坂本龍馬、恋人お龍(楢崎龍)を姉乙女に紹介す
面白き女
坂本龍馬がのちに妻とする楢崎龍(お龍)と出会ったのは、元治元年(1864年)5月頃のことである。当時、龍馬は土佐の同志北添佶磨らと共に蝦夷開拓を計画しており、京都方広寺に潜伏して議論を重ねていた。
この時食事などの世話をする女性が雇われることになり、やって来たのがお龍と母親の貞であった。ふたりが初めて会った時、龍馬が、「お前の名の『りょう』とはどういう字か」とたずねたので、お龍が紙に自分の名前を書いてみせると、「それは俺の名前と一緒だ」と喜んだという。
お龍の父は楢崎将作という医者で青蓮院宮の侍医をつとめていたが、尊攘志士と交際があったため安政の大獄で投獄され、のちに釈放されたが2年前に病死していた。
楢崎家は裕福であったが、将作の死後一家の生活は困窮した。お龍は家屋敷を処分し、道具・着物を売って母妹を養っていたが、これも尽き果て遂に家族は離散して奉公に出ることになった。
そこに悪人が付け入り、美人だった13歳の妹君江を島原の遊里へ舞妓として売り、16歳の妹光枝は母親をだまし大坂へ女郎として売り飛ばしてしまった。
これを知ったお龍は、妹君江を連れ戻すため自分の着物を売って旅費を工面し、単身大坂へ下った。そして懐に刃物を忍ばせ、悪人2人を相手に死ぬ覚悟で直談判をおこなった。
悪人は腕の彫り物を出してべらぼう口で脅したが、お龍はひるまずに飛びかかって相手の胸ぐらを掴み、「お前がだまして大坂に連れ去った妹を返せ」と顔を思いきり殴りつけた。悪人は「女、殺すぞ」と凄んだが、お龍は「殺し殺される覚悟ではるばる大坂まで来た。それは面白い、殺せ殺せ」と動じることはなかった。
この剛胆な態度に悪人も驚き、さすがに殺すわけにもいかず、とうとう根負けして遂にお龍は妹を取り返すことに成功した。島原へやられたもう一人の妹はまだ幼いので当分は気遣いがないということだった。
楢崎家の窮状を知った龍馬のはからいで、三女君江と長男太郎は神戸海軍操練所の勝海舟のもとへ、お龍は母弟と共に龍馬が定宿にしている寺田屋に預けられることになった。寺田屋の女将お登勢は義侠心があつく、お龍を養女として引き受けてくれた。
その後龍馬とお龍は恋仲となり、龍馬は恋人お龍を姉乙女に紹介するため、次のような手紙を書き送っている。
『慶応元年九月九日 坂本乙女、おやべ宛』[前略]
京のはなし然ニ内内ナリとし先年雷三木三郎、梅田源二郎、梁川星巖、春日などの、名のきこへし諸生太夫が朝廷の御為に世のなんおかふむりしものありけり。其頃其同志にてありし楢崎某と申医師、夫も近頃病死なりけるに、其妻とむすめ三人、男子二人、其男子太郎ハすこしさしきれなり。次郎ハ五歳、むすめ惣領ハ二十三、次ハ十六歳、次ハ十二なりしが、本十分大家にてくらし候ものゆへ、花いけ、香をきゝ、茶の湯おしなどハ致し候得ども、一向かしぎぼふこふする事ハできず、いつたい医者というものハ一代きりのものゆへ、おやがしんでハ、しんるいというものなし。たまたまあるハそのきよにじよふじて、家道具などめいめいぬすみてかへりたる位にて、そのとふじハ家やしきおはじめどふぐじぶんのきりものなどうりて、母やいもふとやしないありしよしなれども、ついにせんかたなく、めいめいとりかわり、ほふこふ致し候てありしに、十三歳の女ハ殊の外の美人なれバ、悪者これおすかし島原の里へまい子にうり、十六ニなる女ハだまして母にいゝふくめさせ、大坂に下し女郎ニうりしなり。五歳の男子ハ栗田口の寺へつかハせしなり。夫おあねさとりしより、自分のきりものをうり、其銭をもち大坂にくだり、其悪もの二人をあいてに死ぬるかくごにて、刄ものふところにしてけんくわ致し、とふとふあちのこちのといゝつのりけれバ、わるものうでにほりものしたるをだしかけ、ベラボヲ口にておどしかけしに、元より此方ハ死かくごなれバ、とびかゝりて其者むなぐらつかみ、かをしたかになぐりつけ、曰ク其方がだまし大坂につれ下り妹とをかへさずバ、これきりニであると申けれバ、わるもの曰ク、女のやつ殺すぞといゝけれバ「女曰ク、殺し殺サレニはるばる大坂にくだりてをる、夫ハおもしろい、殺セ殺セといゝけるニ、さすが殺すというわけニハまいらず、とふとふ其いもとおうけとり、京の方へつれかへりたり。めづらしき事なり。かの京の島原にやられし十三のいもふとハ、としもゆかねバさしつまりしきづかいなしとて、まづさしおきたり。
