亀山社中、薩摩藩から名義を借り長州藩の武器購入を周旋
亀山社中の活躍
慶応元年(1865年)6月29日、坂本龍馬と中岡慎太郎は京都薩摩藩邸におもむき、西郷吉之助と会談をおこなった。龍馬は先の違約をただし、長州藩が軍艦・武器を購入するための名義貸しを申し入れた。
西郷はただちに了承し、龍馬はこの旨を長州藩に伝えると長崎の亀山社中に武器購入の周旋を指示した。そして7月21日、長州藩から伊藤俊輔と井上聞多が長崎に派遣され、上杉宋次郎(近藤長次郎)が2人を薩摩藩の小松帯刀に引き合わせた。
この時、小松は新しく購入した海門丸で帰国する際であったので、上杉の提案により両藩友好のため井上が同行することになった。井上は上杉と共に鹿児島を訪れ、薩摩藩家老と面会し、薩長連合について意見を交わした。
長崎に残った伊藤は、8月中旬、亀山社中の高松太郎の周旋でイギリス商人トーマス・グラバーから、ミニエー銃4300挺、ゲベール銃3000挺を9万2千4百両で買い付けることに成功した。
8月20日、井上と上杉が長崎に戻り、伊藤が購入していた大量の銃器は小松の手配により薩摩藩船胡蝶丸が下関へ運び、8月下旬に長州藩へと引き渡された。
この頃、龍馬は長州藩士小田村素太郎と共に山口を訪れ、参政広沢藤右衛門らの接待を受け、西郷から依頼された兵糧米の調達を長州藩に要請した。交渉の末、5百俵の供給に成功し、藩庁は下関に滞在する桂小五郎に兵糧米の調達を命じた。
龍馬は西郷に兵糧米の調達が解決したことを伝え、12月初旬、薩摩藩は返礼の使者として黒田了介らを山口に派遣し、薩摩藩の誠意を長州藩諸隊に弁明した。
龍馬はこうした経済的な結びつきによって、薩長両藩の感情的な障壁を取り除いていったのであった。
桜島丸問題
長州藩から軍艦購入を依頼された上杉宋次郎は薩摩藩官吏の説得に尽力し、ついに慶応元年(1865年)10月18日、軍艦ユニオン号をグラバー商会から3万7千5百両で購入した。
この船は桜島丸と命名され、上杉と井上聞多との間で桜島丸条約が結ばれ、「船価は長州藩が支払い、名義は薩摩藩とし、その運営は亀山社中がおこなう」ことが取り決められた。
『桜島丸条約』桜島丸条約
右六条は御国産物当時諸国御差閊に付、薩州侯御章御拝借之上、社中乗組候様御頼に付、右之次第盟約に相極候事
一、 旗号は薩州候御拝借之筈 一、 乗組之者は多賀松太郎、菅野覚兵衛、寺内信左衛門、白峰駿馬、前河内愛之助、水夫火焚従来召連之者を以航海仕り候筈
尤御国よりは士官二人乗組可申筈、其他水夫火焚等不足之分は加入申筈一、 船中賞罰之権士官共承可申筈
但始て馬関到着之節前河内愛之助、上杉宋次郎、井上氏へ対座之節御国之御方と雖も無差別御作配申候様御沙汰有之候事一、 六百両金子は士官共預り可申筈
右之者前河内愛之助、多賀松太郎、上杉宋次郎三人井上氏へ対談之節極候事。其仔細は兼て商売之権は士官共承候筈之処、俗事方乗組に相成筈に相定候に依て右様相極候事一、 船中諸修覆食料薪水等、士官水夫火焚等之給料、其他総て之雑費は御国より御賄之筈 一、 御国御用明之節は薩州侯御用向相弁可申筈
慶応元丑十二月 上杉宋次郎
中島四郎殿
坂本龍馬殿
ところが、この桜島丸条約は上杉と井上の間で結ばれた秘密条約であり、このことを知った長州藩海軍局は強く反対した。これに対し上杉は井上との約束をタテに亀山社中による運営を主張し、遂には船価未払いを理由に約束の履行を迫った。
最終的に龍馬と海軍局総官の中島四郎が話し合いをおこない、先の条約を破棄し、新たに桜島丸改訂条約が結ばれた。これにより亀山社中に関する部分は削除され、ユニオン号の運営は長州藩海軍局の所属となり、船名も乙丑丸と改名することが決められた。
『桜島丸改訂条約』約 束
一、 旗号は薩州候御章拝借之事 一、 毎日之事務当番士官関轄勿論に候得共、賞罰其外有廉事件は総管へ御相談之事 一、 薩州より御乗込之士官月俸只今迄之通相定候事 一、 水夫火焚等薩州におゐて被相定候通有之候得共、以後働に応じ差引可致候事 一、 商用之儀持荷方より一人乗組取捌之儀に付船中一統関係不致候得共、積荷出入等之儀は当番士官へ相談之事 一、 当船之儀は海軍局規則外たりといへ共、大略海軍学校之定則に従度事 一、 碇船中其外一統月俸之外不条理之失費一切存不申候事 一、 船中一切之失費は会計方引請之事 一、 当番当用間暇之節は薩州侯運漕物相弁可申候得共、其節之失費は薩州より可被差出候事 多賀松太郎様
丑十二月 坂本龍馬
中島四郎
菅野覚兵衛様
寺内信左衛門様
早川二郎様
白峰駿馬様
前河内愛之助様
上杉宋次郎の切腹
上杉宋次郎は桜島丸条約で長州藩海軍局と対立があったものの、軍艦と武器を得ることができたのは上杉の尽力によるところが大きかった。伊藤俊輔と井上聞多はその功労を推重し、上杉は長州藩から莫大な恩賞金を受けて長崎へと帰った。
ところが上杉はこの金を亀山社中の同志には秘密にし、英国商人トーマス・グラバーにイギリスへの留学を依頼した。
上杉の計画は順調に進んでいたが、渡航当日の慶応2年(1866年)1月14日、風浪のため出航が延期になってしまい、やむなく一時上陸していたところ、この留学計画が亀山社中の同志に露見してしまった。
亀山社中一同は上杉を小曽根家の別邸に呼び出し、沢村惣之丞(関雄之助)が一同を代表し、「およそ事の大小となく互いに相談してこれをおこなうのが社中の盟約であり、この盟約にそむく者は割腹してその罪を謝するという明文がある。不幸にして社中にしてその人がいる」と切り出した。
言い終わらないうに上杉の顔色が変わったが、沢村はかまわずに続け、「その人は上杉宋次郎君である」と言い放った。上杉は弁解しようとしたが、沢村は、「この期におよんで弁解は無用なり」と大喝した。
上杉はもはや言い逃れできないと観念し、「いかにも盟約の如く割腹して諸君に謝罪する」と同志が設けた席で切腹した。享年は29歳。遺体は社中の者の手によって長崎鴻台寺の裏山に葬られた。
この事件の報告を受けた龍馬は、「術数あまりあって至誠たらず。上杉氏の身をほろぼすゆえんなり」と手帖に記し、早すぎるその死を惜しんだ。



