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いろは丸事件、海援隊船いろは丸が紀州藩船明光丸と衝突し沈没

いろは丸沈没

慶応3年(1867年)4月19日、坂本龍馬は紅白紅の海援隊旗をかかげた小型蒸気船いろは丸に乗り込み、長崎を出港した。これは海援隊として初めての航海であり、隊士たちに「今日をはじめと乗り出す船は 稽古始めのいろは丸」という舟唄を歌わせながら、瀬戸内海を大坂へ向かっていた。

いろは丸は伊予大洲藩所有の内輪蒸気船で、長さ30間・幅3間・深さ2間・重量160トン・45馬力あり、慶応2年(1866年)6月、武器購入のため長崎を訪れた国島六左衛門が、龍馬と薩摩藩士五代才助の周旋で船価4万2千5百両で購入したものである。余談だが国島は購入の許可を藩から得ていなかったため、責任をとって自刃している。

いろは丸の運用は、大洲藩の依頼を受けた亀山社中の菅野覚兵衛、渡辺剛八、橋本久大夫がおこなっており、龍馬は同船を海援隊で使用するため、後藤象二郎を通じて「日数15日間、一航海500両」という契約をび借り受けていた。

龍馬は海運業を営み、将来は積年の思いである蝦夷地開拓をおこない、竹島の材木や魚介類を調査し、諸国浪生による竹島の開拓を計画していたのである(『慶応三年三月六日 印藤肇宛』)。

ところが4月23日の夜、鞆の津沖を東に航行していたいろは丸は、長崎へ航行中の紀州藩船明光丸と六島付近で衝突した。

いろは丸は左舷前方に明光丸を発見し、これを避けようと左に舵をきったが、明光丸が右旋したため明光丸の船首が右舷中央に激突、慌てた明光丸は船を後退させ、救助のために接舷しようとして再び激突したのである。

明光丸は、元治元年(1864年)紀州藩がトーマス・グラバーから15万5千ドルで購入した新造のイギリス籍の蒸気船で、長さ41間・幅5間・深さ3間半・馬力150・重量887トンあり、いろは丸に比べて約5倍のトン数と3倍の馬力を有していた。

いろは丸は大破、自力航行が不能となり、龍馬と乗組員は明光丸に収容された。龍馬は明光丸船長高柳楠之助と話し合い、両船をつなぎ、鞆の津まで曳航することを決めたが、途中宇治島付近でいろは丸は沈没してしまった。

実に怨み報ぜざるべからず

慶応3年(1867年)4月24日、龍馬と明光丸船長高柳楠之助との合議により、いろは丸沈没の善後策を協議するため、明光丸は備後鞆の津に入港した。海援隊一同は小曽根英四郎の周旋で桝屋清左衛門方に投宿し、龍馬は紀州藩との交渉に入った。

龍馬は事件解決まで明光丸の出航をひかえることを要請したが、高柳は主用である長崎への回航を急ぐとして明言を避けた。

翌25日、龍馬は急場の難を救うため1万両の支払いを求めたが、高柳は勘定奉行茂田一次郎と相談し金一封を贈ると回答した。龍馬が受け取りを拒否したため、紀州藩は1万両に返済期限を決めることを条件につけたが、龍馬はこれは弁償金の一部として受け取るので返済するべき性質のものではないと主張した。

結局、海援隊と紀州藩の交渉は不調に終わり、4月27日、明光丸は藩命を至上として龍馬たちを鞆の津に残したまま長崎に出航してしまった。

激怒した龍馬は、「この怨みは必ず報復する」と紀州藩との戦いを決意し、航海日誌と応接書を隊士一同に回覧させ結束を固め、世論を集めるためその写しを西郷吉之助・小松帯刀、中岡慎太郎たちへと送った。

『慶応三年四月二十八日 菅野覚兵衛、高松太郎宛』
拝啓。然に大極丸は後藤庄次郎引受くれ申候。そして小弟をして海援長と致し、諸君其まま御修行被成候よふ、つがふ付呉候。是西郷吉が老侯にとき候所と存候。福岡藤次郎此儀お国より以て承り申候。
然に此度土州イロハ丸かり受候て、大坂まで急に送り申候所、不計も四月廿三日夜十一時頃、備後鞆の近方、箱の岬と申所にて、紀州の船直横より乗かけられ、吾船は沈没致し、又是より長崎へ帰り申候。何れ血を不見ばなるまいと存居候。
其後の応接書は西郷まで送りしなれば、早々御覧可被成候。航海日記書送り申候間、御覧可被成候。此航海日記と長崎にて議論すみ候までは、他人には見せぬ方が宜と存候。西郷に送りし応接書は早早天下の耳に入候得ば、自然一戦争致候時、他人以て我も尤と存くれ候。
惣じて紀州人は我々共乃便船人をして、荷物も何も失しものを、唯鞆の港になげあげ主用あり急ぐとて長崎に出候。鞆の港に居合せよと申事ならん。実に怨み報ぜざるべからず。
早々頓首
四月二十八日   才谷 龍
菅野覚兵衛様
多賀松太郎様
追而船代の外二千金かりし所、是は必代金御周旋にて御下被成るよふ御頼み申し候。


