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坂本龍馬、大政奉還と武力討幕への道

老婆の理屈

イカルス号事件への対応によって坂本龍馬の大政奉還運動は一時中断されたが、その間も長州藩の木戸準一郎、土佐藩の佐々木三四郎たちと議論を交わしていた。

木戸は大政奉還建白論には否定的であり、アーネスト・サトウの言葉を引用して「西洋では昔より公論と思って天下に唱えながら、それがおこなわれない時、そのままにしておくことを老婆の理屈といって男子として最も嫌うものだ。しかしながら近頃の建白はそのような気配がする」(『慶応三年八月二十一日付』)と忠告し、「上方の芝居も近寄り此度の狂言(大政奉還)は大舞台の基を相立て、甘くては成功しない。乾頭取(乾退助)と西吉座元(西郷吉之助)ととくと打ち合わせて手筈を決めるべきである」(『慶応三年九月四日付』)と武力討幕への用意を促した。

当然龍馬にも武力討幕への覚悟はあり、長府藩士三吉慎蔵に宛てた手紙に「幕府との開戦のあかつきには、長府藩および薩長土3藩の軍艦を集めて連合艦隊を編成し、幕府海軍に対抗する」(『慶応三年八月十四日 三吉慎蔵宛』)とある。また、キリスト教の勢力を利用して幕府を混乱させようとも考えていた。

そして大政奉還の議論周旋に頼る土佐藩を薩長の武力討幕路線に加えるべく、佐々木と相談の上オランダ商人ハットマンからライフル銃1300挺、代価18875両で購入した。

この支払は龍馬の周旋で薩摩藩長崎駐在藤安喜右衛門から大坂為替5000両の融資を受け、その内4000両は銃代内金としておさめ、1000両を周旋料として海援隊の経費にまわした。銃代残金は90日限り完済の約束で、請人となった商人鋏屋与一郎と広瀬屋丈吉に抵当としてライフル銃100挺をあずけた。

武力討幕への布石

慶応3年(1867年)9月18日、龍馬は借用した芸州藩船震天丸にライフル銃を積み込み長崎を出港した。同月20日下関に立ち寄り、行き違いに出港する船で薩摩藩士大久保一蔵が鹿児島に向かった。

大久保は9月18日、山口で毛利敬親・定徳父子に謁見し木戸準一郎や広沢兵助と謀議の上、討幕挙兵を約定し帰国したのであった。

龍馬は伊藤俊輔と会談し、伊藤から「もし、そのライフル銃が土佐で不要ならば長州が引き受けます」との提案を受けたという。これは暗に土佐藩主流の因循を皮肉ったものであった。

時勢が急迫したことを直覚した龍馬は長州山口の木戸に手紙を書き、後藤象二郎がこの期に及んでなお出兵をためらうならば、後藤を下げて武力討幕派の乾退助を推すことを伝えた。

『慶応三年九月二十日 木戸準一郎宛』
一筆啓上仕候。
然ニ先日の御書中大芝居の一件、兼而存居候所とや、実におもしろく能相わかり申候間、弥憤発可仕奉存候。
其後於長崎も、上国の事種々心にかかり候内、少少存付候旨も在之候より、私し一身の存付ニ而手銃一千廷買求、芸州蒸気船をかり入、本国ニつみ廻さんと今日下の関まで参候所、不計も伊藤兄上国より御かへり被成、御目かかり候て、薩土及云云、且大久保が使者ニ来りし事迄承り申候より、急々本国をすくわん事を欲し、此所ニ止り拝顔を希ふにひまなく、残念出帆仕候
小弟思ふに是よりかへり乾退助ニ引合置キ、夫より上国に出候て、後藤庄次郎を国にかへすか、又は長崎へ出すかに可仕と存申候」先生の方ニハ御やくし申上候時勢云云の認もの御出来に相成居申候ハんと奉存候。
其上此頃の上国の論は先生に御直ニうかがい候得バ、はたして小弟の愚論と同一かとも奉存候得ども、何共筆には尽かね申候。
彼是の所を以、心中御察可被遣候。猶後日の時を期し候。誠恐謹言。
 九月廿日
   龍馬
木圭先生
左右

そして京・大坂の同志に武器を提供するためライフル銃200挺を菅野覚兵衛と陸奥源二郞(宗光)にあずけ、大坂へ直航させた。

9月24日、高知浦戸に入港した龍馬は岡内俊太郎を使者に立て、仕置役渡辺弥久馬に「一刻を争て急報奉り候」とした手紙と木戸より龍馬宛の書簡を届けた。

同日六ツ時(午後6時頃)渡辺は大目付本山只一郎、大監察森権次と共に城東松ヶ鼻の茶亭に龍馬を迎えた。龍馬は薩長の挙兵が迫る京都情勢の切迫を伝え、渡辺たちの周旋により回漕したライフル銃は全て土佐藩が買い入れることになった。

その後29日、龍馬は戸田雅楽(尾崎三良)を連れて約5年ぶりに実家に帰り、兄権平はじめ乙女、姪春猪らとの再会をはたした。

坂本家で2泊した後10月1日、龍馬は震天丸に乗り込み浦戸を出港したが風浪のため須崎へ帰り、土佐藩船空蝉丸に乗り替えて5日出帆し、6日大坂に到着した。

大政奉還への布石

慶応3年(1867年)10月9日、龍馬は海援隊士中島作太郎、土佐藩下横目岡内俊太郎、三条卿衛士戸田雅楽と共に京都入りし、河原町四条上ル近江屋新助方に投宿した。

龍馬のこうした動きは世間の注目するところとなっていたようで、この頃発行された瓦版に「この度坂本龍馬が海援隊の壮士300人を連れて上がった」と書かれていた程で、これを見た龍馬は「実際は我々痩せ侍がわずか5、6人である」と言って一同は大笑いしたという。(尾崎三良 『尾崎三良自叙略伝』)

翌10日、龍馬は中島、岡内を連れて洛外白川村の中岡慎太郎のもとを訪れた。中岡は同年7月に陸援隊を組織すると土佐藩白川藩邸を隊の拠点としていた。

薩長土と連携し挙兵の準備が整っていることを中岡は告げ、龍馬は自己の面目と命を賭して大政奉還を実現させることを決意し、次の手紙を送り後藤象二郎を激励した。

『慶応三年十月十日頃 後藤象二郎宛』
去ル頃御健言書ニ国躰を一定し政度ヲ一新シ云々の御論被行候時ハ、先ヅ将軍職云云の御論は兼而も承り候。此余幕中の人情に不被行もの一ヶ条在之候。
其儀は江戸の銀座を京師ニうつし候事なり。此一ヶ条さへ被行候得バ、かへりて将軍職は其ままにても、名ありて実なれけれバ恐るるにたらずと奉存候。
此所に能能眼を御そそぎ被成、不行と御見とめ被成候時は、義論中ニ於て何か証とすべき事を御認被成、けして破談とはならざるうち御国より兵をめし御自身は早早御引取老侯様に御報じ可然奉存候。破談とならざる内ニ云云は、兵を用るの術ニて御座候。謹言。
十月
楳   拝首
後藤先生
左右

ここで龍馬は、大政奉還建白の際幕府が将軍職辞退に難色を示した時は、貨幣鋳造権を幕府から奪い、江戸の銀座を京都に移してしまえば将軍とは名ばかりで実体の伴わないものだから、将軍職については譲歩しても構わないとしている。

だが、それでも幕府が決断しないとみえた場合は、将軍の発言を証拠として書面にし、破談とならないうちに本国から兵を派遣する段取りを整え、土佐に引き上げ容堂公に報告すべしとした。

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