Top >  坂本龍馬講座 > 「日本を今一度せんたくいたし申候」、坂本龍馬の決意

「日本を今一度せんたくいたし申候」、坂本龍馬の決意

攘夷戦争

文久3年(1863年)、この頃の京都では急進的な尊攘派による「天誅」の嵐が吹き荒れ、幕府側とみられた者が相次いで暗殺された。彼らの背後には土佐藩の武市半平太、長州藩の久坂玄瑞、桂小五郎があり、過激な政治工作をもって朝廷を動かし、幕府に破約攘夷を命ずる勅使を派遣させることに成功した。

幕府は条約を結び開国した以上攘夷は現実的ではないと考えていた。だが勅命を無視するわけにもいかず、同年4月20日、将軍後見職の一橋慶喜は5月10日を攘夷期限とする旨を奏上した。

そして4月23日、幕府は各藩に対して「5月10日を攘夷期限とする。自国海岸の防御を厳重にし、来襲時には掃攘せよ」と布告したが、これは表向きのものであり実際に攘夷を実行するつもりはなかった。

だが期限当日の5月10日、攘夷の急先鋒である長州藩が豊前田ノ浦沖に停泊していたアメリカ商船ペンブローク号を砲撃し、さらに23日にフランス軍艦キンシャン号、25日にはオランダ軍艦メジュサ号と馬関海峡を通航する外国艦船に対して攻撃を開始した。

攻撃を予測していなかった外国艦船はほとんど応戦することなく逃走し、列強を打ち払い攘夷を達成した尊攘派は大いに湧きあがった。だが、この直後欧米列強の圧倒的な軍事力を見せつけられることになる。

6月1日、アメリカ軍艦ワイオミング号が先の砲撃の報復のため下関に来襲し、そのまま湾内に侵入して砲撃を開始した。圧倒的な火力で亀山砲台を沈黙させると応戦した長州藩軍艦庚申丸・壬戌丸を撃沈、葵亥丸を大破させ、悠々と立ち去った。

長州海軍はわずか一隻の軍艦により壊滅したのである。

続く5日には、フランス軍艦セミラミス号とタンクレード号が馬関海峡に侵入した。旗艦セミラミス号は猛砲撃を加えて湾岸の砲台を沈黙させ、艦砲援護のもと歩兵部隊を上陸させた。久坂玄瑞率いる光明寺党が抗戦したが撃退し、前田砲台を占拠した。フランス軍は大砲を破壊し、近隣の村落を焼き払い、引きあげていった。

日本を今一度せんたくいたし申候

この事件を知った坂本龍馬は、故郷の姉乙女に次のような手紙を書き送った。

『文久三年六月二十九日 坂本乙女宛』
  この文ハ極大事の事計ニて、
  けしてべちゃべちゃシヤベクリにハ、
  ホホヲホホヲいややの、けして見せられるぞへ。
六月廿日あまりいくかかけふのひハ忘れたり。一筆さしあげ申候。先日杉の方より御書拝見仕候。ありがたし。
私事も、此せつハよほどめをいだし、一大藩、ひとつのををきな大名、によくよく心中を見込てたのみにせられ、今何事かでき候得バ、二三百人計ハ私し預候得バ、人数きまゝにつかひ申候よふ相成、金子などハ少し入よふなれバ、十、廿両の事は誠に心やすくでき申候。
然ニ誠になげくべき事ハながとの国に軍初り、後月より六度の戦に日本甚利すくなく、あきれはてたる事ハ、其長州でたたかいたる船を江戸でしふくいたし 又長州でたたかい申候。
是皆姦吏の夷人と内通いたし候ものニて候。右の姦吏などハよほど勢もこれあり、大勢ニて候へども、龍馬二三家の大名とやくそくをかたくし、同志をつのり、朝廷より先ヅ神州をたもつの大本をたて、夫より江戸の同志はたもと大名其余段と心を合セ、右申所の姦吏を一事に軍いたし打殺、日本を今一度せんたくいたし申候事ニいたすべくとの神願ニて候。此思付を大藩にもすこむる同意して、使者を内内下サルル事両度。
然ニ龍馬すこしもつかへをもとめず。実に天下に人ぶつのなき事これを以てしるべく、なげくべし。
○先日下され候御文の内にぼふずになり、山のをくへでもはいりたしとの事聞へ、ハイハイヱヘンをもしろき事兼而思ひ付おり申候。
今時ハ四方そふぞしく候得ども、其ぼふずになり太極極のくされくされたルけさごろもをかたにかけ、諸国あんぎやにでかけ候得バ、西ハながさきより東ハまつまへよりヱゾまでもなんでもなく、道中銀ハ一文も用意におよばす。
それをやろふと思へバ先つねのシンゴンしうのよむかんをんきよふイツカヲしうのよむあみだきよふ、これハちとふしがありてむかしけれど、どこの国ももんとがはやり申候あいだ、ぜひよまねバいかんぞよ。おもしろやおもしろや、をかしやをかしや。
夫よりつねにあまのよむきよふ一部、それでしんごんの所へいけバしんごんのきよふ、いつかふしうゑいけバいつかふしうのきよふをよみ、これハとまるやどの事ニて候。ほふだんのしんらんしよふにんのありがたきおはなしなどする也。いたし、まちを。ひる。おふらい。すれバきよふよみよみゆけバ、ぜにハ十分とれるなり。
これをぜひやれバ。しつかり。をもしろかろふと思ひ申候。なんのうきよハ三文五厘よ。ぶんと。へのなる。ほど。やつて見よ。死だら野べのこつハ白石、チチリやチリチリ、此事ハ必〃一人リでおもい立事のけして相ならず候。一人リでいたりやこそ、龍ハはやしぬるやらしれんきにすぐにとりつく。
それハそれハおそーしいめを見るぞよ。これをやろふと思へバよく人の心を見さだめなくてハいかん。おまへもまだわかすぎるかと思ふよ。又けしてきりよふのよき人をつれになりたりいたしたれバならぬ事なり。ごつごついたしたるがふぢよふばんバのつよばんバでなけれバいかん。たんほふ。をバ。さんゑぶくろの。内にいれ、二人か三人かででかけ万〃一の時ハ、グワンとやいて、とふぞくの金玉までひきたくり申候。
○私しおけしてながくあるものとおぼしめしハやくたいニて候。
然ニ人並のよふに中中めつたに死なふぞふぞ。私が死日ハ天下大変にて生ておりてもやくにたたず、おろんともたたぬよふニならねバ、中中こすいいやなやつで死ハせぬ。
然ニ土佐のいもほりともなんともいわれぬ、いそふろふに生て、一人の力で天下うごかすべきハ、是又天よりする事なり。かふ申てもけしてけしてつけあがりハせず、ますますすみかふて、どろの中のすずめがいのよふに、常につちをはなのさきゑつけ、すなをあたまへかぶりおり申候。
御安心なされかし。
  穴かしこや。
  弟 直陰
大姉 足下
今日ハ後でうけたまハれバ六月廿九日のよし。天下第一おふあらくれ先生を初めたてまつり、きくめ石の御君ニもよろしく、むバにもすこしきくめいしの下女とくますやへいてをりたにしざいごのこんやのむすめにもよろしく、そして平井の収次郎ハ誠にむごいむごい。いもふとおかをなげきいか計か、ひとふで私のよふすなど咄してきかしたい。
まだに少しハきづかいもする。
  かしこ。
しもまちのまめそふも、もをこわれハせんかへ
 けんごなりや、なをかしい。

