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坂本龍馬、楢崎龍と結婚し鹿児島へ新婚旅行

日本初の新婚旅行

慶応2年(1866年)2月、坂本龍馬は寺田屋遭難時に自身の窮地を救い、伏見薩摩藩邸に移ったのちも付き添い看護につとめてくれた楢崎龍と中岡慎太郎(西郷吉之助とも)の仲介で結婚した。この時、龍馬32歳、お龍26歳。

龍馬は姉乙女に「今年正月廿三日夜のなんにあいし時も、此龍女がおれバこそ、龍馬の命ハたすかりたり」とお龍のおかげで今日の龍馬があると述べた上で、「私の妻はすなわち楢崎将作が娘なり。今年二十六歳、父母の付けたる名龍、私がまた鞆とあらたむ」と結婚を報告している。

龍馬は世話になっている西郷吉之助、小松帯刀たちに妻お龍をあらためて紹介し、西郷の勧めで寺田屋遭難時に負傷した指の傷の療養のため、鹿児島の塩浸温泉に旅行することなった。この旅行は龍馬とお龍が結婚した直後だったことから、「日本初の新婚旅行」ともいわれている。

3月1日、龍馬はお龍と三吉慎蔵を伴い、西郷、小松、中岡らと共に京都を出発した。5日、大坂から薩摩藩船三邦丸に乗船し淀川を下り、6日に下関に寄港した。ここで三吉と中岡が別れ、10日に鹿児島に到着した。龍馬は小松の屋敷に投宿し、のちに吉井幸輔の屋敷へと移った。

温泉巡りの旅

慶応2年(1866年)3月16日、龍馬とお龍は吉井幸輔の案内で霧島温泉湯治旅に出発し、この日は途中にある日当温泉に泊まった。

翌17日には塩浸温泉に泊まり、「ここはかつて大隅の国にて和気清麻呂が庵をむすんだ景勝の地で、犬飼の滝の流れは五十間も落ちる、実に別世界かと思われるほど珍しいところである」と賞賛している。龍馬はこの温泉を気に入り、10日間ほど泊まり遊び、谷川の流れで魚を釣り、ピストルで鳥を撃つなどして過ごした。

3月28日、塩浸温泉で療養中だった小松を見舞った後、さらに山深き道を進んで霧島温泉に到着した。翌日、有名な天の逆鉾を一目見ようと思い、霧島山の山頂を目指して登り始めた。途中の山道は酷くお龍の足では難しかったが、龍馬は手を引いて歩き、なんとか登りきることができた。

天の逆鉾は天狗の顔を2つ付けたような奇妙な鉄製の神器で、2人は大いに笑った。そして興味を持った龍馬とお龍は、両方より天狗の鼻を押さえると「ヱイヤ」と気合いと共に引き抜き、長さが四、五尺であることを確認したのち、元の通りに戻した。

山頂は見渡すばかりに壮観な景色が広がり、しばらく楽しんでいたが、4月とはいえ体が冷えてきたので、2人は山肌一面に咲いたキリシマツツジの美しさを鑑賞しながら下山した。

