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坂本龍馬、薩摩藩の支援を受け長崎に「亀山社中」を設立

薩長和解

慶応元年(1865年)4月5日、神戸海軍操練所が解散し京都薩摩藩邸に身を寄せていた坂本龍馬は、薩摩藩士吉井幸輔の止宿先で同郷の土方楠左衛門と会い、時勢を論じた。

土方は尊攘派公卿三条実美の衛士をつとめており、三条が八月十八日の政変で京都を去った時、これに随従して長州に行き、のち筑前太宰府に移された時も従っていた。この時は三条の内命で中岡慎太郎と共に上京して京都の情勢を探っていたのである。

土方と中岡は前年の禁門の変で一橋・会津・桑名藩と手を組み、幕府に加担した薩摩藩に失望していた。だが長州征伐後、尊攘派公卿を筑前藩に移す周旋にあたった西郷吉之助と会談した際、「長州再征は幕府の私戦であり、薩摩は出兵に断然と拒否する」という考えを知り、薩長和解に希望をいだいていた。

雄藩連合を考える西郷は前年(1864年)幕府が35藩計15万の兵を動員した長州征伐の調停にあたり、長州藩主毛利侯の謝罪、急進派三家老の斬首、四参謀の斬罪による処分で決着をはかっていた。だがこの処分に不満を持った幕府は長州藩への徹底的な処置を考え、第二次征長の計画を進めていた。

彼らはこうした事態を打開するためには薩長連合策は不可欠であると考え、土方からこの策を打ち明けられた龍馬は賛同し、共に周旋すること約束した。

薩長の和解に向けて動きだした龍馬は、神戸海軍塾の同志と共に薩摩に旅立った。これは国もとの藩主島津久光を説くために帰国する西郷吉之助、小松帯刀に同行したもので、4月25日に薩摩藩船胡蝶丸に乗り込み、大坂を出発した。

5月1日、船は鹿児島に到着し、龍馬は半月ほど薩摩に滞在した。その間、西郷は藩主および重臣を説得し、藩論を薩長和解に固めた。そして、5月16日、龍馬は鹿児島を出発し、筑前太宰府に向かった。途中、熊本沼山津の横井小楠訪問をたずね、同月23日、大宰府に到着した。

当時、大宰府には政変で京都を追われた三条実美、三条西季知、四条隆謌、東久世通禧、壬生基修の五卿が滞在していた。龍馬は、24日に三条、25日に東久世と面会し、東久世は龍馬の印象を次のように書き記している。

五月廿五日 土州藩坂本龍馬面会、偉人なり、奇説家なり。

龍馬は太宰府に5日ほど滞在し、五卿に薩長和解の必要性を説いたのち、5月28日、長州藩士小田村素太郎らと共に太宰府を出発し、閏5月1日に長州藩領下関に到着した。

破談

長州藩は前年の馬関戦争・禁門の変の惨敗後、尊攘派が没落し、椋梨藤太ら保守派が実権を握っていた。そのため幕府の長州征伐に対して、首謀者である三家老の切腹、山口城の破却、都落ちした五卿の他藩引渡しなどの条件を受け入れ、恭順をあらわしていた。

だが元治元年(1864年)12月16日、筑前に亡命していた高杉晋作が帰国し、俗論党(保守派)を打倒すべく、力士隊・遊撃隊の総勢80余名を率いて功山寺で挙兵した。高杉は電光石火の進軍で新地会所を占領すると、三田尻港を襲撃し軍艦を奪取した。

これに中立を保っていた奇兵隊および長州藩諸隊が決起し、さらに百姓・町人なども加わり、各地で俗論党軍を打ち破った。翌慶応元年(1865年)2月には椋梨藤太以下俗論党が一掃され、正義党(尊攘派)が再び主導権を掌握した。

そして、3月に桂小五郎を中心とした政権が誕生し、表面では幕府に恭順する態度を示しながらも、幕府との戦いに備えて軍事力の再編強化を進める「武備恭順」の方針が決められた。

こうした情勢の中で龍馬は、閏5月5日、京都から来た土方楠左衛門と薩長和解の方策を打ち合わせた。そして翌6日に、桂と会談をおこない、鹿児島にいる中岡慎太郎が上京する西郷吉之助を連れて下関に立ち寄るので会ってもらいたいと説得し、その同意を得た。

ところが閏5月21日、下関にやって来たのは中岡だけであった。中岡の説明によると、西郷は豊後佐賀関までは来たが、京都からの急報があったとして下関には寄港せず、上京することになったという。中岡も懸命に説得したが西郷は聞かず、やむなく1人で来たとのことだった。

桂は激怒し、「僕は、もともと君たちの言葉を疑っていたのだ。やはりその通りなったではないか」と立ち去ろうとした。そこで龍馬は、薩長和解のためには実質的な結びつきが第一であると考え、薩摩藩の名義をもって長州藩のために軍艦・武器を購入する和解案を提案した。

この当時長州藩は幕府との決戦に備え、西洋式武器の増強に迫られていたが、表立って長崎で貿易をすることができなかったのである。そのため、桂は龍馬の提案を受け入れ、再び薩長和解に尽力することを約束した。

