イカルス号事件、海援隊士への水夫殺害嫌疑
海援隊士への嫌疑
慶応3年(1867年)7月6日未明、長崎の花街丸山でイギリス軍艦イカルス号の乗組水夫ロバート・フォードとジョン・ホッチングスの2人が何者かにより殺害された。ただちに長崎奉行による犯人捜索がおこなわれたが、事件解決には至らなかった。
おりから長崎に帰港したイギリス公使ハリー・パークスが自ら調査したところ、市中の噂では犯人は土佐藩海援隊士と同じ白袴筒袖を着ていたという。また事件の翌朝、海援隊の横笛丸が長崎を出港したのに続き土佐藩砲艦の若紫丸が出港、横笛丸は正午に帰港したが若紫丸はそのまま土佐に帰国していたことが判明した。
そこからパークスは、横笛丸が犯人を乗せて港外に出て海上で若紫丸に移乗させたのち長崎へ戻ってきたと考え、長崎奉行に海援隊士の取り調べを要請したが、風説であり根拠がないとして受けつけられなかった。
これに激怒したパークスは幕府と交渉して直接土佐藩へ掛け合うとして、7月20日に長崎を発ち22日大坂に到着し、老中板倉勝静に激しく抗議した。
幕府は調査をおこなうため若年寄平山敬忠、大目付戸川忠愛、目付設楽岩次郎を土佐に出張させることを決定し、在京の土佐藩重役に対し同行することを要請した。
突然呼び出された佐々木三四郎、由比猪内らは、風説と猜疑をもって犯人を土佐藩士と断定したのは非礼であり、大坂で交渉することを主張したが、板倉の説得でおさまった。
佐々木は幕府役人の同行を拒否すると、在坂中の西郷吉之助に相談して薩摩藩船三邦丸を借り、8月1日、土佐に向けて兵庫を出港した。出港する直前に坂本龍馬が小舟に乗って同船へこぎ着け、松平春嶽から山内容堂への書状を佐々木に手渡した。
事件の善後策を協議している内に船は錨を上げてしまったので龍馬はそのまま同行し、一行は8月2日に土佐須崎に入港した。
2度の脱藩をした龍馬は藩内の佐幕派の反感を買っていたので碇泊中の土佐藩船夕顔丸に潜伏し、佐々木は上陸し高知城下までかごを飛ばした。そして、ただちに山内容堂に謁見して事件の次第を報告し、次いで龍馬の一件を伝えると容堂は「何分やかましいことだ」と笑って同意した。
翌3日、幕府の回天丸が須崎に入港し、5日に平山敬忠ら幕府役人が高知入りした。続く6日に公使ハリー・パークス、通訳アーネスト・サトウが乗るパブリスク号が須崎に入港した。
土佐談判
慶応3年(1867年)8月7日、土佐藩船夕顔丸の船上で後藤象二郎とハリー・パークスの談判が開かれた。パークスは机を叩き怒鳴りつけるなどの威圧的な態度をみせたが、後藤の毅然とした抗議を受けて態度をあらためた。
翌8日、第2回目の談判が開かれ、土佐藩側から後藤象二郎、佐々木三四郎、由比猪内、前野源之助、イギリス側から公使ハリー・パークスと通訳アーネスト・サトウ、被告側から野山伝太、寺田典膳、幕府側から設楽岩次郎が出席した。
この談判でイギリス側は態度を軟化させ、海援隊士犯人説は風説にもとづくところがあるため、再び長崎で調査をおこなうことで合意した。
夕顔丸に潜伏していた龍馬は、8月8日に兄権平に手紙を出し、イカルス号事件の消息を伝えている。その際時計一個を贈り、「かの御所持の無名の了戒二尺三寸の御刀なにとぞ拝領願ひたし。その代り何ぞ御求めなされたき西洋物これあり候はば御申し聞け願ひ奉り候」と」代わって家蔵の刀一振を求めている。
