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坂本龍馬、いろは丸事件を解決し日本の海路定則を定める

金を取らずに国を取る

慶応3年(1867年)5月13日、坂本龍馬は長崎に到着し、15日から再び紀州藩との交渉が開かれた。出席者は海援隊から坂本龍馬、長岡謙吉、佐柳高次、腰越次郎、小谷耕蔵、これに土佐藩から森田晋三、橋本麒之助、紀州藩からは明光丸船長高柳楠之助の他8人である。

席上互いに航海日誌を交換し、海路図を示して衝突の原因責任について激しく議論した結果、海援隊は次の事実を紀州藩に認めさせた。
・衝突直後、海援隊士が明光丸に乗り組んだ時、航路を見守るべき当番士官が不在であった。
・衝突後、明光丸は船体を後退させ、再び前進していろは丸に衝突した。

慶応丁卯四月廿三日、紀伊公之蒸汽船我蒸汽船ヲ衝突ス、我船沈没ス。
其証、
衝突之際我士官等彼甲板上ニ登リシ時、一人之士官有ルヲ見ズ。是一ヶ条。
衝突之後彼自ラ船ヲ退事凡五十間計、再前進シ来ツテ我船ノ右艫ヲ突ク。是二ヶ条。
五月十六日海援隊文司長岡謙吉応接席上ニ於テ書ス

龍馬はこの事実をもって万国公法による判断を下すべきであると主張した。だが紀州藩は海援隊を浪士集団とあなどり、長崎奉行所の裁決を得ることを主張し、御三家の権威を背景に政治的圧力を加えようとした。

龍馬はこれに対抗するため長州藩の木戸準一郎(桂小五郎)と相談し、「船を沈めたその償いは、金を取らずに国を取る」という俗謡を花街で流行させた。非は紀州藩にあり、海援隊には一戦を交える覚悟があると宣伝したのである。

この世論操作の効果は絶大で、人気同情が海援隊に集まり、長崎市中の商人から子供いたるまでが、「紀州を討て、紀州の船を取れ」と口々に戦争をすすめに来た程であった(『慶応三年五月二十八日 伊藤助太夫宛』)。

後藤象二郎の大憤発

海援隊と紀州藩の議論が平行線をたどる中、土佐藩参政後藤象二郎が長崎に到着し、慶応3年(1867年)5月22日、聖徳寺において明光丸勘定奉行の茂田一次郎と交渉をおこなった。

後藤は、まず紀州藩が長崎奉行所に上書した中に「いろは丸に左右の舷灯がなかったために衝突した」とあるが、これは確証がなく公正な判断を妨げるものであると責め立て、茂田に上書の撤回を約束させた。

そしてさらに、「貴藩のこれまでの土佐藩士への仕打ちは非常に冷酷であり無礼である。後日この一件は主君に報告するが、今後の出様によってはどのような結果となるかも知れぬ。この点をよく心得てもらいたい」と凄んでいる。

幾度かの交渉を経ても結論が出ず、龍馬と後藤の策謀を恐れた紀州藩側は「女のいいぬけ」や「病気なり」を理由に交渉を避けていたが、龍馬と後藤は止宿先に乗り込んで散々に議論した。

そして5月26日、龍馬の提案により、「汽船衝突事故は我が国では未だ準拠すべき判例がなく、長崎滞在中のイギリス海軍提督に万国の例を聞き公論を求める」ことで合意した。

翌27日、龍馬は配下の黒沢直次郎を使いに、午前10時を期してイギリス海軍提督を訪問する誘いの手紙を明光丸船長高柳楠之助の止宿先へ持たせたが、取次に出た男は「高柳は昨日から留守である」と答えた。

そこで黒沢は、「昨夜九ツ時頃、こちらへ参った時は高柳先生は在宿だった。それを昨日から留守であるとは合点がゆかぬ」と詰め寄り、奉行所の仲裁でおさまった。

実は、紀州藩は勝算がないものとみて、薩摩藩の五代才助に調停を頼み、龍馬らを避けていたのであった。この顛末はお龍に送った手紙に書かれており、高柳の居留守を「おかしき咄し」と笑っている。

