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幕府、浪人の巣窟であるとして神戸海軍操練所を廃止

神戸海軍操練所の廃止

元治元年(1864年)5月14日、勝海舟は軍艦奉行に昇進し、従五位下安房守に叙せられた。そして、同月29日、神戸海軍操練所が完成し、広く諸藩から修行生の募集がおこなわれた。

京都・大坂・奈良・堺などに住む旗本や御家人だけでなく、四国・九州などの諸藩士にいたるまで、海軍の志がある者は修行に参加することが許され、集まった修行生は200名程であった。

ところが、開設後1年もたたずに、慶応元年(1865年)3月、神戸海軍操練所は廃止されることが決定された。

これは、前年(1864)6月5日の池田屋事件に望月亀弥太、7月18日の禁門の変に安岡金馬ら塾生が加担していたことが発覚し、幕府首脳から「勝海舟は神戸で討幕の浪士を養っている」という嫌疑をかけられたからであった。

『氷川清話』
塾生の中には、諸藩の浪人が多くて、薩摩のあばれものもたくさんいたが、坂本龍馬がその塾頭であった。当時のあばれもので、今は海軍の軍人になっているものが、ずいぶんあるよ。しかるに幕府の役人からは、勝は海軍を起こし、地所を買い入れ、薩州のあばれものや、諸藩の浪人を集めて、そして彼らもまた喜んで勝に服しているというのは、何かわけがあるのであろうなどと、ひどく憎まれて、とうとうしまいには、江戸の氷川へ閉門を命ぜられ、地所などもいっさい取り上げられてしまったよ。

池田屋事件

元治元年(1864年)6月5日早朝、京都の治安維持をおこなっていた新選組は、かねてから内偵を進めていた四条小橋の商人桝屋喜右衛門を逮捕し、その屋敷を捜索した結果、多数の武器弾薬の他に尊攘浪士の密書を発見した。

壬生に連行された桝屋は厳しい拷問の末、「桝屋喜右衛門の正体は古高俊太郎。風の強い日を選んで御所を放火し、その混乱に乗じて京都守護職松平容保と中川宮朝彦親王を殺害し、孝明天皇を長州へ連れ去る計画がある」ことを白状した。

局長近藤勇は黒谷の会津藩本陣に急報し、藩主松平容保に出勤を要請した。容保は藩兵の出動を決断し、禁裏御守衛総督の一橋慶喜、京都所司代の松平定敬(実弟)と協議し、当日夜五ツ(21時頃)に祇園会所に集結することを取り決めた。

一方、古高逮捕を知った尊攘志士たちは長州藩邸に集まり、新選組の屯所を襲撃して古高を奪還する計画を立てたが、軽挙妄動は慎むべしという意見もあり、急きょ三条小橋西の旅宿池田屋で会合を開き、善後策を協議することになった。

当夜、祇園会所に集合した新選組は武装を整え、会津・桑名藩兵の合流を待っていたが、近藤は新選組単独で1時間早く探索することを決断した。しかし、尊攘浪士の潜伏先は依然として不明で、隊を近藤勇隊10名と土方歳三隊24名の二手に分け、三条・四条通間の旅宿の捜索を開始した。

22時頃、近藤隊は池田屋にたどり着き、近藤は手はず通り隊士たちに表裏口を固めさせ、沖田総司、永倉新八、藤堂平助を率いて表口から踏み込み、御用改めである旨を告げた。

新選組の姿を見た亭主惣兵衛は動揺し、奥の裏階段から2階の客人に事態を知らせようとした。近藤は、永倉と藤堂を1階に待機させ、沖田と共に裏階段を駆け上がり、会合中の尊攘浪士たちを発見し乱戦となった。

新選組と尊攘浪士の激闘は2時間に渡り、新選組は北添佶摩、宮部鼎蔵、吉田稔麿、杉山松助、松田重助、大高又次郎、石川潤次郎らを討ち取り、20余名を捕縛するという戦果を挙げ、天下にその名を轟かせた。

この事件を知った勝海舟は、6月24日付の日記に「此時に当り、京師、当月五日、浮浪殺戮の挙あり。壬生浪士輩、輿の余り無辜(罪の無い者)を殺し、土州の藩士、又、我が学僕望月生などこの災に逢う」と記している。

禁門の変

池田屋の変の一報を受けた長州藩の尊攘志士たちは憤激し、元治元年(1864年)6月15日、福原越後、益田右衛門介、国司信濃の三家老を筆頭に来島又兵衛、久坂玄瑞、真木和泉が約2000の軍勢を率いて京都へ出発した。

長州軍は京都を包囲するように、伏見長州藩邸に福原、山崎天王山に久坂、真木、嵯峨天龍寺に国司、来島、八幡に益田が布陣し、藩主親子及び七卿の赦免を朝廷に要求した。

動揺した公卿たちは要求を受け入れようとしたが、禁裏守衛総督の一橋慶喜は長州軍の撤兵を強く主張したため、嘆願は拒絶され、退去勧告が発せられた。長州藩も目的が達せられないまま引きあげるわけにはいかず、戦闘は裂け難いものとなった。

そして7月19日未明、長州軍は直接天皇に嘆願するため、三方から御所を目指して進軍を開始した。まず、福原率いる一軍が、伏見街道を北上し京都市街に侵入を試みたが、途中、大垣藩と衝突し敗れ、山崎へと撤退した。

