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坂本龍馬の婚約者?千葉佐那との恋

江戸の恋

坂本龍馬と桶町千葉道場主千葉定吉の娘佐那は恋仲であったといわれ、これを裏付けるような龍馬の手紙が現存する。この手紙は2004年7月オークションに出品され、1633万円で落札された。

『文久三年八月十四日 坂本乙女宛』
此はしハまづまづ人にゆハれんぞよ。すこしわけがある。
長刀順付ハ千葉先生より越前老公へあがり候人江、御申し付ニて書たるなり。
此人ハおさなというなり。本ハ乙女といいしなり。今年廿六歳ニなり候。馬によくのり釼も余程手づよく、長刀も出来、力ハなみなみの男子よりつよく、先たとへバうちにむかしをり候ぎんという女の、力料斗りも御座候べし。
かほかたち平井より少しよし。十三弦のことよくひき、十四歳の時皆傳いたし申候よし。そしてゑもかき申候。心ばへ大丈夫ニて男子などをよばず。夫ニいたりてしづかなる人なり。ものかずいはず、まあまあ今の平井平井。
○先日の御文有り難く拝見。杉山へ御願の事も拝見いたし候。其返しハ後より後より。
  十四日
 乙様
  龍

この手紙は「この話はまずまず人には言われんぞよ。少し理由がある」という前置きで始まり、「佐那は幼名を乙女といい、今年26歳になります。彼女は乗馬や剣術が得意で、その上薙刀もでき、力は並の男より強く、まず例えるなら昔坂本家で奉公していたぎんのようです」と佐那を紹介している。

龍馬は、「佐那の幼名は偶然にも乙女と同じ名前であり、馬術や剣術、薙刀に長けている」と二人に共通する点をあげて、姉乙女が佐那を気に入るよう機嫌をとっている。

続いて「顔は平井加尾より少し美人で、十三弦の琴を弾き、14歳の時に皆伝しています。そして絵も上手に描くことができます。気質は立派で男子などは及ばず、それでいて静かな人です」と称賛している。

龍馬の婚約者?

千葉佐那の回想録である『千葉灸治院』にも龍馬のことが書かれており、これは自由民権家の小田切謙明が、板垣退助の紹介で灸治院に通院していた時佐那と親しくなり、身の上話を聞いたものである。

『千葉灸治院』 (高木薫明著)
私は幕末神田お玉ケ池で北辰一刀流の道場玄武館を開いていた千葉周作の姪に当たり、父は周作の弟で桶町で道場を開き桶町の千葉道場又は小千葉と言われていた千葉定吉の次女で、姉は夭折し、兄と2人の妹がありました。
土佐の坂本さんが私の家に入門してきたのは嘉永6年4月で坂本さんは19歳、私は3歳年下の16歳の乙女でございました。
坂本さんは翌年6月には帰国し、安政3年8月再び私の道場に参り修行に打ち込んでおりました。更に一年滞在延期の許可を得たとかで引き続いて道場に滞在し、父は坂本さんを塾頭に任じ、翌5年1月北辰一刀流目録を与えましたが、坂本さんは目録の中に私たち三姉妹の名も書き込む様に頼んでおりました。
父は「例の無い事だ」と言いながら、満更でもなさそうに三姉妹の名を書き込み、坂本さんに与えました。
坂本さんは24歳私は21歳となり、坂本さんは入門した時からはずいぶん大人っぽくなり、たくましい青年となっておりました。
私も21歳ぼつぼつと縁談の話もありましたが、私は坂本さんを想っていますし、父も坂本さんならばと高知の坂本家へ手紙を出した様でした。
坂本さんは其の年の9月、国に帰り再び私の道場へは姿を見せませんでした。兄重太郎に聞けば勝海舟の門下生となり、勤王運動に参加し、江戸に来ても道場に来る間もないだろうとの事でした。
私は心を定めて良い縁談も断り、唯ひたすら坂本さんを待ちましたが、忘れもしない慶応3年2月31歳になっていた私は坂本さんが11月15日京都で暗殺されたことを知らされました。
[中略]
私は世話してくれる人があって明治15年9月、学習院女子部に舎監として奉職しておりました。
其の頃(明治16年1月24日)から高知士陽新聞に坂崎紫欄と言う方が、坂本さんの事を『汗血千里駒』という題で書き始め、後には単行本として出版され大変人気となりましたが、文章の中に坂本さんが師匠周作の娘光子と恋仲であったという部分があります。
坂本さんは、伯父周作とは無関係で光子と言う娘もありませんでした。たぶん私の事を書いたのだ思っています。
と言って、押入依り大事に保管してある由緒ありげな小箱を取りだし、箱の中の布切れを謙明夫妻の前に拡げた黒紋付いた着物の小袖でそれには桔梗を輪違いで包んだ紋が染め抜かれていた、
之は父が坂本さんに贈るために染めていましたが国事に奔走し道場へも余り来なくなり、私が切り取り形見として持っております。と笑いながら話し、『汗血千里駒』の誤りを正すために、学習院でもずいぶん人に見せましたよ。
明治18年9月、学習院女子部が華族女学校となり、校長に土佐出身の谷千城中将が就任し、引き続き勤務をしておりましたが、谷中将が農商務大臣となり下田歌子が校長の代理となりましたのを機に学校を辞職し、千葉家に昔依り伝えられている家伝灸を施して細々と暮らして居ます。

さらに、明治26年に発行された『女学雑誌』にも「坂本龍馬の未亡人を訪う」と題する佐那の談話が掲載されており、それによると龍馬が目録を授けられたのち、師匠千葉定吉に佐那との結婚を申し入れたとある。

定吉は娘は剣術をもって国に尽くすことばかりを考えている変わり者だが、それでもよければかまわないといって2人の結婚を認めた。ただし、佐那の希望で天下が落ちついてから結婚することになり、それまでは婚約というかたちになった。

2人の間で結納が交わされ、千葉家からは短刀一口が龍馬に贈られた。龍馬は、「自分は結納に相応しいものを持っていないので、松平春嶽公から拝領した紋付を結納の品にかえたい」と言って紋付を千葉家に贈ったという。

結局、龍馬と佐那は結婚することはなかったが、佐那は生涯を独身で通し、明治29年に59歳で没した。佐那には縁者が無く、無縁仏になることを哀れんだ小田切謙明の妻豊次が分骨し、自家の墓地に埋葬した。墓石の裏面には「坂本龍馬室」と刻まれている。

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