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坂本龍馬、土佐藩と和解し亀山社中を「海援隊」に改編

清風亭会談

武市瑞山ら土佐勤王党派を一掃した土佐藩では勤王党に暗殺された吉田東洋の門下にあった新おこぜ組が台頭し、その中心に参政の後藤象二郎があった。後藤は吉田の甥にあたり、前藩主山内容堂の信任を得て、慶応2年(1866年)2月に殖産興業のための機関である開成館を設立し、藩営貿易と富国強兵を推し進めていた。

さらに開成館の出先機関「土佐商会」を長崎に設け、この年の7月、後藤は貿易の促進と汽船・武器購入のため長崎へ出張し、8月末には自ら上海に出向き汽船を購入した。また、事業拡張のために内外の商人と盛んに宴会を開き、周囲の人々を驚かしていた。

この頃後藤は、薩長による討幕の気運が高まり、公武合体論の土佐藩が時勢から取り残されていることを感じとっていた。そこで再び土佐藩を政局の中心に据えるため、自藩を脱藩し活動する坂本龍馬とその率いる亀山社中と手を結ぶことを考えていた。

一方、亀山社中では後藤が長崎に出ていることを知り、「土佐勤王党を弾圧し、武市半平太を断罪した張本人であるから斬るべし」と主張する者もあったが、龍馬はそうした動きを固く制していた。

こうした状況の中、土佐藩士溝淵広之丞と松井周助が取り持ち、龍馬と後藤の会談がおこなわれることになった。

溝淵はかつて龍馬が剣術修行のため江戸に出ていた頃、共に佐久間象山のもとで西洋砲術を学んだことがあり、龍馬とは旧知の間柄であった。そのため長崎に出た溝淵は龍馬と連絡をとり、慶応2年(1866年)12月には龍馬の紹介で長州萩の木戸準一郎(桂小五郎)をたずねていた。

この時木戸は雄藩連合の必要性を説き、これに土佐藩の早急な参加を求めた。溝淵も大いに時勢の切迫を察し、長崎に戻ると後藤に会談の内容を報告し、龍馬と会うことを進言したのであった。

慶応3年(1867年)1月中旬、後藤は清風亭に用意した酒席に龍馬を招待し、両者の会談が実現した。会談を終えた龍馬に亀山社中の同志が後藤のことをたずねると「近頃の上士の中では珍しい人物であった」と答え、「彼と我とは昨日まで刺せば突くという敵同士であったのに、あえて一言もこれまでのことにふれず、ただ前途の大局のみを話す。これは人物でなればできない。また話題を常に自分に引きつけ、他人に引きずられないところは、全く才物である」(『維新土佐勤王史』)と語った。

この後、龍馬は後藤との会談の状況を木戸に報告しており、「先生の御尽力により、土佐国は新たな一歩を踏み出しました。今後は土佐国は幕府の役に立つことはないでしょう。今年の7、8月頃には昔の長州・薩摩・土佐になることができると思い、とても楽しみです」(『慶応三年一月十四日 木戸準一郎宛』)と書き送っている。

ところが、姉乙女をはじめ同志の中には後藤と手を組むことに「龍馬は奸物にだまされている」と批難する者もあったが、これに対し龍馬は、「私一人が数百人の同志たちを率いて天下国事のために尽くすより、土佐藩二十四万石を動かし、それを率いて天下国家のために働く方がより良いでしょう。恐れながらこれは乙女姉さんには少しわからないかもしれません」と手紙の中で本心を語っている。

『慶応三年六月二十四日 坂本乙女、おやべ宛』
[前略] ○先頃より段段の御手がみ被下候。おおせこされ候文ニ、私を以て利をむさぼり、天下国家の事おわすれ候との御見付のよふ存ぜられ候。
○又、御国の姦物役人ニだまされ候よふ御申こし。右二ヶ条ハありがたき御心付ニ候得ども、およバずながら天下ニ心ざしおのべ候為とて、御国よりハ一銭一文のたすけおうけず、諸生の五十人もやしない候得バ、一人ニ付一年どふしても六十両位ハいり申候ものゆへ、利を求メ申候。
○又御国の為ニ力を尽すとおおせらるるが、是ハ土佐で生レ候人が、又外の国につかへ候てハ、天下の大義論をするに諸生ニまで二君ニつかへ候よふ申され、又女の二夫ニつかへ候よふ申て、自身の義論が貫らぬきかね候故ニ、浪人しつけるに、又ハ御国をたすけるに到さねバ、ゆかぬものニて候。夫で御国よりいで候人人ハ、皆私が元トにあつまりおり申候ゆへ、もふ土佐からハおかまいハなく、らくにけいこ致しおり候。
此頃私しも京へ出候て、日日国家天下の為、義論致しまじハり致候。御国の人人ハ後藤庄次郎、福岡藤次郎、佐々木三四郎、毛利荒次郎、石川清之助、これハずいぶんよきおとこナリ。中にも後藤ハ実ニ同志ニて人のたましいも志も、土佐国中で外ニハあるまいと存候。そのほかの人人は皆少少づづハ、人がらがくだり申候。
清二郎が出かけてきたニ付て、此人ニも早早に内達致し、兄さんの家にハきずハ付ハすまいかと、そふだん致し候所、夫レハ清次郎が天下の為に御国の事ニ付て、一家の事を忘れしとなれバ兄さんの家ニきずハ付まいと申事なり、安心仕候。
かれこれの所御かんがへ被成、姦物役人にだまされ候事と御笑被下まじく候。私一人ニて五百人や七百人の人のお引て、天下の御為するより廿四万石を引て、天下国家のの御為致すが甚よろしく、おそれながらこれらの所ニハ、乙様の御心ニハ少し心がおよぶまいかと存候。
[後略]