亀山社中の設立

龍馬が桂小五郎に提案した長州藩への武器購入の周旋は、幕府の長州藩に対する経済封鎖下において困難な仕事であったが、ここで重要な役割をはたしたのが「亀山社中」である。

亀山社中は、龍馬の意を受けた神戸海軍塾の同志が、小松帯刀に随行して長崎を訪問した際、薩摩藩と豪商小曽根乾堂の援助を受けて設立した組織である。龍馬はこの社中を交易の仲介や物資の輸送で利益を上げる商社として、藩から独立して運営することを目指していた。

亀山社中の活動を伝えるものとして、慶応元年(1865)9月9日付で京都から姉乙女に宛てた手紙がある。

『慶応元年九月九日 坂本乙女、おやべ宛』
私共とともニ致し候て、盛んなるハ二丁目赤づら馬之助、水道通横町の長次郎、高松太郎、望月ハ死タリ。此者ら廿人斗の同志引きつれ、今長崎の方ニ出、稽古方仕リ候。御国より出しものの内一人西洋イギリス学問所ニいりおり候。日本よりハ三十計も渡り候て、共ニ稽古致し候よし。実ニ盛なる事なり。
私しハ一人天下をへめぐり、よろしき時ハ諸国人数を引きつれ、一時ニはたあげすべしとて、今京ニありけれども五六日の内又西に行つもりなり。然共下さるるものなれバ、ふしみ宝來寺田や伊助まで下され候よふ御ねんじなり。じつにおくにのよふな所ニて、何の志ざしもなき所ニぐずぐずして日を送ハ、実ニ大馬鹿ものなり。

かへすがえすも今日ハ九月節句とて、おやべがこんぺいとふのいがたが、おしろいにてふさがり候こと察いり候。ねこおいだき西のをくのゑんニて、ひなたぼつこふ大口計ヘヘラヘヘラさつしいり候。
  乙大姉ニ申奉ル。
扨、先日文さしあげ候。よろしく御らん可被遣候。
○ちかごろおんめんどふニ候得ども、実におねがいニ候間、御聞込つかハされ。
あのわたくしがをりし茶ざしきの西のをしこみ書物箱がありし、其中ニいかにも、こげしかきがみか、のひよふしかかり候、小笠原流諸礼の書十本計、ほんのあつさハ一分二分計の本のあつさニて候。此頃あるかたより諸礼の書求くれよとあり候得ども、どふもこれなく、あれでなけれバどふもなり不申候。かならずかならずめんどふとうちすておかずニ御こしつかハされたくねんじ候。
  是よりおやべどんニ
  もふす。
近頃御めんどふおんねがいニ候。扨、わたしがお国ニおりし頃ニハ、吉村三太と申もの頭のはげたわかいしゆこれあり候。これがもち候哥本、新葉集とて南朝、楠木正成公などのころよしのニて出来しうたのほん也。、にてできし本あり。これがほしくて京都にて色色求候得ども、一向手ニいらず候間、かの吉村より御かりもとめなされ、おまへのだんなさんにおんうつさせ、おんねがい被成、何卒急ニ御こし可被下候。
上申上候乙大姉えの御頼の本、又おやべより被下候本ハ、入道盈進までおんこし被成候時ハ私までとどき候。
もし入道盈進がおくにニかへり候時ハ、伏見ニておやしきのそバニ宝来橋と申へんに船やどニて寺田や伊助、又其へんニ京橋有、日野屋孫兵衛と申ものあり。これハはたごやニて候。
此両家なれバちよふど私がお国ニて安田順蔵さんのうちニおるよふな、こころもちニており候事ニ候て、又あちらよりもおおいにかわいがりくれ候間、此方へ薩州様西郷伊三郎と御あてのて、品ものニても、手がみニてもおんこし被遣候時ハ、私ニとどき候。かしこ。
 九月九日  龍
  おやべさん
[後略]

赤づら馬之助とは新宮馬之助のことでのちに寺内信左衛門と改名した。水道通横町の長次郎は近藤長次郎で上杉宋次郎と改めた。高松太郎(多賀松太郎が変名)は姉千鶴の長男である。

これに菅野覚兵衛と改名した千屋寅之助、関雄之助と改名した沢村惣之丞、石田英吉、中島作太郎、池内蔵太、山本復輔を加えたものが土佐出身である。

その他に越前の渡辺剛八、小谷耕造、腰越次郎、越後の白峰駿馬、橋本久太夫、讃岐の佐柳高次、因幡の黒木小太郎、そして紀州の陸奥陽之助(伊達小次郎)らが亀山社中に参加していた。

給料は三両二分

亀山社中の運営には薩摩藩の西郷吉之助や小松帯刀の援助があり、薩摩藩から月に3両2分(約17万円)が支給されていた。慶応2年(1866)の『坂本龍馬手帖』には、次のような受領証の下書きが記入されている。

『坂本龍馬手帖』
三両二分也。
坂本龍馬 寺内新右門 多賀松太郎
菅野覚兵衛 白峯駿馬 陸奥元次郎
関 雄之助
右ハ当月何月分慥ニ頂戴仕候。以上。
  関 雄之助印
 寅何月何日
印鑑○関雄之助
右ハ印鑑を以て坂、寺、多賀、菅、白、陸、関七人之分、毎月三日壱人当三両弐分宛頂戴仕候。以上。

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