坂本龍馬、幕長戦争に駆けつけ下関海戦をヤジ馬す
ワイルウェフ号沈没
慶応2年(1866年)2月、亀山社中代表の坂本龍馬と長州藩海軍局中島四郎との間で交わされた『桜島丸改訂条約』によって、一度決着がつけられていたユニオン号(桜島丸、乙丑丸)の帰属問題が再燃した。
この条約ではユニオン号の運営権は長州藩が有しつつも亀山社中の乗り組みが認められており、長州藩は第二次長州征伐が迫ってくる状況であっただけに、同船を専用にする必要があったのである。
そこで薩摩藩と協議した結果、下関から兵糧米を鹿児島へ運んだ後、完全に長州藩のものとすることが決められた。このことは薩摩藩から長崎の亀山社中のもとに伝えられ、亀山社中の操船するユニオン号は、慶応2年(1866年)4月下旬、兵糧米をのせて下関を出港した。
ユニオン号が長崎に寄港したところ、昨年亀山社中が購入したワイルウェフ号が命名式のため鹿児島に向けて出発しようとしていた。ワイルウェフ号は薩摩藩の支援のもとにイギリス商人グラバーから代価6千3百両で購入した洋式帆船で、船長は黒木小太郎、副将は池内蔵太(細川左馬之助)、浦田運次郎(佐柳高次)がつとめ、そのほか水夫12人が乗り組んでいた。
そこでワイルウェフ号はユニオン号に曳航を頼み、両船は長崎を出港し一路南下していたが、途中暴風雨に襲われた。両船は転覆の危機にみまわれ、曳航に耐えられなくなったユニオン号はやむなく引き綱を切断した。
ユニオン号は蒸気船のため航行を続けることができたが、ワイルウェフ号は帆船であり、しかも乗組員が未熟練だったことから風浪にもまれ、遠くへ流されていった。
ワイルウェフ号は肥前五島列島付近まで漂流し、5月2日未明、塩屋崎沖で座礁転覆した。船将の黒木小太郎はじめ、士官池内蔵太、水夫頭の虎吉、熊吉、水夫の浅吉、徳治郎、仲次郎、勇蔵、常吉、貞次郎、加蔵の12名が溺死し、生存者は下等士官の浦田運次郎、水夫の一太郎・三平のわずか3名だけであった。
ワイルウェフ号遭難の知らせは、鹿児島へ入港したユニオン号乗組士官の菅野覚兵衛から龍馬のもとへ伝えらた。龍馬は同志の死を悼み、6月14日、ユニオン号で鹿児島から下関に向かう航海の途上長崎に寄港し、五島に渡ってワイルウェフ号遭難者たちの氏名を刻んだ慰霊碑を建立した。
この時妻お龍は「月琴の稽古に行きたい」と同船し、長崎の小曽根英四郎の別宅に預けられることになった。
他人のふんどしで相撲を取る
龍馬は鹿児島を出発する際、西郷吉之助から長州藩が薩摩藩に贈った兵糧米返還の件を依頼されていた。これは長州藩が国難の時である以上、出兵しない薩摩藩が受け取るよりも、長州藩が活用するほうが有効的であると西郷が判断したからであった。
龍馬は長崎を経て6月16日に下関に到着すると、ただちに木戸貫治(桂小五郎)と会談をおこない、西郷の真意を伝えた。ところが、一度贈ったものを受け取るわけにはいかないと木戸が難色を示したので、龍馬は次のような提案を出した。
「長州が薩摩に米を贈るのは礼であり、薩摩がこれを辞退するのは義である。しかし、貴重な米を船底で腐らせてしまうのは得策ではない。むしろこれを僕に与えてくれたなら、社中の報国の資として活かすことができると思うが、どうだろうか」
龍馬の機転に木戸が笑って了承し、兵糧米は亀山社中に寄付されることになった。龍馬はまわりの者をかえりみて、「これこそ他人のふんどしで相撲を取るということだ」と笑ったという。
幕長戦争(第二次長州征伐)
慶応2年(1866年)1月22日、第二次長州征伐を決定した幕府は、長州藩に対して藩主父子の隠居謹慎と領土10万石の削減を処分とする通告を発した。長州藩は表向きには幕府に従う態度を示しながらも、裏では軍事力の再編強化を進める「武備恭順」の方針でこれを無視し続けていた。
そして、5月29日を最終期限とする通告も長州藩が無視したため、遂に6月7日、幕府艦隊による周防大島への砲撃が始まり、続いて長州への入り口となる芸州口・石州口・小倉口の四方向で戦闘の火ぶたがきられた。
