大政奉還、第15代将軍徳川慶喜が朝廷に政権を返上
大政奉還建白書
慶応3年(1867年)9月初旬、山内容堂の命を受けて後藤象二郎は上京し、薩摩・長州藩との調整をつけた上で10月3日、福岡藤次と共に老中板倉勝静をたずねて2通の大政奉還建白書を提出した。
1通は松平容堂(山内容堂)名義の「皇国数百年の国体を一変し、至誠を以て万民に接し王政復古の業を建てざるべからざるの大機会」と建白の趣旨を述べ、もう1通は土佐藩家臣神山左多衛、福岡藤次、後藤象二郎、寺村左膳の連名によるもので、朝廷のもとにある列藩会議への政権委譲を訴えたものであった。
一方、上京してきた坂本龍馬は10月10日、福岡藤次の紹介で幕府若年寄格永井尚志に面会し、建白書の採用を説いた。永井は龍馬を「後藤よりも一層高大にて、説くところも面白し」と評価したという。
この時龍馬は「はなはだ露骨なれども、御身自ら幕府の兵力を量りて薩長両藩の連合に当り得べしと思考し玉ふか」と問いただした。
永井は少し考え込んで「残念ながら勝算なし」と答えると、「然らば容堂の建白を御採用の外に道なきに候はずや」と迫り、永井を沈黙させたという。(樋口真吉 『丁卯筆記』)
余は誓ってこの公のために一命を捨てん
慶応3年(1867年)10月13日、将軍徳川慶喜は在京40藩の重臣たちを二条城に召集し、自らの決意を表明した。
この日こそ国の安危に関わると考えた龍馬は登城前の後藤象二郎に手紙を託し、「大政奉還が拒否された場合は死を決意している先生が下城しない時は、海援隊を率いて将軍が参内する道路を待ち受け、この不倶戴天の敵を討ち取り、事の成否に関わらず地下にて面会しよう」と檄を飛ばしている。
『慶応三年十月十三日 後藤象二郎宛』御相談被遣候建白之儀、万一行ハれざれば固より必死の御覚悟故、御下城無之時は、海援隊一手を以て大樹参内の道路ニ待受、社稷の為、不戴天の讐を報じ、事の成否ニ論なく、先生ニ地下ニ御面会仕候。
○草案中ニ一切政刑を挙て朝廷ニ帰還し云云、此一句他日幕府よりの謝表中ニ万一遺漏有之歟、或ハ此一句之前後を交錯し、政刑を帰還するの実行を阻障せしむるか、従来上件ハ鎌倉已来武門ニ帰せる大権を解かしむる之重事なれバ、幕府に於てハいかにも難断の儀なり。
是故に営中の儀論の目的唯此一欸已耳あり。万一先生一身失策の為に天下の大機会を失せバ、其罪天地ニ容るべからず。果して然らバ小弟亦薩長二藩の督責を免れず。豈徒ニ天地の間に立べけんや。
誠恐誠懼
十月十三日 龍馬
後藤先生
左右
手紙を受け取った後藤もこれに応えてその場で一書したため、「死を以て廷論する」決意で二条城に向かった。
華書拝披於僕万々謝領す。文中政刑を朝廷に帰還云々之論不被行時者、勿論生還するの心無御座候。併今日の形勢に依り後日挙兵の事を謀り飄然として下城致哉も不被計候得共、多分以死廷論するの心事、若僕死後、海援隊一手云々は君之見時機投之に任す。妄挙挙勿被事。已に途城程度に迫れり、大意書之奉答。頓首
十月十三日 後藤元曄
坂本賢契
在京の各藩重臣は全て登城し、八ツ時(午後2時)将軍慶喜は書を下し、「政権を朝廷に帰し奉り、広く天下之公儀を尽し、聖断を仰ぎ、同心協力、共に皇国を保護仕り候」と政権返上の決意を示した。
その後、薩摩藩小松帯刀、土佐藩後藤象二郎、福岡藤次、芸州藩辻将曹、宇和島藩都築荘蔵、備前藩牧野権六郎が別途面会した。