夫ハさておき、去年六月望月らが死し時、同志の者八人計も皆望月が如戦死したりし。そのまへ此者ら今の母むすめが大仏辺にやしないかくし、女二人してめしたきしてありしが、其さわぎの時、家の道具も皆とりでの人数が車につみとりかへりたれハハ、今ハたつきもなく、自分ハ母と知定院と言亡父が寺に行、やしなハれてありし。日日喰やくハずに、じつあわれなるくらしなり。
此あとハ又つぎニ申上る。
右女ハおもしろき女ニて月琴おひき申候。今ハさまでふじゆうもせずくらし候。此女私し故ありて十三のいもふと、五歳になる男子引きとりて人にあづけおきすくい候。又私のあよふき時よくすくい候事どもあり、万一命あれバどふかシテつかハし候と存候。此女乙大姉をして、しんのあねのよふニあいたがり候。乙大姉の名諸国ニあらハれおり候。龍馬よりつよいというひよふばんなり。
○なにとぞおびか、きものか、ひとつ此者ニ御つかハし被下度、此者内内ねがいいで候。此度の願候よふじハ、
乙さんニ頼候ほん
おやべニ頼みしほん
夫ニ乙さんのおびか、きものかひとすぢ是非御送り、今の女ニつかハし候。今のの名ハ龍と申、私しニにており候。早早たずねしニ、生レし時父がつれし名よし。
○そして早早忘れし事あり。あの私がをりし茶ざしきの西の通りがある、其上に竹が渡してゑやら字やらなにか、とふしニ記し候ものあり、其中、順蔵さんのかきしものあり。御送り、そして短尺箱に母上、父上の御哥、おばあさんの御哥、権兄さんのおうた、おまへさんの御うたこれありけり。なニとぞ父上母上おばあさんなど死うせたまいし時と日と、皆短尺のうらへおんしるしなされおんこし。この中ニ順蔵さんが私しニおくりし文がとふしニしるし、大てい半紙位のものあり、御こし。是ハ英太郎が父の者ほしがり候間、つかハし候。
夫ニ此度の御ねがいハ、それぞれおんききすてなく御こしねんじ、かしこ。
九月九日 龍
乙あねさん
おやべどん
御頼のものかずかず並ニおはなし長き御返じ被下度候。
この手紙で龍馬は、お龍の家族構成から境遇を彼女の武勇伝を交えて紹介し、「面白い女で月琴を弾くことができます」と乙女との共通点をあげ、「名前は龍と申し、私に似ています」とある。
また、お龍は何度も龍馬の危ない時を救ってくれ、「乙女を本当の姉のように思い、会いたがっている」ので、「どうか帯か着物を贈ってあげて下さい」と頼み込み、「乙女姉さんの名は諸国に知れわたり、龍馬より強いと評判です」とおだてた上で、「この願いはくれぐれも忘れずにお願いします」と念を入れている。
げに愛づらしき人
さらに龍馬は乙女とお龍の間を取り持つために次のような手紙も送っている。
『慶応元年九月 坂本乙女宛』私がいぜんもつていました、かくなじでかいた烈女伝を、あれをひらながなになほしてゑ入にて、そのゑと申は、本の烈女伝のゑのとふりなり。私が以前持っていた楷書で書かれた烈女伝を、平仮名に直して絵入りにし、それを私の恋人に頼んで書き写させています。今時の本屋にはない面白いもので、乙女姉さんに送りますのでどうか楽しんでください。
誠におもしろし。私がかなになをそふと兼ねてをもいしが、夫を見てやめてしもふたり。夫を、おまへさんになり、おくにへおくりたさにたづね候。けして今時の本やにはなりもの也。故にある女にたのみてかきうつさせより申候。其女と申はげにめづらしき人、名は御聞しりの人なり。
どうぞどうぞたのしみたまへ。その本のうつしたるれいとして、私しがうちでならひよりた、いしずりのかくなじのおりでほん、これはお前さんにあげておもへさんもならいよりた本なり。夫を御こしなされ度、兄さんまでひきやくに御おくりなされ度候。またまた色色のものさし上候へども、夫はおいおいなり。此龍がおにおふさまの御身をかしこみたふとむ所よくよくに思たまへ。
乙大姉 をにおふさま 龍馬
皆火中なり。此よふな文、なきあとにのこるははぢなり。
そこでその本を写す手本にしたいので、私が実家で使っていた石刷り(上から紙をあてて転写したもの)の楷書の折手り本を送ってください。また、色々なものを差し上げるつもりですが、それはおいおいになります。
この龍馬がお仁王様の御身をかしこみ尊んでいることをよくよく自覚してください。
乙大姉 お仁王様 龍馬
皆火中につき、このような手紙が亡き後に残るのは恥です。