龍馬は、「長州藩を攻撃した軍艦を、幕府の役人が江戸で修復し、再び長州藩と戦った」ことに怒り、列強と内通する売国行為であると激しく非難した。そして、このままでは日本は列強の餌食となり、日本の再生のためには「幕府の姦吏を打ち殺し、日本を今一度洗濯する」必要があると主張した。

さらに、自分は「土佐の芋掘り」で居候に過ぎないが、一人の力で天下を動かす天命がある。しかし決して増長せず、「泥の中のすずめ貝」のように頭に泥をかぶり、常に土に鼻の先につけて、謙虚の心を忘れていないので安心してくださいと自覚と自戒を語っている。

馬関戦争

先の報復砲撃の惨敗後、長州藩は隠棲中の高杉晋作を起用し、その進言により「奇兵隊」が結成された。奇兵とは正規兵に対するもので、足軽のほか百姓・商人・町人などで組織されていた。また郷土防衛意識から、自発的に様々な諸隊が結成された。

そしてさらに砲台を増強し、馬関海峡を通る外国艦船に対して砲撃を加える強硬な姿勢を崩すことはなかった。

これに業を煮やした欧米列強は攘夷主義を粉砕するため、元治元年(1864年)4月、イギリス公使オールコックの主導のもと四国艦隊(イギリス・アメリカ・フランス・オランダ)が編成され、軍艦17隻、兵員約5000人にものぼる大戦力で下関に集結した。

この事態を知った長州藩士伊藤俊輔と井上聞多は留学先のイギリスから急きょ帰国し、戦争の回避に奔走した。2人は藩主毛利敬親および藩首脳部の説得を試みたが、攘夷に熱狂した藩の方針は変わらなかった。

8月5日、遂に戦闘が開始され、四国艦隊は長州藩の主力である前田砲台・壇ノ浦に集中砲撃を加えた。前田砲台を防衛する奇兵隊総督赤根武人も奮戦したが、圧倒的な火力の前に為す術もなく、砲台は粉砕され前田砲台は沈黙した。

そして、四国艦隊は陸戦部隊を前田砲台近くに上陸させ、砲台を占領して大砲を徹底的に破壊した。この時一部の大砲を戦利品として本国に持ち去っている。

翌6日朝、壇ノ浦砲台を守備していた奇兵隊軍監山県狂介は砲台の射程内で投錨していた敵艦を発見し砲撃を加えた。一時的に混乱した四国艦隊だがすぐに体勢をを立て直すと砲撃で応戦し、前田海岸に陸戦隊を上陸させ壇ノ浦砲台を占領した。

7日、四国艦隊は彦島の砲台を集中攻撃し、8日までに長州藩の砲台はことごとく破壊された。

長州藩はこれ以上の戦闘は不可能と判断とし、脱藩罪で謹慎中だった高杉晋作を再び起用し、休戦交渉の使者に任じた。高杉は筆頭家老宍戸備前の養子・宍戸刑馬と名のり、四国艦隊旗艦ユーリアス号に乗り込み司令官キューパーとの講和会議にのぞんだ。

そして14日、長州藩は馬関海峡通航の保証、水・食料・石炭の補給、賠償金の支払いを認めて、講和が成立した。なお賠償金300万ドルは、「攘夷は幕府の命令で実行したもので、支払いの責任は幕府にある」と長州藩が主張し、四国連合と幕府が交渉した結果、幕府が支払うことになった。

この戦争で惨敗を喫した長州藩は攘夷が無謀であることを悟り、以後開国へと傾き、他藩にさきがけて近代技術を取り入れる方向へと転換した。だが藩内では討幕を目指す尊攘派は没落し、幕府に恭順する保守派が主導権を握ることになった。

トラックバックURL

このエントリーのトラックバックURL: