薩長同盟、坂本龍馬の仲介で薩摩・長州藩の軍事同盟が成立
談に及ばず
慶応2年(1865年)1月8日、長州藩代表の木戸貫治(桂小五郎)は薩長同盟を締結するため、薩摩藩士黒田了介と共に京都入りした。木戸は先の西郷吉之助の違約にこだわり、自身の出席に難色を示していたが、坂本龍馬、高杉晋作が説得し、藩命が下ったことを受けて上京を決意したのであった。
1月10日、二本松薩摩藩邸で秘密会談がおこなわれ、薩摩藩側からは西郷吉之助、小松帯刀、大久保一蔵、長州藩側からは木戸貫治、品川弥二郎、三好軍太郎が出席した。
会談の中で木戸は薩摩藩に対する恨みを洗いざらい述べ立てたが、西郷は木戸の言葉に反論することなく、「まことにごもっとも」と頭を下げた。
ところが、薩摩・長州藩共に体面にこだわり、同盟の話は相手側が持ちかけるべきだと考えていたので、互いに国事を論じるものの肝心な薩長同盟の話が出ないままに十日あまりが過ぎた。
薩長同盟成立
その頃、龍馬は長崎と下関を往来し、亀山社中と長州藩の懸案事項であった桜島丸問題の解決につとめていた。そして、長州藩海軍局総官中島四郎との間で改定条約を取り決めたのち、1月10日、薩長同盟の成果を知るため下関を出発した。この時、毛利侯から京都の情勢探索を命じられた長府藩士三吉慎蔵が龍馬に同行している。
海上が荒れていたため出港が遅れ、17日に神戸に到着し、翌日船便で大坂に向かい薩摩藩邸に身を寄せた。大坂には大久保一翁が幕府顧問として滞在していたので三吉と共に訪問し、「上坂していることはすでに知られているので、身辺を厳重に警戒するがよい」との忠告を受けている。
19日、亀山社中の池内蔵太、新宮馬之助が合流し、龍馬一行は薩摩藩の船印を掲げて淀川をさかのぼり、伏見の船宿寺田屋に入った。ここで一泊した後、三吉を寺田屋に残し、龍馬は池と新宮を連れて翌20日に入京した。
龍馬はただちに木戸貫治の宿をたずね、同盟の詳細を聞いたが、「薩摩は日夜馳走をもって待遇してはくれるが、薩長同盟のことには一言もふれず、もう会談を打ち切り帰国するつもりだ」と答えた。
驚いた龍馬は怒りをあらわし、「我らが両藩のために寝食を忘れて尽力するのは、決して両藩のためではない。天下国家を思えばこそだ。それならば、なぜ長州側から同盟の話を切り出さない」と問いただした。
しかし木戸の返事は、「現在の薩摩の立場は中立することも、あるいは長州の味方になることも、その進退は自由である。一方、長州は天下を敵にまわし、孤立する立場にある。なのに薩摩からは同盟の話を切り出そうとはしない。今、長州からこれを言い出せば、薩摩に憐れみを乞うようなものだ。武士として面目を落とすようなことはできない。たとえ長州が滅びようとも、薩摩が皇家のために尽くすならば天下のためには幸いである」であった。
これを黙って聞いていた龍馬はあえて木戸をあえて責めず、もう一度薩摩との会談に応じるよう説得し、西郷吉之助のもとへと走った。龍馬は西郷との直談判で、長州藩の事情・木戸の決意を話し、薩長同盟の話は薩摩藩からを切り出すよう要請し、西郷はその申し出を受け入れた。
そして、翌21日に再びおこなわれた薩長会談の場で、西郷の口から「薩摩藩は長州藩を全面的に支援する」と同盟の話が切り出され、ここに薩長同盟は成立した。この両藩の軍事同盟により、時勢は大きく動き出すことになる。
薩長同盟条文
慶応2年(1866年)1月21日、薩長両藩の代表者による会談がおこなわれ、同盟が成立した。長州藩の木戸貫治は念のため会談の内容を文章化すると、間違いがないかどうか確認した上で龍馬に保証の裏書を求めた。龍馬はこれに朱筆で裏書し、2月に薩摩藩士村田新八と川村与十郎が木戸のもとへ送り届けた。
『慶応二年二月五日 薩長同盟盟約の裏書』一、戦と相成候時は直様二千余の兵を急速差登し、只今在京之兵と合し、浪華へも千程は差置、京坂両所相固め候事。一、長州藩と幕府の間で戦争がおこった時は、薩摩藩はすぐさま2000人の兵を京都に派遣し、現在在京の兵と合流し、大坂にも1000人ほど送り、京都・大坂の両地を固めること。