『慶応三年五月二十八日 坂本鞆(お龍)宛』
其後ハ定而御きづかい察入候。しかれバ先ごろうち、たびたび紀州の奉行、又船将などに引合いたし候所、なにぶん女のいいぬけのよふなことにて、度々論じ候所、此頃ハ病気なりとてあわぬよふなりており候得ども、後藤庄次郎と両人ニて紀州の奉行へ出かけ、十分にやりつけ候より、段々義論がはじまり、昨夜今井・中島・小田小太郎など参り、やかましくやり付候て、夜九ツすぎにかえり申候。
昨日の朝ハ私しが紀州の船将に出合、十分論じ、又後藤庄次郎が紀州の奉行に行、やかましくやり付しにより、もふもふ紀州も紀州も今朝ハたまらんことになり候ものと相見へ、薩州へ、たのみニ行て、どふでもしてことわりをしてくれよとのことのよし。
薩州よりわ彼イロハ丸の船代、又その荷物の代お佛候得バ、ゆるして御つかハし被成度と申候間、私よりハそハわ夫でよろしけれども、土佐の士お鞆の港にすておきて長崎へ出候ことハ中中すみ不申、このことハ紀州より主人土佐守へ御あいさつかわされたしなど申ており候。此ことわまたうちこわれてひとゆくさ致候ても、後藤庄次郎とともにやり、つまりハ土佐の軍艦もつてやり付候あいだ、けしてけして御安心被成度候。先ハ早早かしこ。
五月廿八日夕  龍
 鞆殿
猶、先頃土佐蒸氣船夕顔と云船が大坂より参り候て、其ついでに よふどふさま 御隠居様 土佐御いんきよより後藤庄次郎こと早々上京致し候よふとの事、私しも上京してくれよと、庄次郎申おり候ゆへ、此紀州の船の論がかた付候得バ、私しも上京仕候。此度の上京ハ誠ニたのしみニて候。
しかし右よふのことゆへ下の関へよることができぬかもしれず候。京に三十日もおり候時ハ、すぐ長崎へ庄次郎もともにかへり候間、其時ハかならずかならず関ニ鳥渡なりともかへり申候。御まち被成候。
○おかしき咄しあり、お竹に御申。直次郎事ハ此頃黒沢直次郎と申おり候。今日紀州船将高柳楠之助方へ私より手がみおや候所、とりつぎが申ニハ高柳わきのふよりるすなれバ、夕方参るべしとのことなりしより、そこで直次郎おおきにはらおたてゆうよふ、此直次郎昨夜九ツ時頃此所にまいりしニ、其時高柳先生ハおいでなされ候。夫おきのふよりるすとハ此直次郎きすてならずと申けれバ、とふとふ紀州の奉行が私しまで手紙おおこして、直次郎ニハことわりいたし候よし。おかしきことに候。かしこかしこ。
此度小曽清三郎が曽根拙蔵と名おかへて参り候。定めて九三の内ニとまり候ハんなれども、まづまづしらぬ人となされ候よふ、九三ニも家内ニもお竹ニも、しらぬ人としておくがよろしく候。
後藤庄次郎がさしたて候。かしこかしこ。

いろは丸事件の決着

調停の依頼を受けた五代才助は、後藤象二郎と龍馬を説得し、また紀州藩代表の茂田一次郎も自ら後藤をたずね謝罪したことで、賠償金8万3千両を支払う条件で決着がついた。

証書
一金 八万三千五百二十六両百九十八文
   内三万五千六百三十両 伊呂波丸沈没につき船代
   四万七千八百九十六両百九十八文 右につき積荷物等代価
右金高来る十月限り長崎表において相違なくあい渡すべく申し候 以上

  慶応三年丁卯六月
紀伊殿家来茂田一次郎
  土州候御内 後藤象二郎殿

いろは丸事件解決後、龍馬をはじめとする海援隊の名が高まり、「この事件は、日本の海路定則を決定したものだ」ということで、船乗りたちが連日話を聞きに押し寄せたそうである(『慶応三年六月二十四日 坂本権平宛』)。

一方紀州本藩では、「才谷(龍馬)は大胆不敵な人物であり、彼の配下の海援隊士などは浮浪剽悍の(血気盛んな)暴士どもばかりで、この事件に猛って、ややもすれば暴威脅迫を加えてきたので、茂田は畏怖し、途方もない賠償金の約束をさせられた」として、この処置に異論が噴出した。

そのため同年10月頃、岩橋轍輔らを長崎に出張させ、土佐藩大監察佐々木三四郎と土佐商会岩崎弥太郎と交渉をおこなった。海援隊からは龍馬の代理として中島作太郎が同席し、協議の末、賠償金を7万両に引き下げることで合意した。

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