坂本龍馬、一藩勤王に限界を感じ脱藩 江戸へ
土佐にあだたぬ奴
文久2年(1862年)2月29日、土佐に帰国した坂本龍馬はただちに武市半平太をたずね、久坂玄瑞の挙兵計画と西国探索の結果を報告した。先に探索から帰国していた吉村寅太郎は、同志を率いて脱藩し、挙兵に参加することを強くうったえたが、あくまで一藩勤王にこだわる武市は動くことはなかった。
そのため、土佐勤王党の中から久坂に同調した吉村寅太郎、宮地宜蔵、沢村惣之丞らが脱藩していった。武市は、「吉村は功名に急して、勢制すべくもない。彼一人の去って平野らの挙に加わるのも、今の場合仕方がない」として彼らの離脱を黙認した。
久坂のもとに駆けつけた吉村は、挙兵に参加したのが3人とは言いにくかったのだろうか、「のちより十余人も来る」(『江月斎日乗』)と偽っている。そこで相談した結果、沢村が一度帰国し、再び武市の説得と他の同志に脱藩の勧誘をおこなうことを決め、下関から土佐へと引き返していった。
一方、この頃龍馬はすでに脱藩の決意をしており、3月24日未明、帰国した沢村の手引きで脱藩した。龍馬は親戚の弘光左門から10両を借り受け、姉乙女から授かった「肥前忠広」をたずさえ、土佐を旅立った。
脱藩した理由は、「土佐藩を一藩勤王にすることに限界を感じ見切りをつけた」、「久坂玄瑞の草莽崛起に触発された」、「政権奪取のために吉田東洋暗殺を必至とする武市半平太の方針に嫌気がさした」ともいわれているが、はっきりとしたことはわかっていない。
龍馬の脱藩を知った武市は、「土佐にあだたぬ奴(土佐にはおさまりきらぬ奴の意)だから他国へ放した」と語り、「肝胆元より雄大にして、奇機自ら湧出す、飛潜誰か織る有らん、偏に龍名に恥じず」と龍馬の門出を祝福した。
龍馬の脱藩に関する資料として坂本家支配の福岡家の記録『福岡家御用日記』には、次のような記述がある。
『福岡家御用日記』三月二五日
御預郷士坂本権平弟龍馬儀、昨夜以来行方不知、諸所相尋候得共不明之由届出候事。
三月二七日
御預郷士坂本権平所蔵之刀紛失之旨届出候事。
余談だが数日後の4月8日、武市の密命を受けた那須信吾・安岡嘉助・大石団蔵ら一団が藩政吉田東洋の暗殺を決行し、その直前に龍馬が脱藩していたことなどもあり、一時は龍馬に暗殺犯の嫌疑がかけられていた。
脱藩の道
文久2年(1862年)3月24日未明、土佐を出奔した龍馬と沢村惣之丞は難路をひたすら歩き続け、翌25日の夜、国境に近い高岡郡檮原村に到着し、那須俊平・信吾宅で一泊した。
翌日、那須父子の案内で宮野々番所を経て四万川茶・谷の松ヶ峠番所を抜け、韮ヶ峠を越えて伊予国に到着した。
信吾はここで引き返したが俊平はそのまま同行し、小屋村・水ヶ峠を経て泉ヶ峠で一泊した。翌27日、宿間村で俊平と別れたのち川舟で大洲を経て長浜町に到着し、冨屋金兵衛宅に泊まった。28日、長浜港から船で上関へ渡り一泊し、29日に三田尻港へたどり着いた。
そして4月1日、目的地である長州藩領の下関に到着し、尊皇攘夷志士と昵懇であった豪商白石正一郎方を訪問した。ところが、合流する予定であった吉村寅太郎たちはすでに大坂方面に出発したあとであった。
龍馬は「いまさら吉村のあとを追うのは面白くない」として、沢村には京都の情勢を探らせると自らは九州諸国を巡歴することにした。九州へ渡り各地をまわったが、薩摩藩は鎖国政策をとっていたので入国することはできなかった。
九州諸国の巡歴を終えた龍馬は本土へ渡り、6月11日に大坂にで沢村と再会し、京都を経て8月下旬に江戸の桶町千葉道場にわらじを脱いだ。江戸への道中、金に困った龍馬は刀の柄頭を売ってしまい、柄を手ぬぐいで巻いて旅をしていたという。
龍馬に刀を渡したのは誰?