8月12日、藩庁から長崎出張を命じられた佐々木三四郎、岡内俊太郎、松井周介は、パークスから全権を託されたサトウと共に夕顔丸に乗り込み長崎に向かった。龍馬は船内に潜み、一行と共に14日に下関に寄港し、15日に長崎へ入港した。
龍馬は小曽根邸の海援隊本部をたずねた後、佐々木の止宿先池田屋で岡内、松井、土佐商会の岩崎弥太郎らと会合した。協議の末、犯人に金1千両の懸賞金をかけて捜索をおこなったが、手がかりはいっこうにつかめなかった。
長崎裁判
慶応3年(1867年)8月18日、長崎奉行による正式の取り調べが始まり、事件当日現場近くの料亭で海援隊の菅野覚兵衛、佐々木栄、渡辺剛八の3人がいたことが判明したため、彼らを審問することになった。
菅野・佐々木は鹿児島へ行き長崎にはいなかったので、2人を呼び戻すため、岡内俊太郎、石田英吉、佐柳高次が幕船長崎丸に搭乗して25日出帆し、鹿児島から連れ戻した。
9月2日、菅野・佐々木に対する聞き取りがおこなわれたが、事件に関する証拠はなく、海援隊の嫌疑は晴れたとの結論を出した。ただ、これまでの取り調べで虚偽がったとして菅野覚兵衛・佐々木栄・渡辺剛八の3人に申口不束、岩崎弥太郎は横笛丸出港に不備があった取締不念との理由で、「恐れ入る様に」と命じられた。
9月7日、一同麻上下着用で奉行所に出頭し、佐々木と岩崎は恐れ入ったが、菅野と渡辺はその理由がないと頭を下げず、10日までねばり、奉行側が仕方なく譲歩し、お構いなしということになった。
これついて龍馬は佐々木三四郎に宛てた手紙の中で「「只今、戦争相すみ候処、然るに岩弥(岩崎弥太郎)、佐栄(佐々木栄)かねて御案内の通りに、兵機も無之候へば、余儀無く敗走に及び候。独り菅(菅野覚兵衛)、渡辺(渡辺剛八)の陣、敵軍あへて近寄りあたはず」と2人の剛情を賞賛している。
『慶応三年九月十日 佐々木三四郎宛』只今戦争相すみ候処、然るに岩弥、佐栄兼て御案内の通りに、兵機も無之候へば無余儀敗走に及び候。独り菅、渡辺の陣、敵軍あへて近寄り能はず、唯今一とかけ合はせは仕り候。当る所ひらき申候。竊に思ふ、富国強兵、且雄将のはたらき、東夷皆イウタンを落し申さんと奉存候。
卯九月 梅拝
佐々木先生
イカルス号事件の真相
イカルス号事件については、明治新政府の誕生後もハリー・パークスは犯人捕縛を要求し、明治元年(1868年)8月、外国事務局判事大隈八太郎(重信)、土佐藩大監察林亀吉らが長崎に派遣され再調査を始めた。
その結果、犯人は筑前福岡藩士の金子才吉であり、しかも当人は犯行直後すでに自殺していることが判明した。
金子は藩でも嘱望された人物であったが、7月6日深夜外国水夫が路上で寝ているのを見て嫌悪のあまり斬り捨て、翌7日藩庁へ自首した後国際関係の紛糾を恐れ、8日深夜切腹したのである。
福岡藩は嫌疑を受けた土佐藩が苦境に立たされたのを見過ごし、事件を秘匿し続けていたが、遂にそれが暴露されたため土佐藩に重役を派遣し謝意をあらわした。
明治政府は真相が判明すると、福岡藩に対して被害者イギリス水夫の妻子養育費の補償を命じた。パークスは明治4年(1871年)1月28日付で土佐藩に対して英文の挨拶文を山内容堂に送り、これでイカルス号事件は終結した。