この日は霧島神宮近くに一泊し、翌30日には吉井の待つ霧島温泉に戻り、4月1日に塩浸温泉、8日に日当温泉を経て、12日に鹿児島に戻った。

『慶応二年十二月四日 坂本乙女宛』
おとめさんにさし上げる。
兼而申上妻龍女ハ、望月亀弥太が戦死の時のなんにもあい候もの、又御国より出候もの此家ニて大ニセ話ニなり候所、此家も国家をうれへ候より家をほろこし候也。
老母一人、龍女、いもと両人、男の子一人、かつへかつへニて、どふもきのどくニて、龍女と十二歳ニなる妹と九ツニなる男子をもらい候て、十二歳の妹名きみへ、男子太一郎ハ摂州神戸海軍所の勝安房ニ頼ミたり。
龍女事ハ伏見寺田や家内おとせニ頼ミ候。是ハ学文ある女尤人物也。今年正月廿三日夜のなんにあいし時も、此龍女がおれバこそ、龍馬の命ハたすかりたり。
京のやしきニ引取て後ハ小松、西郷などにも申、私妻と為知候。此よし兄上ニも御申可被遣候。御申上なれバ、
 京師柳馬場三条下ル所、
 楢崎将作 死後五年トナル。 此所にすミしが、国家のなんとともニ家ハほろびあとなくなりしなり。
 右妻存命
 私妻ハ則、将作女也。
 今年廿六歳、父母の付
 たる名龍、私が鞆トあらたむ。
正月廿三日ののちナリ。
京の屋敷ニおる内、二月末ニもなれバ嵐山にあそぶ人人、なぐさみにとて桜の花もて来り候。
中ニも中路某の老母神道学者奇人也ハ実おもしろき人也。和歌などよくで来候。此人共私しの咄しおもしろがり、妻をあいして度々遣をおこす。此人ハ曽て中川宮の姦謀を怒り、これおさし殺さんとはかりし人也。本禁中ニ奉行しておれバ、右よふの事ニハ、尤遣所おおき人ナリ。公卿方など不知者なし。
是より三日大坂ニ下り、四日に蒸気船ニ両人共ニのり込ミ、長崎ニ九日ニ来り十日ニ鹿児島ニ至り、此時京留居吉井幸助もどふどふニて、船中ものがたりもありしより、又温泉ニともにあそバんとて、吉井がさそいにて又両りづれにて霧島山の方へ行道にて日当山の温泉ニ止マリ、又しおひたしと云温泉に行。
此所ハお大隅の国ニて和気清麻呂がいおりおむすびし所、陰見の滝其滝の布ハ五十間も落て、中程にハ少しもさわりなし。実此世の外かとおもわれ候ほどのめづらしき所ナリ。此所に十日計も止りあそび、谷川の流にてうおおつり、短筒ピストヲルをもちて鳥をうちなど、まことにおもしろかし。
是より又山深く入りてきりしまの温泉に行、此所より又山上ニのぼり、あまのさかほこを見んとて、妻と両人づれニてはるばるのぼりしニ、立花氏の西遊記ほどニハなけれども、どふも道ひどく、女の足ニハむつかしかりけれども、とふとふ馬のせこへまでよぢのぼり、此所にひとやすみして、又はるばるとのぼり、ついにいただきにのぼり、かの天のさかほこを見たり。其形ハ
  是ハたしかに天狗の面ナリ。両方共ニ
   其顔が
    つくり付てある
    からかね也。
やれやれとこしおたたいて、はるバるのぼりしニ、かよふなるおもいもよらぬ天狗の面、げにおかしきかおつきにて、があり、大ニ二人りが笑たり。
此床所に来れバ実ニ高山なれバ目のとどくだけハ見へ渡り、おもしろかりけども何分四月でハまださむく、風ハ吹ものから、そろそろとくだりしなり。なる程きり島つつじが一面にはへて実つくり立し如くきれいなり。其山の大形ハ、
霧島より下り、きり島の社にまいりしが是は実大きなる杉の木があり、宮もものふり極とふとかりし。其所ニて一宿、夫より霧島の温泉の所ニ至ルニ、吉井幸助もまちており、ともどもにかへり、四月十二日ニ鹿児島ニかへりたり。
夫より六月四日より桜島と言、蒸気船ニて長州へ使を頼まれ、出船ス。此時妻ハ長崎へ月琴の稽古ニ行たいとて同船したり。夫より長崎のしるべの所に頼ミて、私ハ長州ニ行けバはからず別紙の通り軍をたのまれ、一戦争するに、うんよく打勝、身もつつがなかりし。其時ハ長州侯ニもお目ニかかり色色御咄しあり、らしやの西洋衣の地など送られ、夫より国ニかへり、其よしを申上て二度長崎へ出たりし時ハ、八月十五日ナリ。
世の中の事ハ月と雲、実ニどフなるものやらしらず、おかしきものなり。うちにおりてみそよたきぎよ、年のくれハ米うけとりよなどよりハ、天下のセ話ハ実ニおふざツパいなるものニて、命さへすてれバおもしろき事なり。
是から又春になれバ妻ハ鹿児島につれかへりて、又京師の戦はじまらんと思へバ、あの方へも事ニより出かけて見よふかとも思ひよります。私し其内ニも安心なる事ハ、西郷吉之助の家内も吉之助も、大ニ心のよい人なれバ此方へ妻などハ頼めバ、何もきづかいなし。
此西郷と云人ハ七年の間、島ながしニあふた人にて候。夫と言も病のよふニ京の事がきになり、先年初て「アメリカ」ヘルリ」が江戸ニ来りし頃ハ、薩州先ン侯の内命ニて水戸に行、藤田虎之助の方ニおり、其後又其殿様が死なれてより、朝廷おうれい候ものハ殺され、島ながしニあふ所に、其西郷ハ島流の上ニ其地ニてろふニ入てありしよし、近頃鹿児島にイギリスが来て戦がありてより国中一同、彼、西郷吉之助を恋しがり候て、とふとふ引出し今ハ政をあづかり、国の進退此人にあらざれバ一日もならぬよふなりたり。
人と言ものハ短気してめつたニ死ぬものでなし。又人おころすものでなしと、人人申あへり。まだ色色申上度事計なれども、いくらかいてもとてもつき不申、まあ鳥渡した事さへ、此よふ長くなりますわ。かしこかしこ。
 極月四日夜認
 乙様  龍馬

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