坂本龍馬、勝海舟を斬りに行きその弟子となる
勝海舟に弟子入り
文久2年(1862年)10月、坂本龍馬は桶町千葉道場師範代で友人でもある千葉重太郎を連れ、赤坂氷川にある軍艦奉行並勝海舟の屋敷を訪問した。
海舟はもとは低禄の幕臣であったが、黒船来港後に海防意見書を提出したことをきっかけに頭角をあらわし、この閏8月に軍艦奉行並にまでのぼった傑物であった。2年前の万延元年(1860年)には、遣米使節の一員として咸臨丸で太平洋を横断しアメリカに渡ったことのある時代の先覚者であった。
海外情勢を実地に見聞してきた海舟は単純な攘夷論を強く批判し、欧米列強に対抗するためには海軍創設と開国が必要であると説いていたので、龍馬は西洋に心酔する奸物だから議論を吹っかけて斬ってしまおうと考えたのであった。
2人が会談を申し込むと家人に奥の部屋へと案内され、海舟と対面を果たした。この時、海舟40歳、龍馬28歳。海舟は龍馬たちを見ると開口一番、「そなたら、俺を斬りに来たのだろう。隠してもわかる。顔に殺気がみえる」といきなり図星をついた。
龍馬が驚いて沈黙していると、海舟は世界情勢と攘夷論の愚かしさを説明し、海軍の創設とその費用を生み出す貿易の必要性を論じた。
龍馬は海舟の話を聞いているうちに見識の広さ、人物の大きさに感服し、「実はお察しのように先生を討ち果たすつもりでしたが、ただいま先生のご高説をうけたまわり、自分の未熟を恥じています。願わくば今日から先生の弟子にして下さい」と切望した。
海舟はこれを快諾し、弟子入りを認めた。この日を境に龍馬は日夜、屋敷の外に立って刺客を警戒し、海舟の身辺警護につとめていたという。
後年、海舟はこの時の様子を「坂本龍馬。あれは、おれを殺しに来た奴だが、なかなか人物さ。その時おれは笑って受けたが、落ち着いていて、なんとなく冒しがたい威厳があって、よい男だったよ」(『氷川清話』)と回想している。
勝海舟塾
勝海舟の弟子となった龍馬は、海軍創設に必要な人材を集めることに奔走し、文久2年(1862年)11月に江戸留学中であった河田小龍門下の近藤長次郎を海舟塾に誘い入れた。そして、さらに土佐の同志を海舟門下に引き入れるため、土佐勤王党の同志で藩庁に顔の利く間崎哲馬に海軍振興策を説き、人材の斡旋を依頼した。
同年12月17日、龍馬は近藤長次郎・千葉重太郎と共に大坂に出張する海舟に随行して上京した。この時京都土佐藩邸にあった甥の高松太郎、千屋寅之助(菅野覚兵衛)、望月亀弥太の3人が新たに海舟塾に加わることになった。
これは間崎が土佐藩大監察の小南五郎右衛門を動かして、藩命による航海術修行をうながしたものであり、手当として月々2両ずつが支給されることになっていた。
またほぼ同じ時期に、龍馬と一緒に脱藩し前河内愛之助と改称していた沢村惣之丞、河田小龍門下の新宮馬之助、安岡金馬、千葉重太郎門下の鳥取藩士黒木小太郎らが龍馬の紹介で海舟塾に入門した。
日本第一の人物
龍馬は勝海舟から航海術・運用術・機関術・算術など海軍技術の原則を学ぶと共に、海防に必要な軍艦・乗組員の数、軍艦の維持にかかる費用は海外貿易と関税による収益でまかない、人員は諸藩から石高に応じて供出させるといった具体的な海軍構想についても学んでいた。
さらに海舟は幕臣でありながらその立場を超え、「この危機の時代にあっては、朝廷、幕府や雄藩といった狭い国家論ではなく、一段上の日本という国家論を考えよ」と教えていた。
龍馬は勝海舟を深く敬愛し、故郷の姉乙女に宛てた手紙の中で「日本第一の人物」と紹介している。
『文久三年三月二十日 坂本乙女宛』扨も扨も人間の一世ハがてんの行ぬハ元よりの事、うんのわるいものハふろよりいでんとして、きんたまをつめわりて死ぬるものもあり。
夫とくらべてハ私などハ、うんがつよくなにほど死ぬるバへででもしなれず、じぶんでしのふと思ふても又いきねバならん事ニなり、今にてハ日本第一の人物勝憐太郎殿という人にでしになり、日々兼而思付所をせいといたしおり申候。
