坂本龍馬、伏見寺田屋で幕吏に包囲されるも脱出に成功す
寺田屋包囲
慶応2年(1866年)1月23日、薩長同盟成立を見届けた坂本龍馬は大坂薩摩屋敷を発ち、伏見寺田屋に帰ってきた。寺田屋には長府藩士三吉慎蔵が待っており、龍馬は同盟の成立を報告し、その夜は2人で祝杯をあげた。
だが、この時寺田屋は幕吏に監視されている危険な状況にあり、同月21日に新選組の見廻りによる厳重な人改めがおこなわれ、続く22日にも薩摩人が一人止宿しているということで取り調べがあった。
当夜2時を過ぎた頃、不意に表戸を叩く音が聞こえ、「ちょっと頼みます」と声があったので女将のお登勢が応対に出ると、「表までちょっと来て下さい」と呼び出された。
何事かと思ったお登勢が店の外を見ると、そこには後ろ鉢巻きに抜き身の槍を構えた百人ほどの捕吏がいた。お登勢は非常に驚き、「これは一体何事ですか」とたずねると、「ここの2階に2人の侍が泊まっているだろう。調べはついているから知っていることを話せ」と問い詰めてきた。
お登勢はこれはもはや隠し通すことはできないと思い、「その通りでございます。2階に泊まっております」と答えると、「今どうしている」と重ねて聞いてきたので、「まだお休みにならずに、お話をされております」と答えた。これを聞いた捕吏一同は非常に動揺し、「どうしよう、こうしよう」と色々と恐れ、「誰行け、彼行け」と取り乱し、踏み込む様子もなかった。
ちょうど入浴中だった楢崎龍(お龍)は店の外の異変に気づき、戸外から捕吏が肩先に突き出してきた槍を片手でつかむと、「女が風呂へ入っているのに槍で突くなんて誰だ誰だ」とわざと二階に聞こえるような大声で叫んだ。
「静かにせい、殺すぞ」と捕吏は怒鳴ったが、お龍は「お前さんらに殺される私じゃないやい」と庭へ飛び下り、濡れ肌に浴衣をひっかけると帯をする間もなく裸足で駆け出した。
一方、龍馬は風呂からあがり寝ようとしていたが、下の階を忍び足で歩く人の足音や六尺棒のからからという音に気づき不審を抱いていた。そこへお龍が飛び込んできて、「御用心して下さい。敵が襲って来ました。槍を持った捕り方がハシゴの階段を登っています」と急を告げた。
寺田屋遭難
事態を察した龍馬は袴を着けようとしたが、隣の部屋に置いていたのでそのままの姿に大小の刀を帯び、長州藩士高杉晋作からもらったスミス&ウェッソンの六連発ピストルを持ち腰かけて待った。三吉は手早く袴を着けると、大小の刀を取り槍を持ち、腰かけて敵を待ち構えた。
間もなく捕吏の一人が障子を細目に開け、内部の様子をうかがってきた。見ると刀の大小を差し込んでおり、「何者だ」との龍馬の問いにつかつかと入って来たが、龍馬らが身構えると引き返していった。
やがて隣の部屋からミシミシと音がするので、龍馬はお龍に障子・唐紙を取り外させて見ると、そこには既に10人ばかりの捕吏が槍を持って並んでいた。さらに盗賊ちょうちんを2つ持ち、六尺棒を持つ者が左右に立っていた。
双方しばらくにらみ合い、龍馬が、「薩摩藩士に対し、いかなる理由があって無礼を働くのか!」と怒鳴ると捕吏は口々に、「上意なり、座れ座れ」と叫び近づいて来た。三吉は槍を中段に構え、龍馬は敵の横からの攻撃に備えてその左側に立った。
龍馬はすかさず一番右の捕吏に発砲するとこの者は退き、続けて2発目を発砲してこの者も退いた。この発砲を機に乱闘となり、捕吏は槍を投げ突きにし、また火鉢をひっくり返して迫ってきたが、三吉がこれを槍をもって防いだ。
龍馬は3発目を発砲したが命中したかは不明で、不意に障子の影から進み出た捕吏の脇差しにより、右の親指と左の親指から人差し指にかけて斬られた。浅手だったので捕吏に銃を差し向けたが、素早く障子の陰に隠れてしまった。
なおも捕吏が包囲を狭めて迫ってくるので、4発目を発射して威嚇した。龍馬が持っている銃は六発込めだが、この時は弾を五発しか込めていなかったので最後の一発となり、これは一大事と思い捕吏を見ると龍馬たちの勢いに少し怯んだ様子だった。