別紙ハ航海日記、応接一冊を西郷ニ送らんと記せしが猶思ふに諸君御覧の後、早々西、小松などの本ニ御廻、付てハ、石川清の助などにも御見せ奉願候。又だきにて御一見の後、御とどおき被成候てハ、不安候間、御らん後、西郷あたり早早御見せ可被下候。実ハ一戦仕りと存候間、天下の人ニよく為知て置度存候。早早。
四月廿八日   龍
菅野様
多賀様

龍馬の遺書

いろは丸は海援隊の全てを賭けた事業であり、龍馬は不退転の決意で交渉にのぞむべく、長崎に向かう途中、慶応3年(1867年)4月29日に船便で下関に立ち寄り、身辺の整理をおこなった。

妻お龍が世話になっている伊藤助太夫に手紙を2通したため、一通目には覚書を書き、「一、留守の間、お龍が住んでいる自然堂へは、親友の者でも立ち入らせないこと。一、他所から来た親友の者の一宿一飯の事であっても一切断ること」を依頼した。

『慶応三年五月七日 伊藤助太夫宛』
覚書二条
一、此度の出崎ハ、非常の事件在之候ニ付、留守ニ於も相慎可申、然レバ信友のものといへども、自然堂まで不参よふ、御玄関御番衆まで御通達被遣度候事。
一、私し留守ニて他所より尋来り候もの、或ハ信友と雖ども、一飯一宿其事一切存不申事。
右の事ニ仕度候間、宜御頼申上候。
拝首。
五月七日
茶翁先生  龍
左右

二通目には、「一、龍馬とお龍の生活の一切は、三吉慎蔵と印藤肇両氏にお引き合わせ相談してもらいたい。一、費用は全て月末締めで支払うが、もし気づかない点があれば御台所奉行(伊藤家会計)や御役人(伊藤家使用人)から請求して欲しい」と書き、後日金銭の迷惑がかからないよう配慮している。

『慶応三年五月七日 伊藤助太夫宛』
追白、御案内の通り此度長崎ニ出候得バ、いかが相成候や不被計候得バ、左の覚さし 舌代出し置候。
一、兼而私ら両人の所ハ三印両兄聞取ニ相成、御家に止宿御頼申候事故、私両人生活の一事ハ一切上の両兄に御引合可被遣候。
一、私方物好ニて他人呼入候て、費用在之分ハ、一切私方よりさし出し申候。 但月末末ニ算用相立候。
もし又私方心付不申分ハ、御台所奉行より書付御さしこし可被遣候よふ御頼申上候。
且又、私方洗濯女など雇入候時ハ、其ノ飯料ハ通常旅人宿の時の相場の下等成方ニ算用仕度、此儀御役人中ニも御達可被遣候。以上。
五月七日  龍(朱印)
好茶翁先生
机 下

そして長崎へ旅立つ際、信頼する三吉慎蔵に遺言状を託し、「万一の時には、お龍を土佐に送り返す手続きをおこない、坂本家から使用人が来るまでの間、お龍の面倒をみてもらいたい」と頼んでいる。

『慶応三年五月八日 三吉慎蔵宛』
此度出崎仕候上ハ、御存の事件ニ候間、万一の御報知仕候時ハ、愚妻儀本国ニ送り可申、然レバ国本より家僕乃老婆壱人、御家まで参上仕候。其間愚妻おして尊家に御養置可被遣候よふ、
万万御頼申上候。拝稽首。
五月八日  龍馬
慎蔵様
左右

[封 表面]
三吉慎蔵様  坂本龍馬
御直披
[封 裏面]
五月八日出帆時ニ認而家ニ止ム。
卯  (朱印)

万国公法

この頃、紀州藩の態度に憤慨した海援隊士の佐柳高次と腰越次郎が明光丸への襲撃を企てたが、龍馬は勝算があるとして2人の軽挙を押さえていた。龍馬の勝算とは、今回のいろは丸事件を『万国公法』に照らし合わせて審理することであった。

万国公法とは、イギリス・アメリカ・フランス・オランダの法を基礎としてまとめられた法律書のことで、慶応元年(1865年)に江戸の開成所などで翻訳され、出版されていた。原書は米国のヘンリー・ウェアトン著『国際法の要点』で、上海などで多発した海難事故の解決に利用されていた。

龍馬はこれを利用することで紀州藩側の非を主張し、世論の支持を集めようと考えていた。そのため、知り合いの秋山氏に万国公法を送ってもらい、出版することを計画していた。

『慶応三年五月十一日 秋山某宛』
唯御送り 但万国公法。 難有奉存候。そして活板字がたり不申ざれバ、其不足の字ハ御手許より御頼か、又ハ伏水ニて御相談、以前の板木氏師ニ御申付可被成下奉頼候。謹言。
 十一日
 秋山先生  才谷
  左右

一方、紀州藩は明光丸を長崎に入港させ、奉行所に対して衝突事件の報告をおこない、事故の原因を「いろは丸が両舷の灯火を怠っていたために衝突した」と上書した。

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