其故に私年四十歳にるころまでハ、うちにハかへらんよふニいたし申つもりにて、あにさんにもそふだんいたし候所、このごろハおおきに御きげんよろしくなり、そのおゆるしがいで申候。
国のため天下のためちからおつくしおり申候。
どふぞおんよろこびねがいあげ、かしこ。
三月廿日
龍
乙様
御つきあいの人ニも、極御心安き人ニハ 内内御見せ、かしこ。
脱藩の赦免
文久3年(1863年)1月13日、勝海舟をのせた順動丸は兵庫を出港して江戸に向かう途上、伊豆下田港に寄港した。海舟は上京の途にある前土佐藩主山内容堂がこの伊豆に滞在していることを知り、16日に容堂をたずねて龍馬脱藩の赦免を求めた。
容堂はこれを承諾したが、酒席の場であったため海舟は念のため後日の証拠となるものが欲しいと希望した。容堂は笑って一本の扇を開くとそこにひょうたんの絵を描き、その中に「歳酔三百六十回、鯨海酔候」と書き入れて海舟に手渡した。
また、政治総裁職をつとめていた松平春嶽も龍馬が脱藩罪を追われる身であることを案じ、同月25日に上京した容堂のもとを訪れ、龍馬の赦免を要請した。
これは前年(1862年)12月5日、龍馬が間崎哲馬・近藤長次郎と共に江戸越前藩邸に春嶽をたずね海防策を具申した際、春嶽は龍馬の人物を気に入り、帰藩の口添えを約束してくれたからであった。
容堂はただちに藩庁の者に命じて龍馬の脱藩赦免の手続きをとらせた。こうして文久3年(1863年)2月、龍馬は京都土佐藩邸に7日間の謹慎を命じられ、25日に「御叱りの上別儀なくこれを仰せつける」と赦免された。
謹慎の間、龍馬は帰藩に周旋した同志の望月清平らに「君らが呼び戻したから、俺はこんな窮屈な目にあっている」と愚痴をこぼしていた。
そして3月6日には安岡金馬と共に藩から航海修行を命じられ、勝海舟のもとで正式に海軍術の伝習を始めることになった。
坂本龍馬
右の者壬戌の三月御国元を立、京摂並に九州関東辺諸所周旋罷在、今日二十二日御屋敷へ立帰候段、方今之形勢に付、忠憤憂国之至情より難黙止、件之次第とは乍申、御席所越之儀御作法も有之所、窃に令逃逸、長々罷在不心得之至、依之屹度可被仰付筈の処御含之筋有之御叱の上無別儀被仰付之。
龍馬と勝海舟の出会い
龍馬と勝海舟の出会いについては、「龍馬は海舟を斬りに来たが、海舟の持論を聞き、即座に弟子入りした」という海舟の回想が通説となっている。だが、資料によっては「松平春嶽の紹介状を持って訪問した」となっており、主なものに次の3説がある。
▼文久2年10月江戸説
『氷川清話』坂本龍馬。あれは、おれを殺しに来た奴だが、なかなか人物さ。その時おれは笑って受けたが、沈着いてな、なんとなく冒しがたい威権があつて、よい男だったよ。
『松平春嶽 明治十九年十二月月十一日 土方久元宛の書簡』文久2年(1862年)7月のある日、坂本龍馬と岡本健三郎(千葉重太郎との記憶違いか?)が突然、江戸藩邸にある松平春嶽をたずねて来た。登城前であったので、代わりに中根雪江が対応した。その後、改めて2人を招き話を聞くと、勤王攘夷を熱望する厚志を述べ、勝海舟と横井小楠への紹介状をもとめたので添書を与えた。そして、その紹介状を持って勝海舟に会いに行った。2人は議論を吹っかけて勝を殺すつもりであったが、その話を聞いて心服し、その弟子となった。
▼文久2年12月江戸説
『続再夢紀事』12月5日、松平春嶽が帰宅後、土佐藩の間崎哲馬、坂本龍馬、近藤長次郎がたずねて来た。春嶽は対面し、大阪近海の海防策について話した。
『海舟日記 十二月九日』有志のもの三名来訪。形勢の論議をする。
▼文久2年12月神戸説
『海舟座談』その頃、勝は大阪に出張しており、そこにコモをかぶって合いに来た者がいた。俺を斬りに来たかと聞くと、斬りに来たと答えた。それから懇意になったが、この男が坂本龍馬であった。
『海舟日記 十二月二十九日』千葉重太郎来る。坂本龍馬来る。京師の事を聞く。