龍馬が下関に入港した時、すでに幕長戦争の真っ最中であった。ユニオン号はかねての約束通り長州藩海軍局の所属となり、「乙丑丸」と名を改め、海軍総督高杉晋作の指揮下に入ることになった。高杉は乙丑丸の運用を龍馬に依頼し、亀山社中の菅野覚兵衛が船将、石田英吉が砲手長につくことになった。
翌17日、長州藩艦隊は下関の対岸にある小倉藩領田ノ浦・門司に向けて出撃した。高杉の搭乗した丙寅丸・癸亥丸・丙辰丸が田ノ浦、そして乙丑丸と庚申丸が門司の敵陣に艦砲射撃を加え、小倉藩守備隊を壊滅に追い込んだ。
これに呼応して山形狂介率いる奇兵隊、福原和勝率いる報国隊が渡海を強行して田ノ浦・門司に上陸し、湾岸砲台を占拠した。しかし、小倉藩の反撃を警戒した高杉は制海権を確保していないことから、征長軍の陣営を放火し、海岸に係留している船を焼き払い全軍を下関の本営へと撤退させた。
龍馬はこの戦闘には直接参加せずに本陣か小高い山の上から見物していたようで、兄権平に宛てた手紙には自らが描いた海戦図を添えて幕長戦争を報告している。
『慶応二年十二月四日 坂本権平、一同宛』[前略]
一、七月頃、蒸気船、桜嶋といふふね、を以て薩州より長州江使者ニ行候時被頼候而、無拠長州軍鑑を引て戦争セしに是ハ何之心配もなく、誠ニ面白き事にありし。一、惣而咄しと実ハ相違すれ共、軍ハ別而然り。是紙筆ニ指上ゲ候而も、実と不被成かも知不、一度やつて見たる人なれば咄しが出来る。
七月以後戦ひ止時なかりしが、とふとふ十月四日と成り長州より攻取し土地ハ小倉江渡し、以後長州ニ敵ニすべからざるを盟ひ、夫より地面を改めしに、六万石斗ありしよし。右戦争中一度大戦争がありしに長州方五拾人計打死いたし候時、軍にて味方五十人も死と申時ハ敵方合セておびただしき死人也。先き手しバしバ敗セしに、高杉普作ハ本陣より錦之手のぼりにて下知し、薩州の使者村田新八と色色咄しなどいたしへたへた笑ながら気を付て居る。敵ハ肥後の兵などにて強かりけれバ、普作下知して酒樽を数数かき出して、戦場ニて是を開かせなどしてしきりに戦ハセ、とふとふ敵を打破り肥後の陣幕旗印杯不残分取りいたしたり。私共兼而ハ戦場と申セバ人夥しく死する物と思ひしに、人の拾人と死する程之戦なれバ、余程手強き軍が出来る事に候。
[後略]
その後も小倉口では第2次の7月3日、第3次の7月27日と数度に渡って激戦が繰り広げられた。龍馬は第2次の戦いが始まることを知り、次のような手紙を木戸貫治に送っているが、日付が正確ならば龍馬は間に合わなかったことになる。
『慶応二年七月四日 木戸貫治宛』御別後お郡まで参り候所、下の関ハ又戦争と弟思ふに、どふぞマタヤジ馬さしてく礼まいかと、早早道お急ぎ度、御さしそへの人ニ相談仕候所、随分よろしかるべしとて夜おかけて道お急ぎ申、四日朝関ニ参申候。何レ近日拝顔の時ニ残し申候。
七月四日 龍
木圭先生 左右
猶此度の戦争ハおりから又英船が見物して、長崎の方へ参り候ハおもしろき事ニ候。
追白
先日御咄しの英仏の軍艦の関に参候ものハ兼而参ると申軍艦ニてハなし。飛脚艦のよふなるものと相見へ候よし。
兼而来ると申舶ハ二舷砲門の艦にて是ハ近日又参り可申か、弟思ふに村田新八が不来ハ此故にてハなきか。早早。
此軍艦ニハ「アドミラール」及「ミニストル」も参り候ヤに承り候。先日参候舶ハ是ハおらざりしよし。
是も又思ふべし。
小倉口の戦いは長州軍が熊本藩兵が守備する赤坂口を突破することができず、一進一退の攻防が繰り広げられていた。ところが7月20日、総大将の将軍徳川家茂が大坂城で病没した知らせが届くと動揺した幕府軍総督小笠原長行は戦闘を放棄して長崎に逃れてしまった。
このため統制を失った征長軍の諸藩は次々に兵を引きあげてしまい、単独で防戦できないと判断した小倉藩は、8月1日、自ら居城に火を放って撤退し、この小倉城陥落をもって事実上の長州藩の勝利が決した。
この後、龍馬は長州藩主毛利敬親に拝謁し、薩長同盟成立から幕長戦争への参加とこれまで長州藩のために周旋した労をねぎらわれ、西洋の羅紗などを賜っている。