龍馬が脱藩を考えていた頃、兄権平は弟の態度を察してか龍馬の刀を取りあげ、親類中にも脱藩の警戒を怠らないように伝えていた。そのため脱藩の前日、龍馬は刀を借りようと親戚の才谷屋をたずねたが断られてしまい、刀を手に入れる手段を失い八方ふさがりとなった。
その事を知った次姉栄は弟の窮状を哀れみ、家伝の銘刀を密かに授けると後日龍馬脱藩幇助の罪が坂本家に及ぶことを恐れ、責任をとって自害したという。
ところが、昭和63年3月に「弘化二乙巳九月十三日 貞操院 墓柴田作衛門妻坂本八平女」と刻まれた墓が発見された。墓碑銘の意味は「柴田作衛門の妻、坂本八平の娘」で、柴田作衛門とは栄の夫の名前、坂本八平は栄の父親の名前であり、この墓が栄のものであることが判明した。
この発見により栄の没年が弘化年間(1844~1847)であることが確認され、栄は龍馬が12、3歳の時にすでに亡くなっていたことがわかっている。脱藩当時に生きていない栄が刀を渡せるはずもなく、刀(肥前忠広)を与えたのは乙女だと推察される。
龍馬の初恋
龍馬が脱藩する半年前、初恋の相手ともいわれている平井加尾に宛てた手紙が残されている。加尾は龍馬の友人平井収二郎の妹で、安政6年(1859年)に藩主山内容堂の妹友姫が三条実美の兄公睦に嫁いだ際、お付き役として京都へ出ていた。そして在京の間、親身になって脱藩した志士たちを支援していた。
『文久元年九月十三日 平井かほ宛』先づ先づ御無事とぞんじ上候。天下の時勢切迫致し候に付、
一、高マチ袴
一、ブツサキ羽織
一、宗十郎頭巾
外に細き大小一腰各々一ツ、御用意あり度存上候。
九月十三日
坂本龍馬
平井かほどの
手紙を受け取った加尾は意味がわからなかったが、袴と羽織は親戚への土産物と称して呉服屋から取り寄せ、刀は国もとの兄に適当な理由をつけて送ってもらい龍馬の依頼品をそろえた。この時兄が心配するといけないから龍馬の手紙のことは黙っていた。
ところが、このあと龍馬が加尾のもとを訪れることはなかったため、結局龍馬がどのような目的で集めさせたのかはわかっていない。
一方、龍馬の脱藩を知った収二郎は、龍馬に誘われた加尾が勤王活動に参加することを危惧して、「坂本龍馬が昨日24日脱藩した。きっとそちらに行くと思うが、たとえ龍馬からどのような事を相談されても、決して承知してはならない。もとより龍馬は人物ではあるが、書物を読まないので時には間違えることもある」と書き送っている。
坂本龍馬昨廿四日之夜亡命、定めて其地へ参り申へく、龍馬国を出る前々日、其許の事に付、相談に逢候。
たとひ龍馬よりいかなる事を相談いたし候とも決して承知不可致。其許は家にありて父母にしたがふ身分なれば、他人の為に人に遣はれ候事は出来不申候。
元より龍馬は人物なれども、書物を読ぬ故、時としては間違ひし事も御座候は、よくよく御心得あるへく候。
只只拙者も其許も報恩の節を失せず、忠孝の道に欠けさる様、致され度候。めてたくかしく。
収二郎
かほとの