小松は大政奉還には将軍職辞退が含まれることを示唆したが、後藤はその英断をたたえると同時に速やかにこれを朝廷に奏聞することをうながした。
そして後藤は退城後ただちに書状をしたため、「大樹公政権を朝廷に帰する号令を示せり」と龍馬のもとへ送った。
この日京都にあった海援隊士と同志たちは龍馬の下宿近江屋に集まって、後藤からの一報を待っていた。
そこへ届いた書状を一読した龍馬は傍らの中島作太郎をかえりみて、「将軍家の今日の心中さこそ察し申す。よくも断じ給えるものかな。よくも断じ給えるものかな。余は誓ってこの公のために一命を捨てん」と感激の言葉を放ったという。(渋沢栄一 『徳川慶喜公伝』)
武家政権の終焉
慶応3年(1867年)10月14日、大政奉還を決意した将軍徳川慶喜は、高家大沢基寿を使者として朝廷に使わし、『大政奉還上表文』を提出した。
『大政奉還上表文』臣慶喜、謹て皇国時運の改革を考候に、昔王綱紐を解き相家権を執り保平の乱政権武門に移てより、祖宗に至り更に寵眷を蒙り二百余年子孫相承、臣其職を奉ずと雖も、政刑当を失ふこと少なからず。
今日の形勢に至り候も、畢竟薄徳之致すところ、慙懼に堪ず候。
況や当今外国之交際、日に盛なるにより、愈朝権一途に出申さず候ては、綱紀立ち難く候間、従来の旧習を改め、政権を朝廷に帰し奉り、広く天下の公儀を尽し、聖断を仰ぎ、同心協力共に皇国を保護仕り候得ば、必ず海外万国と並び立つべく候。
臣慶喜、国家に尽すところ是に過ぎずと存じ奉り候。去り乍ら、猶見込の儀も之有り候得ば、申聞くべき旨、諸侯へ相達置候。之に依て此段謹て奏聞仕り候。以上。
その夕方、小松帯刀、後藤象二郎、福岡藤次、辻将曹の4人が摂政二条斉敬の屋敷をたずね、ただちに大政奉還奏上の勅許を強要した。その結果、翌15日将軍慶喜の参内が許され、その席で御沙汰書を授けて政権奉還が勅許された。
討幕の密勅
慶応3年(1867年)10月14日、正親町三条実愛が大久保一蔵(薩摩藩)と広沢兵助(長州藩)を自宅に招き、賊臣徳川慶喜を殄戮すべしとする「討幕の密勅」を降下した。
『討幕の密勅』詔す。源慶喜、累世の威を藉り、闔族の強を恃みて、妄りに忠良を賊害し、数王命を棄絶し、遂に先帝の詔を矯めて懼れず、萬民を溝壑に擠して顧みず、罪悪の至る所、神州将に傾覆せんとす。
朕、今民の父母たり、是の賊を討たずして、何を以て上は先帝の霊に謝し、下は万民の深讐に報ぜんや。
此れ朕の憂憤在る所、諒闇にして顧みざるは、萬巳むを得ざるなり。
汝宜しく朕の心を體すべく、賊臣慶喜を殄戮し、以て速やかに回天の偉勲を奏し、而して生霊を山嶽の安きに措くべし。
此れ朕の願いなり。敢えて惑懈すること無かれ。 奉
さらに京都守護職会津藩主松平容保、京都所司代桑名藩主松平定敬(容保実弟)討伐の命の宣旨および錦の御旗が授けられた。
この討幕の密勅は岩倉具視の近臣玉松操の起草といわれ、明治天皇の直筆もなく、中山忠能、中御門経之、正親町三条実愛の連署があるものの花押がない形式的にはきわめて異常である偽勅であった。
この密勅は大政奉還後に出されたため実行力を失ったと解釈されるが、薩摩藩の狙いは直後に意味があった。それは大政奉還による幕府権威の弱体化に乗じて藩内の挙兵反対派を抑え、一気に討幕の流れをつくることにあったのである。