幕府軍はこの福原隊を主力とみていたため、嵯峨方面から進軍した国司の一軍は京都市内への侵攻に成功した。そして、軍勢を二手に分け中立売御門・蛤御門に攻めかかり、すさまじい攻撃で会津・一橋軍を圧倒し、各門を突破し内部に突入した。

長州軍は一時は御所内にまで迫ったが、乾御門から駆けつけた西郷吉之助率いる薩摩軍の加勢により戦況は一転。激戦の中、来島が胸を撃ちぬかれ戦死し、指揮官を失った長州軍は猛攻を受けきれず壊走した。

この時、天王山を進軍した久坂・真木率いる一軍が堺町御門に到着したが、すでに長州軍は壊滅したあとだった。久坂隊は鷹司邸に立てこもり交戦したが、すぐに屋敷に火が放たれ、幕府の大軍に包囲された。

久坂は同じ吉田松陰門下の寺島忠三郎と共に自刃し、真木はわずかな兵と共に天王山へと落ち延びた。長州軍は国もとへ退却したが、真木は浪士16人と共に立てこもり、21日に全員自刃した。

勝海舟の失脚

池田屋事件、禁門の変と過激尊攘浪士による反乱が続いた結果、元治元年(1864)9月17日、幕府は浪士探索のため海軍修行生の素性を調査する内糺をおこない、勝海舟門下生の姓名、出身地などの取り調べを開始した。

こうした状況の中、海舟が観光丸乗組員のための防寒毛布を大量に購入したことが発覚し、浪士をかくまうためのもではないかとの疑いをかけられ、幕府内部の反勝勢力から激しい非難を受けることになった。

海舟日記には、「九月十九日、神戸塾中ノ姓名出所ヲ探索セラル。是レ蓋シ激徒ノ巣窟ニ似タルヲ以テ嫌疑ヲ蒙リシナリ。十月、小野浜ニ碑石ヲ建テ鴻基ノ記念トス。明年其ノ事廃セラレ碑石ヲ深ク土中ニ埋ム」とある。

そして10月22日、幕府は海舟を江戸に召還する命令を下し、11月22日に軍艦奉行職職を罷免し、謹慎処分を申し渡した。海舟の失脚により坂本龍馬ら神戸海軍塾生たちは唯一の居場所を失い、幕府の浪人狩りから逃れるため各地に潜伏した。

『千屋金策の手記』
勝先生塾
呼返に付送て在江戸 坂本龍馬
在神 千屋寅之助
新宮馬之助
呼返に付潜むて在浪花 高松太郎
在神戸 近藤長次郎
在江戸 沢村惣之丞
勝安房守先生諸藩脱走者を養ひ、時々浮浪生出入致候に付、兼々幕府其余薩会等より嫌疑を受け居候所、当月上旬関東へ呼寄せられ、終に役職御免之上壱千石削られ、本の百俵になる。嗚呼幕府之奸政可悪可歎。
右に付脱走之書生身を容るる所なく殆んど窮迫、其書生と申ても不鮮、是物議を生ずる基なるべし。正儀人々欺相成候は、幕の自滅、神州の不幸にて御座候。孝成

龍馬ら塾生の身を案じた海舟は神戸を去る際、薩摩藩の西郷吉之助にその身柄の保護を依頼した。海舟と西郷は、この年(1864)の9月11日に初会談をおこなっており、両者は面識があった。

この時の会談で海舟は、幕府による統治が限界にある事情を告げ、開明派の大名4、5人による共和政治をおこない、国内体制を強化した上で開国し、諸外国と談判し条約を結ぶべきであると説いた。幕臣である海舟の意見に西郷は驚きながらも感服し、薩摩藩の立場を幕府寄りの公武合体から雄藩連合の強化へと転換させる契機となった。

海舟の依頼を受けた西郷は城代家老小松帯刀と相談の上承諾し、龍馬ら一同を大坂の藩邸にかくまうことを決めた。薩摩藩が龍馬たちを受け入れたのは、彼らの持つ海軍技術を薩摩藩のために役立たせようとする考えがあったからであった。

『元治元年(1864)十月頃、小松帯刀の手紙 大久保一蔵宛』
神戸勝方へ罷在候土州人、異船借用いたし航海の企これあり、坂本龍馬と申す人、関東へ罷下り借用の都合致し候処、能く談判も相つき候よし。
[中略]
右辺浪人体の者を以て、航海の手先に使い候得ば、よろしかるべしと西郷杯と在京中相談も致し候間、大坂屋敷へ内々相潜め置候。

西郷吉之助

元治元年(1864年)8月頃、龍馬は勝海舟が賞賛する西郷吉之助に興味を抱き、「先生は、しばしば西郷の人物を賞せられるから、拙者も行って会ってくるにより添え書きを下さい」と頼み、会う機会を得た。

薩摩藩邸から戻ってきた龍馬に、海舟が西郷の人物をたずねると、「なるほど西郷という奴はわからぬ奴だ。少し叩けば少し響き、大きく叩けば大きく響く。もし馬鹿なら大きな馬鹿で、利口なら大きな利口だろう」と答えた。

これを聞いた海舟は龍馬の西郷評に満足したようで、「坂本もなかなか鑑識のある奴だよ」と語り残している(『氷川清話』)。

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