一、戦自然も我勝利と相成り候気鋒相見え候とも、其節朝廷へ申上、屹度尽力之次第これあり候との事。
一、万一戦敗色に相成り候とも、一年や半年に決て壊滅致し候と申す事はこれなき事に付、其間には必尽力の次第、屹度これあり候との事。
一、是なりにて幕府東帰せし時は、屹度朝廷へ申上、直様寃罪は朝廷より御免に相成り候都合に屹度尽力の事
一、兵士をも上国の上、橋会桑等も只今の如き次第にて、勿体なくも朝廷を擁し奉り、正義に抗し、周旋尽力の道を相遮り候時は、終に決戦に及び候外これなきとの事。
一、寃罪も御免の上は、双方誠心を以て相合し、皇国の御為めに砕身尽力仕り候事は申すに及ばず、いづれの道にしても、今日より双方皇国の御為め、皇威相輝き、御回復に立ち至り候を目途に誠心を尽し、屹度尽力致すげきとの事。
表に御記入しなされ候六条は小、西両氏および老兄龍等も御同席にて談論せし所にて、毛も相違これなく候。将来といへども決して変わり候事これなきは、神明の知る所に御座候。
丙寅二月五日 坂本龍
一、戦いが長州藩の勝利となりそうな時は、薩摩藩は朝廷に申し出て、尽力すること。一、万一敗れそうな時でも、一年や半年で壊滅することはないので、その間に薩摩藩は必ず尽力すること。
一、幕府が東へ帰った時は、薩摩藩は朝廷に申し出て、すぐさま長州藩の免罪が解けるように尽力すること。
一、幕府が兵を上京させ、一橋、会津、桑名が現在のように朝廷を擁し、正義を拒み、周旋尽力の道をさえぎる時は決戦におよぶ他はないこと。
一、冤罪が解けた上は、薩長両藩は誠意をもって協力し、皇国のために砕身尽力することはいうまでもなく、いずれの場合にあっても、今日より双方は皇国のため、天皇の威光が輝き、回復することを目標に誠心を尽くし、必ず尽力すること。
表に記入された六条は、小松帯刀、西郷吉之助の両氏および老兄(木戸貫治)、龍馬なども出席して話し合ったもので、少しも相違ない。将来になっても決して変わることがないことは、天地神明の知るところである。
薩長同盟の場に龍馬はいなかった?
薩長同盟の席に参加していた薩摩藩家老桂久武の日記の中に次のような記述がある。
『上京日記 慶応二年正月十八日』毎の通り寝覚なり、此の日出勤致さず、八ツ時分より小松家へ、此の日長の木戸ゆるゆる取り会いたく申し入れ置き候に付、参り候様にとの事ゆえ参り候ところ、皆々大かね時分参られ候、伊勢殿、西郷、大久保、吉井、奈良原なり、深更まで相咄し、国事段々咄し合い候事
この手紙の内容は、「いつもの通り目覚め、この日は出勤せずに、午後二時に家老の小松邸を訪れた。この日、長州の木戸(桂小五郎)から折り入って話したいことがあると申し入れがあったので、集まるようにとのことで出向いた。皆大鐘の時間(午後五時頃)に集まって来た。家老の伊勢殿、西郷吉之助、大久保一蔵、吉井幸輔、奈良原幸五郎。国事について話し合い、深夜にまでおよんだ」である。
ここで話し合ったという国事とは薩長同盟のことを指し、この18日には同盟は成立しており、同盟が結ばれた会談の場に龍馬は立ち会っていなかったという説がある。
しかし、久武が薩摩藩側役島津求馬に宛てた12月26日付の手紙に、「先般摂海へ異船来いたし、容易ならざる御場合ニ付、早々御上京遊ばされ、天気(機)御伺いの御用意迄モ相成り居り候えども、速かニ退帆いたし候間、此の節差し出され伺い相成り候筋ヲ以て、仰せ上げ然るべく申し談じ、既ニ今日相勤むるはずニ御座候」とあり、ここで指す国事とは薩長同盟のことではなく、天機伺いであることが判明した。
天機伺いとは天皇の機嫌をとることを指し、慶応元年(1865年)9月にイギリス・フランス・アメリカ・オランダの四ヶ国の艦が神戸沖に出現したことについて、藩主が上京し天皇に意見を聞く予定だったが、外国船がすぐに退去したため中止となり、久武が代わりに派遣され、天機伺いをすることになったことを書いたのである。