ふと見ると黒頭巾をかぶった敵が鎗を平正眼のように構え壁に沿って近づいて来たので、龍馬は素早く三吉の左肩を銃の砲台にし、敵の胸を狙って射撃した。弾は見事命中し、捕吏は眠るように腹這いに倒れた。
捕吏はドンドンと障子を打ち破り、ふすまを踏み破るが、龍馬と三吉を恐れて一向に近づいては来なかった。この間に龍馬は銃に弾丸を込めようと弾倉を取り外し弾を2発込めたが、先ほど左右の指に負った傷のせいで手先が思うように動かず、誤って弾倉を床に落としてしまった。布団をひっくり返して弾倉を探したが、火鉢の灰や捕吏の投げ入れたものがあって見つけることができまなかった。
脱出
龍馬は仕方無く銃を捨て、三吉に「銃は捨てた」と告げると、三吉は「こうなったら敵中に斬り込んで戦いましょう」と覚悟を決めた。
しかし、龍馬は「いや、こうなったら引きあげるのだ」と答え、三吉は持っていた槍を投げ捨てると、2人は後ろの階段を素早く駆け下り裏庭に出た。捕吏は店の表側ばかりを包囲していたので敵は一人もいなかった。
表道に出ると捕吏に見つかってしまうので隣家の雨戸を打ち破り中に入ると、家人は騒ぎに驚いて逃げたと見え、寝具が引いてあるが誰もいなかった。2人は中を突っ切り、外に出るため壁を破壊しようとしたが、家が丈夫でなかなか壊すことができなかった。2人が刀でさんざんに斬り破り、足で踏み破りようやく表に出ると路上には誰もいなかった。
そのまま五町ほど走ったが、龍馬の出血が激しく息が切れてしまい、ぐずぐずしていると敵に追いつかれる心配があるので、横道にそれ込み、土佐の新堀というところに似た一角に出た。そこには堀があって水門があり、その向こうにには材木置場があった。2人は材木をよじ登り、その棚上に身を隠していたが、この時運悪く犬が吠え非常に困った。
三吉は「もはや逃げ道はなく、ここで腹を切りましょう」とあきらめたが、龍馬は「死はもとより覚悟している。とにかく君はこれより薩摩藩邸に走れ。もし敵に見つかればそれまで、僕もまたここで腹を切るだけだ」と答えた。
この一言に励まされた三吉は気を取り直し、怪しまれないよう血の付いた袴を堀で洗い道端でわらじを拾って、なんとか伏見の薩摩藩邸へと駆け込んだ。
藩邸では留守居役の大山彦八が出迎え、「昨夜の様子は坂本氏の妾が来て注進している」と、一足先にお龍が薩摩藩邸に救いを求めていた。大山はただちに堀に船を浮かべると、薩摩藩の船印を立てて龍馬の救出に向かい、材木置場に潜伏していた龍馬の無事に保護した。
伏見からの使者により龍馬が襲撃されたことを知った西郷吉之助は激怒し、救出のため自ら駆けつけようとしたが吉井幸輔ら一同がそれを止め、吉井が60人ばかりの一小隊を率いて駆けつけた。この行為に伏見奉行所からは討ち取るべしとの声もあがったが、薩摩藩と戦争になることを恐れ傍観するしかなかった。
龍馬の指の傷は浅かったものの動脈を切ったようで、翌日も出血が止まらず、小便に立つとめまいをおこした。傷は60日ばかりで完治し、左手の親指は傷口のつきがよく元通りに治り、右手の人差指は少し傷ついたが、跡形もほとんど残らず、龍馬は一生の晴れであると喜んでいる。(『慶応二年十二月四日 坂本権平、一同宛』)
この事件の直後、龍馬は長州藩の木戸貫治に薩長同盟の裏書を送るための手紙を書いており、その中で寺田屋遭難について次のように語っている。
『慶応二年二月六日 木戸貫治宛』此度の使者村新同行ニて参上可仕なれども、実ニ心ニ不任義在之、故ハ去月廿三日夜伏水ニ一宿仕候所、不斗も幕府より人数さし立、龍を打取るとて夜八ツ時頃二十人斗寝所ニ押込ミ、皆手ごとニ鎗とり持、口々ニ上意上意と申候ニ付、少少論弁も致し候得ども、早も殺候勢相見へ候故、無是非彼高杉より被送候ビストールを以て打払、一人を打たをし候。何レ近間ニ候得バ、さらにあだ射不仕候得ども、玉目少く候得バ、手ををいながら引取候者四人御座候。此時初三発致し候時、ヒストールを持し手を切られ候得ども浅手ニて候。其ひをニ隣家の家をたたき破り、うしろの町ニ出候て、薩の伏水屋鋪ニ引取申候。
唯今ハ其手きず養生中ニて、参上ととのハず何卒、御仁免奉願候。
何レ近近拝顔万奉謝候。謹言々。
二月六夕
木圭先生 机下
龍


