幕府、海軍学校「神戸海軍操練所」の開設を決定
神戸海軍操練所の開設
文久3年(1863年)4月23日、上京した将軍徳川家茂は軍艦順動丸で摂海(大坂湾)の巡視をおこない、軍艦奉行並の地位にあった勝海舟は同行してその案内役をつとめていた。そして神戸小野浜に上陸した時、この地に海軍操練所を設立することを直接願い出て、これが許された。
海舟はこの混沌とした世界情勢において日本が独立国家として存続するためには、幕府諸藩が一致協力する雄藩連合政権(共和政治)を樹立し、日本は海国であるから国防のためには海軍を起こさねばならないと考えていた。
そのため、海軍学校を設立し、そこで蒸気機関を備えた軍艦と最新式兵器を動かすことのできる人間を養成し、徳川家を守る徳川海軍ではなく、「興国之基」とした「一大共有の海局」、つまり列強諸国から日本を守る日本海軍をつくることを構想していた。
翌24日、海舟は摂州神戸村海軍所取建御用兼摂海防禦掛に任命され、幕府の海軍力充実と仕官育成のための施設「神戸海軍操練所」が創設されることが決定した。創設の経費として年3000両と1万7137坪の土地が与えられ、建物は神戸外人居留地東南隅に建設されることになった。また、近くには生徒の住む30坪の寮も併設された。
さらに海舟は攘夷という空論にこだわる朝廷を変えるため、4月25日に尊攘派公卿の姉小路公知を軍艦順動丸に乗せ、摂海の警備状況を視察した。この時も海軍の充実と開国の必要性を強く説き、公知は海舟の意見に同意している。
そして公知が帰京する時、龍馬が海舟の使者として蒸気機関の縮図、セバストポールの戦図、散兵答知機の訳書を献上した。
神戸海軍塾の開設
勝海舟は神戸海軍操練所の開設と同時に私塾「神戸海軍塾」を開くことも許されており、操練所北方の西国街道に南面した生田川との間にある生田の森に塾舎が設けられた。
文久3年(1863年)9月から大坂宇治川の龍馬ら海舟塾の塾生が移り、初代塾頭は庄内藩士佐藤与之助がつとめた。
この頃龍馬が姉乙女に宛てた手紙があり、天下無二の軍学者勝海舟のもとで海軍修行に励む自分の姿をエヘンエヘンと誇らしげに自慢している。
『文久三年五月十七日 坂本乙女宛』此頃ハ天下無二の軍学者勝麟太郎という大先生に門人となり、ことの外かはいがられ候て、先きやくぶんのよふなものになり申候。
ちかきうちにハ大坂より十里あまりの地ニて、兵庫という所ニて、おおきに海軍ををしへ候所をこしらヘ、又四十間、五十間もある船をこしらへ、でしどもニも四五百人も諸方よりあつまり候事、私初栄太郎なども其海軍所に稽古学問いたし、時時船乗のけいこもいたし、けいこ船の蒸気船をもつて近近のうち、土佐の方へも参り申候。
そのせつ御見にかかり申す可く候。
私の存じ付ハ、このせつ兄上にもおおきに御どふいなされ、それわおもしおい、やれやれと御もふしのつがふニて候あいだ、いぜんももふし候とふり軍でもはじまり候時ハ夫までの命。ことし命あれバ私四十歳になり候を、むかしいいし事を御引合なされたまへ。すこしヱヘンがをしてひそかにおり申候。
達人の見るまなこハおそろしきものやと、つれづれニもこれあり。
猶ヱヘンヱヘン、
かしこ。
五月十七日
龍馬
乙大姉御本
右の事ハ、まづまづあいだがらへも、すこしもいうては、見込のちがう人あるからは、をひとりニて御聞き、かしこ。
そして海舟の信頼を得た龍馬は、文久3年(1863年)5月16日に名代として越前福井藩を訪れ、前藩主松平春嶽に拝謁し、神戸海軍塾開設資金として金5000両の援助を受けた。
この時、龍馬は幕臣大久保一翁が春嶽に宛てた手紙を持参しており、これは越前訪問前の4月2日、沢村惣之丞ら4人の同志と共に一翁のもとを訪れた際に託されたものであった。
一翁は海舟を幕府に推挙した人物で、この頃からすでに「朝廷が攘夷断行を命じるならば、幕府は朝廷に政権を返還し、徳川家は旧領の駿河・遠江・三河の三国を支配する一大名となり、政局を見守るべし」という大政奉還論を持っていた。
面談の時、刺される覚悟で一翁がこの策を打ち明けたところ、龍馬と沢村は手を打たんばかりに賛同したので、「では、これから上洛して何とか力を尽くしてくれ」と一翁が依頼すると、龍馬は「及ぶかぎり死力を尽くしてみましょう」と快諾し、春嶽宛の手紙を受け取ったのだった。
また龍馬はこの越前訪問で横井小楠と三岡八郎(由利公正)と知り合い、国事を談じた。横井は熊本藩士であるがその学識をかって春嶽が越前に招いた人物で、この小楠について海舟は「天下で恐ろしいものをみた」と評している。三岡は財政に明るく、藩の財政再建に取り組んでいた。
三岡の談話(『子爵由利公正伝』)によれば、龍馬、小楠、三岡が炉を囲んで酒を飲んでいた際、龍馬が愉快極まって、「君がため、捨つる命は惜しまねと、心にかかる国の行末」という歌をうたったが、その声調はすこぶる妙であった。
決闘を挑まれる
文久3年(1863年)の6月、龍馬は塾生の伊達小次郎(陸奥宗光)に請われ、伊達の友人である乾十郎が水戸浪士甲宗助に殺害されかけたのを救っている。龍馬は安治川口の現場へ駆けつけ、甲を止めさせると素早く乾を助け出し大坂奉行のもとへ送り保護させた。
このため龍馬の処置に憤慨した甲は決闘を申し込み、龍馬は少しも動じることなく「即時天王寺境内にて御立会申候」と返書を出し応じることになった。
これを知った沢村惣之丞がただちに勝海舟に事情を知らせたため、海舟は小笠原壱岐守に相談し、ふたりの仲裁で決闘を中止させることで落着させた。
こうした経緯から伊達は龍馬の男気に感じ入り、後日長崎での海援隊に参加する契機になったという。