海援隊と陸援隊の結成

慶応2年(1866年)10月、土佐藩内で後藤象二郎と共に重きをなしていた大監察の福岡藤次は、藩命を受けて小笠原唯八と共に上京し、情勢探索をおこなっていた。この時、京都にあった中岡慎太郎と交流があり、その仲介で薩摩藩の西郷吉之助らと会談を重ね、倒幕へと傾倒していった。

翌年(1867)2月、福岡の要請を受けた西郷は土佐を訪れ、前藩主山内容堂に四侯会議を説き上京をすすめた。容堂は上京を約束し、これを機会に藩論の転向を考えた福岡は、龍馬たちの勢力を利用するため、龍馬と中岡の脱藩赦免を働きかけた。

そのため同年2月に、「郷士御用人権平弟 坂本龍馬」と「北川郷大庄屋源平倅 中岡慎太郎」の脱藩罪が許され、起用されることになった。

そして龍馬、中岡、後藤、福岡が長崎に会同し、慶応3年(1867年)4月、土佐藩の外郭組織「翔天隊」の両翼として、長崎出張の藩士が属する「海援隊」と京都出張の藩士が属する「陸援隊」の創設が決定され、次の規約が作成された。

『福岡孝弟手録』
出京官
参政一員  監察一員
付属書生二員或ハ一員
右書生、当時出京両府ノ自撰ヲ許ス。外藩応接ノ際並ニ陸援隊中ノ機密ヲ掌ル。
陸援隊
隊長一人
脱藩ノ者、陸上斡旋ニ志アル者、皆是ノ隊ニ入ル。国ニ付セス暗ニ出京官ニ属ス。
天下ノ動静変化ヲ観、諸藩ノ強弱ヲ察シ、内応外援、控制変化、遊説間牃等ノ事ヲ為ス。
出崎官
付属書生二員
右書生、当時出崎参政ノ自撰ヲ許ス。外藩応接ノ際並ニ海援隊中ノ機密ヲ掌ル。
海援隊
隊長一人  風帆船属之。
脱藩ノ者、海外開拓ニ志アル者皆是ノ隊ニ入ル。国ニ付セス暗ニ出崎官ニ属ス。
運船射利、応援出没、海島ヲ拓キ五州ノ与情ヲ察スル等ノ事ヲ為ス。
凡海陸両隊所仰ノ銭量常ニ之ヲ給セス。其自営自取ニ任ス。但臨時官乃給之。固無定額。且海陸用ヲ異ニスト雖モ相応援、其所給ハ多ク海ヨリ生ス。故ニ其所射利者亦官ニ利セス。両隊相給スルヲ要トス。或ハ其所営ノ局ニ因テ官亦其部金ヲ収ス則両隊臨時ノ用ニ充ツベシ。
右等ノ処分京崎出官ノ討議ニ任ス。

海援隊約規
凡嘗テ本藩ヲ脱スル者、及他藩ヲ脱スル海外ノ志アル皆此隊ニ入ル。運輸射利、開柘投機、本藩ノ応援ヲ為スヲ以テ主トス。今後自他ニ論ナク其志ニ従テ撰テ入之。
凡隊中ノ事一切隊長ノ処分ニ任ス。敢テ或ハ違背スル勿レ。若暴乱事ヲ破リ、妄謬害ヲ引クニ至テハ、隊長其死活ヲ制スルモ亦許ス。凡隊中患相救、困厄相護、義気相責、条理相糺、若独断過激儕輩ノ妨ヲナシ、若儕輩相推、乗勢強制他人ノ妨ヲ為ス。是尤モ慎ムベキ所、敢テ或ハ犯ス勿レ。
凡隊中修業分課、政法火技、航海汽機、語学等ノ如キ其志ニ従テ執之。互ニ相勉励、敢テ或ハ怠ルコト勿レ。
凡隊中所費ノ銭糧、其自営ノ功ニ取ル。亦互ニ相分配私スル所アル勿レ。若挙事用度不足或ハ学科欠乏ヲ致ス。隊長建議出崎官ノ給弁ヲ俟ツ。
右五則海援隊約規交法簡易何ゾ繁砕ヲ得ン。元是翔天ノ鶴其飛フ所ニ任ス。豈樊中ノ物ナランヤ。今後海陸ヲ合セ号シテ翔天隊ト云ン。亦究竟此意ヲ失スル勿レ。
皇慶応三丁卯四月

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