の患をも払はんとす。左れば此中に私もて何にかくに争うものあらば、神の怒り罪し給うをもまたで、人々寄つどいて腹かき切らせんと、おのれおのれが名を書きしるしをさめ置ぬ。
 文久元年辛酉八月
  武市半平太小楯
[以下連署血判]
盟約
神聖な我国が異国の侵略を受け、古来から伝わる大和魂も今は消えて無くなってしまったのかと天皇は憂慮しておられる。しかしながら、平和な世の遊惰に流され、この心を奮い上げて皇国の禍を払いのけようとする者は、一人もいない。
我が老公(山内容堂)はこの事を心配し、幕府と談判に及んだが、かえってそのために罪を得た。立派なお考えをもっているのになぜ罪に落とすのか。君主が辱めを受けたとき、臣下は死を覚悟して恥をそそぐべきである。
今や皇国の危機は、今日より大なるはない。土佐の有志は、大和魂を奮い起こし、一致団結し、一点の私心をはさまず、協力して国家の復興に尽くさねばならない。錦の御旗が掲げられるときは、団結して水火も辞さない事を誓い、天皇の心を案じ奉り、我が老公の意志を継ぎ、人民の不幸をも取り除きたい。
この中に私心をもって争う者があれば、神罰が当たる前に同志の手で切腹させることを誓い、ここに銘々の名を書き留めておく次第である。

翌月、武市は帰国し、土佐7郡の同志の糾合につとめた。その結果、郷士および庄屋層を中心に200余名が加盟し、坂本龍馬も第9番目に署名加盟した。上士層では、小南五郎右衛門、佐々木三四郎、谷干城らが勤王党に理解を示していたが、実際に加盟したのは宮川助五郎ら数名にとどまった。

武市は、この一党を統制しながら藩庁に挙藩勤王を進言したが、藩政を握っていた参政吉田東洋は、「尊王攘夷運動は、幕府に対し容堂公(前藩主)の立場を危なくする書生論である」として退けた。

坂龍飛騰

文久元年(1861年)10月上旬、龍馬は、師匠日根野弁治から小栗流の皆伝目録である『小栗流和兵法三箇條』を授けられた。そして同月11日、剣術詮議の名目で出国し、武市半平太の使者として長州萩の久坂玄瑞のもとへ向かった。この日を勤王党の同志である樋口真吾は、その日記に「十一日 坂龍飛騰」と記していた。

10月14日、龍馬は坂本家の領地がある柴巻に立ち寄り、地頭の田中良助から旅費として金子2両を借りている。そして、讃岐丸亀藩の矢野道場に滞在した後、翌文久2年(1862年)1月14日に萩に到着した。

久坂玄瑞の日記『江月斎日乗』によると、龍馬は武市から託された書簡を久坂へ渡し、翌15日に会談をおこない、午後からは文武修行館にてワラ束斬りを披露したとある。

龍馬の滞在は、10日間におよんだ。この間、久坂や薩摩藩士らと国事を腹蔵なく談合し、1月23日に萩を発った。このとき久坂は、武市宛の手紙を託している。

『文久二年正月二十一日付』
其後は如何被為在候や、此内は山本・大石君御来訪下せられ、何ら風景も之無く、御気の毒千万存じ奉り候。最早、御帰国ならんと御察し仕り候。
此度坂本君御出游在らせられ、腹臓無く御談合仕り候事、委曲御聞取願ひ奉り候。竟に諸候恃むに足らず、公卿恃むに足らず、草莽志士糾合義挙の外には迚も策之無き事と私共同志中申し合い居り候事に御座候。失敬乍ら、尊藩も弊藩も滅亡しても大義なれば苦しからず。
両藩共存し候とも、恐れ多くも皇統綿々、万乗の君の御叡慮相貫き申さず而は神州に衣食する甲斐は之無きかと、友人共申し居り候事に御座候。
就ては坂本君へ御申談じ仕り候事ども、篤く御熟考下さるべく候。もっとも沈密を尊ぶは申す迄も之無く候。樺山よりも此内書状来る、彼藩も大に振い申し候よし。友人を一両日内遣す積りに御座候。様子次第、尊藩へも申すべくと存じ申し候。何も坂本様より御承知ならんと草々乱筆推読、是祈り敬白。
 正月念一
時気御自保申すも疎に御座候已上

この手紙には、「諸侯も公家もあてにすることはできない。草莽の志士たちを糾合して義軍を挙げる以外に策はないと私ども同志は語らっている。失敬ながら、そのためには長州藩も土佐藩も滅亡しても、大儀のためにはやむを得ない」とあり、草莽崛起を唱えている。

そして、薩摩藩主島津久光の上京を機会に、薩長土三藩による討幕の挙兵をすることを計画しており、武市率いる土佐勤王党の参加を強く求めた。

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